ノ 47 「出雲国風土記」と寺院 一方、出雲国では他国よりも寺院の造営 は遅れてはじまったようである。出雲国で もっとも早く造営されたのは、『風土記』 に教昊寺と記された安来市野方廃寺で七世 礎紀末 5 八世紀初頭である。出雲の最有力豪 族である、出雲国造家の出雲臣弟山が建立 「携一した山代郷南新造院 ( 四王寺跡 ) は八世紀 前葉に降る。他の国々では国造だった一族 寺が、いち早く寺院建立を行う場合が多いな 一教かで、出雲国は異なるあり方をみせる。 こうした寺院建立が遅れる背景に、出雲 の豪族層の宗教性の違いが介在していた可 能性も推定されている。出雲国は神社の数 が、全国的にみても大和国、伊勢国に次い で多いという特徴がある。意字郡は熊野大
天智朝の七世紀第 3 四半期には駅家をつなぐ駅路は広く設置されていたとみられる。その 一方、考古学的には幅九を超える大規模な直線道路については、七世紀末頃を大きくさ かのばって全国的に広く設置されたとみることは、発掘調査成果から難しい。 まず、七世紀第 3 四半期に駅家は古墳時代以来の畿内と諸国を結ぶ主要道路沿いに設け られ、順次、全国的に直線で幅広い大規模な駅路が整備されたと考えられる。全国的な駅 路建設と駅家の設置は天智朝の七世紀第 3 四半期から構想・施行され、畿内周辺や都と大 宰府を結ぶ山陽道などの重要道路はいち早く敷設されたとみられるが、これまでの考古学 調査によれば七世紀第 3 四半期に大規模な直線的な駅路が七道すべてに敷設された状況は ない。大規模な直線道路が都を中心に七道として全国的に整備されたのは七世紀末から八 世紀初頭頃まで下るようであり、天智朝以降、段階的に進み天武朝の国境確定とそれにと もなう国府設置、郡家の整備などの地域支配強化と連動して達成されたのであろう。 国実際に、道路の発掘調査に携わる調査担当者の頭を悩ますのは、道路の建設時期を明ら ~ 呂かにすることが難しい点である。道路という性格上、時期を示す土器が出土することは稀 である。これまでに何度か古代道路跡を調査したが、土器がほとんど出土せす、いっ頃に つくられたものであるか、正確にはわからない場合が多かった。杉沢遺跡でみつかった、
しんじこ 『風土記』に正西道と記された山陰道であることを確信した。杉沢遺跡の北東側に宍道湖 が広がり、わざわざこうした丘陵を大規模に造成しなくても、もう少し低いところを道路 観にすればよいと思う場所であった。古代に宍道湖沿いは安定した地盤でなかったことも一 道因かもしれないが、古代道の研究者が指摘するように、大規模な直線道路を全国に張りめ 国ぐらせた目的の一端が軍用道路であったことを示すように思えてならない。 木下良は、古代の駅路には軍用的な意味が強いと説いた。その理由として、もともと古 代では中央官庁の兵部省という、軍事を司った役所が道路を管轄している点から、古代の 駅路は軍事道路的な意味が強いと考えていた。杉沢遺跡の現地に立っと、尾根道であるた めに非常に眺望が良い。一方で、宍道湖寄りの低地を通した場合、谷間の道となり挟撃さ れやすいことがわかる。興味深いことは、杉沢遺跡の道路としての役割が中世以降に続か ないことであり、この付近では中世以降は尾根道を通らなくなる。 歴史地理学者の木本雅康は、杉沢遺跡で明らかになった尾根道を通した道路のつくり方 一よ、つど は、中国において秦の始皇帝が北方の匈奴に対してつくらせた軍用道路である直道に似 しばせん ているとし、道路工法について世界的視野でみる必要性を説く。秦の直道は司馬遷の『史 記』に出てくる道路で、「塹山埋谷」、すなわち「山を塹り谷を理める」と表現されている。
設けて、集中的に瓦作りを行っていた。国司が主導した国衙系瓦屋で、ここで焼かれた瓦 は国分寺のほかに国府の官舎や付近の山代郷南新造院 ( 四王寺跡 ) 、北新造院 ( 来美廃寺 ) 場にも供給された。国分寺・尼寺、国府とともに、そこに瓦を供給した瓦窯までみつかって いるのは全国的にみても例は少なく、奈良時代における官寺の国分寺や国府の造営を知る 上で重要である。 出雲国分寺は全国的にもいち早く調査・解明された国分寺の一つであり、 伽藍配置 全国の国分寺研究に大きな影響を与えた。堂塔の位置はほほ明らかになっ ており、南門・中門・金堂・講堂・僧坊が中軸線上に並び、南東に七重塔を配置する。参 道である天平古道は、条里と異なる振れを示しており、条里制施行後に国分寺の方位に合 わせて道路は建設された。 近年、これまでの発掘調査成果をまとめた出雲国分寺の総括報告書が松江市教育委員会 からだされた。それによれば中門から掘立柱式の回廊が延びるとされていたが、再調査の 結果、回廊が中門から講堂に取りついたとみていいのか疑問視されることになった。もっ とも大きな問題は、現在は金堂の南東に塔基壇が復元されているが、この七重塔の位置に ついても、ここに建っていたとみていいのかが課題となっている。出雲国分寺の伽藍は、
『出雲国風土記』の記載から明らかなように、出雲国府は正西道と枉北道 こ′、つよ、つ 出雲国の の十字街付近に置かれていた。出雲国の中心にあたるのが国庁であり、 形成と展開 出雲国においては国府成立が契機となって国の形成が進んだ。国府の設置 くろだ おおはら は七世紀末頃に行われており、大原郡家や黒田駅をはじめとする官衙の移転を含めた整 備・設置は、国府設置を契機とした出雲国内の交通体系の整備にともなって行われたもの であろう。国府が置かれた意宇平野の条里地割施行も国府設置と同じ頃に、正西道を基準 にして施行されたとみられる。 『出雲国風土記』に記された出雲国府、郡家、駅家からみて、出雲国では評制下の七世 出紀末頃から八世紀にかけて黒田駅、大原郡家だけでなく、国内全域において郡家・駅家を てはじめとする役所、都から延びる駅路の正西道 ( 山陰道 ) の整備は進んだことがわかる。 ロこうしたあり方は出雲国だけではなく、全国的に広く実施されたものであり、国府の設置 のを契機として諸国で国の骨格は形成されていったのである。 『出雲国風土記』は、わが国の古代史研究に大きな影響を与えてきた。その一方で、考 古学な検討も求められている。本書では、文献史学と考古学との学際的研究によって明ら かになってきた古代出雲の姿の一端を紹介することを心がけた。
各地の正倉遺跡は、発掘調査によって倉庫群だけでなく多様な機能を複合した官衙遺跡 群の一部である点が明らかになっている。例えば、茨城県東平遺跡は、調査によって常陸 国国茨城郡の正倉、安侯駅家、軍事的な機能からなる複合的な官衙とみられている。郡家や 出 別置された正倉は、交通の要所に設置され税物の運搬の便を図ったとみられるが、倉とし み 、ての機能だけでなく実務的な施設などの多様な機能をもち、郡内の分割統治としての側面 も考慮する必要があるだろう。 青木遺跡で注目される点は、付札木簡から周辺の複数郷との関わりが強い一方で、出雲 郡全域の地域 ( 郷 ) との関わりが希薄な点である。木簡にみられるような郡全体との関わ もばら かみこ、つぬし りを示さないあり方は、他の地域でも認められる。下野国河内郡家の上神主・茂原官衙遺 跡では、正倉の屋根に葺かれた人名文字瓦について、郡域全体からではなく官衙周辺の河 内郡南部の人名が中心となっており、造瓦にあたって戸主層の負担が示されており、官衙 造営に際して郡全域の負担によらす、青木遺跡の木簡と共通する点がある。 青木遺跡は、神社遺構としてだけではなく、古代の有力者層との関わりや郡家とは別に 置かれた正倉や支所のあり方を考える上で重要である。
を示し、その造営に出雲国造と於友評が関わっていたことを示しているのである。 意宇郡の前身である斉明朝の「於友評」は八世紀の意宇郡よりも広く、意宇郡・秋鹿 たてぬい かんど 雲郡・楯縫郡・出雲郡・神門郡なども含まれ、出雲国では当初「於友評」だけがあり、後に た於友評は評・郡を地方行政単位として均質化していく上で分割されたと考えられている。 分割された結果、『風土記』に記載されているように、奈良時代には九郡となっていくの である。 出雲国だけでなく、七世紀中頃の孝徳朝において全国的に一斉に成立したとみられる評 については、建物などの施設として把握できる例はほとんど知られていない。この時点で は、まだ評では独立した官舎として建物が十分に整備されていなかったことを示すのであ ろう。発掘調査によって、各地で国府や郡家の建物が確認されるのは七世紀末頃になって からである。 国評制との関わりで地方官衙の成立過程をみていくと、ます評制下の 地方官衙の成立 七世紀後半に居宅と未分化な評家の成立が認められる。その後、天武 朝期に国境が確定し常駐官として国司が派遣される七世紀末から八世紀初頭に全国一斉に 、」′ \ ちょ、つ 国庁を中心に国府が新設され、その国府成立と連動して評・郡家も独立した官衙として あきか
全国的には国府でも奈良時代の後半になって採用される場合が一般的である点を含めてみ 2 2 ていく必要がある。神社に関わる建築としては伝統的な掘立柱建物がふさわしく、大陸風 場の礎石建物はそぐわない。 の 青木遺跡の位置は、『風土記』に、美談郷に「正倉あり」と記載された付近にあたる。 青木遺跡の建物群については、『風土記』に記された美談郷の正倉の一部も含まれており、 各地の官衙遺跡でみられるように官衙と宗教施設とが一体となった遺跡群として理解して おきたい。
半にかけては、まず意宇評が中心的な評として先に成立し、後に他の評 ( 後の郡 ) も成立 していったという経過が考えられている。廻原一号墳はそうした評制の頃、出雲で最後に つくられた古墳の一つであった。これ以降、国郡制に基づく地方支配が強化されていくな かで、豪族層は古墳築造を終えることになる。 ひたち 風土記の一つである『常陸国風土記』には、七世紀中頃に評 ( 郡 ) を設 意宇評の成立 置し評司 ( 郡司 ) を任命したと記されており、孝徳天皇の治世下に全国 で評が建てられ在地の国造をはじめとする豪族が評司となったと考えられている。また、 律令に基づく国郡制は大宝律令によって成立するが、それ以前の七世紀代は国の下は郡で はなく評という表記であり、国評制となっていた。こうした評については孝徳朝に全国的 に一斉に成立し、その後、評は分割再編されていったと理解する説が有力となっている。 『出雲国風土記』の成立は天平五年 ( 七三三 ) であり、評の設置時期よりも後の記録で 評が建てられた頃の記載はない。出雲国の評に関わる史料としてはわずかに『日本書紀』 方斉明五年 ( 六五九 ) 条に、「神之宮」の造営を出雲国造に命じた記事が知られている。狐 いふやのやしろ かづら おう が「於友郡ー ( 当時は評 ) の役丁の葛の木を食いちぎったり、大が言屋社に死人の腕を きづきのおおやしろ 置いていったりという奇異な出来事が記されている。「神之宮」は杵築大社 ( 出雲大社 )
5 古代出雲国の成立 府は『風土記』に記された十字街が細い道路として残り、周辺は水田となり官庁街であっ た面影はないが、茶臼山の南側に意宇川が流れ古代の様子を思い描くことができる。 古代出雲のことを考える上で、当時の都の様子をみておくことにす 政治的景観の出現 る。 日本における古代都市の淵源である中国において、都市の「都ーの文字は人が集まると いう意味であり、都市は上塀などで囲まれたなかに帝王、官僚、多数の人民が居住するこ とを示し、政治都市、商業都市、軍事都市があった。中国においては、皇帝は都を造営し て、その権威を内外に示すことが重んじられた。そのため歴代の皇帝は都を壮麗にし、平 城京のモデルとなった唐の都・長安城は壮大な規模でつくられ、南北中軸の道路は実に一 五〇麕ほどの幅があった。 ばんたいふえき 日本でも中国にならって、天皇の統治権が万代不易である点を示すために、藤原京に次 とじよ、つ じよ、つほ、つ いで平城京が造営された。こうした都城は、中心となる宮と、その外側の条坊街区から なり、全体が京となる。条坊は、縦横の道路でほば等間隔に区画された町割りとなり、都 だいり に住む役人たちに宅地を規格的に分け与えることができた。宮は天皇の住まいである内裏、 だいごくでんちょうどう 国家的な儀式や政務の場である大極殿・朝堂のほか、二官八省と総称される数多くの役