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検索対象: 出雲国誕生
242件見つかりました。

1. 出雲国誕生

出雲国分寺の造営 789 出雲国分寺の復元模型 ( 八雲立っ風土記の丘展示学習館所蔵 ) 図 30 の 寺 っ く で 出 に 出 野 よ で っ と 都 国 重 た し、 重 者 5 重 っ あ の で 尼 分 塔 と 国 模 し り る 国 か ( こ あ 寺 た 寺 は 考 。府 ら 府 型 た っ を 創 ん 瓦 周 を 延 跡 に と 迫 建 ら 葺 重 オこ 国 辺 び周 と は 辺 は れ き の の じ る 皿 が 会華 の 村 、城 す つ わ め の 力、 る 直 る 、良 で 。建 線 姿 ら 風 と と そ か 只 日 時 あ な 物 異 す を 約 的 ・つ 規 東 記 と 本 が な な 復 っ か る て 模 大 全 半 で建 り た 役 に プ匸 、寺 も ち 五 丘 な ば 国 広 し る 組 並 ' 〇 展 を・ 役 群 っ て ぃ 織創 ぶ所 お 年 た 武 層 道 小 学 な 古 や 寺 天 路 り れ 則 加 れ の 習 代 寺 し 皇 出 ま お 院 ん ぞ 平会館 い の 院 重 山 は が で て れ て 仏 国 の 建 野 良 詔 陰 の み を 、国 時 意 も 分市 柱 を の ち て 道 分発 宇 き 造 当 寺 で を 並 な イに の 平 あ 赤 た ろ 時 僧 の し ん や か 目リ

2. 出雲国誕生

205 参根 見社 都とた が殿 、ネ見 れ神 、紀 が制 、生 図 31 杵築大社本殿跡の柱 ( 出雲大社提供 ) 出雲の神社 ら 八 世 紀 に ぉ ゖ る 社 殿 が 必 要 と さ れ 営 さ れ た と み る 意 有 カ さ て い る の 関 わ り な か で を 構 ん た 社 武 朝 に 成 皿 す る 神 政 策 で あ る 官 社 と 神 社 社 殿 の 成 立 た の は 理 い な い 家 が 公 し た 神 社 っ か 多 が 委攵 の 社 官 る カゞ 六 日寺 代 に お い て 出 重 国 で は 国 を 考 に 良補神 っ て り 扱 い 難 し い 占 が あ 島 郡 の 社 に つ い て は 式 な ど 九 九 社 の 神 社 が 記 載 に も 風 記 に 勢 国 の 五 社 次 じ理 と 寺 路 通 交 城さ か 世 七 を っ由 た も の で は な く 天 神 し 発 に 然 自 は 社 さ れ て ぃ る た だ し よ れ は、 出 0 ー対 , に は し、 で し、 る 0 ノ、 時 代

3. 出雲国誕生

を特定する上では考古学や歴史地理学などの検討も必要となっている。古代出雲国の姿を 明らかにする上では、『風土記』の記述をそのまま実態として理解することはできす、古 代の官衙遺跡や寺院などの考古学的成果を踏まえた学際研究も必要となっている 『出雲国風土記』に出雲国内の国府や郡家、寺院や社などの諸施設、 『出雲国風土記』 各地の特産物や土地の肥沃状態、山川原野の地名の由来などが記され 世界の解明へ ているために、容易に奈良時代の出雲国のありさまを知ることができ ると思われがちである。他の国々に比べれば、出雲国は『風土記』がほば完全な形で残さ れており、大変恵まれているのは確かだが、これからみていくように『風土記』に記され た郡家や寺院一つをとっても、その所在地を特定することはそれほど簡単なことではない。 『風土記』研究にあたっては、文献史学的な検討だけではなく、考古学や歴史地理学など 立 成との学際研究によって行われているのが実情である。 雲本書では、こうした『出雲国風土記』の研究を踏まえて、これまでに明らかになった出 出 代 雲国府を中心とする出雲国の姿について、みていくことにする。 3

4. 出雲国誕生

一カ寺のなかで、意宇郡山代 日 猪 呂 山 弟 麻島兄郷北新造院 ( 来美廃寺 ) 、楯 戸 呂知押父 臣布祖 神 麻支臣従 雲田臣の 虫印部の縫郡沼田郷新造院、出雲郡 父出大部呂 かわち 君樋田美 下日咄の臣置麻 部額去 河内郷新造院、神門郡朝山郷 烈呂領雲日底 初人目麻少出佐等等勝人伊 郷領 者大父郷君鹿郡領臣臣 新造院と古志郷新造院、大原 立位祖国置君石領大領門部領伊少領 建散の山日置飯大旧大神刑大斐前少郡斐伊郷新造院 ( 二カ所 ) で 人 し 人人人 合わせて七カ寺である。一方、 一 0 ワ」 1 尼あ 僧尼僧 僧住 僧価旧 厳堂の記載がなく、「塔」だ 堂 けが記されたのは意宇郡山国 堂堂堂 堂厳堂堂塔 院塔重重堂 寺寺堂五三厳教厳厳厳本厳厳層 郷教昊寺 ( 五層 ) と山国郷新 寺院院院院院院院院院院 や、っち 造造 造造造 造造造 己院昊 造造 造院 ( 三層 ) 、大原郡屋裏郷 土上寺教新新新新新新新新新新 新造院 ( 層塔 ) の三カ寺、そ 郷郷郷郷郷郷 郷 郷 田内山志伊裏 代 れと「教堂」だけが記されて 山 沼河朝古斐屋 細雲郷山 郡 郡郡郡 郡 いる意宇郡山代郷南新造院 5 5 原 縫雲 大 楯出神 郡意 ( 四王寺跡 ) である。 二二ロ おおはら

5. 出雲国誕生

いすものおみおとやま 雲国の最有力氏族である飯石郡少領の出雲臣弟山によって、七二〇年頃に創建された寺院 2 である。 国 黒田駅の移転は国府や駅路 ( 山陰道・隠岐道 ) の設置・整備などと関わる政策の一貫と 出 みるべきであろう。その移転時期について、出雲国府の成立や駅路の整備が七世紀末頃に み ある点から、この頃に大原郡家の移転などもあわせて行われたものであろう。 郡 国府設置とともに同じ頃に正西道も大規模で直線的な駅路として整備され、あわせて出 雲国内の郡家や駅家も移転などが行われたと考えられる。出雲国の地方支配を進める上で、 国府設置とそれにともなう官衙施設の移転は必要とされたのである。 「国庁・意字郡家の北の十字街」「黒田駅。郡家ど同所にあるー「意 『出雲国風土記』 字軍団、郡家に属する」 にみる官衙遺跡群 『風土記』によれば、出雲国庁の十字街付近には意宇郡家・黒田 駅・意字軍団の建物群が軒を並べていた。国庁と意字郡家は山陰道と枉北道の十字街の南 側にあり、駅や軍団といった複数の官衙施設が隣接して設置されていた。 さよ、つ また、『風土記』巻末条に「狭結駅。郡家と同所にあるーと記載されており、国庁の十 字街付近のほかに、 ここから西に進んだ正西道沿いの神門郡においても狭結駅が神門郡家

6. 出雲国誕生

じく、讃岐国府でも南側を流れる綾川は曲がっており、綾川がいつの時点で今の流路にな ったかはよくわかっていないが、国府設置に際して府域の南限と東限を廻るように、流路 国を規制したとも推定されている。今後の調査を注視したい。 かんなびぬ 意宇郡条「神名樋野。郡家の西北三里一百ニ十九歩 ( 一・八キ。 ) の所にあ 出雲国府と る。高さ八十丈 ( ニ三七・亠 0 し、周り六里三十ニ歩 ( 三・三キ。 ) ある〔東に を神名樋野 かや 松がある。三方にはいずれも茅がある。〕」 出雲国府は意宇平野の南寄りに位置し、総社の六所神社を含む一帯である。平野の三方 、北には『出雲国風土記』に神名樋野と記された茶臼山がある ( 図 は丘陵で囲まれており しんぞういん 4 ) 。その丘陵裾に出雲国分寺、尼寺や新造院 ( 寺院 ) が建立され、古墳時代には出雲最 やましろふたごづか 大の前方後方墳である山代二子塚古墳をはじめとする数多くの古墳がつくられた、古代出 雲の中枢地域となっている。 出雲国府では、前述したように南側には大規模な朱雀路を設けられない場所に国庁を設 おおくさ けている。意宇平野で広い微高地がとれる場所は南側の意宇川沿いで、今も大草の集落と なっている。国庁の立地は地形に左右された結果とみておくのがよいのかもしれない。出 雲国府では、平城京にみられる朱雀大路のような道路を設けて、大極殿が南面して国家の

7. 出雲国誕生

祈りの場 154 ここでは、「風土記』に厳堂 ( 金堂 ) の記載がない寺院について、少しみておくことに する。 『風土記』に記載された新造院は、まだ国家によって公認されておらず、その途中であ る寺院とし、天平五年 ( 七三三 ) 時点で教昊寺だけが定額寺として認定されていたとみら れている。その一方で、『風土記』に唯一、寺名がある教昊寺について、金堂がなく、「五 層の塔」 ( 五重塔 ) だけが記載されているのは疑問がある。天平五年時点に、定額寺に認 定されているような有力寺院であれば、塔だけでなく本尊仏を祀る金堂もあってもいいよ 、つに思える。同じよ、つな問題 出 は、山代郷南新造院 ( 四王寺 南 町町 町 出 冶り 跡 ) についても、「教堂」 ( 講 山山町り塩あ町り 町 市市田あ市説次あ 方 堂 ) だけが記載されている点 江江平説雲寺木 , 説 野 松松市寺咄廃市町寺 市 に通じる。 瀲雲廃寺郷南次廃 来 造造仙平廃本は木寺 安市 新新寺寺内志内市田 『風土記』に記された堂塔 来 寺 南廃天境古構南馬 地廃 郷郷郷 寺 をみておこう。「厳堂ー ( 金 定方明代代西月 リ月市次明明 , 比野不山山西不市神不雲木不不市堂 ) が記載されているのは一

8. 出雲国誕生

いたとみている。同じ場所を踏襲して建て替えられている政庁が、郡庁から国庁に性格が 変わったとみる根拠はないので、当初から前身の政庁も国庁とみるのが自然であろう。出 国雲国府と同じように、国庁の下層からみつかった政庁をみておくことにする。 出 岡山県津山市の美作国府では国庁下層から官衙施設が確認され、国庁・郡 美作国府 し 庁かが問題になってきた。美作国府の政庁は * ・Ⅱ期に区分される。—期 現 を 姿は真北を向かす約八度東偏した長舎の政庁で、七世紀後葉から八世紀前葉に位置づけられ る。美作国は備前国から和銅六年 ( 七一三 ) に分かれてできた国であり、この—期の政庁 とまだ は、和銅六年以前にあたることから苫田郡家 ( 評家 ) の郡庁とされた。Ⅱ期は奈良時代前 半から平安時代前期にあたる。年代から、—期の長舎の政庁は美作国成立にともない苫田 郡家 ( 評衙 ) から国庁へ性格が変わったと評価されてきた。 近年の研究によれば、—期は美作国が成立した和銅六年以降となる可能性が高い。これ まで苫田郡の政庁の後を受けて、同じ場所で美作国庁として新設されたと考えられてきた が、期の政庁は苫田郡庁ではなく、美作分国の和銅六年以降の初期国庁だったとみられ る。美作国府跡の—期遺構を初期国庁とすると、和銅六年段階ではまだ国庁が大規模でな 、定型化していない姿をしていたとみることもでき、こうした状況は出雲国庁下層でみ

9. 出雲国誕生

2 大橋泰夫一一〇〇九「考古学からみた『出雲国風土記』の新造院と定額寺ー『国士舘考古』五、国士舘考 古学会 大橋泰夫一一〇一三「国分寺と官衙 , 『国分寺の創建組織・技術編』吉川弘文館 岡崎由希一一〇〇九「長門深川廃寺系瓦の検討」『島根考古学会誌』一一六、島根考古学会 川原秀夫一一〇〇九「社殿造営政策と地域社会」『延喜式研究』一一五、延喜式研究会 久保智康一一〇一一一「古代出雲の山寺と社」『「大出雲展」展示図録』古代出雲歴史博物館 近藤正一九六八「『出雲国風土記』所載の新造院とその造立者、日本歴史考古学会編『日本歴史考古 学論叢一一』雄山閣 櫻井信也一九八七「「寺院併合令」からみた「新造院」」『出雲古代史研究』四 眞田廣幸一一〇〇五「律令制下の山陰ー官衙と寺院ーー『日本海域歴史大系第一巻古代篇—』清文堂出 版 島根県教育委員会一九九四『風土記の丘地内遺跡発掘調査報告ー島根県松江市山代町所在・山代郷南 新造院 ( 四王寺 ) 跡ー』 島根県教育委員会一一〇〇七『史跡山代郷北新造院跡』 妹尾周三二〇一一「出雲へ伝わった仏教の特質ー古代寺院から見た地域間交流とその背景ーー『古代出 雲の多面的交流の研究』島根県古代文化センター 花谷浩二〇一〇「古代寺院の瓦生産と古代山陰の領域性一出雲西部を中心に」『出雲国の形成と国府 成立の研究」島根県古代文化センター

10. 出雲国誕生

奈良時代の出雲国は九郡からなっており、国府は意宇郡に所在し、発掘 こくしかん 郡家の諸施設 調査によって松江市大草町を中心に国庁や国司館などの諸施設がみつか っていることは紹介した。『風土記』には、郡を構成する各郷が郡家からの方位と距離で 家説明されているように、郡家が地域支配の拠点となっていた ( 図。『風土記』に記載さ 郡 のれた郡家の内容は断片的であり、施設の詳しい様子は不明である。 こ、つずけ 出郡家の姿を知る上では、『出雲国風土記』と並んで重要な史料が、『上野国交替実録帳』 ( 『実録帳』とも表記する ) である。 0 出雲国の郡家