出雲 - みる会図書館


検索対象: 出雲国誕生
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1. 出雲国誕生

ら鴟尾は出土していないが、金属製の鴟尾が載っていたかどうか議論したことがある。下 すみぎ 野国分寺の場合、鬼瓦に加えて、屋根の隅木が雨にあたらないようにする隅木蓋瓦という 道具瓦も出土しているので、鴟尾が載っていてもいいのかなと思う。そうした場合、同じ ような瓦を屋根に葺いていた、下野国庁の殿舎が問題となる。発掘調査では鴟尾は出てい ないが、平城京の大極殿と同様、金属製の鴟尾が載っていた可能性もあるが、復元してい いのかどうかは難しい。しもつけ風土記の丘資料館 ( 栃木県下野市 ) で作成した、下野国 庁の復元模型には鴟尾は載っていない ( 図 8 ) 。 さて、出雲国府では鴟尾や古い瓦が出上していることが明らかになっ おの 出雲郡家と鴟尾 たが、実は、出雲国内では出雲郡家と関わる出雲市小野遺跡からも鴟 る尾と瓦が出土している。小野遺跡は、瓦が出土するので仏堂という意見が有力視されてお り、筆者も深く検討せずに寺でいいのかなと思っていたが、出雲国府から同じように瓦と を 建ともに鴟尾の出土が知られたことから検討したことがある。 の 庁 詳しくは郡家のところで紹介するが、小野遺跡は寺院ではなく、出雲郡家の可能性が高 国 いことがわかっている。郡家の建物にも鴟尾を用いていた可能性が高い。出雲国では、国 府だけでなく出雲郡家においても八世紀前葉に瓦葺き建物が採用され、その屋根の両端に

2. 出雲国誕生

ひわだ 殿をはじめとする殿舎は瓦葺き建物ではなく板葺きや檜皮葺きと考えていた。 ところが、出雲国府出土の瓦を整理している間野氏からみてもらいたい瓦や鴟尾の破片 があると連絡がきた。その時、鴟尾ときいて耳を疑った記憶がある。鴟尾は大棟の両端を 飾った沓形の飾りの一種であり、今も奈良の東大寺や唐招提寺などの金堂の屋根に載って いるのでみたことがある読者も多いだろう。地方でも寺院からは稀に出土することはあり、 くるみはいし 出雲では山代郷北新造院 ( 来美廃寺 ) から出土している。しかし、これまでに鴟尾が地方 の国府や郡家から出土したことはない。鴟尾は山陰地域において、八世紀前葉頃までにつ くられなくなってしまうということも気になっていた。出雲国府の瓦はそれより新しい八 世紀中頃と突きとめたばかりであったが、鴟尾が飾られた建物なら、当然、屋根には瓦を る葺くはすだからである。そうなると国府の建物は国分寺創建よりずっと前に瓦葺きとなっ さていることになってしまう。本当に、鴟尾が出雲国府から出上しているのか、大きな問題 物 になりそ、つだと思った。 建 の 庁実際にみると小さな破片であったが、鴟尾の一部であった。山陰各地の寺院から出土す る鴟尾によく似ている。また、平瓦には国分寺創建前に製作された古いものもあった。出 5 雲国府から出土する平瓦は出雲国分寺と同じく、一枚作りという技法でつくられた瓦ばか

3. 出雲国誕生

解されてきた。近年の考古学・文献史学の研究によれば、宮の後地区でみつかった評制下 0 の「大原評」木簡についても、独立した官衙施設として出雲国府は機能していた資料であ 国ると理解できるようになったのである。出雲国府では、七世紀後半の評制下に官衙施設が 黜整備され、そこで政庁や実務的な施設が設置され、儀式や文書を作成することを含めて国 現府として機能していたのである。 を 姿 しかし、他の国府 ( 推定地を含めて ) から評制下やそれに近い八世紀初め頃の木簡が出 土しても、かっての出雲国府出土の「大原評」木簡の評価と同じように、依然として国府 が独立した役所としてあったとみるのではなく、郡家と一体として機能していたと理解さ れる場合が多い 出雲国府で木簡が出土した当時、国府の調査自体が少なく、評制下にさかのばる木簡だ けでなく、 八、九世紀代の文字資料もほかに国府出土例がほとんどなく比較・検討できな かった。 現在は、各地の国府や郡家遺跡で木簡が出土することは珍しくなく、評制下の木簡も例 が増えつつある。出雲国府のように、木簡から七世紀末頃に国府機能がみられる遺跡とし やしろ しなの かんのんじ こくぶまつもと て、千曲市屋代遺跡群 ( 信濃国 ) 、徳島市観音寺遺跡 ( 阿波国 ) 、太宰府市国分松本遺跡

4. 出雲国誕生

衙かが問題となる。 『風土記』写本の細川家本、万葉緯本ともに新造院は河内郷にあったと記載されており、 場小野遺跡は出雲郷にあたり、河内郷の新造院とは考えがたい。古い瓦が出る遺跡があって りも、『風土記』に新造院と記された寺の特定は容易ではない。 こよ出雲郡家の後谷遺跡があり、近辺に郡庁もあったとみられ 小野遺跡の西側五〇〇 ( ( る。また、小野遺跡が瓦葺きの仏堂を備えた寺院であったとすれば、『風土記』に記載さ れていないことも不審である。仏教に関わる遺物がない点からも積極的に仏堂を想定でき ず、ここからは役所でみられるように硯がまとまって出土しており、小野遺跡は寺院では ないだろう。出雲郡家 ( 後谷遺跡 ) から小野遺跡を含めて東西約五〇〇と広いが、この 程度の広さをもっ郡家は各地で知られており、小野遺跡が郡家の一部でも問題はない。他 国では、この時期に郡庁が瓦葺き建物の例があり、小野遺跡出土の瓦は出雲郡家 ( 郡庁 か ) に葺かれたものかもしれない。 こノ、つよ、つ 出雲国府のところで、国庁付近から鴟尾や八世紀初め頃の瓦が出土していることを紹 介し、国庁建物の大棟に瓦が葺かれ、その両端を鴟尾で飾った可能性があることを指摘し た。実は、、 月野遺跡も鴟尾や瓦が葺かれた建物はみつかっていないが、大棟だけを瓦葺き

5. 出雲国誕生

鴟尾は他の国府から出土していないが、出雲国庁では正殿などには載っ 国分寺と国府 ていた可能性がある。鴟尾は陶器と同じく粘土を焼いてつくる焼き物だ が、奈良時代以降になると、金属製に変わっていく。そのため、平城宮の大極殿からも発 掘調査ではみつかっていないが、その格式から必ず載せられていたはすということで、平 城京遷都一三〇〇年を記念して平成二十二年に復元された大極殿の屋根には金銅製の鴟尾 が載る。 奈良時代、地方でもっとも立派な建物は国分寺の金堂と国庁の正殿であり、各地の博物 館では国分寺の復元模型や復元図がよくつくられている。注目してみていただきたいのは、 金堂に鴟尾を載せていたかどうかである。実際には、国分寺からも鴟尾が出土している例 る はないにもかかわらす、鴟尾を載せて復元している国分寺金堂の模型もある。平城京の東 大寺が当時、格式がもっとも高い寺で、その大仏殿は巨大であった。今の大仏殿は江戸時 建代に再建されたものであるが、奈良時代にはさらに一回り大きかった。大仏殿も金色に輝 の 庁く鴟尾が奈良時代から載せられていた。 各地の国分寺では鴟尾が出土していないが、鴟尾があったと復元する場合が少なくない のである。八雲立っ風土記の丘展示学習館の出雲国府模型をみてみよう。出雲国分寺が国

6. 出雲国誕生

静岡県伊場遺跡 ( 浜松市 ) は、出土した木簡から七世紀代にさかのばり、「布知厨」「郡 とおとうみふち 鎰取」「栗原駅長」などの墨書上器から、遠江国敷智郡家と駅家が併設されていた可能性 か高い。 地方官衙遺跡で、認識が難しい施設は駅家である。山陽道の駅家につ 交通の要衝地 いては、中央政府の政策によって丹塗りで立派な施設として瓦葺き建 としての十字街 物が建設されたために、瓦が出土する遺跡のなかで研究が進められ特 定されている例があるが、他ではよくわかっていない。その一方で、『風土記』に記され たように、交通の要衝地において駅家が郡家や軍団関連施設などと一体となって官衙施設 各地の調査によって明らかにされつつある。こうしたあり方は、 群を構成していた実態が、 『出雲国風土記』に記された、出雲国庁の北十字街付近の官衙群、神門郡家と狭結駅が同 家所にあるという点と共通しており、交通の要衝地に複数の官衙施設を設置するという普遍 の的なあり方を示すのであろう。 やくも 出雲国庁の北にあたる十字街付近について、八雲立っ風土記の丘展示学習館の模型では、 意宇郡家の位置を南の一角とし、それに隣接して山陰道北側に意宇軍団、北東角に黒田駅 を置いている。将来、発掘調査によって、その実態が明らかになることを願っている。

7. 出雲国誕生

道が東西に走り、枉北道と十字街をなす都市的景観が、どのような経過をたどって成立し やくも たか、八雲立っ風土記の丘展示学習館の出雲国府模型をみるたびに考えてしまう。 平城京やその前の藤原京のように、先に直線的な幅が九麕ある山陰道が設定されている なかに、出雲国庁をはじめとする国府の諸施設や郡家、駅家、軍団が設置されたとみてい いのか、あるいは山陰道は出雲国府などと同時期か、後出するのだろうか すでに紹介したように、 かっては『風土記』の記載にある、「至北十字街、国庁、意宇 郡家」から、天平五年 ( 七三三 ) 時点において、国司は独立した国庁などの官衙施設をも たす、意字郡家の施設を間借りするように執務していたとみる説が有力であった。現在で は、『風上記』の記載から、こうした理解はできず、この天平五年時点において国庁と意 字郡家とはそれぞれ別の施設として独立していたとされている。 諸国で国府や駅路が律令国家の成立のなかで、どのように設置、整備されていったかを 国明らかにする上では、出雲国府が置かれた意字平野の研究は重要である。出雲国府の研究 官 は、『風土記』によって天平五年時点の姿がわかり、意宇平野の発掘調査によって施設の 月、冫も解明されつつある点や、歴史地理学的によって山陰道の復元研究も行われており、 全国的にみてもこれ以上ない研究環境が整っている。

8. 出雲国誕生

温泉のある場所は、海でもあり陸でもある。それで男も女も老人も子供も、あるいは道路 を行き交い、あるいは海中を浜辺に沿って行き、毎日集まり市がたったよ、つなにぎわいで、 入り乱れて宴をして楽しむ。一度温泉を浴びればたちまち姿も麗しくなり、再び浴びれば どんな病気もすべて治る。昔から今にいたるまで、効き目がないということかないだカ ら、土地の人は神の湯と言っている。とあり、そのにぎわいが知られる。 へきぎよく 松江市玉湯町は玉造温泉だけでなく、近くの花仙山から碧玉 ( 出雲石 ) や水品が産出 じやばみ いわや し、大規模な玉作り遺跡が数多くあることでも知られており、奈良時代に蛇喰遺跡・岩屋 みたみ 遺跡で玉作りは行われていた。後述するように、出雲郡美談郷に置かれた正倉付近でみつ かっている、青木遺跡でも神社跡のほかに、さまざまな手工業生産が行われていたことが 明らかにされている。 出雲国庁の北十字街から延びる枉北道は、島根郡家で隠岐にわたる ちくみ しんじこ 郡枉北道と島根郡家 千酌駅に向かう道と、入海 ( 今の宍道湖 ) 北岸を西に進む道とに分 しばはら 出岐している。島根郡家は芝原遺跡 ( 松江市福原町 ) 付近にあったとみる説があり、周辺に ほ′、しょ 火葬墓などの遺跡群が展開する。ここから出土した墨書土器に、『風土記』に島根郡司と してもみえる出雲臣に関連する「出雲」「出雲家」のほか、軍団の指揮官を示す「校尉」 かせんざん

9. 出雲国誕生

陸から出羽にかけて来着してしたか、 、 ' 、平安時代には山陰にも来着するようになる。当初の 航路は日本海を一気に横断して出羽から北陸をめざしたが、九世紀には緊張関係にあった 新羅の勢力が弱まったため朝鮮半島沿いを南下し、鬱陵島を経る航路に変わったためと考 えられている。そのため、それまで出羽から北陸に来着していた渤海の使者は、北陸から 山陰の隠岐・出雲・伯耆国へ到達することが多くなる。 隠岐国・出雲国に来航する渤海の使者の多くは、都の平安京への入京を認められす帰さ れているが、それまでの数カ月の間、千酌駅・島根郡家近辺・国府近辺に滞在しており、 その一〇〇人以上の使節団を接待するための費用は出雲国にとって大きな負担となってい た。新羅や渤海との関係は文献史料によって明らかにされているが、考古学的にわかるこ とは少ない。 新羅や渤海といった蕃客に向けて、国家の威信を示すために、山陽道では駅の建物を立 派にするため、丹塗りで瓦葺き建物として建てた。北陸の越前国では、渤海の使者が滞在 するために敦賀の松原に客館が置かれ、延暦二十三年 ( 八〇四 ) には能登国に客院をつく るという命令が出されている。出雲国内においても渤海の使者が数カ月も滞在した施設の 実態はよくわかっていないが、立派な施設であっただろう。 つるが

10. 出雲国誕生

もっとも数多く出土している平瓦と丸瓦を含めて、すべての瓦を分析することとにした。 古代の役所や寺院から出土する瓦は、屋根の軒先を飾った軒瓦の出土点数は少ないのに対 して、平瓦と丸瓦は屋根全面に葺かれるために大量に出土する。出雲国府の瓦を分析する 前に、出雲国分寺から出土した瓦について検討を行い、 平瓦と丸瓦について創建瓦と八世 紀後半以降の補修瓦の違いを把握していたことが役に立っことになった。 平瓦と丸瓦をみていくと、それまでいわれていたように出雲国分寺の補修瓦と同じ特徴 をもった瓦が数多く確認される一方で、これまではないとされてきた出雲国分寺創建期の 平瓦・丸瓦が一定量、出土していたのである。間野氏がすべての破片を含めて数えた結果、 おおじゃら 出雲国府では国庁付近とその北方の国司館 ( 大舎原地区 ) で出雲国分寺創建期からの瓦が る出土していることが明らかになった。そのなかで、国分寺創建期の軒丸瓦もみつかった。 さ 出雲国府は国分寺創建期 ( 八世紀中頃 ) に、国庁と国司館が瓦葺きとなっていたのであ を 建る。全国的にみれば、この頃、各地の国府では瓦葺き建物を採用するようになるので、出 の 庁雲国府も同じ時期に都の宮殿のように瓦葺き建物となっていたとみることができるように なった。 加えて、国司館地区から出土した瓦の分析によって、屋根の景観も明らかになっている。