国府 - みる会図書館


検索対象: 出雲国誕生
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1. 出雲国誕生

の正殿とし、国庁周辺の建物軸線は山陰道とそれに規制される条里地割と異なり真南を向 おきのみち いてつくられている。意宇平野を東西に走る正西道 ( 山陰道 ) と国庁の北側で隠岐道との 十字街付近に、国府とその関連施設である意字郡家、黒田駅家、軍団などを配置している。 『出雲国風土記』の記載を参考に、発掘調査の成果も加えて復元されている。基本的には、 明確な国府域を示すような道路や塀などはなく、国庁と役所施設が分散的に配置されてい る様子をうかかうことができる。こうした姿が地方における国府の実態であった。 出雲国府の主要な施設も、国内行政の中枢施設である国庁、行政実務を分掌する曹司、 よ、ってい 国司が宿泊する国司館、徭丁らの居所、民家などから構成されていた。諸国の多くでみら れるように、国分寺も設置されていた。 国府は交通の要所に置かれ、近辺には国分寺と国分尼寺のほか郡家や 国府の復元模型 駅家、軍団を配置することも一般的だった。国府は国内の政治や経済、 文化、交通の中心として、政治的地方都市の様相を呈していた。 方地方の都市である国府の姿について、はじめて模型によって立体的に復元されたのが出 雲国府であった。『出雲国風土記』に国府や周辺の自然環境の様子までが記載されている ことを参考にして、発掘調査の成果があってなされたものである。

2. 出雲国誕生

いりや こうずけ にった 地方官衙として、群馬県入谷遺跡 ( 上野国新田郡衙関連 ) ・宮城県名生館官衙遺跡 ( 陸奥国 たまっくり かつまた 玉造郡衙 ) ・岡山県勝間田遺跡 ( 美作国勝田郡衙 ) がある。実は、下野国府や常陸国府の国 国庁からも、この時期の瓦が出土しており、出雲国府だけではないのである。国府で出土す 黜る奈良時代初め頃までの瓦は、正殿を中心に葺かれたとみられる。 現国府の中心施設である国庁の多くは、奈良時代中頃に瓦葺きになる。これまでは国分寺 姿造営を契機として、奈良時代後半 ( 八世紀後半 ) になって国庁が瓦葺きの建物に整備され たとみる見方が有力であった。しかし、国府出土瓦について検討してみると、すべての国 で国庁が国分寺造営後に瓦葺きを導入するわけではなく、下野国・陸奥国・常陸国・美作 国のように国分寺造営に先んじて国庁が瓦葺きになっている国、武蔵国のように国分寺と ほば同じ時期に瓦葺きを採用する国もある。国府の建物整備や瓦葺き、礎石建物の採用は 国分寺造営を契機として進むばかりではなく、国分寺創建前から行われている点に目を向 けていく必要がある このように、国分寺創建前もしくは同じ時期に国庁が瓦葺き建物となっている国が少な くない。陸奥国府 ( 多賀城 ) 、下野国府、常陸国府、三河国府など、明らかに国分寺に先 行して、国庁に瓦葺き建物を採用している。これまでは国分寺研究が進んでいたために、 かった みようだて

3. 出雲国誕生

時代にかけては河川や地形などの自然規則に依存したあり方からはじまり、古墳時代中期 幻以降には意宇川の流路自体も南側に移す水系の大規模な改変がされていたらしい。その後、 欟七世紀後半以降に出雲国府が設置され、正西道と隠岐道が整備され、その要衝地の十字街 道付近が官庁街となっていったようである。これ以降、国府や国分寺などの諸施設は、都 国城にならって明確に方位を意識して建設されていくことになる。意宇平野に残る、条里 地割は出雲国府が形成されるなかで、正西道を基準として施行されていくが、官衙施設や 国分寺は、特に条里地割の影響を受けることはなかった。 意宇平野は、出雲国府跡としてだが、国指定史跡となっている条里である。かっては条 里と出雲国分寺や出雲国府の振れが同じで関わりがあるとみる説もあった。しかし、実際 は参道である天平古道と周囲の条里地割との振れは確かに異なり、三度程度であったこと は先述のとおりである。出雲国分寺や国府と条里の振れは異なっていたのである。 意宇平野の条里と国府施設の関係については、振れが異なる点からみて直接的に関係す るものではない。条里の施行時期は正西道が基準線となっている事実から、道路施行と同 時か遅れる。国分寺とその南に延びる道路の方位の違いからみて、意宇平野の条里制は国 分寺に先行して施行されているが、その時期を明確にすることは難しい じよ、つ

4. 出雲国誕生

やましろごうみなみしんぞういん 跡群の瓦も、出雲国分寺と国府に供給されているほかに、国府近くの山代郷南新造院 2 しわじ 2 ( 四王寺跡 ) と山代郷北新造院 ( 来美廃寺 ) からも少量出土し、屋根の補修などに用いられ ている。 AJ 今のところ、次のような可能性がある。 道 の 国 < 案Ⅱ国府の官衙施設。この場合、国庁を除くと、行政実務を執行する実務的な役所、 出 国司が宿泊する国司館が候補となる。各地の国府で瓦葺き建物を採用する施設としては、 すけのたち まず国庁があげられる。次いで、出雲国府の大舎原地区で介館 ( 次官の館 ) がみつかり、 ここからは三軒家地区と同じ出雲国分寺創建期の瓦が出土している。一方、実務的な役所 の場合、掘立柱建物が主体であり、瓦が出土することは少なく、建物は瓦葺きを採用しな いことが通例である。出雲国府においても、国庁北側の実務的な施設には瓦葺き建物はな かったようである。他国の国府でも、実務的な施設で瓦葺き建物が特定できるような例は、 これまでのところみつかっていない。したがって、国府関連施設の場合、国司館の一つだ った可能性がある。 こくしいん 案Ⅱ国府関連施設で国分寺に関わる国師院。三軒家地区は出雲国分寺南門からまっす ぐ延びる天平古道に接続した微高地であり、国分寺と近接している。出雲国分寺創建瓦が くるみ

5. 出雲国誕生

3 古代出雲国の成立 意宇平野の歴史的な変遷を考え 国府設置 る上では、もっとも大きな画期 は国府設置であろう。政務と儀礼空間の国庁や こくしかん 雲実務的な官衙施設、国司館の設置、直線的で大 規模な正西道の建設とそれを基準とする条里施 行など、それまでの出雲になかった都市的空間 が形成された。出雲国府を中心にして、国内各 平 、つまや 地に郡家や駅家などの官衙施設も設置・整備さ 意 . みれ、そうした施設を結ぶように出雲国内を網の ら 目のように道路網も設けられ律令制に基づく国 臼郡制支配が進んだ。『風土記』から、天平五年 ( 七三三 ) までに国府を中心とした官衙施設や 図国内の整備が行われたことがわかる。 やくも 出雲国府近くにある八雲立っ風土記の丘展一小 学習館に展示された、意宇平野の模型 ( 出雲国

6. 出雲国誕生

里の一条を真名井神社参道と考え、条里の東西基準線は小字名の大縄手、縄手添によって 平野西端の団原丘陵の中央と平野の東端、出雲郷の大本部落の丘陵北端を結ぶ線と想定し、 この線が平野の中央を東西に通り『出雲国風土記』道度の条にみえる郡家・国庁北の十字 街や正西道がこの線にのると想定した。その上で、条里地割にのる方八町の正方形または 南北六町・東西一一町の長方形とする国府域案を示した。後に、条里の東西基準線が条里 余剰帯で山陰道 ( 正西道 ) の痕跡を示すことが明らかにされ、正西道は意宇平野を中心に 直線道路として一〇キ。以上にわたって作道されていることが知られている かっては、意宇平野の条里制と古代山陰道との関係を含めて、条里制のなかで国府諸施 設が設定されたとみる意見が有力だった。現在は、出雲国府や出雲国分寺の調査が進んだ 結果、意字平野の条里地割と国府の諸施設の方位については違いがあることが明らかにな 駅 っている。国府や国分寺が正しく東西南北 ( 正方位という ) を向いて施行されている一方 で、条里地割は正西道を基準として施行されために、三度程度の振れがあり、国府や国分 ~ 呂寺と条里地割はその原理が異なる。要するに、出雲国府や国分寺の建設にあたっては条里 とは無関係で行われており、出雲国府には条坊的な方格地割も認められない。 出雲国府の展開する意字平野の開発は奈良時代前から行われており、弥生時代から古墳 227 だんよら じよ、つば、つ

7. 出雲国誕生

4 地の国司館 / 出雲の国司館 / 出雲国府の玉作り / 忌部の玉作りと貢進 出雲国府と国郡制の成立・ 国府の成立時期 / 出雲国府の成立年代 / 昭和の調査 / 意字郡家との同居 説 / 「大原評」木簡 / 評制下の木簡 / 出雲国府のはじまり / 初期国庁の 姿 / 国府施設の記事 / 伯耆国府の成立 / 初期国府の姿 / 美作国府 / 常陸国 府 / 日向国府 / 国庁下層は初期国庁 / 出雲国府と郡家 / 出雲国庁と長舎 / 国庁と郡庁 郡からみた出雲国 地方支配の拠点 国郡制と郡家 / 古代出雲国の前史 / 最後の古墳 / 意宇評の成立 / 地方官衙 の成立 出雲国の郡家・ 郡家の諸施設 / 「上野国交替実録帳』 / 上野国佐位郡正倉跡 / 上野国新田郡 家跡 / 意宇郡家の設置 / 出雲国内の官衙整備 / 「常陸国風土記』と茨城郡 家 / 黒田駅の移転 / 『出雲国風土記』にみる官衙遺跡群 / 十字街は官庁 街 / 玉作街 / 柾北道と島根郡家 / 官衙遺跡群と交通施設 / 各地の官衙遺跡 群 / 交通の要衝地としての十字街 / 出雲国内の郡家と正倉 郡家と正倉・ 2 2 ノ 01 727

8. 出雲国誕生

姿は明らかにされつつある。まず、国府がどのような施設や組織だったかを確認しておく ことにする。 こくしかん 国府は地方支配の拠点として、儀礼を行う国庁を中心に国司の居宅である国司館やさま ざまな施設が設けられ、周辺には寺院や神社、工房や市、津などが置かれた。大陸風の丹 ぬしらかべ 塗り白壁造りの建物が建ち並び、それまでの古墳時代から続く景観とは大きく異なる、地 方における古代都市であった。 ぞ、つし 国府の中心は国庁であり、周囲に文書行政を行う実務施設 ( 曹司 ) や国司館が置かれた。 くりや 厨という給食センターでは、役人などに対して食事を用意した。付近には、国分寺・国 分尼寺のような国立の官寺や有力豪族による氏寺も建てられた。神社もあり、平安時代後 期以降、総社も置かれた。 輔出雲国府にも国分寺・尼寺や総社が置かれ、国府は国の役所だが、周辺には寺もあれば 古神社もあるというようにいろいろな施設の集合体となっていた。国府の近くには郡家も置 方かれることが多く、『風土記』の記載から国庁の北側の十字街付近に意宇郡家が置かれ、 くろたのうまや さらに黒田駅に加えて軍団もあったことが知られている。

9. 出雲国誕生

『出雲国風土記』の記載から明らかなように、出雲国府は正西道と枉北道 こ′、つよ、つ 出雲国の の十字街付近に置かれていた。出雲国の中心にあたるのが国庁であり、 形成と展開 出雲国においては国府成立が契機となって国の形成が進んだ。国府の設置 くろだ おおはら は七世紀末頃に行われており、大原郡家や黒田駅をはじめとする官衙の移転を含めた整 備・設置は、国府設置を契機とした出雲国内の交通体系の整備にともなって行われたもの であろう。国府が置かれた意宇平野の条里地割施行も国府設置と同じ頃に、正西道を基準 にして施行されたとみられる。 『出雲国風土記』に記された出雲国府、郡家、駅家からみて、出雲国では評制下の七世 出紀末頃から八世紀にかけて黒田駅、大原郡家だけでなく、国内全域において郡家・駅家を てはじめとする役所、都から延びる駅路の正西道 ( 山陰道 ) の整備は進んだことがわかる。 ロこうしたあり方は出雲国だけではなく、全国的に広く実施されたものであり、国府の設置 のを契機として諸国で国の骨格は形成されていったのである。 『出雲国風土記』は、わが国の古代史研究に大きな影響を与えてきた。その一方で、考 古学な検討も求められている。本書では、文献史学と考古学との学際的研究によって明ら かになってきた古代出雲の姿の一端を紹介することを心がけた。

10. 出雲国誕生

次 目 3 古代出雲国の成立ープロローグ : 「出雲国風土記」の世界 / 国府設置 / 政治的景観の出現 / 杵築大社と斉明 天皇 / 地方支配の拠点 / 出雲国の成立 / 地誌「出雲国風土記』 / 写本の 「出雲国風土記」 / 『出雲国風土記』の難しさ / 『出雲国風土記』世界の解明 へ 姿を現した出雲国府 地方の古代都市・ 掘り出された出雲国府 / 政務・儀礼空間としての国庁 / 元日朝賀 / 政務の 場 / 出雲国府の創設 / 選地 / 讃岐国府と綾川 / 出雲国府と神名樋野 / 出雲 国府の現在 / 一一つの国庁碑 / 国府像の見直し / 周防国府 / 下野国府の姿 / 出雲国府の景観 / 国府の復元模型 国庁の建物をさぐる : 国庁の特徴 / 正殿は瓦葺き / 鴟尾放光 / 国分寺と国府 / 出雲郡家と鴟尾 / 国家の威信 / 出雲国府と郡家の荘厳化 / 宮都の荘厳化 / 国府の荘厳化 / 各 目 0 4