天智朝の七世紀第 3 四半期には駅家をつなぐ駅路は広く設置されていたとみられる。その 一方、考古学的には幅九を超える大規模な直線道路については、七世紀末頃を大きくさ かのばって全国的に広く設置されたとみることは、発掘調査成果から難しい。 まず、七世紀第 3 四半期に駅家は古墳時代以来の畿内と諸国を結ぶ主要道路沿いに設け られ、順次、全国的に直線で幅広い大規模な駅路が整備されたと考えられる。全国的な駅 路建設と駅家の設置は天智朝の七世紀第 3 四半期から構想・施行され、畿内周辺や都と大 宰府を結ぶ山陽道などの重要道路はいち早く敷設されたとみられるが、これまでの考古学 調査によれば七世紀第 3 四半期に大規模な直線的な駅路が七道すべてに敷設された状況は ない。大規模な直線道路が都を中心に七道として全国的に整備されたのは七世紀末から八 世紀初頭頃まで下るようであり、天智朝以降、段階的に進み天武朝の国境確定とそれにと もなう国府設置、郡家の整備などの地域支配強化と連動して達成されたのであろう。 国実際に、道路の発掘調査に携わる調査担当者の頭を悩ますのは、道路の建設時期を明ら ~ 呂かにすることが難しい点である。道路という性格上、時期を示す土器が出土することは稀 である。これまでに何度か古代道路跡を調査したが、土器がほとんど出土せす、いっ頃に つくられたものであるか、正確にはわからない場合が多かった。杉沢遺跡でみつかった、
九 5 一五麕と必要以上に幅広く、直線路として設けられていることも交通の実用性だけか らは説明はできない。山陰道のような駅路も国家統治の威信表一小の舞台装置である性格を 国もつ。山陰道も幅が九麕もある、大規模な直線道路で、実用性を超えたものであることが 咄明らかになっている。古代道は、律令制支配の貫徹を可視的に地方に示すための装置の一 現っとしても整備されたのである。 を 姿国府や郡衙の施設も、発掘調査の成果を踏まえると、こうした直線的で大規模な官道に 面して可視的な権威誇示としての機能をもって、造営されている実態が明らかになってき ている。ここでは、古代において地方の役所の建物を立派に建てた可視的な権威誇示が、 地方支配を行うにあたっていかに重要であったかをみていく。 『出雲国風土記』が完成した奈良時代は、国府・郡衙の整備が本格的に 宮都の荘厳化 なされた時期であり、平城宮などの都における宮殿や寺院の荘厳化が地 方にも大きな影響を与えていた。 当時の都であった、飛鳥・藤原京・平城京において、瓦葺き建物がどのように位置づけ されたか、みておきたい。前述したように、宮殿や官衙に瓦葺きの建物が採用されるよう になるのは寺院よりも遅れ、七世紀末頃の藤原宮からはじまる。古代律令国家の成立時期
の正殿とし、国庁周辺の建物軸線は山陰道とそれに規制される条里地割と異なり真南を向 おきのみち いてつくられている。意宇平野を東西に走る正西道 ( 山陰道 ) と国庁の北側で隠岐道との 十字街付近に、国府とその関連施設である意字郡家、黒田駅家、軍団などを配置している。 『出雲国風土記』の記載を参考に、発掘調査の成果も加えて復元されている。基本的には、 明確な国府域を示すような道路や塀などはなく、国庁と役所施設が分散的に配置されてい る様子をうかかうことができる。こうした姿が地方における国府の実態であった。 出雲国府の主要な施設も、国内行政の中枢施設である国庁、行政実務を分掌する曹司、 よ、ってい 国司が宿泊する国司館、徭丁らの居所、民家などから構成されていた。諸国の多くでみら れるように、国分寺も設置されていた。 国府は交通の要所に置かれ、近辺には国分寺と国分尼寺のほか郡家や 国府の復元模型 駅家、軍団を配置することも一般的だった。国府は国内の政治や経済、 文化、交通の中心として、政治的地方都市の様相を呈していた。 方地方の都市である国府の姿について、はじめて模型によって立体的に復元されたのが出 雲国府であった。『出雲国風土記』に国府や周辺の自然環境の様子までが記載されている ことを参考にして、発掘調査の成果があってなされたものである。
39 地方の古代都市 おおくにたまじんじゃ ことができる。現地では大国魂神社の脇に、国府の中枢建物が一部復元され、近くのふる さと府中歴史館でも武蔵国府跡やその関連遺跡の発掘調査の成果を紹介している。 ほかに国府の全体が復元できる国としては、讃岐国府が挙げられる。菅原道真が国守と して赴任し、漢詩 ( 菅家文草 ) を詠んだために国府とその周辺の具体的な様子がわかる。 あや 国府近くに開法寺、河内駅が置かれ国府外港や付近の松山館が知られ、阿野郡家や軍団も あったとみられる。開法寺の鐘の音、河内駅家に建つ楼閣の様子など興味深い。香川県と 坂出市によって発掘調査が継続的に行われており、今後の研究成果が楽しみである。市民 の関心も高く、将来的には立体的な復元模型なども考えてもらいたい国府の一つである。
全国的には国府でも奈良時代の後半になって採用される場合が一般的である点を含めてみ 2 2 ていく必要がある。神社に関わる建築としては伝統的な掘立柱建物がふさわしく、大陸風 場の礎石建物はそぐわない。 の 青木遺跡の位置は、『風土記』に、美談郷に「正倉あり」と記載された付近にあたる。 青木遺跡の建物群については、『風土記』に記された美談郷の正倉の一部も含まれており、 各地の官衙遺跡でみられるように官衙と宗教施設とが一体となった遺跡群として理解して おきたい。
の国庁から南方をみると携帯電話の電波塔が畑のなかに建っているのがみえる。そこが十 字街付近である。 欟長年にわたる国府研究のなかで考古学的な確認が求められてきたのが、『出雲国風土 記』に記された分岐点の「十字街」であった。まだ、出雲国府では考古学的には不明であ 国るが、備後国府でようやく実態が明らかにされた。鳥居地区については、府中市によって 備後国府跡を「まちづくりに活かすなかで公園とする計画が進んでおり、山陽道と国府 中枢部への進入路の分岐点が整備される予定となっている。ぜひ現地で国府の分岐点の様 子をみていただきたい。 日本における直線的な道路は、まず大和と河内において成立した。奈 国府設置と駅路 良盆地を南北に走る上・中・下の三道は、横大路上においてそれぞれ ・一キ。の間隔になっており、計画的に施行されている。こうした大和と河内の直線道路 網は六世紀末から七世紀前半に建設されたという。平城京が設置される前に、すでに奈良 盆地には上ッ道、中ッ道、下ッ道と呼ばれるような直線的な道路が設けられ、条里地割が 方行されていた。 意宇平野において、『風土記』に記されているような出雲国庁と意字郡家の北側に正西
3 古代出雲国の成立 意宇平野の歴史的な変遷を考え 国府設置 る上では、もっとも大きな画期 は国府設置であろう。政務と儀礼空間の国庁や こくしかん 雲実務的な官衙施設、国司館の設置、直線的で大 規模な正西道の建設とそれを基準とする条里施 行など、それまでの出雲になかった都市的空間 が形成された。出雲国府を中心にして、国内各 平 、つまや 地に郡家や駅家などの官衙施設も設置・整備さ 意 . みれ、そうした施設を結ぶように出雲国内を網の ら 目のように道路網も設けられ律令制に基づく国 臼郡制支配が進んだ。『風土記』から、天平五年 ( 七三三 ) までに国府を中心とした官衙施設や 図国内の整備が行われたことがわかる。 やくも 出雲国府近くにある八雲立っ風土記の丘展一小 学習館に展示された、意宇平野の模型 ( 出雲国
られる場合が多く、儀礼的施設、実務的建物、仮設的建物などの機能が想定されるが、そ の解明にあたっては建物周辺の空間構成、付属施設との関係、次期の施設との関係などか かんど こしはんご、つ 国ら、総合的に検討する必要がある。出雲国庁や神門郡家 ( 古志本郷遺跡 ) のように、長舎 黜の位置を踏襲して、同じ場所で政庁正殿が建つような場合、長舎は儀礼的な機能ももって 現いたとみられる。 を 姿 『和気氏系図』に清麻呂の五代前にあたる古麻佐の注記の部分に「難波朝庭、藤原の長 舎を立っ , とあり、この長舎については、藤原郡 ( 評 ) の中心となる行政施設が古い時期 ( 七世紀代 ) からあったことを示すと考えられている。実際に、各地で長舎が最初に建設 されるのは、七世紀後半代であり、単なる居宅ではなく公的な機能も有した施設の中心建 物の一つとして採用された場合が多かった。 その後、八世紀以降に採用される定型化した国庁は、長大な脇殿が正殿左右まで延びる 長舎型、正殿前面左右に一一棟ずつの脇殿がある大宰府政庁型、正殿・脇殿が品字状をとる じよ、つ 城柵政庁型の三類型にまとめられる。大きくみると、定型化国庁は塀で囲繞された一院 のなかに、正殿・脇殿が塀と分離して左右対称の整然とした建物配置をとり南面する。 出雲国庁も初期の建物 ( SB18 こ 9 ) は一部しかわかっていないが、長舎を並べており、
道が東西に走り、枉北道と十字街をなす都市的景観が、どのような経過をたどって成立し やくも たか、八雲立っ風土記の丘展示学習館の出雲国府模型をみるたびに考えてしまう。 平城京やその前の藤原京のように、先に直線的な幅が九麕ある山陰道が設定されている なかに、出雲国庁をはじめとする国府の諸施設や郡家、駅家、軍団が設置されたとみてい いのか、あるいは山陰道は出雲国府などと同時期か、後出するのだろうか すでに紹介したように、 かっては『風土記』の記載にある、「至北十字街、国庁、意宇 郡家」から、天平五年 ( 七三三 ) 時点において、国司は独立した国庁などの官衙施設をも たす、意字郡家の施設を間借りするように執務していたとみる説が有力であった。現在で は、『風上記』の記載から、こうした理解はできず、この天平五年時点において国庁と意 字郡家とはそれぞれ別の施設として独立していたとされている。 諸国で国府や駅路が律令国家の成立のなかで、どのように設置、整備されていったかを 国明らかにする上では、出雲国府が置かれた意字平野の研究は重要である。出雲国府の研究 官 は、『風土記』によって天平五年時点の姿がわかり、意宇平野の発掘調査によって施設の 月、冫も解明されつつある点や、歴史地理学的によって山陰道の復元研究も行われており、 全国的にみてもこれ以上ない研究環境が整っている。
は限らない。 発掘調査によって鎌倉時代の出雲大社 ( 杵築大社 ) の本殿は丹塗りされてい たことがわかっているが、クラも丹塗りされる場合がある。また、周辺からまとまった木 場簡群が出土し、出挙に関わる可能性も推定されている。ここでみつかった礎石建物は側柱 式であり、高床倉庫だったかどうかははっきりしないが、版築地業を行った堅牢な構造で 祈 稲穀などを収納するためだったためかもしれない。側柱建物は外回りに柱を立てたもので、 通常は事務棟や稲穂を東ねた穎稲を収納した施設として使われる。礎石建物一一棟について も神社の関連施設とみることが有力視されているが、考古学的にはクラの可能性も排除で きない 古代において、寺を除くと礎石建物は地方で採用されるのは官衙施設であり、豪族の居 宅や集落で採用されることはほとんどない。出雲国府でも、礎石建物は国司館で八世紀後 半になって採用されている。郡家の場合は、政務・儀礼施設の郡庁や実務的な施設が礎石 立ちとなることはきわめて稀である。その一方、八世紀中頃以降に高床式の正倉は礎石立 ちとなる例が多く、これは重い稲穀を納めるためである。全国的にみて郡家でも、正倉以 外で奈良時代に郡庁や実務的な施設で礎石立ちとなっている例を知らない。出雲大社の本 殿も礎石立ちとなるのは、鎌倉時代になってからである。青木遺跡でみつかっている礎石