出雲国府では、平城宮の宮殿のように瓦葺き建物となっていた。古代に 出雲国府と おいて国府や郡家という役所の建物について、柱を丹塗りし、屋根を瓦 郡家の荘厳化 葺きとすることは都の荘厳化と連動し、律令国家の威信を示し地方支配 を支えるために必要なことであった。出雲国府や郡家においても瓦が出土し、地方支配を 行う上で舞台装置として機能していたことをみていくことにする。 古代における瓦葺き建物は律令支配の道具の一つとして考える必要があり、古代の地方 官衙の建物でも火災の備えとするだけでなく、都にならって律令国家の威信を示すために 柱を丹塗りした瓦葺きの礎石建物が造営された。 日本の古代国家が地方支配を行うなかで、宮都や地方官衙は支配の手段としての役割も る果たした。国府や郡衙は地方を支配する律令国家の意志を示して造営され、古代国家の形 成過程や制度は地方官衙の構造に反映されており、それを明らかにすることは律令国家の 建地方支配の実態や在地の対応を知る手掛かりとなる。 の 古代の道路についてみれば、平城京の朱雀大路が幅員七五麕と実用性を超えた道路であ り、これは天皇権威の象徴としての、国家統治の威信表示の舞台装置の一つであったこと が考えられてきた。地方においても、道路遺跡の発掘調査によっても、官道 ( 駅路 ) が幅
鴟尾を載せていたとみている。瓦や鴟尾が出土するからといって寺院とは限らす、国府や 郡家の可能性もある。 府 国 国によっては、国分寺金堂や国庁の正殿には金属製の鴟尾を載せていた場 国家の威信 出 合もあったと憶測している。平城京では大極殿とその東方の東大寺大仏殿 現が国家の威信を示すように、金色に光り輝く鴟尾を飾っていた。出雲国府から一片だが、 を 姿鴟尾が出土している。出雲国庁の殿舎 ( 正殿か ) は瓦葺きで大棟に鴟尾を載せ、国家の威 信を示していたのであろう。 全国の国府跡調査のなかで鴟尾が出土したのは出雲国府がはじめてで国庁が都の宮殿を 模して建てられたことを示している。当時の人々にとっては鴟尾を飾った丹塗りの建物は 律令制国家を象徴するものとして目に映ったと思われる。柱を丹塗りした瓦葺きの国府や 郡家建物は、新たな律令国家の象徴としての舞台装置としての役割を果たしていた。やは り、出雲国庁の正殿や国分寺金堂の屋根には鴟尾が飾られていたと考えたい。毎年、秋に 奈良の風物詩となっている正倉院展に行き、平城宮跡の大極殿や東大寺大仏殿の鴟尾をみ るたびに、出雲国庁も同じように鴟尾を飾って威容を示していたのだろうかと思いをめぐ らす。
に配置され、周囲に倉庫群が展開し、これらの建物が『実録帳』に記載された長舎や正倉 と一致していることが明らかにされた。発掘調査例と史料の記述が合致し、「上野国新田 国郡家跡ーとして国指定史跡になっている。 佐位郡や新田郡などの郡家跡で、一〇〇〇年ほど前の『実録帳』に記された建物がみつ かるたびに、ほば史料と一致することに驚いている。後ほどみていく、『出雲国風土記』 に記された出雲郡、神門郡でも同じように郡庁や正倉の一部がみつかっており、その建物 配置や構造を知る上でも上野国で史料と対応する郡庁や正倉の発掘調査事例は貴重である。 郡家は『実録帳』に記されるように、郡庁・正倉・館・厨を主要施設とし、その他に実 務を分掌する施設もあった。先述のとおり、『実録帳』では建物は具体的に記されている が、国内のどこに設置されていたかについては不明となっている。一方で、『風土記』で 、つまや は建物の記載はない代わりに、設置された郷名や郡家から寺などへの里程、駅家や軍団と の関係などが記されており、律令国家が設置した意図が読み取れる場合もある。地方支配 の拠点となった郡家を研究する上では、『出雲国風土記』と『上野国交替実録帳』が車の 両輪のように活用されている。
も早い時期ではないようであり、七世紀末から八世紀にかけてである。出雲国内における 独立した官衙施設としての郡家の成立は、斉明朝から天智・天武朝の七世紀後半にさかの 国ほるものではなく、いますこし遅れる。 出 地方支配の拠点として評・郡家が官衙施設として確立する七世紀末頃は大きな画期であ み ら り、同じ頃に国府も成立していた。国府成立が評家施設の成立・整備に大きく影響を与え 郡 ており、一体となって整備されていった。評・郡家の施設が規格性をもっ官衙配置をとる ようになるのは、国府成立との関わりが深い。 評・郡家と国府施設の成立過程をみると、七世紀後半に評家が居宅と未分化な形で成立 し、七世紀末から八世紀初頭頃に国府成立を契機に郡家も大規模な正倉群と郡庁からなる 官衙施設となったと理解している。国郡制の成立を国府と評・郡家の成立過程からみると、 七世紀後半代に段階を経て成立・整備され、七世紀末から八世紀初頭頃が大きな画期であ ると評価でき、この頃に全国的に国府が成立した点を重視している。この国府の成立によ って、律令国家による国郡制という領域区分に基づく地方支配のシステムが確立したと考 えている。
数寺の定額寺が存在していたとみられているが、一斉に同郡内の氏寺を定額寺にしたので はなく、出雲国意字郡ではその時々の律令国家の政策に基づき時期を違えて、氏寺が順次、 場定額寺に認定されていたようである。 の 山代郷南・北新造院のような国府や郡家の周辺に設けられている寺院は、氏寺として一 祈 族の現世利益や冥福を願うためだけでなく、奈良時代になると国分寺に準じて国家安寧を 祈願させる役割を負わされるようになっていく。その代わり、国家から定額寺と認定され 保護を受けるようになっていく。その一端が国衙系瓦窯から供給された瓦に現れている。 文様がない平瓦・丸瓦の破片でもそのもつ意味は大きいのである。 新造院については、そのいくつかが定額寺に認定されたと推定されていたが、瓦の生産 と供給状況からみても国分寺創建以降に、『出雲国風土記』記載の山代郷南・北新造院は 定額寺として認められていた可能性が高い。新造院は『風土記』に記されているような、 出雲臣や日置臣の氏寺としてだけ機能していただけではなく、国家にとっても重要な位置 づけがなされていたのである。その一端が、『風土記』に伽藍、僧尼、建立者が詳しく記 載されていることにも示されている。
道が東西に走り、枉北道と十字街をなす都市的景観が、どのような経過をたどって成立し やくも たか、八雲立っ風土記の丘展示学習館の出雲国府模型をみるたびに考えてしまう。 平城京やその前の藤原京のように、先に直線的な幅が九麕ある山陰道が設定されている なかに、出雲国庁をはじめとする国府の諸施設や郡家、駅家、軍団が設置されたとみてい いのか、あるいは山陰道は出雲国府などと同時期か、後出するのだろうか すでに紹介したように、 かっては『風土記』の記載にある、「至北十字街、国庁、意宇 郡家」から、天平五年 ( 七三三 ) 時点において、国司は独立した国庁などの官衙施設をも たす、意字郡家の施設を間借りするように執務していたとみる説が有力であった。現在で は、『風上記』の記載から、こうした理解はできず、この天平五年時点において国庁と意 字郡家とはそれぞれ別の施設として独立していたとされている。 諸国で国府や駅路が律令国家の成立のなかで、どのように設置、整備されていったかを 国明らかにする上では、出雲国府が置かれた意字平野の研究は重要である。出雲国府の研究 官 は、『風土記』によって天平五年時点の姿がわかり、意宇平野の発掘調査によって施設の 月、冫も解明されつつある点や、歴史地理学的によって山陰道の復元研究も行われており、 全国的にみてもこれ以上ない研究環境が整っている。
朝ヒ新造院 3 出雲国 展府模型とも表記する ) には、国庁や 郡家・駅家・寺院など大陸風の丹塗 しらかべ 風り白壁造りの建物が建ち並ぶ様子が 立復元されている ( 図 2 ) 。古代にお いて、国府は国家権力と地方の人々 が接する場所でもあり、そこに展開 型した官衙や寺院は地域と深く関わる 元ものであった。 講義や市民向けの講演で出雲国府 国の話をする際には、まず『出雲国風 出土記』を読んで、この一〇〇〇分の 一の出雲国府模型をみることを勧め 平蔵 宇所ている。その上で、現地に立って古 学代出雲国の中枢地域をイメージする 2 示 図ように話すことにしている。出雲国 ニ = ロ
奈良時代の出雲国は九郡からなっており、国府は意宇郡に所在し、発掘 こくしかん 郡家の諸施設 調査によって松江市大草町を中心に国庁や国司館などの諸施設がみつか っていることは紹介した。『風土記』には、郡を構成する各郷が郡家からの方位と距離で 家説明されているように、郡家が地域支配の拠点となっていた ( 図。『風土記』に記載さ 郡 のれた郡家の内容は断片的であり、施設の詳しい様子は不明である。 こ、つずけ 出郡家の姿を知る上では、『出雲国風土記』と並んで重要な史料が、『上野国交替実録帳』 ( 『実録帳』とも表記する ) である。 0 出雲国の郡家
『実録帳』は、長元三年 ( 一〇三〇 ) に作成されたもので、上野国の国司 の交替時に交わされた引継書の草案である。このなかに上野国内各郡の官 くりや 替実録帳』 舎の状況が記されている。主に正倉、郡庁、館、厨から構成され、すで に無くなっている建物が記載されている。これによって郡家は、正倉・郡庁・館・厨から さ 構成されていたことがわかる。近年、発掘調査によって、『実録帳』に記された佐位郡、 にった かたおか 新田郡、片岡郡、多胡郡で郡家とみられる遺跡が次々にみつかり、史料に記された建物と の対応関係が明らかにされつつある。一方で、『実録帳』には郡家の位置は記されていな いため、位置が不明な郡家も多い。 『出雲国風土記』では郡家の施設そのものについては記されておらず、どのような建物 があったかについてはわからない。一方で『実録帳』と異なり、その位置は具体的に記さ 家れており、現地の場所が比定できるという強みがある。郡家は国内の交通の要衝地に配置 のされ、国府と郡家、郡家間を網の目のように道路が張りめぐらされていたことを読み取る 出ことができる。『出雲国風土記』と『上野国交替実録帳』の記載内容には違いもあるが、 両者を扱うことによって、郡家の特徴や建物配置・構造を復元することが可能となる。 0 出雲国の郡家をみる前に、『実録帳」の記載と発掘調査によって明らかになった上野国 『上野国交
近年の発掘調査成果を踏まえると、『風土記』に記載された郡家と別 郡内の分割統治 に設置された正倉にも、税物収納の便を図る機能だけではなく、郡内 の分割統治としての側面も考慮する必要がある。 意宇郡では、郡家のほかに郡内各所の五カ所に正倉は設置されていた。意宇郡山代郷に しつぢ 置かれた正倉は郡家から西北三里一二〇歩 ( 一・八キし、出雲郡では漆治郷に置かれた正倉 家 郡は正東五里二七〇歩 ( 三・二キ。 ) と間に山河のような地理的障害がないにもかかわらす、 近接している点が注目できる。意字郡の場合は、国府に近接しているという特殊な事情か ら郡家に正倉をつけす、高燥な地である山代郷の台地上に設置されたとみられる。山代郷 郡家と正倉