九五式軽戦車 - みる会図書館


検索対象: 戦車サスペンションの本
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1. 戦車サスペンションの本

目次 まえがき 0 懸架装置の主な要素 ☆転輪の大小 ☆スプリングで 1 輪を保持 ( 独立懸架 ) ☆ 2 輪ボギー ( 連成懸架 ) ☆スイング・アーム ☆バネの種類 ☆ダンバー ( ショックアブソーバー ) 0 独立懸架とボギー台車の歴史について ☆ I 号戦車のサスペンション ☆Ⅳ号戦車とフェルディナンド駆逐戦車のサスペンション ☆九五式軽戦車北満型ボギーについて ☆ 2 輪間の長さが固定された 2 輪ボギー ☆ M 4 シャーマンのサスペンション ☆イギリスの戦車開発 0 架空戦車への応用 ☆バンターのエンジンルームについて ☆バンターを軽くする ☆Ⅳ号戦車の改良案 ☆Ⅳ号戦車系の二輪ボギー転輪 0 ダブルボギーという名称について あとがきおくずけ 付録 参考書籍 目次 S t 0 p G a p 0 3 0 4 5 6 8 0 2 4 8 9 1 4 7 8 0 1 2 3 0 0 0 1 1 1 1 1 2 2 2 2 3 3 3 3

2. 戦車サスペンションの本

0 独立懸架とボギー台車の歴史について 戦車は最初の頃、サスペンションがついていませんでした。現在でも低速で動く建機や 農業機械にはサスペンションのない物があります。これはサスペンションを付けると重量 物を動かす時に返って安定しないからという事情があるようです。 戦車の場合、要求されるスピードが年々増して行った事と、搭乗員や搭載機器に対する 振動防止策として自然と装備されるようになって行きます。 試行錯誤のうちに一つ一つの転輪にバネを付けようという試みが始まりましたが、小さ な転輪にストロークの大きなバネを付けてたくさん並べることは容易な事ではなく、初期 の独立懸架の導入は規模の小さなものとなります。後にイギリスのチャーチ丿レ戦車がこの 方式にした時に時代錯誤とか保守的と言われたのはこのためですが、スヒードのそれほど 出ない同車だからまずまずの結果が得られたと言えます。 後述のビッカース Mk. 1 中戦車のサスペンションも最初の片持ち式転輪は車軸の折損事故 が相次いだため、改良された 2 輪ボギーへ移行して行きました。 クリスティー式 サスペンション 実用的な独立懸架装置は、後のクリスティー式サスペンションや トーションバーの登場を待たねばなりません。時代の主流となった のは、いくつかの転輪をボギー台車にまとめる方式でした。 戦車にボギー転輪がいつから取り入れられたものか詳しい ことは分からないのですが、プリミテイプな Mk I に続く初 の戦車が計画された頃だと言う事は分かっています。 ドイツの A 7 \/ やフランスのサンシャモンは縦に設置された 梁に一列に転輪を取り付け、それをバネで支えてショックを吸収する機構になっていまし た。これなどは原始的なボキー転輪と言えます。 こうした試みは、テコの原理の導入と A 7 V の いう考え方から作られたものではなく サスペンション 小径の転輪を隙間なく並べ、均一に荷 重を分布させるための機構でした。 2 0 個を超えるような転輪を一つ一つ バネで懸架するより、何個ずつかまと 〇 めてそれに大きなバネを設置した方が 機構として単純になり、堅牢で製造やメンテナンスも楽になります。 一次大戦中は 5 輪 3 輪といったボギーが使用され、小型の戦車ほど 1 ボギーの転輪は 少ない傾向がありました。 有名な丿レノー F T 1 7 戦車は 3 輪ボギー 1 っと 2 輪のボギー 3 つからなるダブルボギー 2 組を各々板バネで支える機構を採用していましたが、これは減免効果を意図してこうな ったのか地形追従性を優先してこうなったのか判然としません。しかし、減免効果を期待 できない 3 輪ボギーを最前方へ持ってきたところを見ると、履帯の接地面を一枚板のよう にして重量を分散させる効果を意図した設計のように見えます。 6 0 1 〇 6

3. 戦車サスペンションの本

一物第、 . 第 六 MK 懿、 今年は戦車が誕生して 100 年になるそうです。 この場合の戦車は、イギリスが世界に先駆けて実用化した Mk I 戦車を指します。 1915 年 試作車リトル・ウィリーが完成し次に直接の原型であるビッグ・ウィリーが作られました。 そして 1916 年 9 月 15 日に有名なソンムの戦いがあり、戦車は初めて実戦投入されたのです。 その後 100 年の間に戦車は長足の進化を遂げ、現代戦車の性能は大幅に強化されました。 しかし、一般的なイメージとしての、どんな悪路もキャタピラで進み大砲や機関銃を撃つ 鉄の箱という部分は何ら変わる所がありません。また、戦車に求められる根本的な能力も、 そうした部分であると思います。 戦車の性能を見る時、攻撃・防御・移動という緒元がよく挙げられます。 この内、攻撃については搭載火砲が、防御については装甲板の解説がなされて来ました。 移動に関しては主にエンジンのカタログデータや燃料の搭載量等が語られてきましたが、 肝心の履帯とサスペンションについてはそれほど解説がなかったように思えます。 というのもこれらの性能を表現する方法が、乗り心地とかどんな路面を踏破できるかと 言った数値にしにくい表現に依存するところが大きかったからです。 前述の Mk I 戦車は、サスペンションのない無数の転輪で砲弾孔や塹壕のある戦場をゆっ くりとした速度で移動しました。お世辞にも乗り心地が良いとは言えず工ンジンにかかる 負担から閣座する車両が相次いだといいます。 その後、技師達は履帯やサスペンションの改良を続け、現在の一〇式戦車のような自動 制御された姿勢安定機構を備える戦車を作るに至ります。彼らエンジニア達は何を考え、 どのような工夫をして、こうした進化を推進してこれたのでしようか ? そうした疑問を本書では少しだけ解明してみたいと思います。 、をツ ■第■ : をを第第第 = 第。爾 : 第 : 第物、第 : を第置 : 第 : 第。を第 : 第 : 第第 ; を第 = 朝ミを : 第 : ■ : 第 : を第。第 . 第 ; ■

4. 戦車サスペンションの本

・カーデンロイド Mk . 6 とトレーラー 搭載スペースに余裕がなかったため、トレーラーを 連結して兵員・銃砲等を運んた。トレーラーも同し型 の 2 輪ボギーたったが大きい転輪とガーター・ビーム のない構造の為、ボギーの動きを観察しやすかった。 3 ををを第第第、。を置 : 第第物第 ; 第・ - 第第を第 . を量第 , 第 ; 第を第を第第 : を第置をを第 : 第第第卩 6 一生、 2-4 一〒ン 0 イドに 6 ☆イギリスの戦車開発 第一次大戦後まで戦車開発をリードしてきたイギリスですが、本土が窮状に陥ったため その後の開発は停滞気味でした。これは技術の問題というよりも内部事情によるもので、 歩兵戦車と巡航戦車という他国に例を見ない車種の二本立てとなります。 また車体に比べて搭載砲が貫弱なのも特徴ですが、これはとりあえず量産できる小口径 の主砲で配備を急いだためで、アメリカの支援が不可欠な状態でした。 イギリスの技術が結実したセンチュリオンが登場したのは戦争が終わった後になります。 その後、チーフテンやチャレンジャーといった重戦車路線が続きますが、なぜかコイルバ ネや油気圧ユニットを車外に装着するする方法へ傾倒し、トーションバーの採用には消極 的でした。 主砲にしても薬嚢式だったりライフル砲に最後までこだわり続けたり、首をかしげる様 な保守性が目立ちます。 イギリスは国内向けの戦車開発を断念したという話が伝わっていますが、戦車発祥の国 の今後を見守ってゆきたいと思います。 0 クロムウェル Mk. 4

5. 戦車サスペンションの本

さてそこで最初に戻って、もし計画に先立って戦車橋の強度実験がされて、バンターの ような 4 0 t 級の戦車が渡れると分かっていたとしたらどうでしよう ? 歴史に if は禁物と言いますが、メカ的に複雑な潜水渡河の装備もいらず工ンジンルーム が冷却に専念した工アフロー設計にできたとしたら、八ンターの重量はもっと軽くてすん だのではないか、と思えるのですが。 ☆バンターを軽くする 前述のようにバンターのエンジン関係だけでも相当な悶着があり、時間のない中で生産に 移さなければなりませんでした。武装が強力な 7 0 口径 75mm 砲の搭載を求められたばかり でなく、装甲板も順次増強されてゆきます。それらの装備と車体を支えるサスペンションに は特別な物が必要となり、レール工学博士の考案によるダブ丿レトーションバーと片側 8 輪の 大径転輪がはさみこみ式にオーバーラップした走行装置が装備されました。 これらの装備は確かに優秀なもので八ンターをして第二次大戦中の最良の戦車と言わしめ るほどです。しかし一方でこうした高級で精緻なメカを戦時に量産するには無理があり、も っと単純で数を作る事が出来る仕様にすべきではなかったのかという意見も多いのです。 そこで今回、軽量化したバンターを架空戦車として作ってみる事にしました。 仕様としては同しカタログデータを保持しつつ簡略化できる所や削れるところは削って軽 量化をはかり、それによってサスペンションの簡略化を実現する事としました。 当時のドイツでは合成ゴムによってタイヤや転輪のゴム部分を製造していましたが、この ゴムは粘性に劣り脆い特性があった為、天然ゴムを使う事が出来た日本やアメリカの車両と は事情が異なります。アメリカがワイヤーを埋め込んだゴムキャタピラを八一フトラックに 使えたのにドイツでは対照的にべアリングをグリスアップする精巧な履帯を使っていたのは こうした事情も背景にあります。 そして、オーバーラップした複雑な転輪も脆いゴムリムに対処するためでもありました。 戦争も後期に入るとゴムを内蔵しその量を省力化した鋼製転輪が推進され始めます。これに よって転輪の運転寿命はアップしますが、転がり抵抗の増大が生しました。Ⅲ号戦車で試作 された鋼製転輪では 1 0 % の増大が認められたそうです。転輪の大小によってこの数値がど のように変化するのかはわかりませんが、ノ ( ンターに限って言えば G 型の一部から装備され ケーニヒス・ティーカーとの転輪の共通化も図られていました。 ーを第第第 ~ 第当第当第当鹵朝朝第蓄第第第を第第第 : 。第、朝、第第題第も

6. 戦車サスペンションの本

☆九五式軽戦車北満型ボギーについて 満州に展開した日本の戦車部隊は、広大な平地を演習地としましたが、その多くの面積 を占めるコウリャン畑で難問にぶつかりました。コウリャン ( トウキビ ) を栽培する畑は 平坦ではなく高さ 3 0 c m を超えるうねが規則正しく延々と連なっていたのです。 北満型の説明によると、そのうねの間隔と戦車の転輪の間隔が一致したために、ひどい 揺れが発生して対策を要したということで、 現地の戦車メーカーが独自に設計したらしい 三輪ボギーが用意されました。しかし、この ボギーには大きな欠点がありました。書籍 の北満型の説明 ( こは「上手く行かなかっ たらしい」と述べられていますが、詳細 な説明はされていません。そこでこの興味深い試みに解説を加えることで、ボギー転輪の 弱点に言及してみようと思います。 0 0 0 北満型ボギー 北満型のコンセプトは、履帯にかかる重量分布を均一にして接地面が一枚の板に近ずく 様にしようとした物、と言っていいでしよう。これは一次大戦中の戦車と同し手法であり、 ドイツの戦車設計にも共通した物で、オーバーラップした大径の転輪による走行装置は、 良好な走行性能とゴムバーツの長寿命化を実現しました。 最小限度の改良でドイツの履帯と似た様な性能を得ようとすれば、直径の小さな転輪を 間隔をつめて並べるしかなく、北満型の設計はオーソドックスな対応であったと言えます。 しかし、トラニオン軸の直下に補助転輪を置くという事は、起伏の高さがそのまま車体 に伝達されるということです。前後の転輪がテコの原理で 1 / 2 の減免効果を発生しても、 中央の補助転輪が車体を押し上げるので、上下動が余計激しかったはずです。 また、日本独自のサスペンションは、起伏の高さが一定の高さを超えると前後のボギー が干渉しあってさらに減免効果を出す仕組みになっているのですが、ポーポーイズ運動を 発生し易いと言う欠点があります。北満型の補助転輪はこの傾向に拍車をかけてしまった のではないかと推測できるのです。

7. 戦車サスペンションの本

ー第上 : ・朝朝 : を第 : 物 : を・朝第第 : 第 : 第 : を第第を第第 : 第第第 : 置 : 物第 : 第 ; 。第 ~ 第を 2 引ろ生 0 0 0 日本式のダブルボギー・サスペンションは、中央のバーツだけが車体に固定されて、 フローティング構造のスプリングとガイドを挟んだ二組のボギー転輪が干渉しあう構造 になっていました。 、左側のボギーが起伏に差し掛かったとすると、左にカイドロッドが引っ張られ、 最初のうちは右側の八ネだけが圧縮されます。それがある長さを超えると図中央の丸の バーツが左側のバネに達し、左のバネも圧縮するようになります。このテンションは反 対側のボギーに伝達され、右側のボギーが地面を押す動きとなるのです。 これにより全体としてテコの原理が働き、車体の持ち上がりがいくらか減免されます。 これは非常に巧妙にできた構造で、地上の起伏が小さいうちは二輪ボギーは独立して動 き起伏がある高さより大きくなると、前後のボギーが干渉しあってダブルボギーとして 働くというものです。 このダブルボギーには前述のように構造上の欠点があります。バネをはさんで前後の ボギーが干渉しあう特徴を持っているのですが、九五式軽戦車のような場合大きな起伏 を乗り越えると車体の動揺が反対側のボギーに伝達される事により踏ん張りが利かなく なって、前後の動揺が増加される傾向が生まれるのです。 では、現地満州の技師達はどうすればよかったのでしようか ? 回答はいくつか考えられますが、一つには前後のボギーの連携を絶っ改造をすれば応急 の効果は得られたと思います。その改造にはほとんど手間はかからず、サスペンション の小さな部品 ( 上図〇の部品 ) の除去ですんだはずです。また、九七式中戦車のように 独立懸架の転輪で前後を挟むか、九七式軽装甲車のように大型にした誘導輪を接地させ れば揺れの補正になり姿勢は安定したはずです。 ン ョ ス サ の 車 中 式 九 ー第。を第■置第。■■第 : を。■ : 第。第 : 第第 , 第第。を第■。■■、■、第 : を第第。第 . 第 . 第、第、を宿 : ■置第。■・第第

8. 戦車サスペンションの本

を第 : 宿 ' 第。■■第 : ・をを第第第朝・。第。第■■ - ■朝を朝・第ま。第。第。を、■第・第 : 第。第第■■第第 車体の長さが短く、かっ軽量だった九五式軽戦車は、このような根本的解決ができずに 終戦まで使われ続けました。日本の事情としては、量産体制の整った九五式を早期に大量 生産したかったということがあります。 その後の日本の試作戦車を見みると揺れに対する解決策を模索した形跡が見られますが、 どれも決定的な効果はなかったようです。改良を行った一部の技師は 2 輪ボギーの効果を よく理解せずに設計していた可能性があるのですが、当時の技術者間にどのようなコミュ ニケーションが図られていたのか、ドイツの第 6 課のような総合的な研究期間はなかった のか興味の湧くところであります。 こうした紆余曲折をドイツもたどった形跡がありますが、日本と異なりトーションバー を使った独立懸架に全面的にシフトすることで解決を見たようです。この辺りは第 6 課が イニシアティブを取って計画を推進できた強みといえましよう。 ☆ 2 輪間の長さが固定された 2 輪ボギー ドイツのボギー転輪の開発を概観する前段階とし て、直径が同し転輪を使って、 2 輪間の長さが固定 されたボギーを 3 種類作ってみます。 各々、① 2 輪間の長さが離れた物②接近したもの ③オーバーラップした物とし、同し高さの起伏 a を 越えるとどうなるか思考実験してみようと思います。 なお起伏 a の高さは転輪の半径より低く、第一転輪 は無事に乗り越えることができたとします。 ご覧のように起伏 a がトラニオン軸の直下に来た 時、 3 つのボギーには顕著な違いがあるのが分かる と思います。テコの原理による減免効果は両転輪間 が近くなるほど損なわれており、③の場合、トラニ オン軸に直接 1 輪の車軸がある場合とほとんど大差 がなくなっています。 ②の接近したボギーに似ているⅣ号戦車のサスペ ンションは、 2 輪がスイングアームの効果で開閉す る様になっていたため、この作用をいくらかまぬが れたようです。しかしⅢ号戦車 B ~ D 型では 2 輪間が固定されていた上に小径の転輪が接近 していた為、②の状態になっていたはずです。 計画変更で急遽設計されたマウスのサスペンションも、小径の 2 輪間が接近して固定され ており計画変更前のポ丿レシェ式のサスペンションより効果が落ちていたことが想像されます。 ポ丿レシェ式の場合 2 輪間の長さは固定されていますが間隔が開いていた事と転輪の直径が大 きかった事で①のようになって、この作用を受けにくかったと考えられるのです。 ① ②

9. 戦車サスペンションの本

☆ M 4 シャーマンのサスペンション アメリカは第一次大戦にも参加していますが、自国が直接戦場になった訳ではないので 陸軍の戦車開発は進んでいませんでした。また戦車の帰属をどの兵科にするのかでお決ま りの内部抗争があり、似たような戦車を別々に開発する等の失態も演しています。 しかし、その早い段階から M 4 戦車にまで続くサスペンションの原型が誕生しています。 開発者は八リー・ノックスという自動車技師で若干 2 5 歳で自分の会社を作り、いくつか の自動車を作った後、戦車開発に携わっています。 今日では最も有名な戦車技師の一人であるジョン・クリスティーとの親交があり、共同 の研究もしましたが皮肉な事にノックスのアイディアが採用された事によりクリスティー は他国への売込みをしなければなりませんでした。 ノックスのサスペンションには特筆すべき点がありますので順を追って解説します。 最初の頃、重量の軽い装甲車のサスペンションとしてフルリンクされたサスペンション が作られました。その後これは軽戦車の走行装置として M 5 軽戦車まで使われ続けます。 次第に増える戦車の自重に対してスプリングの強化が行われたはすですが、前後の揺れに 対する方策がなく、 M 5 軽戦車では誘導輪を大型化して 接地させ、接地長を延ばすと共に揺れを抑えています。 朝一朝 : 第朝、 : 第 : 朝 : 朝朝 = を蓄朝朝 : ・、 = 朝 : 。・ : 貳第 ! 第 : を第第 : i ・第 ! 第 : 第を物蓄朝」第・を第一 0 第二次大戦がましかに迫り重量の重い M 3 軽戦車 中戦車の開発が始まると、リンクを廃した 改良型が作られ、これが長らく M 3 ・ M 4 中戦車の系列に使われる事になります。 リンクがなくなったことにより堅牢になった他、スプリングを大型化して横に並べより 重い過重に対応する事が出来ます。への字型のバーは片方の スイング・アームの持ち上がりをもう一方へ伝えてテコの原 理が働くようになっており、その時に生しるフリクション が揺れにプレーキをかけるダンバーの役割を担って いる様に思えます。バーがアームに接触する部分 は磨耗が激しいらしく、交換できるようにボルト 留めで分割されています。このサスペンション は V V S S ( 垂直懸架装置 ) と呼ばれています。 2 訂、午ー ) る 0 - をををを第第■第 : 第、 : をを第 : ■ : 第 : 第第第■。を第 : を第第 . 第。第第 : を第道第書。をを第第 , 第第卩

10. 戦車サスペンションの本

☆Ⅳ号戦車系の二輪ボギー転輪 四号戦車の転輪は二輪が組みになったリーフスプリングによる緩衝機構を採用しています。 単純な機構で作りやすく、故障や破損が少なく、メンテナンスもタイカー戦車などより格段 に楽だったはずです。一方で、乗り心地はそれなりのもので凹凸を乗り越えた時の衝撃が直 に乗員の負担になったようです。 ドイツが実戦を行う前にⅣ号戦車は設計されており、 常に細かい改良が加えられながら終戦まで生産が続け られましたが、転輪を取り付けるサスペンション部分 はほとんど変更がなかったようです。車体の重量増加 にともなってスプリングの強化はされていると思うの ですが、 40 c m の地上高では実戦の機動で不足だった ようで前述の最低地上高の引き上げが勧告されたのでしよう。 生産上の理由から大きな変更を伴う改良は使えなかったⅣ号ですが、 重量増加のために転輪ゴムの磨耗が激しく、末期にスチー丿レ・ホイール が開発されます。これは内部に緩衝ゴムリングを内蔵した転輪で、ゴム の節約にも貢献しましたしかしⅣ号系列の自走砲には優先的に使用されていましたが、 Ⅳ号戦車自体には使われませんでした。 部の車両では第一転輪をスチー丿レ・ホイー丿レに換えたものもあったので、前方が重く磨 耗が激しかったことをうかがわせます。つまり急停車の時など前方へのめり込んだはずで、 最低地上高の増大は機動力を増す効果があったことは間違いないと言えます。 そこでⅢ / Ⅳ号戦車の転輪の図面を参考に直径の大きい 転輪をオーバーラップさせる方法を考えました。共通の スチー丿レホイール ( 内部に緩衝ゴムを内蔵 ) をスペーサー をはさむことで内外両方に使い分け、従来どおり片側第 4 組 8 個の転輪となります。 小さな転輪を外して大きな転輪に差し替え、 キャタピラを何枚か付け足すだけで 1 0 c m の地上高増大ができるので、前線でもジャッキ があれば交換可能な実用性のあるプランだと思います。 Ⅳ号戦車は低い位置の板バネに地上の起伏がぶつかって、ひどい振動を起こしているよう ですから、 1 0 cm といえども機動性に大きく貢献すると思います。 ただし、転輪のキャタヒラへの接地面積から言うと従来のものより少なくなりますし、 キャタヒラに捻り応力が加わるので、何かの不具合が出ることが想定できるでしよう。 。 ~ 第■をを第第■を第を第を第第■をを第・動を置第■第を第ー 迂 A のサスへ。ン 。止も H 27