尾張国司自殺の謎 ところて、壬申の乱の際、伊勢・美濃・尾張の諸国は、はたして大海人皇子の期待に応 えたのてあろうか。結果から見れば、十分満足するだけの結果を示したということになろ うが、その内実は複雑てあったようだ。それは、国司・郡司 ( 壬申の乱当時の名称はこれと異 なる ) といった地方官の動向に端的に示される。 さひち ちいさこべ 尾張国司の守 ( 長官 ) 、小子部連鈕鉤は、大海人皇子が不破に着いた日に二万の衆を率い てっナた。当初、美濃において三千の兵て不破を寒いだのてあるから、この時点て二 万の兵はじつに大きな力になったはずてある。ところが大津宮陥落後に鈕鉤は自殺する。 尾張国司守少子部連鉙鉤は、山に隠れて自殺した。天皇 ( 大海人皇子 ) は、「鈕鉤は功 績のある者てある。罪かないのになぜ自殺したのであろうか。何か陰謀があったのだ ( 天武紀元年八月条 ) ろ、つか」どいわれた。 たしかに鈕鉤の自殺は不審てある。また、美濃の兵がこの争乱ては大きな役割を果たし ているにもかかわらず、美濃国司の動向は不明てある。大海人皇子が鈴鹿に至ると、国司 いわとこすけみわ こびと たりまろ 守三宅連石床・介三輪君子首が湯沐令田中臣足麻呂らと迎えに出たとある。この国司は伊 228
あった。ひとます近江朝廷側の東国への連絡ルートを断っことに成功し、すぐさま「東海 軍」「東山軍」を発するための使者を派遣した。美濃・尾張以東は、大海人皇子側の指示 が伝達されることになる。この争いが、畿内にとどまらず、全国的な内乱へ拡大しはじめ しなの たのぞある。先に 一引いた『釈日本紀』私記所引の安斗智徳日記には「信濃の兵を発せし む」とあり、大和の戦場においては「甲斐の勇者」が活躍する場面が見られた。実際の争 乱は、約一カ月て終息したのて、信濃や甲斐の兵がどの程度、戦場に駆けつけたかはわか ( れと、近江朝廷も吉備や大宰府に使者を送っており、長引けばよほど大きな規 模の戦乱になる可能性があった。 ここて注目すべきは、大海人皇子は不破と鈴鹿をおさえることを当初の目的としてお り、しかもそれはおそらく予想以上の効果を上げたことてある。壬申の乱を経て成り立っ た天武政権にとって、これは大きな教訓になったてあろう。不破関・鈴鹿関がそれ自体、 あらち 重要な軍事施設として成立し、北陸道の愛発関と合わせて「三関」と位置づけられた。関 を管轄する国司も、三関国の国司として軍事指揮官的な性格を強めたのぞある。畿内東辺 の諸国は、中央政権を支えるうえて大きな役割をもつに至る。 か さんげん 壬申の乱と「壬申紀」のあいだ 227
「私はかってこのように素晴らしい教えを聞いたこどかない さだ こどはてきない ( 朕、自ら決むまじ ) 」 まえっきみ ( そこて天皇は ) 群臣に下問された。 「隣国のもたらした仏像のお姿は厳粛て、かってなかったものてある。礼拝のこどを どうすべきてあろうか」 欽明は仏像や経典には感動したものの、仏教を崇めるか否かについては躊躇し、その取 にしのとなりのくにくにぐにもはら おおおみおおむらじ り扱いを大臣・大連らに下問したのてある。大臣の蘇我稲目は、「西蕃の諸国、一一 ゐやま とよあきづやまとあにひとそむ ナこれ 皆礼ふ。豊秋日本、豈独り背かむや」と述べて全面受容の意向を明らかにしご。 わ みかど あめのしたきみ つね もののべのおおむらじおこしなかとみのむらじかまこ 対し、物部大連尾輿・中臣連鎌子らは、「我が国家の、天下に王とましますは、巨に わざ まっ あまつやしろくにつやしろももあまりやそかみも 天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬、祭拝りたまふことを事とす。方に今改めて くにつかみいかり あたしくにのかみをが 蕃神を拝みたまはば、恐るらくは国神の怒を致したまはむ」と強硬な反対論を唱える。 そこて天皇が最終的に下した断は、次のようなものてあった。 「どうしてもど懇願する ( 蘇我 ) 稲目宿禰に授け、試みに礼拝させてみよ」 ただ、自分ては决める まさ 「飛鳥仏教史」を読み直す 159
ものも天武朝以後に行われたとする新説まて飛び出している ( 森博達『日本書紀の謎を解く』 中公新書 ) 。 このように、憲法十七条を推古朝のものとすることにはさまざまな問題があると考えな け・れよた ? らよ、。 ては、大和王権において仏教はどのように受容され、「正教」として興 隆することになったのか。各天皇紀の関連記事を読み直すことによって、日本書紀の編者 によって創り上げられた飛鳥仏教興隆史のイメージを再検討してみよう。 さだ 「朕、自ら決むまじ」ーー欽明王権の対仏教政策 じようぐうしようとくほうおうたいせつ がんごうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう 仏教が伝来したのは、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起井流記資財帳』な きんめい くでん どの伝記によれば欽明七年 ( 五三八 ) 。一方、日本書紀は欽明十三年 ( 五五一 I) 十月に公伝記 事を載せており、 いずれが事実てあるのかがはっきりしない。 しかし本論はその年次を問 題にする場ぞはないのて、欽明朝に伝来したことを前提にすることとする。 くだら しやかみほとけのかねのみかたひとはしらはたきぬがさそこらきゃうろんそこらのまき さて、百済からもたらされた「釈迦仏金銅像一驅、幡蓋若干、経論若干巻」を前 にした欽明天皇の様子を、圭日紀は次のように伝えている。 この日、天皇は聞き終わって大いに喜ばれ、百済の使者に次のようにいわれた。 158
紀 ) の撰述が企画され、これは和銅七年に国史撰述の命を受けた紀清人が担当、同時に撰 修を命じられた三宅藤麻呂が・滝両群にわたって漢籍による潤色を加え、若干の記事を 補筆、ここに日本書紀が完成を見たというわけだ。 森氏のこの仮説は日本書紀の音韻や文章に対する精緻な観察と統計から組み立てられて おり、 一見すると反論の余地がないように思われる。しかし、森氏は群・群それぞれ の編纂方針や構想といった問題にまて踏み込んだ言及をしているとはいえない。森氏はあ くまて、唐人の守言や弘恪が群を述作てきたかどうかを間題にしているのぞあり、かれ らがこの部分の述作をすすんて引き受けた特別な理由や動機があったのか否かについて は、慎重に明一三口を避けている。 天武朝に行なわれた「帝紀」「上古諸事」筆録は日本書紀の基礎資料を整理する作業だ ったと考えられる。すると、持統朝の段階て雄略紀以下と皇極紀以下だけてなく、神代紀 すいこ じよめい 以下や推古・舒明紀の述作も十分に可能だったはずだ。それにも拘わらず推古・舒明紀の 編纂がこの時期になされなかったのは、一つには、推古・舒明朝がまだ生々しい〈現代 史〉の起点ともいうべき時代ぞあり、編纂にも種々の制約や問題があったためと考えられ レよ A フ っ ' 、いど - フして 他方、神代紀や神武紀以下の述作が持統朝に行なわれなかったのは、い 0 日本書紀をつくったのは誰か 267
ったにち力いオし よ、 9 梭は、変身したスサノラ自身てあり、現アマテラス・スサノラの物語 は姉弟の近親相姦を隠している。天岩屋戸神話の前に記される、姉弟がウケヒて神々を生 む物語も、一一人の性交を暗示している。 姉弟の近親相姦が、のちには国っ罪の性的禁忌につながっていくものと考え られるが、国っ罪とされる近親相姦や獣姦なども、ある時期まては祭祀の場ぞ模擬的にし ろ、獣に扮した人物との間ぞ儀礼的交として実際に演じられていた可能性が高い。 スサノヲのアマテラスへの行為は、神嘗の春の準備から秋の本祭にまて及ぶものだった こと、アマテラスが梭て陰部を突くのがまさに神嘗儀礼の最中てあったことから、姉弟の 性交も神嘗、すなわち農耕の収穫祭ての営みてあった。知られているように、農耕祭祀に おける男女神の交合は、豊穣を「予祝」する呪術儀礼的な行為だった。スサノヲが地上世 界を象徴する出雲に天降るだけてなく、神代紀第五段のアマテラス・ツキョミ・スサノヲ 三神誕生の物語ても、イザナキから統治を命ぜられるのが天下てあったり青海原てあった りするのは、スサノヲの農耕神的性格によると考えられる。出雲てのスサノラには追放者 ひ の面影はなく、斐伊川の水を統御する英雄てあり、クシイナダヒメと結ばれて豊穣をもた らす農耕神てあるのも、同様てある。 要するに、天上界を象徴し養蚕紡織に従う女神アマテラスと、地上界を代表し農耕に従 スサ / ヲ神話を読み解く
の朝倉に設け、天皇の位についた。っ むろや おおむらじ 室屋ど物部連目を大連どした。 大臣・大連は大和政権の執政官を指す役職名てある。大和の在地土豪を代表して平群臣 真鳥が大臣に、伴造を代表して大伴連室屋と物部連目が大連に就任したとあるが、この記 五世紀後半 事を根拠に、大臣・大連制の淵源を五世紀後半に求める説が有力ぞある。ただ し」い - っ . ル又 にはまだ「臣」「連」のカバネ ( 姓 ) は成立しておらず、したがって大臣・大連 職名も存在しない。 さらに平群氏が大和政権の有力豪族として中央政界に進出する時期は 六世紀の中葉・後半以降て、日本書紀の応神朝から武烈朝まての平群氏に関する伝承は、 こびと 天武朝の国史編纂事業に参加した平群臣子首によって造作された疑いが持たれる ( 辰巳和 弘『地域王権の古代学』白水社 ) 。 日本書紀の古訓にもとづくと、「大臣」は本来、オホマヘッキミと訓まれていたようて ( 「大連」も同様 ) 、オホオミ・オホムラジの訓は、カバネの「臣」「連」に美称の「大」を 冠した敬称的な呼称にすぎない。六世紀前半になると、執政官たるオホマヘッキミの下 大王に近侍し、国政に参議する議政官としてマヘッキミ ( 大夫・群臣 ) が設置され、オ ホマヘッキミーマヘッキミ制とても呼ぶべき、氏族合議にもとづく新たな政治体制が成立 め いに宮を定め、平群臣真鳥を大臣どし、大伴連 へぐりのおみまとりおおおみ よ 「歴史の出発点」としての雄略朝一一一ワカタケル大王と豪族たち 1 2 5
ぜん 日本書紀に関わった渡来人 日本書紀には序文も上表文もない。撰者についてもよくわかっていない。『続日本紀』 こうにんしき わどう きのあそんきょひとみやけのおみふじまろ や『弘仁私記』序によって、和銅七年 ( 七一四 ) 以降、紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂が撰修 おおのあそんやすまろ とねり に従事し、古事記を筆録した太朝臣安麻呂も撰者とみられること、最終的に舎人親王が撰 修事業を統轄したことがわかる程度てある。日本書紀の撰修は天武朝の後半に始まり、完 成 ( 養老四年〔七二〇〕五月 ) まておよそ四十年ほどの歳月を要した。中断の有無も含めて、 どのように撰修事業が展開したかは不明てあるが、この間、かなりの数の人々が撰修に関 ケしたことは確かと思われる。 おびと 『続日本紀』によれば、養老五年正月に文人・学者ら十六人が皇太子首親王 ( 聖武 ) のも もんじよう に侍り、帝王教育を施すこととなった。そのなかには当時の「文章」 ( 漢文学・歴史 ) の やまだのふひとみかた さざなみのたかおかのむらじこうちとりのせんりよう 第一人者てあった紀朝臣清人・山田史御方 ( 三方 ) ・楽浪 ( 高丘連 ) 河内・刀利宣令らがい かんが かんじよ ごかんじよ る。紀清人が日本書紀の撰者てある事実に鑑みると、彼は『史記』『漢書』『後漢書』『文 選』など、のちの大学の文章科て用いられたテキストに加えて、完成まもない日本書紀の 進講を行った公算が大てある。すると「文章」の他の三人 ( 渡来人 ) もまた日本書紀の撰 はべ もん 244
持〔既紀の「法」〈巻三十持統紀〉 同じ日本書紀のなかても、天武紀下や持統紀になると、物語的な記述が影を潜め、一見、 淡々とした記録風の叙述が続く。それだけ信頼生が高いということにもなろう。またその記載 から、政府の組織をはじめ、統治のための諸制度の整備が図られていったことがわかる。そこ に登場する官職や、あらたに出された法令などは、のちに制定される律令条文と比較して、官 司等の制度的な変化を考える素材となる。もっとも、天智朝に編纂された近江令は、じつはそ あすかのきよみはら の存在すら疑問とされており、飛鳥浄御原令も実態は不明てある。とすると、やはり個別の法 令を見ていくことが大切てある。一つの例をあげてみよう。 持統五年 ( 六九一 ) 三月条に、次のような詔が記されている。 も おほみたからっ 詔して日く、若し百姓の弟、兄のために売らるるこど有らば良に従けよ。若し子、父 母の為に売られなば、賎に従けよ : ・ : ・ ( もし弟が兄のために売られたならば良民どせよ、もし 子が父母のために売られたのならば、賤民どせよ : : : ) ご。この規定は これは、家族のなかて人身を売買した場合の、良賤身分の所属を定めたものオ こういんねんじゃく 当時進行中てあった庚寅年籍の作成に関連したものてあったが、じつは、百年以上あとに成立 こうにんしき これを前提とした条文 する『弘仁式』 ( 平安時代の弘仁年間に編纂された律令の施行細則集 ) 一 240
勢国の国司てあろう。すると早々に伊勢国司は大海人皇子側についたということになる。 皇子が吉野を出て二日目の時点て、不破と鈴鹿がおさえられ、京と東国を結ぶ幹線ルー トは大海人皇子側によって掌握されるこ、ごっご。 ( しオオここに、近江朝廷の命によって人夫を 動員していた美濃・尾張の国司は孤立してしまう。現実に大海人皇子が桑名まて来てお 伊勢国司や美濃の在地氏族が大海人皇子側についた事実を知り、尾張国司の鈕鉤は、 やむなく大海人皇子のもとに向かったというのが実情てはあるまいか。その後、鈕鉤が将 いせのすけ 軍に任じられた形跡はない。伊勢介三輪君子首は大和に進撃する将とされ、美濃安八磨郡 おおのおみほむち の湯沐令多臣品治も同様てあったことからすれば、大軍を率いて参じた尾張国司とその兵 の動向が記されないのはいかにも不自然てある。 すると、同じく大海人皇子側についた伊勢・美濃・尾張の三国ても、どれほど積極的に いくらかの違いがあったように感じられる。 近江朝廷との戦いに関わったかという点て、 それは、地域による関ケのあり方の差異というよりも、直接には、氏族集団や官職を帯び る人物と、大海人皇子との信頼関係がどうてあったかということてある。つまり、同じ東 海地域のなかにも、大海人皇子との結びつきという点て、さまざまな「温度差」があった と考えられるのぞある。 このことが争乱ののちに、天武政権と東海地域との関わりに影響を生み出すことになっ 壬申の乱と「壬申紀」のあいた・ 229