婚姻の集中する傾向がみられる。彼らはおそらく五世紀後半ごろに王権に完全に服属し、 「葛城」氏に代わって王室の姻戚としての地位を占めるようになったのてあろう。 すると、物部氏と「和珥」系諸氏の関係も、次のように推測することが可能となる。っ まり物部氏は、もと雄略の私兵を率い、山辺郡の石上・布留の地に配置され、その北に展 開する在地土豪勢力と対峙していた武将とみられる。これらの地は大伴氏の築坂邑や来目 邑に比すべき雄略の軍事的防衛線てあった。即位後、雄略は物部氏を介して、「和珥」系 諸氏の取り込みをはかるが、その一方て物部氏を伴造に任じ、その軍事 ( 警察 ) 力を強化 して、大和東北部から山背・近江への王権の進出路を確保した 。五世紀後半以降、物 部氏が軍事的・政冶的に台頭する直接の原因はここにあった。 古代の一大画期 すてに述べたように、軍事的専制王権を確立した雄略のもとて王権を支えたのは、ウジ として大王に奉仕するようになった伴造層てあり、その中心をなしたのは大伴・物部の二 大軍事伴造てあった。大和の有力在地土豪の勢力は排除されるか、あるいは「和珥」氏の ように、王権の圧倒的な優位のもとに従属せざるをえなくなった。 りよ、ついき 岸俊男氏は、『万葉集』『日本霊異記』『新撰姓氏録』など古代の文献において、雄略天 「歴史の出発点」としての雄略朝 - ーーワカタケル大王と豪族たち 1 ろ 9
持〔既紀の「法」〈巻三十持統紀〉 同じ日本書紀のなかても、天武紀下や持統紀になると、物語的な記述が影を潜め、一見、 淡々とした記録風の叙述が続く。それだけ信頼生が高いということにもなろう。またその記載 から、政府の組織をはじめ、統治のための諸制度の整備が図られていったことがわかる。そこ に登場する官職や、あらたに出された法令などは、のちに制定される律令条文と比較して、官 司等の制度的な変化を考える素材となる。もっとも、天智朝に編纂された近江令は、じつはそ あすかのきよみはら の存在すら疑問とされており、飛鳥浄御原令も実態は不明てある。とすると、やはり個別の法 令を見ていくことが大切てある。一つの例をあげてみよう。 持統五年 ( 六九一 ) 三月条に、次のような詔が記されている。 も おほみたからっ 詔して日く、若し百姓の弟、兄のために売らるるこど有らば良に従けよ。若し子、父 母の為に売られなば、賎に従けよ : ・ : ・ ( もし弟が兄のために売られたならば良民どせよ、もし 子が父母のために売られたのならば、賤民どせよ : : : ) ご。この規定は これは、家族のなかて人身を売買した場合の、良賤身分の所属を定めたものオ こういんねんじゃく 当時進行中てあった庚寅年籍の作成に関連したものてあったが、じつは、百年以上あとに成立 こうにんしき これを前提とした条文 する『弘仁式』 ( 平安時代の弘仁年間に編纂された律令の施行細則集 ) 一 240
子側の田中臣足麻呂の兵は混乱し収拾がっかなくなった。足麻呂だけはこの合い言葉 を察して「金」どいって逃れるこどを得た。 のちの時代の合戦の情景描写にも似たこの記述は、まさに臨場感にあふれている。 おきなが 【近江の戦いとその決着】不破から近江に攻め込んだ大海人皇子方は、七月七日に息長の 横河 ( 滋賀県山東町あるいは米原町のあたり ) て近江方を破り、十三日には安河 ( 野洲川 ) にお いて近江方に大勝する。きわめて順調に勝利を重ねていった。七月二日に近江への進攻を 開始してから、二十日ほどを経て、二十二日ついに瀬田の橋をはさんて両軍は向き合うこ とになる。おそらく、この間、大海人皇子方には東国の兵が順次来着したてあろう。近江 さ 側にも西国の兵の来援があったかもしれないが、大和における戦いにそのかなりの兵が割 かれたと考えられ、近江には期待したほどの兵が集まっていなかった可能性が高い 書紀は次のように さて、瀬田の地は、近江側にとって事実上、最後の防衛線てあった。 描写する。ここては読み下し文を掲げてみよう。 まへつきみたち 辛亥 ( ニ十ニ日 ) に男依等瀬田に到る。時に大友皇子及び群臣等共に橋の西に営り おほ つら しりへ かねつづみおと て、大きに陣を成せり。其の後見えす。旗幟野を蔽し、埃塵天に連なる。鉦鼓の声 たりまろ そ はた 210
をする人口自体が確実に減ってきているのてはないかと危県されます。ところが、それに 反比例し、日本書紀を古事記と同じようこ売み ' 味わってみたいという 一般読者の想 いはつのり、高まっているのが現状てはないてしようか 日本書紀という史料をてきるだけ楽しく、かっ有意義に読むにはいったいどのような方 法や視点があるのか 。私たち五人 ( 平林章仁、遠山美都男、加藤謙吉、前田晴人、早川万年 ) は、日本書紀を使い古代史を研究している決して多数派とはいえない研究者てあると自負 しています。本書ては、それぞれが日頃興味や関心をもっテーマを日本書紀から選び出 し、それを素材に「私は日本書紀をこのように読んてきた」「日本書紀を史科として用い るときにはこのような点に留意している」「日本書紀にはまだこのようなテーマが眠って いる」といったことを考慮しながら自由に論じてみました。加えて、古典としての日本書 紀の「読みどころ」を、古代史を考えるうえての論点をからめながら紹介しました。そし て最後の第 6 章には、かって坂本さんが提唱した日本書紀自体の研究、日本書紀やその編 纂に関していままて何が間題とされ、何が明らかになってきたのかに関して最新のリポー トを収録しています。一読されれば、日本書紀の読み物としての面白さと、その研究上の 課題とがおのずと浮かび上がってくるはすてす。 4
ここに見える「来目水」とは高取川のことてある。すなわち葛城一言主神は、築坂邑や 来目邑の辺りまて、雄略を送ってきたことになる。直木孝次郎氏はこの事実に着目して、 高取川やその西を流れる曾我川の近くまて葛城勢力の力が及んており、築坂邑や来目邑は 葛城勢力との境界線、王権の側の防衛線を構成していたとする。軍事に長けた大伴氏や来 鳥坂神社 葛木坐一言主神社 「歴史の出発点」としての雄略朝一一・ワカタケル大王と豪族たち 1 ろ 1
た国守が殺されている。ということは、この時点て吉備は近江側についた可能性が高い 西国の動向は記されていないのて推測に頼らざるをえないが、大和の戦闘が終わってか かんやく おごおり ら、吹負は難波の小郡 ( 政府の出先機関か ) にて、西国の国司に官鑰・駅鈴・伝印を差し出 させている。事実上の降伏要求てあった。東国に対してはそのようなことはなかったか ら、やはり西国は近江朝廷の命令下にあったと見られる。もう少し近江ぞの戦闘が継続し ていれば、西国の兵が続々と難波に集結していたかもしれなかった。壬申の乱は、実際の 戦闘は大和・近江とその近辺に限られていたが、兵の動員範囲はかなり広かったようてあ る。まさに「天下両分」 ( 大海人皇子の占言 ) の様相を示していたのてある。 壬申紀の記述と史実の間隙 さて、壬申紀に即して争乱の推移と問題点を見てきたが、ここて改めて記述自体に立ち 返って考えてみたい。 先に、近江瀬田の戦いの記述において、書紀の編者が『後漢書』の文章を参照していた ことに触れた。漢文を用いる以上、編纂者はその表現を漢籍に即して工夫し、とくに史書 を熟覧したてあろうことは想像に難くない。間題は、読者てあるわれわれがこのような記 述と史実の間にどのような「鬲たり」を認識するのかということてある。 壬申の乱と「壬申紀」のあいだ 255
この神話の背景を考えるうえて興味深いものがある。 はたおり 伊勢神宮・アマテラスと養蚕・機織文化については、雄略紀十四年一二月条に見える、朝 むさのすぐりあお あやはとり 、れはレ」り・ 鮮半島からの渡来人てある身狭村主青らが呉国 ( 中国南朝 ) から連れ帰った漢織・呉織と きぬぬいのえひめおとひめ あやのきぬぬいべ 衣縫兄媛・弟媛のうち、衣縫兄媛は大三輪神に奉献し、弟媛は漢衣縫部とした、漢織・呉 織の衣縫は飛鳥衣縫部・伊勢衣縫の先祖てある、との所伝が参考になる。 ′」、つえい おそらく、この時に伊勢神宮・アマテラスにも呉の織姫が奉献され、その後裔が伊勢衣 かんはとり かんおみ 縫てあろう。もちろん、神衣祭に奉仕した神服部氏と神麻績氏はその後裔とみられる。た 彼女らがすてに馬を飼育・利用する文化要素、馬を犠牲とする習俗を保持していたか ど - フかは明らかてない。 こうしたに関わる文化要素が、いつ、どのような経路て、わが 国にもたらされたのか、興味は尽きない。 神話の改竄ーーー儀礼的行為から大祓の罪へ 神々の物語てある神話も恒久不変てはなく、それを語り伝えた集団や社会、その文化や 祭儀の変遷とともに展開し変容する。さらに、もとは個々別々の物語てあったものが、統 一的な意志により結合され、人為的に体系づけられたりすることも稀てはない。 記紀神話は、古代国家成立の過程て天皇統治を説明するための統一性をもった展開に体 かいぎん 4
四人の天皇のうち、清寧には后妃と子、顕宗・武烈には子がおらず、武烈の皇后も出自不詳 とされる。清寧治世中の記事は希薄て、武烈のそれは暴虐記事て占められている。武烈が暴君 えきせいかくめい とされたのは、不徳の者に代えて徳の高い者を天子に けるという中国の易姓革命的な思想に もとづくものて、継体の王位継承を正当化しようとする政治的な意図が垣間見られる。 飯豊青皇女は巫女 ( シャーマン ) 的な性格を持ち、邪馬台国の卑弥呼や壱与と同様、政治的 混乱を回避する目的て霊的能力に優れた王女が擁立されたケースとみられる。一方、仁賢 ( オ いちのべのおしはのみこ ケ王 ) と顕宗 9 ケ王 ) は雄略に殺害された市辺押磐皇子の子て、父の死後播磨に逃れたが清 寧天皇の時 ( もしくはその没後 ) に発見され、弟・兄の順て即位したとされる。記紀や『播磨 国風土記』にその経緯がドラマチックに語られるが、発見時になお一一人が少年てあったり、内 きしゆりゅうりたん 容が典型的な貴種流離譚 ( 実は折ロ信夫の造語てある ) のかたちを取っているなど不自然な点が 多く、史実としては認めがたい。 仁賢には別にオホシ ( オホス ) という実名があり、雄略のむすめを皇后とし、のちに彼のむ すめたちが継体・安閑・宣化の皇后となっているから、実在の天皇とみてよい。他方、顕宗 は、オケ・ヲケ二王 ( 少年 ) の発見という民間伝承的な物語を踏まえて、一一次的に付加された 架空の人物てあろう。 こうしたことから、雄略死後の王位は、飯豊青皇女ー仁賢の順て継承されたと推測てきる。 っ はりま よ 148
やまと きづがわならやま こよ木津川・那羅山を経て大和 ( 現在の天理市近辺 ) か しかし一方て、彼女の作とする歌謡 ( ー たかみやごせもりわきながら ら葛城の高宮 ( 御所市森脇・名柄近辺 ) に至る古代の交通路が読み込まれていることにも注目し 葛城地方の渡来人の中には、秦氏のように「葛城」氏の滅亡後、山背に移住する者たち からひと が少なからず存在した。古事記にはイハノヒメは山背筒木 ( 筒城 ) の韓人 ( 百済系渡来人 ) 、奴 りのみ 理能美の家に住んだと記す。この事実は、五世紀代の大和国の有力在地上豪てあった「葛城」 氏の勢力が山背まて及んていたことを示唆している。イハノヒメの嫉妬に手を焼く恐妻家の天 皇の姿に、大王家と「葛城」氏の政治的な対抗関係を重ね合わせて見るのは、いささか深読み にすぎるてあろうか 亠甼から武烈 ~ ーー准略没後の王位継承〈巻 + 五清寧・顕宗・仁賢紀 5 巻 + 六武烈紀〉 けんぞうにんけんぶれつ 雄略天皇は四八九年ごろに没した。その後、清寧・顕宗・仁賢・武烈の四天皇が王位を継承 し、武烈の死後跡継ぎが絶えたために、応神の五世孫と伝える継体が即位したとされる。この 間年数にして一一十年足らず。ここから、四天皇の中に実在しない人物や、即位しなかった王族 いいとよのあおのひめみこ のいた疑いが生じる。さらに記紀は清寧と顕宗の間に中継ぎ的なかたちて飯豊青皇女が即 したかのような書き方をしており、のちの時代の史書には、「飯豊天皇」と記すものもある ( ページ系図参照 ) 。 日本書紀の読みどころーー③ 147
教養は万人が身をもって養い創造すべきものであって、一部の専門家の占有物として、ただ一方 的に人々の手もとに配布され伝達されうるものではありません。 しかし、不幸にしてわが国の現状では、教養の重要な養いとなるべき書物は、はとんど講壇から の天下りや単なる解説に終始し、知識技術を真剣に希求する青少年・学生・一般民衆の根本的な疑 問や興味は、け「して十分に答えられ、解きほぐされ、手引きされることがありません。万人の内 奥から発した真正の教養への芽ばえが、こうして放置され、むなしく滅びさる運命にゆだわられているのです。 このことは、中・高校だけで教育をおわる人々の成長をはばんでいるだけでなく、大学に進んだり、インテリと目され たりする人々の精神力の健康さえもむしばみ、わが国の文化の実質をまことに脆弱なものにしています。単なる博識以上 の根強い思索カ・判断力、および確かな技術にささえられた教養を必要とする日本の将来にと 0 て、これは真剣に憂慮さ れなければならない事態であるといわなければなりません。 わたしたちの「講談社現代新書」は、この事態の克服を意図して計画されたものです。これによってわたしたちは、講 壇からの天下りでもなく、単なる解説書でもない、も「ばら万人の魂に生する初発的かっ根本的な問題をとらえ、掘り起 こし、手引きし、しかも最新の知識への展望を万人に確立させる書物を、新しく世の中に送り出したいと念願しています。 わたしたちは、創業以来民衆を対象とする啓蒙の仕事に専心してきた講談社にとって、これこそもっともふさわしい課 題であり、伝統ある出版社としての義務でもあると考えているのです。 一九六四年四月 野間省一 「講談社現代新書」の刊行にあたって