述にたずさわった人物てあり、清人と同じ理由て首親王のもとに侍ったとみてよいのては なかろうか 渡来系の三人はいずれも藤原氏一族とかかわりの深い人物てある。初期の藤原氏は六世 紀半ば・後半以降、朝廷の文筆・記録の任にあたった中・南河内のフミヒト ( フヒト・史 ) 系氏族出身の渡来人や、百済・高句麗の滅亡時に亡命してきた新参の知識人と結び、彼ら いしかわ を私的なプレーンとして活用したが、山田史御方は南河内の石川郡のフミヒトの出身、楽 ほんがん ひらまろ すくね 浪河内も南河内の古市郡を本貫とした亡命百済人の一一世て、子の高丘連 ( 宿禰 ) 比良麻呂 むちまろ は藤原仲麻呂の側近てある。刀利宣令も百済からの亡命者の一族の者て、藤原武智麻呂と やすつぐ 親交のあった大学博士の刀利康嗣はその近親とみられる。 八世紀初頭から前半の国政を指導した藤原不比等は、律令の撰定とあわせてわが国最初 の勅撰の正史てある日本書紀の編纂にも主要な役割を果たした ( 本章 2 「藤原不比等と日本書 紀」参照 ) 。御方・河内・宣令らは、不比等の意を受けて日本書紀の撰修に参ケしたと推測 てきるのてある。 このようにみると、不比等と親しい渡来系の有識者のなかに、さらに日本書紀の撰述に きのむらじはかとこ ふなのむらじおおうお しらいのふひとふじいのむらじひろなり 加わった者がいた可能性がある。①伊吉連博徳、②船連大魚、③白猪史 ( 葛井連 ) 広成 らはとくにその有力な候補者てある。伊吉連・船連の旧姓 ( カバネ ) は白猪史と同じく ふるいち 日本書紀をつくったのは誰か 245
皇とその時代が特別な位置を占め、日本書紀の紀年構成の基礎となる暦日も、雄略紀から げんかれき かしようてん 元嘉暦 ( 百済を経て日本に最初に伝えられた中国暦。南朝宋の何承天の編。日本ては七世紀初頭より使 用 ) によっていることを指摘して、古代人が雄略朝を歴史的な画期として認識していた事 実を明らかにされている ( 岸俊男「画期としての雄略朝」『日本政治社会史研究』上、塙書房 ) 。 じんしん さらに日本書紀安康天皇三年八月壬辰条には、天皇の暗殺について、「天皇、眉輪王の し ことつぶさ 為に殺せまつられたまひぬ」と簡略に述べ、その後に、分注として「辞、具に大泊瀬天皇 みまき の紀に在り」 ( この話の次第は、つぶさに雄略天皇の紀にある ) と記している。この分注は , フつか りすると見落としてしまいそうてあるが、実は重要な意味がそこに隠されている。 安康天皇暗殺の顛末は、分注の一一一口うとおり、雄略即位前紀に詳述されている。しかし本 来それは、安康天皇紀に載せるべきものて、前後が逆てあり、叙述の法としてはきわめて 不自然てある。日本書紀の編修は、巻々によって文字や語法に異なる特徴がみられ、編修 者が分担して別の巻々 ( グループ ) を述作したことが指摘されているが ( 第 6 章 5 「日本書紀 の区分論」参照 ) 、巻十四の雄略紀以降と巻十三の允恭・安康紀以前の間には、文字や語法 などの点て、明確な相違が認められる。森博達氏は書紀区分論の立場から、巻十三の分注 の間題に触れ、これは巻十四が巻十三に先行して書かれたことの証してあるとされた ( 森 博達『日本書紀の謎を解く』中公新書 ) 。 140
著者略歴 古代における「現代史」の幕開け / 壬申紀の語り / 壬申の「功臣」たち / 記録から欠落した功 臣たち / 敗者への「政治的配慮」 / 乱の舞台の広がり / 尾張国司自殺の謎 / 大和の氏族の 動き / 壬申紀の記述と史実の間隙 ◆日本書紀の読みどころー⑤◆ 「改新の詔」をどう読むか / 白村江の戦い / 持統紀の「法」 第 6 章日本書紀をつくったのは誰か 日本書紀に関わった渡来人 ーーー藤原不比等と日本書紀 日本書紀の国内資料 日本書紀と外交資料 0 日本書紀の区分論 日本書紀の「編集方針」とその変容 6 5 4 ろ 2 1 270 244 265 加藤謙吉・遠山美都男
僧尼の罪に対して天皇が大臣を介して裁断を加えようとした。しかるに渡来僧の観勒が 意見を陳べてそれを抑えた。仏教界には俗世の法を適用させてはならないとする彼の意向 が通ったのだ。しかし、天皇は僧尼を統制する組織を作らせることだけは成功した。 この記事から、天皇が仏教に対して俗権を行使する立場になかったことがわかる。仏教 界には新しい統制組織がてきたのだが、それは大臣と観勒の連携と話し合いのもとて作ら れた。僧正・僧都・法頭に任命された者たちの顔ぶれを見れば、蘇我氏と強いつながりを 持つ者たちてあることが明らかだからてある。さらにいうと、この話の主体が天皇のよう になっているのは書紀編者の造作てある疑いもある。僧尼の事件に俗権を及ばすことがて きたのは、実は蘇我大臣だったと推測てきるからてある。 話を元に戻そう。推古天皇の仏教興隆に関する詔が明記されている主な条文は、「三宝 さか を興し隆えしむ」とする推古紀二年二月条の記事ということになる。従来は「三宝」とい う十七条憲法に出てくる同じ語句の存在ともあいまって、推古天皇の仏教興隆策に関わる 中心的な詔文という評価を与えられてきた文章てある。 しかし私は、この詔には二つの重大な疑問があると思う。 一つは、天皇の詔は「皇太子及び大臣」のみを対象に発布されたものて、広く天下に披 露されたものてはないということてある。 の 174
か。後世並び称せられるようになったからといって、成立も同時だったとは即断てきない だろう。さらに、帝紀が「皇位継承の次第」を軸にした「歴代天皇の系譜」ぞあり、他方 ごっこと、う定義自体も見直す必要があ 旧辞が「諸氏族に伝えられた神話・物語の類い」オナし るのてはないか。 ひえだのあれ そのようにいうのは、古事記序文によれば、古事記とは、天武天皇が確定し、稗田阿礼 おおのやすまろ によって暗唱された帝紀・旧辞のうちの旧辞部分 ( 勅語旧辞 ) のみを太安万侶が筆録した 作品だからてある。古事記の叙述に帝紀の内容は反映されていないことになる。 だが、古事記に「皇位継承の次第」がまったく語られていないとは考えがたい。 とすれば、旧辞というのは「諸氏族に伝えられた神話・物語の類い」という括りては収ま り切らない内容をもった書物だったことになろう。旧辞も「皇位継承の次第」や「歴代天 皇の系譜」に言及するところがあったと考えねばならない。 現行の古事記があくまても旧辞をもとに編まれた本だったのに対し、日本書紀には帝紀 の内容が大量に引き継がれている可能性がある。日本書紀は七二〇年 ( 養老四 ) に完成奏 上された時に「系図一巻」が付載されていたというから、あるいはこれが帝紀の主題や構 ( 遠山美都男 ) 成を直接吸収して成った一書てあったとも考えられよう。 日本書紀をつくったのは誰か 2 5 5
時点て、初めてトモとして負うべきウジ名が成立するのてある。平獲居臣や无利弖は、武 蔵や肥後の首長、もしくはその一族の有力者とみられる人物てある。彼らがウジを名乗 政治的な地位を確立する時期は、むしろ六世紀代とみたほうが自然てあろう。 大伴氏と物部氏ーー・雄略王権のニ大軍事伴造 ワカタケル大王のもとて、まずウジを形成したのは中央の豪族層てあった。ワカタケル が抗争に勝利を収めることがてきた最大の要因は、精強な私兵を配下に擁していたことに : 、即位後は専制君主体制を樹立するために、この私兵組織を発展的に解消し、王権 直属の軍事組織 ( トモの組織 ) に再編成することが急務とされた。そのためワカタケル麾下 の有力な豪族・武将たちが、分掌的に軍事的トモを率いる伴造職に就き、職務の固定化に ともなって、最初にウジを名乗るようになったと田 5 われるのてある。 おおとももののべ その代表的な存在が、大伴・物部の両氏てあるが ( 後述するように、大伴・物部のウジ名自体 かっし は二次的なものて、最初は別のウジを名乗っていたと推測される ) 、雄略即位前紀十一月甲子条には 次のような記述が見える。 天皇 ( 雄略 ) は、有司 ( 官吏・役人 ) に命じてタカ、こクラ ( 天皇即位のための玉座 ) を泊瀬 はっせ 124
あまたさときこ つらなれるゆみ 数十里に聞ゅ。列弩乱れ発ちて、矢の下るこど雨の如し。 いかにも語調の整った漢文てあり、大友皇子方に大軍が結集していたかのようぞある。 しかし、この文章にはじつは〃下敷きみがあった。 はやく江戸時代の文化三年 ( 一八〇六 ) 頃に成立した日本書紀の注釈書てある『書紀集 解』においてすてに指摘されているのてあるが、右の くだりは、中国の歴史書てある『後 かんじよ 漢書』光武帝紀上に、 あいじん しようほう 旗幟野を蔽ひ、埃塵天に連なり、鉦鼓の声数百里に聞ゅ。或いは地道を為り、衝翰も せきど て城を橦く。積弩乱発し、矢の下るこど雨の如し。 とある箇所と非常に文章が似ている。 書紀の編者は、すてに渡来していた『後漢書』を直接参照し、この部分を筆述したのて ある。つまりこの部分は、中国の古典を下敷きにした表現ということになる。書紀にはこ の二はか . に、 漢籍や仏典の文章や語旬を取り入れ たり、影響を受けたと認められる箇所が 少なくない ( 小島憲之『上代日本文学と中国文学』上、塙書房 ) 。 っ おほ しつ 壬申の乱と「壬申紀」のあいだ 211
生まれつき持っていたとされる超人的な能力を賛美したものて、仏教の呪術的現世利益的 な捉え方にほかならない。先にも述べたように、太子創立の確実な寺院としては斑鳩寺し 力ない 。しかもこの寺は上宮王家すなわち太子一族の利益を期して造営された寺院てある にすぎない。太子の仏教理解が鎮護国家思想の域にまて達していたとか、釈迦の教義の普 遍的哲学的なレベルのものに高まっていたか否かについては、書紀編者の虚構と考えら れ、否定的たらざるをえないのてある。 「聖」としての厩戸皇子 こよ、太子が超人的な聖人てあったこ 太子の人物像について書紀の記すさまざまな伝記 ( ー うまのつかさ とを強調する記述が目立つ。生まれた場所が馬官てキリストの誕生に擬定されていると する説があるほか、生まれながらにしてすぐ口を開いたとか、子どもなのに聖智を備えて いたとか、成人してからは一度に十人の訴えをすべて同時に弁じることがてきたとか、さ らには未来のことを予言・予知する能力に長じていた、といった類の超能力てある ( 推古 ゅぎよう 即位前紀 ) 。さらに、推古紀一一十一年十一一月条に載せるかの片岡山遊行伝説ては、道路の傍 ひじり らに倒れ臥していた飢者が聖人てあることを見抜いた太子を、「聖の聖を知ること、其れ ひじり まこと 実なるかな」と評し、太子が特別な能力を備えた「真人」てあると称賛している。「真人」 ふ 「飛鳥仏教史」を読み直す 181
ものも天武朝以後に行われたとする新説まて飛び出している ( 森博達『日本書紀の謎を解く』 中公新書 ) 。 このように、憲法十七条を推古朝のものとすることにはさまざまな問題があると考えな け・れよた ? らよ、。 ては、大和王権において仏教はどのように受容され、「正教」として興 隆することになったのか。各天皇紀の関連記事を読み直すことによって、日本書紀の編者 によって創り上げられた飛鳥仏教興隆史のイメージを再検討してみよう。 さだ 「朕、自ら決むまじ」ーー欽明王権の対仏教政策 じようぐうしようとくほうおうたいせつ がんごうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう 仏教が伝来したのは、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起井流記資財帳』な きんめい くでん どの伝記によれば欽明七年 ( 五三八 ) 。一方、日本書紀は欽明十三年 ( 五五一 I) 十月に公伝記 事を載せており、 いずれが事実てあるのかがはっきりしない。 しかし本論はその年次を問 題にする場ぞはないのて、欽明朝に伝来したことを前提にすることとする。 くだら しやかみほとけのかねのみかたひとはしらはたきぬがさそこらきゃうろんそこらのまき さて、百済からもたらされた「釈迦仏金銅像一驅、幡蓋若干、経論若干巻」を前 にした欽明天皇の様子を、圭日紀は次のように伝えている。 この日、天皇は聞き終わって大いに喜ばれ、百済の使者に次のようにいわれた。 158
目部をこの地に配置したのはそのためだと推察されるのてある ( 直木孝次郎「葛城氏とヤマト 政権と天皇」『古文化論叢』藤沢一夫先生古稀記念論集刊行会 ) 。 おそらく直木氏の説かれる通りてあろう。古事記は、日本書紀と違い 一言主神を雄略 を完全に屈服させた大神として描いている。「葛城」氏の勢威を象徴する神とみなすこと がてきるが、「葛城」氏との抗争の過程て、雄略は軍事的境界線をなすこの地に自らの私 兵の精鋭部隊を配置したのてあろう。それが大伴氏とその子飼いの戦闘集団てあった。彼 らは抗争終結後も、戦略的な意図からこの地に止め置かれ、子飼いの集団は雄略の王権に 奉仕する軍事的なトモ ( 来目部 ) に再編成されることになるのてある。 「大伴」のウジ名は、前述のように、多くの軍事的トモを配下に擁したことにもとづく名 てあった。しかし最初から多数のトモを従えていたわけてはない。 靫負の組織に西国の豪 族出身者が加わる時期は、国造制が施行される六世紀以降とみられ、佐伯部も蝦夷が含 まれることから、成立は新しいと思われる。 門号氏族による守門の制も、大王宮の規模の 拡大に伴って整備されたとみなければならない。 したがって「大伴」に先立って、この氏 は最初に管掌した軍事的トモにちなむウジ名を負っていたはずてある。おそらくそれは 「来目」と推断してよいてあろう。 やかもち 『万葉集』巻十八に掲げる大伴家持の長歌 ( 「陸奥国より金を出せる詔書をく歌」 ) には、「大 くにのみやっこ くがねいだ い 2