推古 - みる会図書館


検索対象: 日本書紀の読み方
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1. 日本書紀の読み方

ヤマトタケルはその本名からすればまだ幼い男児というのがその本性といえよう。そのせい ろうか、彼については腕力は滅法強いが人間としての未熟 ( 幼児性 ) を物語るエピソードが目 立つ。彼は敵に対し情け容赦がなく、とくに神々への敬意を少しも持ち合わせていない。彼が はしりみ于・ 最愛のオトタチバナヒメ ( 弟橘媛 ) を走水 ( 浦賀水道 ) て失なったのは海神を畏れ敬わなかっ たためてあり、彼が凱旋を果たしながらヤマトを目前に三十歳の若さぞ没したのも、伊吹山の ぐろう 神に勝負を挑み、神を愚弄した結果だった。神を神とも思わぬこの性格がその遺児、仲哀天皇 に引き継がれたとは何とも皮肉な話だ。 神功皇后紀の奇妙さにこて〈巻九神功皇后紀〉 し′」う じんぐうこう′」う 、い、「神功皇后」の諡号が有名だ。仲 仲哀天皇の皇后はオキナガタラシヒメ ( 気長足姫 ) とし くまそ おもむ 哀は彼女を同行し、熊襲征伐のために九州に赴く。しかし、彼は「金銀財宝に満ちた国、新羅 をあたえよう」という神の託宣を無視したばかりか誹謗したために急死を遂げてしまう。その とき神功皇后は出産の時期にあたっていたが、神に祈願して出産を遅らせ、神託にしたがい新 おうじん 羅平定を果たす。凱旋後、彼女は筑紫ぞ皇子を生んだ。これが応神天皇だ。 ところて日本書紀三十巻は、巻一・巻一一 ( 神代紀上下 ) を除いて天皇を中心に巻が構成され ているが、巻九神功皇后紀だけが天皇てはない神功皇后を中心に立てられている。このことは ひぼう 日本書紀の読みどころーー② 9. 9

2. 日本書紀の読み方

ネコ・ヒコのネコもヒコもともに王・首長の称号て、それが重ねられることによって、その支 酉オかハワーアップされていることが示されているようだ。要するに、「欠史八代」の名前の 上部は、天皇のヤマトへの支配が段階を追って徐々に 、だが確実に拡大・浸透していった時間 的経過を物語ろうとしたものてあることがわかる。 名前に探るヤマトタケルの人間性〈巻七景行・成務紀〉 日本書紀巻七 ( 景行・成務紀 ) の中て主役てある天皇を凌ぐ精彩を放つのが、景行の皇子ヤマ トタケルノミコト ( 日本武尊 ) てあることは誰の目にも明らかたろう。ヤマトタケルとは、彼 くまそ しゆかい が討ち取った熊襲 ( 九州南部の在地勢力 ) の首魁カハカミノタケル ( 川上梟帥 ) が奉った名前て、 もとの名はラウスノミコトト ( ′碓尊 ) またはヤマトラグナ ( 日本童男 ) といった。 ヤマトタケルは「ヤマト ( 狭義には奈良盆地、広義には日本列島を指す ) の猛々しき者」とい う意味の普通名詞だ。この名前があらわしているのは、天皇の命を受け東に西にと転戦した大 勢の名もなき武人たちの姿てある。その名は日本書紀が描く征戦に東奔西走するヤマトタケル の姿とびったり符合する。彼は身長が一丈 ( 約三メートル ) もある偉丈夫だったという。 それに対し、ヲウスの名は双子の兄オホウス ( 大碓 ) と一対のものだが、民俗行事ては碓は 出産や乳児と関わり深いものだ。ヤマトヲグナのヲグナは男児・少年を意味するようだから、

3. 日本書紀の読み方

あんねい 安寧シキッヒコ・タマテミ ( もとはタマッミて、実体不詳の精霊 ) すき 懿徳オホヤマトヒコ・スキトモ ( もとはスキッミて、鋤に宿る精霊。土地の生産力の神格化か ) こうしよう 孝昭ミマッヒコ・カヱシネ ( 稲の精霊か ) こうあん 孝安ヤマトタラシヒコ・クニオシヒト ( 大地を押し寄せて国上を造成した神 ) ′」うれい 孝霊オホヤマトネコ・ヒコ・フトニ ( 神聖なる精霊、実体不詳 ) こうげん 孝元オホヤマトネコ・ヒコ・クニクル ( 細長い土地を手繰り寄せ国土を造成した神 ) 開化ワカヤマトネコ・ヒコ・オホヒヒ ( 偉大なる精霊だが、実体は不詳 ) つぎに名前の上部に着目すると、綏靖のカム ( 神々しいの意 ) と孝昭のミマッヒコ ( 貴人の末 裔の意 ) を除けば、「シキッヒコ↓オホヤマトヒコ↓ヤマトタラシヒコ↓オホ ( ワカ ) ヤマトネ コ・ヒコ」とい - フ変遷をたどることがぞきる。 シキッヒコは「ヤマトの磯城地方の王」のこと。オホヤマトヒコ、ヤマトタラシヒコ、オホ ( ワカ ) ヤマトネコ・ヒコは、いずれもヤマト ( 奈良盆地 ) の支配者の称号だが、意味する内容 けいこうせいむちゅうあい が微妙に異なる。タラシヒコは、「欠史八代」に続く崇神・垂仁のあとの景行・成務・仲哀・ じんぐう 神功の四代にヤマトを冠さないタラシヒコ ( ヒメ ) の例がある。これは奈良盆地よりも広汎な 地域を支配する王の称号らしいから、ヤマトタラシヒコは、その前のシキッヒコやオホヤマト ヒコよりも強力にヤマトを支配している王ということなのだろう。つぎのオホ ( ワカ ) ヤマト まっ 日本書紀の読みどころーー フ′ 9.

4. 日本書紀の読み方

神の子孫の意だろう ) なのてある。そもそも、日本書紀の本文ては高天原という世界・概念が 登場しない。 日本書紀のなかの天神とはいったいどのような神なのか、古事記のように鮮明と ーしんないのてある。 また、ヤマト ( 奈良盆地 ) に入ろうとした神武に最後まて抵抗したナガスネヒコ ( 長髄彦 ) は、「ニギハヤヒノミコト ( 饒速日命 ) という天神の子がすてに天下っておられる。いったい、 天神の子には二種類あるのか ? 」といったという 。古事記ては神武は「天神御子」 ( 天神として の御子 ) すなわち天神そのものとされており、「天神之御子」 ( 天神のむすこ ) とはっきり区別さ れている。これと較べると、日本書紀のなかの神武はやや権威や重みに欠けるといわざるをえ 「人史八代」ーーーー天台亠創 ) のカラクリ・〈巻四綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化紀〉 すじん すいぜいかいか 初代神武と第十代崇神との間の八代 ( 綏靖ー開化 ) は「欠史八代」とよばれ、実在性の乏し い天皇とされている。それはその名前の造作性からも明らかだ。とくに名前の下部はいずれも 元来、神または精霊の名前として語り伝えられたものて ( 左記の括弧内を参照のこと ) 、それら を天皇の名前の一部に採用したわけだ。 綏靖カム・スナカハミミ ( 神聖な河の精霊 )

5. 日本書紀の読み方

◆日本書紀の読みどころー・②◆神武紀 5 神功皇后紀 : 又ーとは可か ? 初代天皇神武の正体〈巻三神武紀〉 等こト じんむ 初代天皇てある神武は、アマテラスオホミカミ ( 天照大神 ) のむすこてあるマサカアカッカ チハヤヒノアメノオシホミミノミコト ( 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 ) とタカミムスヒノミコト ( 高皇産霊尊 ) のむすめタクハタチヂヒメ ( 栲幡千々姫 ) との間に生まれたアマッヒコヒコホノ ニニギノミコト ( 天津彦彦火瓊瓊杵尊。以下ホノニニギと略す ) の孫にあたるヒコナギサタケウ ガヤフキアへズノミコト ( 彦波瀲武齲草葺不合尊 ) の第四子とされている。そして、神武の母 親と父方の祖母はいすれも海神のむすめて、父方の曾祖母 ( ホノニニギの妻 ) はコノハナノサ クャヒメ ( 木花開耶姫 ) といって、山々を支配する神のむすめだった。神武にはあらゆる神々 の血脈が流れていたことになる。 たかまがはら ところて、神武の父系はいったい何という神の血筋なのだろうか。古事記ては高天原に君臨 あまっかみ 、。申武己によれ する天神ということて問題はないのたか、日本書紀はそうは単屯こ、、 不 - ( ( 、刀た 6 し 4 ↑一不 ば、タカミムスヒノミコトと、アマテラスの別名てあるオホヒルメノミコト ( 大日宴尊 ) の二 とよあしはらのみずほのくに 神が「我が天神」とされ、両神によって豊葦原瑞穂国を授けられ、そこに降臨した先のホノニ みこ あまつみおや ニギは「我が天祖」とよばれている。神武はといえば、彼は「天神の子」または「天孫」 ( 天 ・遠山美都男 日本書紀の読みどころーー H ② 9.

6. 日本書紀の読み方

貫く主題や構想、さらにはそのような物語を必要とした時代を真摯に研究しようとする者 にとって、それは限りない情報の宝庫なのてある。 【文献案内】 神野志隆光「古事記と日本書紀」講談社現代新書、一九九九 記紀の「天皇神話」をそれぞれ日本人がどのように受容してきたかを論じた好著。日本書紀の 描く「歴史像」を考えるうえても参考になる。 吉村武彦「古代天皇の誕生」角川選書、一九九八 卑弥呼から天武天皇まて、「倭国王」が中国から自立して「天皇」となり「日本」という国号 を獲得するまてのプロセスを解説する。古代王権史の入門書として最適。 白石太一郎「古墳とヤマト政権」文春新書、一九九九 邪馬台国の時代から六世紀まて、古墳や古墳群の消長を通して古代国家の成り立ちを平易に説 き明かす好著。 前之園亮一「古代王朝交替説批判」吉川弘文館、一九八六 王朝交替が古代貴族の歴史認識の産物てあることを大胆に論じた労作。神武天皇や欠史八代な 六世紀以前の古代史を考えるうえて必読といえる。

7. 日本書紀の読み方

崇神の名前、ミマキイリヒコイニヱは何となく古めかしいのて、気の遠くなるような長 い長い年月、ロ承によって語り伝えられてきた実在の王の名前のように見える。ご、、 : のように分解し、その語意を考えると、その名は実在性に乏しく、造作された疑いが濃厚 といえよう。それはあたかも、「崇神紀」のキイワードを羅列したかのようだ。 : といった歴代天皇 神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神 : おうみのみふね かんぶうしごう の漢風諡号は、奈良時代の半ば過ぎ頃、淡海三船が歴代天皇の事績やキャラクターを考慮 して、それに即応する熟語を漢籍からえらんていったといわれるが、崇神を初めとした初 期天皇の趾在の名前 ( いわゆる国風諡号 ) も、ほば同様に造作された可能性が大きい。歴代 の天皇の事績や個性を語るエビソードが先にありきて、それに見合った名前が後になって 考案されたことになる。「名は体をあらわす」てはなく、「名は体によって作られる」とい 崇神が「ハックニシラス天皇」とよばれているからといって、実在最初の天皇だったと また、「崇神紀」に見える物語の内容や崇神自身の名前などからいって は考えられない。 も、彼を実在の人物と考えることは不可能てある。この章ては、そのことを述べた 最後にいいたいのは、「崇神紀」は、そのなかに史実の断片を発見しようと腕まくりし、 ーやそれを 匪急に読むべきものてはないということだ。「崇神紀」とその前後のストーリ 「崇神紀」の読み方 崇神天皇は実在したか ? 9.

8. 日本書紀の読み方

ソヒメの託宣によって、疫病蔓延の理由を突き止め、天下に静謐をもたらした崇神を指 し、イリヒコとよんだ可能性はゼロてはないだろう。少なくとも、「崇神紀」のなかてイ リヒコと称するのに相応しい者は他にいないと田 5 われる。 最後にイニヱてあるが、残念ながら、その原義は不詳だ。語感として最も近いのは、神 や天皇に捧げる聖なる食物を意味するニへ ( 贄 ) だろう。「崇神紀」には、天皇が神々を 祭り始めるにあたって、神地・神戸などを献上したとあり、たびたび神々に幣帛が捧げら れているから、ある、い・は、そのような神々への献上品を総称してイニヱとよんだと考えら れないだろうか このように考えると、ミマキイリヒコイニヱという崇神の名前は、「崇神紀」の叙述を 構成する主たるエピソードに由来する語彙より成り立っていたことになる。これを要約す れば、つぎのとおりだ。 ミマキ ( 貴人の末裔の墳墓 ) 箸墓の物語 ィリヒコ ( シャーマンとしての貴人男性 ) ↓神々の託宣物語 イニヱ ( 神・天皇へ献上する聖なる食物 ) ↓神々への奉献物語 へいは′、

9. 日本書紀の読み方

を招来したという崇神の時代を象徴する記念物だったといっても過言てはないだろう。 ほかならぬ「出小申己こ己 箸墓が造営された話が、 ネ糸」 ( 酉置されているのはいったいどうして だろうか。それはおそらく、三輪山の麓にあるこの巨大な古墳 ( 全長二百八十メートル ) が 三輪山に関係のある貴人の墓に違いないと考えられていたことに関係がありそうだ。すな わち、のちにミマキイリヒコイニヱと命名されることになる王、崇神が三輪山の神オホモ ノスシを初めて祭ったとされたことから、古墳が造られたのはこの時代てあり、古墳の主 ( 被葬者 ) もこの王の近親者だったに相違ない、と考えられるようになったのてはないか。 あるいは当初は、その王自身の墓が箸墓と見なされていたかもしれない。 つぎにイリヒコぞあるが、イリヒコ・イリヒメの名をもつ者は崇神・垂仁の時代に多 く、またヨリヒメという類例も存在する。ィリやヨリは神や霊魂などが「体のなかに入 る」「盟り付く」といった意味のことばてあると田 5 われる。したがって、イリヒコとは 「盟依による霊媒の能力をもった高貴な男匪」という意味になるだろう。これは、いわゆ るシャーマンてある。女性のシャーマンを巫、男性のシャーマンを覡といった。古来、 「神懸かり」したのは女性だけてはなかったのだ。 だが、「崇神紀」を読んても、崇神を初めとして男性が神に憑依されて何事かを語った という話は見えない。 しかしオホモノヌシという偉大な神に憑依されたヤマトトトビモモ 崇神大皇は実在したか ? ーー「崇神紀」の読み方

10. 日本書紀の読み方

②天皇がヤマトを軍事的に平定 ( 神武東征 ) ③天皇がヤマトを宗教的に平定 ( 欠史八代の聖婚、崇神によるヤマトの有力神の祭祀など ) ④天皇が葦原中国を宗教的に平定 ( 四道将軍、神宝献上など ) ②↓③↓①↓④という展開が現実的には最もありえそうな話だが、日本書紀てはそのよ うになっていないのが興味架いてよよ、、。 ーオし力したがって四道将軍の物語というのは、実際 にある時期、特定の地方に向けて将軍が派遣されたことがあり、その事実が長い年月をか けて伝承された結品体などてはありえない それは、この物語が高天原による葦原中国平 定という「国譲り」神話を起点に、その延長線上て語られていることからも明らかといえ る」ろ - フ ミマキイリヒコイニヱの正体が見えた 以上見てきたように、崇神による祭祀の創始も、また四道将軍の派遣も、いずれも歴史 的事実を伝えているとは到底考えられす、それこそ天孫降臨を初めとした神代の物語から ひと′」ま 一貫するストーリーの一齣てあり、その不可欠の構成要素だったのてある。「崇申 ↑市」、刀 描く天皇の事績、その時代の出来事などから崇神の実在を確認することはてきないといっ 0 崇神人阜は実在したか ? 「崇神紀」の読み方 -8