天皇の人徳をもっても治めがたく、 天皇は早朝から深夜まて畏れ慎み、ひたすら天神地祇 におのれの罪を謝したという。 これ以前のことてある。天皇はアマテラスオホミカミ ( 天照大神 ) とヤマトノオホクニ タマノカミ ( 倭大国魂神 ) をその居所のなかて祭っていた。アマテラスオホミカミは天皇家 の祖先神とされる日 ( 太陽 ) の神てあり、ヤマトノオホクニタマノカミとはヤマトの地霊、 土着の神ごっこ。 ともに住まうことを决く田 5 わなかった。そこてアマテ だが、神々は互いの威勢を嫌い やまとかさぬいむら ラスオホミカミにはトヨスキイリヒメノミコト ( 豊鍬入姫命 ) を付けて倭の笠縫邑に祭ら せ、またオホクニタマノカミにはヌナキイリヒメノミコト ( 渟名城入姫命 ) を付けて祭らせ とてもオホ た。しかし、ヌナキイリヒメのほうは髪が抜け落ち、体も痩せ細ってしまい クニタマノカミを祭るどころてはなくなってしまう。これは、やがて来る疫病流行の「前 」というべき出来事だっこ。 そこて、崇神天皇は疫病がおさまらない原因について神意を間うことになる。日本書紀 しんぼう 崇神七年一一月辛卯条を見てみよう。 やそよろず かんあさじはら 天皇は神浅茅原に行幸し、八十万の神々を集めて占った。その時、ある神がヤマトト
とは何か ? ) や〈古代国家〉 ( かれらが構築した国家とは何か ? ) がその叙述を通じて描 き出されているのてあって、それをどのように読み解くかを私たちに迫っているといえよ う。このような解読を放棄して、事実の詮索や抽出のみに終始するのはつまらないし、非 常にもったいないことてはなかろ - フか 日本書紀が「崇神紀」を通じて、いかなる〈古代〉ゃいかなる〈古代国家〉を描き出そ うと企てていたのか。私たちは、つぎにこれを問題とせざるをえない。「崇神紀」を読む へんりん にあたり、どれが事実てどれがそうてはないか、どの部分に事実の片鱗が隠されている か、さしあたり、そのような関心は不要だろう。 ヤマトの神々を祭るということ 百歩譲って ( 本当は譲れないが ) 、崇神が実在最初の天皇だったとするならば、「崇神 糸」が描き出す崇神の事績またはその時代の出来事に何らかの史実が反映しているといえ るのだろうか。「崇神紀」は崇神の時代をいったいどのように描いているのだろうか ます、崇神五年 ( 日本書紀ては紀元前九三年とされる ) のことてある。国中に疫病が蔓 延、民の半数近くが死ぬという事態が起きる。翌年になると、多くの民が生業や居所を失 各地を転々とするようになり、なかには朝廷に背く者まてあらわれた。その勢いは 崇神天皇は実在したか ? ーー・ - 「崇神紀」の読み方
実在の初代天皇だったわけてはないのてある。 それにも拘わらず、崇神を実在の初代天皇と見なす言説は、絶え間なく流れる地下水脈 いまだに唱えられているというのが現状てある。それにしても疑問なのは、鉄 剣銘文の分析から日本書紀などに見える崇神をめぐる伝承が五世紀後半には成立していた と慎重に述べながら、崇神が実在した可能性を示唆する研究者が少なくないことだ。 それはやはり、伝承の成立と伝承の主人公の実在とを明確に分けて考える認識が弱いた めてはないか、と思わざるをえない。 歴史研究者は良質の史料をえらび出し、そこから確 かな歴史的事実を探り出すことを基本的な手法にしてきた。そのため、日本書紀をあくま ても史料として読み込もうとする時、その記述内容が事実か否か、そして、もし歴史的事 実とは考えられないにせよ、そこに何らかの事実の反映がみとめられるのてはないか、と いう追究にこだわりすぎたことは否定てきない。 日本書紀という書物は、個々の事実確定のもとになった資料 ( 原資料 ) をわれわれに一 切示すことなく、すてに確定された厖大な事実を整然と並べ立て、そこに確固たる「歴史 像」を呈示しているのだ。事実の当否を詮議することも必要だが、一個一個の事実を積み 上げてどのような「歴史像」を構築しようとしているのかを見定めることも肝要てある。 日本書紀は、古代律令制国家を作った人びとにとっての〈古代〉 ( かれらにとって歴史
吉村氏は、日本書紀が神武の「クニ」を「天下」、崇神の「クニ」を「国」というよう に、明確に書き分けていることに着目している。「天下」のほうが「国」よりも広い空 間・領域をあらわす概念てあるから、歴史的に先行する神武の「クニ」のほうが崇神の 。だが、「クニ」を「天下」と「国」に書き分け 「クニ」よりも広いのはおかしいとい - フ のは日本書紀の書き手なのぞあって、それはあくまてもかれらの解釈の結果にすぎないだ ろ - フ ごだ、日本書紀が神武の「クニ」と崇神の「クニ」とのあいたに質的な違いがあると認 、。申武の支配した「クニ」とは、詳しくは後述するよう 識していたことは見のかせなしネ一 せいぜい神武が即位した橿原とその周辺のことだろう。それに対し崇神が支配する 「クニ」とは、神武の支配した「クニ」よりも広い領域、すなわち橿原をふくむヤマトと その周辺を指したのてはないか、と見ることがてきる ( 拙著「天皇誕生ー日本書紀が描いた王 朝交替』中公新書 ) 。 「崇神紀」をどう読むか 以上述べたように、神武とともに崇神を初代天皇と見なすのは、あくまても王権発達史 、神武が架空の天皇の初代とされたのに対し、崇神が のなかての位置づけだったのてあり 0 崇神天皇は実在したか ? ーーー「崇神紀」の読み方
伝承の存在を想定する必要がある。『初代の天皇』と位置づけられたのは、それまての王 権と区別されるか、何らかの画期があったからてあろう」 吉村氏は神武の実在を信じることはてきず、彼が初代天皇とされたのは王統譜を作成す る最終段階だろうとする。それに対し崇神は、彼を初代天皇とする伝承が早くから存在し たか、あるいは、そのような評イ 面を生み出すような何らかの実質があったのてはないか、 と見なすわけぞある。ここて間題になるのは後者の考えてあり、これを突き詰めてい ( ば、崇神は実在の人物だったことになる。 この考えによれば、鉄剣銘文にオホヒコの名があったのだから、オホヒコの伝承ばかり か、オホヒコの実在まてが想定されるようになり、果てはオホヒコを将軍に任じた崇神の 実在、さらには崇神こそ正真正銘「ハックニシラス天皇」オオオ ごっこのごという意見があらわ れるのは、ある意味て自然の成り行きだったといえよう。 神武と崇神というように二人の「ハックニシラス天皇」の存在が伝えられている間題 ( 関しては、吉村氏のように、神武を架空の人物、崇神を実在の人物というように考えるだ けが、矛盾解決の唯一絶対の方法てはないだろう。神武・崇神ともに架空の天皇てあり、 王権の発達史という時系列のなかて、それぞれ異なるレヴェルの領域の最初の統治者と見 なされていた、と解することも決して不可能ぞはないからだ。
たなすえのみつき ゅはずのみつき 始めて人口調査を行なって、改めて調役を科した。これを男の弭調、女の手末調 あまっかみくにつかみ た。これにより、天神も地祇も共に和らいて、風雨は順調て、多くの穀物が実 った。家々には物が満ちあふれ、人々は満足し、まさに天下泰平てあった。そこて、 天皇を称えて御肇国天皇ど申し上げたのてある。 「御肇国天皇」とは、「肇国 ( 国の初め ) を御した ( 支配した ) 天皇」という意味て、やはり 「ハックニシラス天皇」ということになる。ちなみに古事記ては、神武は「ハックニシラ ス天皇」とよばれていないが、崇神のほうは「初国知らしし御真木天皇」 ( 御真木は崇神の 名ミマキイリヒコイニヱのミマキ ) と記されている 初代天皇が二人もいるのは明らかな矛盾てある。この間題に関して、上記の吉村氏はっ ぎのように述べる ( 前掲書 ) 「なぜ二人の天皇が『初代の天皇』と書かれるのてあろうか。この神武と崇神の間に、旧 辞による記述が欠落した『闕史八代』といわれる八人の天皇がいる。この八人は実在した 、コしコしにお み、れはし」カ′ しかも、神武実在説も採用てきない。 可能陸はほとんどない。 いて、一〇人目の天皇が『はつくにしらすすめらみこと』とされたことは、おおきな矛盾 てある。この矛盾を解消するには、崇神が大和王権の初代の王てあったとする、何らかの 0 0 「崇神紀」の読み方 崇神天皇は実在したか ? 9. 6
初の天皇てはないかと見なされていたからだ。 それは、崇神が初代天皇とされる神武とともに初代天皇を意味する「ハックニシラス天 皇」の名てよばれていたからてあった。ます、神武に関しては日本書紀神武紀 ( 辛酉年正 月庚辰朔条 ) につぎのように見える。 かしはらのみや 天皇は橿原宮て帝位に就いた。この年を天皇の元年どした。正妃を尊んて皇后どし た。皇后は皇子力ムャヰノミコト ( 神八井命 ) どカムヌナカハ、こミノ、こコト ( 神渟名川 うねび 耳尊 ) を生んだ。ゆえにこれを古語により称えて、「畝傍の橿原において、宮柱を大 たかまがはらちぎ 地の底の岩にしつかりど立て、高天原に千ネを高々ど立てて、始めて天下を馭した ( 支配した ) 天皇」ど申し上げ、カムヤマトイハレヒコホホデミ ( 神日本磐余彦火火出見 ) 天皇どおよび申し上げたのてある。 文中の「始めて天下を馭した天皇」 ( 原文は「始馭天下之天皇」 ) は、「ハックニシラス天皇」 きちゅう とよむことがてきる。つぎに崇神てあるが、日本書紀崇神十二年九月己丑条はつぎのよう に」コし亠 ・ 6
一族固有の系譜てあり、この部分には実在の人物が記されている ( 溝ロ睦子『日本古代氏族系 譜の成立』学習院大学 / 義江明子「日本古代の氏の構造』吉川弘文館など ) 。 鉄剣銘文ていえば、「オホヒコータカリノスク、み」と「テョカリワケータカハシワケー タサキワケ」が共同祖先系譜にあたり、「ハテヒーカサハーラワケ」がこの一族自体の固 共同祖先系譜には、他の氏 有の系譜てあり、この三人が実在の人物と考えられるわけだ。 族系譜と同様に、始祖を意味する称号「ヒコ」「スクネ」や「ワケ」のようなこの一族の 同族グループに固有の称号が配置される。 したがって、鉄剣銘文に見える系譜研究の成果からすれば、オホヒコが実在てあるか否 、刀わない」は、し」し」ロ 門題にならないはずなのてある。オホヒコからタサキワケまての五名 が架空の人物だったことは明らかといわねばならない。 神武と崇神とーーーニ人の「ハックニシラス天皇」 このように、オホヒコが実在の人物とはとても考えられないのてあるが、それにも拘わ らず、伝承が存在したのならば伝承の主人公が実在した可能性もあったはずてあるとし て、オホヒコの実在を想定する意見もある。さらに、オホヒコを将軍に任命したという崇 神天皇が実在したと考える人も少なくない。 それというのも、崇神はもともと実在した最 かか 崇神大皇は実在したか ? 「崇神紀」の読み方
するに、オホヒコが実在したとは決していえないのてあるが、日本書紀に見えるようなオ ホヒコ伝承がすぞに早く五世紀後半段階て成立していた可能性は大きいというわけだ。 しかし、五世紀後半の段階て日本書紀に見られるようなオホヒコ伝承がすてに出来上が っていたとは考えがたいてあろう。オホヒコという名前は、貴人の男性を意味する尊称ヒ コに美称オホを冠しただけのシンプルなものてあって、一族の始祖名として極めて一般的 なものぞある。 塚ロ義信氏は、三世紀後半から四世紀代にかけて大和朝廷の先兵となって各地を転戦し た武将をモデルにして、五世紀後半にはオホヒコ伝承の原型が成立していたが、後にそれ に潤色・改変が加えられ、やがて日本書紀の四道将軍の伝承に定着していったのてはない かとする ( 「初期大和政権とオオビコの伝承ー稲荷山古墳出土鉄剣銘の『意冨比境』私見」横田健一編 『日本書紀研究』第十四冊、塙書房 ) 。この塚口説のほうが、銘文のオホヒコを日本書紀の大彦 命に単純に結びつける見解よりもはるかに妥当といえよう。 このオホヒコが実在の人物といえないことは、鉄剣銘文によって氏族系譜の研究が著し くすすみ、その結果もたらされた所見からも明白といえよう。すなわち、古代の氏族系譜 には共通する構造や成り立ちがあり、系譜上部は共同祖先系譜というべきものてあって、 他の複数の氏族と共有する先祖として作られたものだったというのてある。系譜の下部が
についての伝承がすてに成立していたことは指摘てきる」 古事記・日本書紀のもとになった資料として、「帝紀」「旧辞」があったことは有名てあ ろう。「帝紀」は歴代大王の系譜てあり、「旧辞」とは神話や氏族の伝承を集成したものと いわれている ( 第 6 章 3 「日本書紀の国内資料」参照 ) 。その原型がてきあがったのは、六世紀 つだそうきち きんめい 半ばの欽明天皇の時代てあろうと推断したのは津田左右吉てあった ( 「日本古典の研究』上・ 下、岩波書店 ) 。 鉄剣銘文にヲワケの属する 〇 図 有力氏族の八代の系譜が見え 系 略 るのてあるから、有力氏族の る 結集の核となっていた大王の め 系譜 ( 王統譜 ) がこの時代に を 神 形成されていたと考えたとし と てもおかしくなく、「帝紀」 コ ヒ の原型 ( これを原帝紀という ) が成立していた可能性も出て オ きた、と吉村氏は述べる。要 倭迹迹日百襲姫命 孝霊鬱色謎命開化 武渟川 大彦命 倭迹迹姫命 武埴安彦 吾田媛 孝元 埴安媛 ( 大物主神 ) 崇神 御間城姫 〇 渟名城入姫命 豊城入彦命 豊鍬入姫命 垂仁 ていき きゅうじ 「崇神紀」の読み方 崇神天皇は実在したか ? 6