五世紀 - みる会図書館


検索対象: 日本書紀の読み方
236件見つかりました。

1. 日本書紀の読み方

立するケースが少なくない。 一般には雄略朝を画期として、ウジの組織は五世紀後半から六世紀初頭頃に成立したと みられている。ただウジ名の付与をもって公的なウジの成立と規定するならば、平獲居臣 や无利弖の一族は、ウジが成立する以前の段階にあったとみなければならない。王権との 関係にもとづくと、ウジの組織は朝廷内に設けられた職務分掌組織てあるトモの成立と不 可分の関係にある。特定の職務への奉仕が個人にとどまらす一族内に継承され、世襲され ることによって、トモの組織は完成し、ウジが成立するのてある。このトモを率いる長が トモノミャッコ ( 伴造 ) てあり、伴造やトモに任ぜられた一族が、その職務 ( ッカサ ) をウ ジの名に負うようになるのてある。 稲荷山鉄剣銘には「世々、杖刀人の首と為り、奉事し来りて、今の獲加多支鹵大王に至 る」とあり、これは平獲居臣がワカタケル大王まて、何代かの王の御世々々に、杖刀人の 首としてお仕えした、との意に取れる ( 平野邦雄『大化前代政治過程の研究』吉川弘文館 ) 。杖刀 人の首となったのは乎獲居臣だけて、彼の祖先の代まては遡らない。船山大刀銘の場合 も、捜加多支鹵大王の世に无利弖が典曹人として奉事したと記すだけてある。 つまり杖刀人の首や典曹人の職務は、平獲居臣や无利弖個人にかかわるものて、まだ彼 職務が世襲され、一族に継承されるようになった らの属する一族全体には及んていない。 「歴史の出発点」としての雄略朝一一ワカタケル大王と豪族たち 12 5

2. 日本書紀の読み方

と考えられてきたわけだ。 帝紀・旧辞の内容については、帝紀は「歴代天皇の系譜」「皇位継承の次第」を記した ものてあり、旧辞は「諸氏族に伝えられた神話・物語の類い」をまとめたものとされてい る。これによれば、両者はワンセットて括られるのが一般的だが、本来は主題と内容を異 にする別々の書物だったことになる。 つだそうきち きんめい 帝紀・旧辞の成立時期については、津田左右吉の提言以来、六世紀の半ば頃、欽明天皇 の時代前後というのが定説てある。ご、、 : たカそれは、帝紀・旧辞をもとに聿日かれたという古 事記の叙述を観察するならば、「諸氏族に伝えられた神話・物語の類い」すなわち旧辞の けんぞう 内容が五世紀末頃の顕宗天皇の記述て終わっており、以後は「皇位継承の次第」とも言う べき帝紀的な記述て終始していることからの推測にすぎない。すなわち、帝紀はともかく 少なくとも旧辞のほうは、五世紀末頃からさほど時が経ってはいないけれども、その時代 の記がだいぶ薄らいだ頃に成立を見たと考えられ、それは六世紀中頃と見るのが妥当だ ろうというのてある。 五世紀末頃はそれほど遠い昔のことてはよ : 。、 オしカそれが人びとの記管から遠のくのが六 世紀中葉、というのは津田の主観の域を出ていない。百歩譲って、津田のいうように旧辞 の成立が六世紀前半だったとしても、ならば帝紀もほば同時に成立したといえるだろう 2 う 4

3. 日本書紀の読み方

するに、オホヒコが実在したとは決していえないのてあるが、日本書紀に見えるようなオ ホヒコ伝承がすぞに早く五世紀後半段階て成立していた可能性は大きいというわけだ。 しかし、五世紀後半の段階て日本書紀に見られるようなオホヒコ伝承がすてに出来上が っていたとは考えがたいてあろう。オホヒコという名前は、貴人の男性を意味する尊称ヒ コに美称オホを冠しただけのシンプルなものてあって、一族の始祖名として極めて一般的 なものぞある。 塚ロ義信氏は、三世紀後半から四世紀代にかけて大和朝廷の先兵となって各地を転戦し た武将をモデルにして、五世紀後半にはオホヒコ伝承の原型が成立していたが、後にそれ に潤色・改変が加えられ、やがて日本書紀の四道将軍の伝承に定着していったのてはない かとする ( 「初期大和政権とオオビコの伝承ー稲荷山古墳出土鉄剣銘の『意冨比境』私見」横田健一編 『日本書紀研究』第十四冊、塙書房 ) 。この塚口説のほうが、銘文のオホヒコを日本書紀の大彦 命に単純に結びつける見解よりもはるかに妥当といえよう。 このオホヒコが実在の人物といえないことは、鉄剣銘文によって氏族系譜の研究が著し くすすみ、その結果もたらされた所見からも明白といえよう。すなわち、古代の氏族系譜 には共通する構造や成り立ちがあり、系譜上部は共同祖先系譜というべきものてあって、 他の複数の氏族と共有する先祖として作られたものだったというのてある。系譜の下部が

4. 日本書紀の読み方

書」が主な資料てあり、諸氏の家伝・家記類、および雄略紀一一十一年三月条の百済関係記 にほんくき 事に見える『日本旧記』のような書・記録が補足的に利用された。『日本旧記』の詳細は 不明てあるが、題名より推して、後述の『日本世記』などと同じく、八世紀に入って成立 した書とみられる。 【百済三書】①は神功紀・応神紀・雄略紀に五カ所、②は雄略紀・武烈紀に三カ所、③ は継体紀・欽明紀に十八カ所引用されるが、分注ての引用にとどまらず、本文自体が百済 三書に依拠したケースも少なくない。①は四世紀後半から五世紀後半、②は五世紀前半か ら六世紀初頭、③は六世紀初頭から半ばまての百済史を対象とし、①は物語風、②は編年 体風、③は完全な編年体の叙述から成る。 百済三書は、百済て撰述された原記録をもとに、 七世紀末に亡命百済人が大幅に手を加 すいこちょういぶん え、日本書紀の編纂に資する目的て上進した史書とみられる。推古朝遺文 ( 銘文などの形て 残る推古朝ごろの作とされる文章 ) との用字の近似を指摘する説もあるが、百済三書に見え る「貴国」「天朝」「日本」「天皇」の語がそろって成立する時期は、七世紀末以前にはさ かのばらないから、三書の作成期もそのころと推断して差し支えない。 よぜんこう 百済滅亡後、日本に残留した百済王族の余褝広 ( 善光 ) らは優遇され、褝広は持統朝に くだらのこにきし し′」う 「百済王」の号を賜わっご。 オこの賜号は成立まもない「日本天皇」が「百済王」を内臣 にほんせいき ないしん 日本書紀をつくったのは誰か 257

5. 日本書紀の読み方

いんじゅ れば、武器を用いて討ち取れ」ど詔した。四人に印綬を授けて将軍に任命した。 ( 崇神十年九月甲午条 ) こうげん 日本書紀によれば、崇神天皇の祖父、孝元天皇が皇后ウッシコメノミコト ( 鬱色謎命 ) し J のエの一い、一一 - フ - - , 、学 / こ皇子がオホヒコて、崇神の父てある開化天皇の同母弟てあるから、 崇神には叔父にあたる人物なのてある。 オホヒコはいた ? 、な . い ? 、 銘文中のオホヒコについては、銘文の発見当時から種々議論されてきたが、近年、それ らをふまえて吉村武彦氏はつぎのように述べている ( 『古代天皇の誕生』角川選書 ) 。 「ワカタケルは記紀の雄略天皇にあたり、『宋書』にみえる倭国王の武てある。ワカタケ ルに仕えた杖刀人首の「平獲居」から七代あがるとオホビコになる。オホビコは『日本書 紀』崇神一〇年条にみえる四道将軍の一人「大彦」のことてあろうオオ 。ごごし、この時期 ( 四道将軍についての伝承があったかどうかは不明てある。記紀の系譜ては、ワカタケルの 略から八代さかのばると崇神の世代となり、世代的にはそれほど矛盾がない。 この鉄剣 銘からオホビコの実在を主張することはてきないが、 五世紀後半に、少なくともオホビコ 4 一 6

6. 日本書紀の読み方

の朝倉に設け、天皇の位についた。っ むろや おおむらじ 室屋ど物部連目を大連どした。 大臣・大連は大和政権の執政官を指す役職名てある。大和の在地土豪を代表して平群臣 真鳥が大臣に、伴造を代表して大伴連室屋と物部連目が大連に就任したとあるが、この記 五世紀後半 事を根拠に、大臣・大連制の淵源を五世紀後半に求める説が有力ぞある。ただ し」い - っ . ル又 にはまだ「臣」「連」のカバネ ( 姓 ) は成立しておらず、したがって大臣・大連 職名も存在しない。 さらに平群氏が大和政権の有力豪族として中央政界に進出する時期は 六世紀の中葉・後半以降て、日本書紀の応神朝から武烈朝まての平群氏に関する伝承は、 こびと 天武朝の国史編纂事業に参加した平群臣子首によって造作された疑いが持たれる ( 辰巳和 弘『地域王権の古代学』白水社 ) 。 日本書紀の古訓にもとづくと、「大臣」は本来、オホマヘッキミと訓まれていたようて ( 「大連」も同様 ) 、オホオミ・オホムラジの訓は、カバネの「臣」「連」に美称の「大」を 冠した敬称的な呼称にすぎない。六世紀前半になると、執政官たるオホマヘッキミの下 大王に近侍し、国政に参議する議政官としてマヘッキミ ( 大夫・群臣 ) が設置され、オ ホマヘッキミーマヘッキミ制とても呼ぶべき、氏族合議にもとづく新たな政治体制が成立 め いに宮を定め、平群臣真鳥を大臣どし、大伴連 へぐりのおみまとりおおおみ よ 「歴史の出発点」としての雄略朝一一一ワカタケル大王と豪族たち 1 2 5

7. 日本書紀の読み方

なお、本書中て崇神天皇・推古天皇・天武天皇などの呼称が用いられていますが、これ かんぶうしごう はあくまて便宜上そのように称したまてて、漢風諡号や天皇号の誕生に関しては、前者が 八世紀の半ば過ぎ ( 七五〇年代 ) 、後者が七世紀後半 ( 六七〇年代 ) と考えていることは五人 の共通認識てす。それから、日本書紀の引用は読みやすさを考え基本的に現代語訳としま したが、書き下し文 ( 原文は漢文 ) を掲載するさいには岩波古典文学大系本の『日本書紀』 ( 上・下 ) を用いています。 遠山美都男 二〇〇四年二月十日 てんむ はじめに

8. 日本書紀の読み方

◆日本書紀の読みどこう・・⑨◆応神紀 5 安閑・宣化紀・ : 応神朝と渡来人〈巻 + 応神紀〉 あちき ゅづきのきみはた 日本書紀によれば、応神朝には弓月君 ( 秦氏の祖 ) ・阿直岐 ( 阿直岐氏の祖 ) ・王仁 ( 西文氏の あちのおみ つかのおみ やまとのあや 祖 ) ・阿知使主と都加使主 ( 東漢氏の祖 ) ら多くの渡来人が移住してきた。 移住は応神朝と雄略朝に集中する傾向がみられるが、それが直ちに史実を意味するわけては ない。たしかに四世紀末ー五世紀初め ( 応神朝 ) と五世紀後半ー末 ( 雄略朝 ) は、朝鮮半島か らの移住がビークに達した時期てある。しかし移住そのものは長期にわたって継続的に行われ ている。古代人は応神朝と雄略朝を大和政権の内政・外交両面の歴史的画期として認識してお しまき こわたり 、渡来人の移住の起源もこの両時期を基準に、「古渡」 ( 旧来の渡来人 ) と「今来」 ( 新参の渡 来人 ) に区分して考えていたようてある。その結果、渡来系の諸氏は、始祖と伝える人物の移 住期を応神朝と雄略朝にかけるようになったと田 5 われる。 しかし一方て、これらの渡来伝承はまったくの作り話てはなく、後裔氏族の性格や王権への ひつぎのみこうじの 職務奉仕の実態が反映されている場合が少なくない。応神朝に百済から渡来し、太子の菟道 稚郎子の師となって諸典籍を講じたとされる「博士」の王仁は、渡来系の有識者から成るフミ ヒトを率いて、朝廷の文筆・記録の任にあたった西文氏の活動を伝承化した人物にほかならな わきいらっこ 加藤謙吉 かわちのふみ 日本書紀の読みどころ - ー -O 145

9. 日本書紀の読み方

三月条にかけての五カ条にわたって、朝鮮との交渉にあたった使人・将軍として、その活 しらぎ 動が記されている。このうち神功皇后摂政六十二年条は、本文て襲津彦の新羅派遣を記 し、分注に『百済記』 ( 七世紀後半の百済滅亡後に日本に亡命した百済人たちが、日本書紀編纂の外交 じん′」 資料とするために、百済側の記録にもとづいてまとめたとみられる書物の一つ ) を引用して、壬午年 さちひこ ( 三八一 l) に沙至比跪が派遣されたと記している。襲津彦は沙至比跪と音が通じるから、彼 を四世紀末ー五世紀初めの朝鮮に派遣された実在の葛城氏の武将とする見方が有力視され ている。 しかし日本書紀の襲津彦の記事は、同一人物の事績とみるには互いに前後の脈絡がな く、『百済記』の沙至比跪に関する記述も後世的な造作の跡が濃厚てある。襲津彦を短絡 的に実在の人物ととらえることは控えるべきて、大和政権の初期の朝鮮外交に従事した葛 城地方の豪族たちの活動が襲津彦という一人の人物に凝縮され伝承化されていると解した ほうが妥当てあろう。 円大臣に さらにいえば、襲津彦と玉田宿禰や円大臣の続柄は必ずしも確定的てはない。 くぎようぶにん れきうんき ついては己己に記述がなく、 『公卿補任』 ( 弘仁二年〔八一一〕成立の『歴運記』を基に撰述 ) きしかちょう 至って初めて玉田宿禰の子とされるが、同じ平安初期頃の撰とみられる『紀氏家牒』の逸 文ては、彼を葦田宿禰の子てあるかのように記している。また葦田宿禰についても、古事 116

10. 日本書紀の読み方

モノノベ にじゅうにぶし 物部のウジ名は、部制にもとづく。部の制度は、百済の二十二部司制 ( 二十二の部司〔官 司〕が、衆務を分掌する制度 ) の影響を受けて六世紀代に成立し、従来のトモの組織を発展的 に継承し、その組織に部字を当てて「某部」と称するようになったものて、来目部・靫 部・佐伯部も、来目・靫負・佐伯のトモに、のちに部字を付したものてある。 したがって物部のウジ名の成立は六世紀に入ってからてあるが、五世紀代に物部氏の前 身にあたるウジが存在したことは確かてあり、この氏は、「モノ」とかかわる職掌に従事 した伴造と推測することがてきる。 古代の「モノ」という言葉には、モノノフ ( 文武百官 ) ・ツハモノ ( 兵士・武器 ) ・モノノ グ ( 武器 ) ・モノ ( 精霊・霊魂 ) などの用例があるが、これを職掌と関連付けて整理すると、 ①軍事、②祭祀 ( 神事 ) の二種のモノに大別てきよう。 記紀をはじめ古代の文献に記された物部氏の職掌は、①と②の双方に及ぶ。ただ②につ いては、大和政権の武器庫て、この氏が氏神として奉祭した石上神宮の祭祀に関するもの ふつのみたま が大半を占めている。石上神宮の祭神の布都御魂神は神剣てあり、神庫には有名な七支刀 をはじめ、膨大な量の刀剣や武器が収蔵されている。すなわち物部氏の②の職掌は、石上 神宮の武器に宿る霊 ( モノ ) の祭祀を対象としたとみることがてきるが、広義にはそれは はんちゅう ①の軍事の範疇に含めて差し支えないてあろう。 いそのかみ しちしとう 1 ろ 4