とんせい 自分が位を譲り、遁世した理由は一人て病気を治し健康て長寿をまつどうしたいから てある。どころが逃れられないこどて災禍に逢おうどしている。このまま黙って身を 威ばすわす : よ、 ( 天武紀元年五月是月条 ) と言ったとされる。あくまても、自らが望んて戦いを仕掛けたわけてなく、受けて立っ たとの姿勢を示している。『万葉集』に見られるいくつかの歌を掲げるまてもなく、天武 天皇はまさに「神にしませば」と語られる、偉大な帝王とされているのてある。 乱の舞台の広がり 吉野を出発した大海人皇子一行は東国に入ったのち、美濃の不破を拠点に、伊勢・大和 方面と近江に軍を進めた。したがって壬申紀の記述には、大和や近江だけてなく、伊勢・ 美濃などが含まれ、エピソードとしては、吉備・大宰府にも及ぶ。具体的な地名が多く登 場し、現在のどこにあたるかという推定も試みられている。それらにもとづき、大海人皇 子の行程を辿ることや戦いの場を訪ねることはかなりの程度、可能てある。ご、 注意しておきたいことは、皇位継承の戦いが畿内周辺諸国を巻き込んて行われたというこ と自体てある。 224
天武をめぐる略系図 舒 明 斉極 明 壬申紀の語り はじめに日本書紀がどのように壬中の乱を記述しているか、その概略を紹介しておこ 【大海人皇子の危機】天智天皇の病気が重くなるなか、出家して大津宮を出た大海人皇子 は、仏道修行のためと称して吉野に入った。まもなく天智は亡くなっ、驀、 オカ大海人皇子の に気になる知らせが届いた。それは、近江朝廷が亡き天皇の陵墓をつくる名目て、美 伊賀采女宅子娘 大友皇子 天智 , ー鷓野讃良皇女 ( 持統 ) 草壁皇子 高市皇子 大津皇子 大海人皇子 ( 天武 ) 葛野王 にかなり詳しく記され、大海人皇子の振る 舞いや発言もしばしば語られる。六七二年 は日本書紀が成立する約五十年前。日本書 紀の編纂者たちの周辺に、身をもってこの 争乱を体験した人たちがいても不思議はな 平城京に遷都する時代にあっては、ま さに「現代史」の幕開けが壬申の乱てあっ 壬中の乱と「壬申紀」のあいだ 205
【群】巻十四 ( 雄略紀 ) ー巻二十一 ( 用明・崇崚紀 ) 巻二十四 ( 皇極紀 ) ー巻二十七 ( 天智紀 ) 【滝群】巻一 ( 神代紀上 ) ー巻十三 ( 允恭・安康紀 ) 巻二十二 ( 推古紀 ) ・巻二十三 ( 舒明紀 ) 巻二十八 ( 天武紀上 ) ・巻二十九 ( 天武紀下 ) 【その他】巻三十 ( 持統紀 ) 森氏によれば、群は中国語の原音によって仮名が表記されており、文章も正格の漢文 て書かれているという。群に見られる漢文の誤用は引用文と後人による潤色・加筆部分 に限られており、原資料を尊重しながら、あくまて中国語て述作されたのが群というわ けだ。当然、ー群の書き手として考えられるのは中国人ということになる。 他方群は、歌謡と訓注の仮名が倭音によって表記されているために、中国語の原音て 読むと日本語の音韻がまったく区別不能になる。文章も倭習に満ちており、漢語・漢文の 誤用や奇用だらけて正規の漢文とは程遠い。 こちらは倭人 ( 日本人 ) によって書かれたと 見て間違いないと森氏はいう。 うまやとのみこ かみつみや たしかに、厩戸皇子 ( 聖徳太子 ) の称号として名高い「上宮」について、推古紀 ( 滝群 ) 264
古代における「現代史」の幕開け 日本書紀巻二十八と二十九が天武天皇紀の上下巻てある。一代の天皇に一一巻が充てられ ているのはこの天皇のみ。そのうちの一巻は即位に至る事情、天智天皇の最晩年に吉野に あすかのきよみはらのみや 隠棲した大海人皇子が激しい戦いを経て、飛鳥浄御原宮に行き着くまての経過を記述して いる。西暦ていうと六七二年。干支ては壬申てある。 この年の六月二十四日 ( 以下、日付は日本書紀による ) に吉野を脱出した大海人皇子は伊勢 みの おおとものみこ おうみ から美濃に入り、大友皇子 ( 天智の子 ) を中心とする近江朝廷との戦いの指揮をとった。 大和と近江を舞台とする戦闘は、一カ月ののち、七月一一十三日に決着がついた。大海人皇 いといわれる。 子の勝利ぞある。これがすなわち壬申の乱。ふつう、皇位継承をめぐる争 たしかに、天智天皇が亡くなったのち、その子てある大友皇子と弟てある大海人皇子との 間て起こされた戦いてある。武力てもって旧体制を打倒した天武朝のはじまりは、古代史 における重要な画期てあつご。 オここに律令国家への道は大きく前進する。 この壬申の乱の記述に、日本書紀全三十巻のうちの一巻が、ほばそのまま充てられてい る。壬申の乱に関する史料はこの書紀のほかにほとんど見られない。 いかに重要てあるか は明らかてあろ - フ。しかも、これから紹介するように、 戦いの経過が活躍した人々ととも おおあまのみこ 202
第二に、書紀ては天皇のために「丈六の仏像及び寺を造り奉らむ」と言ったのは鞍部多 須奈てあった。推古や厩戸が天皇から召され後生を託されたとする記述がない。すなわ ち、薬師如来光背銘文はこの仏像が造られた七世紀後半期のものて、書紀の記述または坂 田寺縁起の伝記を参照しながら造作された疑いが濃い。 疑間の第三は、用明天皇が造ろうとした寺とは何かという間題だ。王立寺院の最初のも のは舒明天皇の百済大寺とされているが、用明天皇はどこにどういう寺を造営しようとし たのかがまったく不明なのぞあり、先ほど指摘したように銘文の記述が坂田寺縁起に依拠 しているとすると、銘文自体が歴史的事実を反映していないことになる。銘文は推古十五 年に悲願を達成したように記しているが、書紀はこの前年、すなわち推古十四年に金剛寺 ( 坂田尼寺 ) の竣工のことを記す。しかもそれは「天皇の為に」とあり、ほかならぬ推古女 帝のために坂田寺が造営されたと明記しているのて、銘文の記述はますます怪しくなるの てある。 第四の疑間は、銘文に登場する三人の人物の称号には天武朝以降てないと出現しないも のが出揃っていることだ。「天皇」「東宮」がそれてあり、東宮聖王という厩戸皇子に対す る尊称が推古朝の厩戸在世時にすてに存在したとすること自体に疑間がある。 くとも天武朝以後に書かれたものと考えられるのだ。 こうしてみると、この銘文は早 みため 「飛鳥仏教史」を読み直す 171
くに そのような目て壬申紀を読むと、吉野を出た時、皇子に同行した人々を「元従者」とし て列挙していることをはじめ、途中て合流した高市皇子や大津皇子に付き従った人々の名 前まて明記し、「供奉」の事実を伝えていることに気づく。そのような功績が「書き記さ れたこと」に意義があったのてある。 一方、大和の戦場において活躍した代表的人物は大伴吹負てある。彼は孝徳天皇の時代 ながとこ に右大臣てあった大伴連長徳 ( 馬飼 ) の弟て、天武十二年 ( 六八一一 l) 八月に没している。兄 まぐた の馬来田 ( 望多 ) とともに大海人皇子側について挙兵したが、馬来田が皇子に付き従った とも のに対し、吹負はもつばら大和ての戦いを主導した。大伴氏は、「元従者」にも大伴連友 国が加わり、馬来田・吹負の兄弟以外にも長徳の子、安麻呂が大和から不破の皇子のもと への使者として登場するなど、大海人皇子の勝利にかなりの貢献をしたと見られる。天武 みゆき 朝において大伴氏は、御行が兵部大輔となっており、また、壬申の乱に直接従軍した者の 子の世代は大納言クラスに昇進している。 言録から欠落した功臣たち このような功臣たちの記録はどのようにして書紀に定着したのてあろうか。注目すべき しやくにほんぎ は、『釈日本紀』 ( 鎌倉時代に成立した日本書紀の注釈書 ) の巻十五に見られる「日記」てある。 うまかい 220
スサノヲが罪過を負わされて放逐されることや、先に触れた乱暴行為と大祓詞の天っ罪 が対応することなどから、スサノラ神話は六月と十二月の定例大祓の起源譚とされてき 学 / 学ノ学 / 大祓は二季の晦日だけてなく、臨時にも多く行われ、前述したように、史料の 最初とされる日本書紀天武天皇五年 ( 六七六 ) 八月のそれも臨時のものだった。天武天皇 しんちゅう 朱鳥元年 ( 六八六 ) 七月辛丑 ( 三日 ) に催されたそれも、天皇の病気が深刻化 ( 同年九月九日 、」、つリん 崩御 ) するなか、効験を期待して臨時に執り行われた一連の呪的・宗教的諸儀礼のひとっ てあることに田亠思しなければならない。 つまり、大祓は六月・十二月に独立した宗教的儀礼として定例に催されるが、それ以外 も祭儀などてしばしば臨時に営まれた。通説のように、スサノヲ神話が定例大祓の起源 譚てあるか否かについては、この神話と祭儀の関係から明瞭になろう。 スサノラの乱暴は本来、アマテラスの祭儀ての儀礼的行為だったが、アマテラスを中心 とする物語は伊勢神宮の神事として理解するべきと考えられる。すなわち、アマテラスの かんみそさい かん 斎服殿ての機織りの物語は伊勢神宮の「神衣祭」と、アマテラスの新嘗に関わる話は「神 なめさい 嘗祭」との関連が想定される ( 松村武雄『日本神話の研究三』培風館 / 岡田精司「記紀神話の成 立」「岩波講座日本歴史』古代一一 / 小島瓔禮前掲書 ) 。 四月・九月の神衣祭はアマテラスに夏冬一一季の御衣を奉献し、九月の神嘗祭は新しく収
オカこれらはいずれも日本書紀成立以後に散逸してしまいカっ 起などかあげられる。ご、、。、 ての原型をとどめるものは皆無てある。それらを日本書紀という編纂物の叙述を通して見 通すことが困難極まる作業てあることはいうまてもない 日本書紀の原資料のなかても、その叙述の骨格形成に最も大きな役割を果たしたと考え へいじゅっ られるのは帝紀・旧辞てあろう。それは、日本書紀天武十年 ( 六八一 ) 三月丙曵条に見える。 くわたの ひろせのおおきみたけだのおおきみ おさかべのみこ かわしまのみこ だいごくでん 川鴫皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田 天皇が大極殿にお出ましになり、 おおきみみののおおきみだいきんげかみつけののきみみちぢしようきんちゅういんべのむらじおびとしようきんげあずみのむらじいなしきなに 王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難 わのむらじおおかただいせんじようなかとみのむらじおおしまだいせんげへぐりのおみこびと 波連大形・大山上中臣連大鴫・大山下平群臣子首に命じて、帝紀ど上古諸事を記し 定めさせた。大鴫ど子首が自ら筆を執って記した。 これは、天武天皇の発案により歴史書編纂の基礎作業が開始されたことを述べており、 この日をもって日本書紀編纂の起点と考える見解は今日有力てある。この時、筆録の対象 となった「帝紀」「上古諸事」は、日本書紀よりも八年前に完成した古事記序文に見える 「先紀」「帝皇日継」や「本辞」「先代旧辞」などと同類の書物と見なされている。要する に古事記にせよ日本書紀にせよ、帝紀・旧辞と一括されるような書物を母胎として成った 日本書紀をつくったのは誰か 2 5 ろ
なお、本書中て崇神天皇・推古天皇・天武天皇などの呼称が用いられていますが、これ かんぶうしごう はあくまて便宜上そのように称したまてて、漢風諡号や天皇号の誕生に関しては、前者が 八世紀の半ば過ぎ ( 七五〇年代 ) 、後者が七世紀後半 ( 六七〇年代 ) と考えていることは五人 の共通認識てす。それから、日本書紀の引用は読みやすさを考え基本的に現代語訳としま したが、書き下し文 ( 原文は漢文 ) を掲載するさいには岩波古典文学大系本の『日本書紀』 ( 上・下 ) を用いています。 遠山美都男 二〇〇四年二月十日 てんむ はじめに
よフ と、つもく 【功臣村国氏】村国連男依は当初、美濃の湯沐に遣わされて挙兵を告げるとともに、その 後の近江の戦いにおいても中心的な役割を果たしていたようてある。彼は美濃国と尾張国 かかみがはら の境界となる木曾川に沿った地域、現在の各務原市の南部を本拠とした氏族の出身てあ り、後述するような美濃と大海人皇子とのつながりのなかて、早くから皇子に仕えていた のてあろう。壬申の乱ののち、比較的早く、天武五年 ( 六七六 ) 七月に亡くなるが、書紀 も おひてたま は「村国連雄依卒ぬ。壬申の年の功を以て、外小紫位を贈ふ」と記す。小紫位とはこの 時期の冠位二十六階制の第六位てあって、実情からすれば最高位に近く、かなり高く処遇 されていることがわかる。『続日本紀』大宝元年 ( 七〇一 ) 七月壬辰条には、天武朝におけ る功封として、 おより 村国小依 ( 男依 ) 百二十戸 あがたいぬかいおおともえのいのむらじおぎみふみのあたいちとこ ねまろ 当麻公国見・郡犬養連大侶・榎井連小君・書直知徳・書首尼麻呂・黄文造大伴・ まぐた みゆき みうし ふせ みわのまかむだ こおびと 一百戸 大伴連馬来田・大伴連御行・阿倍普勢臣御主人・神麻加牟陀君児首 わかさくらべのおみいおせ さえきのむらじおおめむげつ わにべ 若桜部臣五百瀬・佐伯連大目・牟宜都君比呂・和尓部君手 八十戸 0 し きふみ 218