第二に、書紀ては天皇のために「丈六の仏像及び寺を造り奉らむ」と言ったのは鞍部多 須奈てあった。推古や厩戸が天皇から召され後生を託されたとする記述がない。すなわ ち、薬師如来光背銘文はこの仏像が造られた七世紀後半期のものて、書紀の記述または坂 田寺縁起の伝記を参照しながら造作された疑いが濃い。 疑間の第三は、用明天皇が造ろうとした寺とは何かという間題だ。王立寺院の最初のも のは舒明天皇の百済大寺とされているが、用明天皇はどこにどういう寺を造営しようとし たのかがまったく不明なのぞあり、先ほど指摘したように銘文の記述が坂田寺縁起に依拠 しているとすると、銘文自体が歴史的事実を反映していないことになる。銘文は推古十五 年に悲願を達成したように記しているが、書紀はこの前年、すなわち推古十四年に金剛寺 ( 坂田尼寺 ) の竣工のことを記す。しかもそれは「天皇の為に」とあり、ほかならぬ推古女 帝のために坂田寺が造営されたと明記しているのて、銘文の記述はますます怪しくなるの てある。 第四の疑間は、銘文に登場する三人の人物の称号には天武朝以降てないと出現しないも のが出揃っていることだ。「天皇」「東宮」がそれてあり、東宮聖王という厩戸皇子に対す る尊称が推古朝の厩戸在世時にすてに存在したとすること自体に疑間がある。 くとも天武朝以後に書かれたものと考えられるのだ。 こうしてみると、この銘文は早 みため 「飛鳥仏教史」を読み直す 171
とは道教て神仙に化した人のことてあり、飢者が屍を遺さずに姿を消したとするいわゆる 「尸解仙」の話とともに神仙思想による潤色が施されている。 つまり、太子は凡人を超越した聖人てあるとする人物像がます先にあり、それをベース にして太子の執政者・仏教者としての像が重ねられているのてある。このような多面的て 超絶的な太子像こそが、厩戸皇子が憲法十七条の作者に擬せられた理由と考えられる。 このように見てくると、仏教をめぐる推古の立場は欽明王権の場合と本質的に変わりが ないといえるのてはなかろうか。すなわち天皇はこの時期においても欽明以来の伝統的な 立場を踏襲しており、王権自体が全面的に仏教興隆を推進するという姿勢を表明してはい なかった。推古は蘇我馬子とは叔父・姪の関係にあり、また厩戸皇子とも叔母・甥の関係 とゆらのみや とゆらでら にあった人物てある。即位当初の豊浦宮はのちに建興寺 ( 豊浦寺 ) になったとする所伝も あって、彼女自身も仏教に一定の理解を持っていた人物てあるとはいえようが、それはあ くまても女帝自身の心情的なものにとどまり、王権自体が天下に仏教興隆を宣言するとい うことはなかったといわざるをえない。 推古朝の仏教興隆策は大臣蘇我馬子を中心として、それに受動的に協力する厩戸皇子が 一枚噛んて推進されたものだった。仏神の祭祀権はなお蘇我大臣家が掌握していたと考え ひつぎのみこみづかはじ いつくしきのりとをあまりななをち られるからてある。てあれば、「皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ」 ( 推古 しかい 182
そうきち 左右吉によって唱えられていた。津田は、条文の中に推古朝当時の制度としては存在しな くにのみこともち いはすの「国司」の語があることを明夬に指摘し、条文全体は儒教に造詣の深い人物 の手になるものて、作成の時期は七世紀後半頃だろうとするのてある ( 『日本古典の研究』 下、岩波書店 ) 。 私はこの憲法偽作説に賛同するものてあるが、その作成時期と作者とについては異論を 持っており、憲法は孝徳朝の新政 ( 「大化の改新」 ) の時期に遣唐留学僧の長期にわたる経験 そうみん くにのはかせ を経、帰国後国博士に任じられた僧旻の手になるものと考えている ( 「憲法十七条と孝徳朝新 政」『東アジアの古代文イ』 1 ヒ = 号 )。さらに、日本書紀は推古朝には「寺四十六所」 ( 推古紀三十 二年九月条 ) が造営されていたと伝えているが、実際には七世紀前半期にさかのばる寺院 遺構の数は大和を中心とする畿内にも十カ所程度しか存在しないという研究成果がある ( 毛利光俊彦「仏教の開花」『新版古代の日本 6 近畿Ⅱ』角川書店 ) 。書紀の記述に過大な評価を えることには、大いに間題があるのてある。 じよめい 実は、憲法十七条を含む推古紀 ( 巻二十一 l) と舒明紀 ( 巻二十一一 I) の二巻は、その前後の 巻二十一以前と巻二十四以降とは述作者・述作の時期ともに相違していることが従来の書 —桜楓社。第 6 章 5 「日本書紀 紀区分論から指摘されている ( 太田善麿『古代日本文学思潮論』 の区分論」参照 ) 。加えて最近ては、文体論の立場から、推古紀はもとより憲法の述作その 「飛鳥仏教史」を読み直す 1 5 7
以上の検討から、法隆寺金堂薬師如来像の銘文にみえるストーリー、つまり用明天皇が 病患を契機に造寺・造仏を表明したというのがすべて作り事てある可能性が強くなった。 書紀編纂時のいすれかの段階て、坂田寺縁起が書紀の記述と薬師仏銘文の双方に巧みに利 用されたと推断すべきだろう。この薬師仏の由来については不明な点が多く、現在ては七 世紀後半の法隆寺再建時に鋳造されたとする説が有力になっている。そうすると、用明天 皇の崇仏問題とはまったく 無関係の史料ということになる。書紀編纂を契機にして、法隆 寺に安置されることになったこの薬師仏に推古天皇と厩戸皇子の事績を語る銘文が施され たと推定てきるのてある。したがって、用明天皇の崇仏は造作された空想てあり、王権が 天下に崇仏を命じたのは少なくとも推古朝以降のことに属するといわざるをえない。 推古の権力と対仏教政策 ては、推古は仏教興隆にどのような役割を果たした天皇てあったのだろうか。推古天皇 と仏教との関係をうかがわせる基本的な史料は、すてに紹介した次の記事てあろう。 ひつぎのみこ さか みめぐみ 皇太子及び大臣に詔して、三宝を興し隆えしむ。是の畤に、諸臣連等、各君親の恩 * 、ほ ほとけのおほとの ( 推古紀ニ年ニ月条 ) の為に、競ひて仏舎を造る。即ち是を寺ど謂、い。 172
ご、推古朝と同じてある。 ただ、推古朝ぞは女帝という特殊性があるために「摂政」 ( 日本書紀推古即位前紀 ) 厩戸皇 子の存在感がイメージのうえてきわめて強 く、そのために大臣馬子の存在とその権力を軽 視する見方も根強い しかし、仏教興隆策もこの権力構造に即応するかたちて進められた と考えるのが自然てあろう。すなわち、詔によって実質的に天皇から三宝興隆の教令を受 けたのは、大臣馬子と推測されるのてある。 この時期においても馬子が仏教興隆政策の主導権を単独て握っていたことは間違いな く、その淵源は何度もいうように崇仏が欽明朝以来一貫して蘇我大臣家に委任されてきた 歴史にあると考えられる。したがって、厩戸皇子が詔の対象になっていることを過大に評 価することはぞきない。『帝説』の記事のみならす、書紀の詔にも潤色が及んている可能 性を考慮に入れる必要があるだろう。天武朝に開始された書紀の編纂において、厩戸皇子 を日本仏教の開創者とする意図が存在したと考えられるからてある。 厩戸皇子と仏教 さて、飛鳥寺 ( 法興寺 ) は本邦初の整備された本格的な大規模伽藍てある。この寺は蘇 すしゅん まかみがはら 我馬子を檀主として崇峻元年 ( 五八八 ) に造営が開始された。寺地は飛鳥の真神原に定め がらん 176
推古と仏教との関係をうかがわせる素材としては、推古紀十三年四月、同十四年五月及 び七月条や同年是歳条なども挙げられる。また、ある僧が斧て親族を殴りつけた事件をめ 門題になる。ちなみにこの事件は次のようなものてある。 くって天皇がとった態度なども口 ある僧が斧て祖父を殴りつける事件が起きた。これを聞いた天皇は大臣を召して、 「出家者どいうものは戒律を大切にしているはすだから、なぜこのような悪逆な行為 に及んだのかが理解てきません。すべての寺院の僧尼を招集して厳重に取調べなさ こういうこどは重罪にあたりますよ」どいわれた。そこて大臣は僧尼の取調べを かんろく 実施して罪を犯している者に処罰を加えようどしたが、百済僧の観勒が上表し、「仏 く、僧尼がまだ十分に戒律のこどに習熟していません。 法が伝来してからまだ日が浅 僧尼らはどうしていいのかかわからないのてす。本当の亜 ~ 逆者は別にして、そのはか 」ど述べた。そこて天皇は了解された。その後、天 の者は赦してやっていただきたい そうず ほうずあずみのむらじ くらっくりのとくしやく 皇のご命令により、僧正 ( 観勒 ) ・僧都 ( 鞍部徳積 ) ・法頭 ( 阿曇連 ) が任命され、僧尼 ( 推古紀三十ニ年四月条 ) を統制する組織がてきた。 「飛鳥仏教史」を読み直す 175
岐層との調停役に立ったが、イ 委王の指示に従わす独自行動をとる臣僚があり、倭系伽耶人が新 羅と通謀して協議を攪乱するなどの弊害・混乱が起こる。こうして結局、新羅の巧みな戦略の 前に、五六一一年、伽耶は滅亡に至るのてある。 裴世清の小墾田宮訪冏〈巻ニ + ニ推古紀〉 とゆら おはりだ うつ 推古十一年 ( 六〇一一 l) 十月、天皇は豊浦宮から小墾田宮に遷っこ。 ナこの突然の遷宮は推古八 年 ( 六〇〇 ) における第一回遣隋使の派遣と密接に関わるだろう。 隋帝国は冊封関係を拒絶する倭国に関心を寄せた模様て、『隋書』倭国伝には「新羅・百済、 面をケえていた。そのた 皆倭を以って大国にして珍物多しと為し」とあり、国際的に一定の評イ おののいもこ ようだい はいせいせい め、推古十五年 ( 六〇七 ) に小野妺子が第一一回遣隋使となった時には、皇帝煬帝は裴世清を答 礼使として派遣したのてある。 小墾田宮を舞台とした外交の儀礼は次のように復元てきる。ます、宮の南門を入ったところ おほば くにつもの が「朝庭」て、裴世清は導者に案内されて「庭中」に拝し立ち「国信物」を置いた。世清は次 あへの に自ら「書」を持ちながら一一度再拝し、使いの旨を読み上げた。国書の奉読が終わると、阿倍 おおとものむらじ 臣が進み出て国書を受け、そのまま「庭」を進んて大伴連のところまて進み行く。大伴連は 受け取った国書を「大門」の前に設置された机の上に置き、儀礼の終了を奏す。すべてのこと おみ さくほう 日本書紀の読みどころ - ー - ) 195
紀十二年四月条 ) とする憲法条文の、少なくとも第二条 ( 「篤く三宝を敬へ」 ) は推古朝のもの てはありえないといえよう。王権が公式に仏教興隆を明らかにしていない段階に、こうい う条文を国法として定立することは政治的矛盾あるいは厩戸皇子の越権行為てあるとしか いえないからてある。 厩戸皇子と田村皇子ーー舒明王権と仏教 推古女帝は推古一二十六年 ( 六二八 ) に没する。その遺詔をめぐって群臣あい争ったのち、 だいあんじ ならびにるき 翌六二九年に舒明天皇として即位したのが田村皇子てあった。『大安寺伽藍縁起井流記 くま′ . 一り 資財帳』に、病気により厩戸が建立を果たせなかった熊凝寺の造営を田村皇子が太子から 付嘱されたとする伝承が遺されている。この伝承は熊疑寺の実体がはっきりしないこと や、厩戸の死没から田村の寺院造営まてに年月が経ちすぎていることなどから虚偽の造イ てあると解することもてきるが、天皇の介在と指示を受けての太子間ての相承関係にはそ れなりに注意を払う必要があると思う。なぜなら、両者の契約関係に基づいて田村こと舒 明天皇の造営にかかる百済大寺が登場するからてある。 きびいけはいじ 最近、桜井市吉備に所在する吉備池廃寺の発掘調査により、舒明の造営にかかると伝え られている百済大寺の偉容が明らかになりつつある ( 奈良文化財研究所編『大和吉備池廃寺』吉 「飛鳥仏教史」を読み直す 18 5
寺は官寺としての性格を有していると考えている。その根拠は、欽明天皇とのあの公式の 契約関係にもとづくものと考えられるのてある。 他方、馬子とともに推古天皇の詔命を受けた厩戸皇子も、その下命を契機として寺院の 造営に乗り出したと推測される。書紀の崇峻即位前紀によれば、厩戸皇子は馬子の飛鳥寺 造営と並んて難波に四天王寺の造営を行ったとしており、推古元年 ( 五九一一 l) 是歳条に あらはか 「始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」とある。 しかし発掘調査によれば四天王寺は推古朝の後半期頃に伽藍の主要部が竣工したような しらぎ のて、書紀の伝えには大幅な誇張と歪曲が施されていることになる。元来この寺は対新羅 政策との関連て外交権を掌握していた大臣馬子を中心に造営された寺院てあったのてはな いだろうか。推古紀三十一年 ( 六二三 ) 七月条に新羅の使者がもたらした諸種の 配 仏具を四天王寺に納めたとする記事がみ 藍 伽 えており、さらに孝徳紀に大化四年 ( 六 の あへのおおおみ 寺 四八 ) 二月、阿倍大臣が四仏像を塔内に りようじゅせん 王 安置し、釈迦の浄土を象徴する霊鷲山の 四ロ 像を造ったとするのて、四天王寺は朝廷 堂 講 堂 金 塔 中門 178
紀 ) の撰述が企画され、これは和銅七年に国史撰述の命を受けた紀清人が担当、同時に撰 修を命じられた三宅藤麻呂が・滝両群にわたって漢籍による潤色を加え、若干の記事を 補筆、ここに日本書紀が完成を見たというわけだ。 森氏のこの仮説は日本書紀の音韻や文章に対する精緻な観察と統計から組み立てられて おり、 一見すると反論の余地がないように思われる。しかし、森氏は群・群それぞれ の編纂方針や構想といった問題にまて踏み込んだ言及をしているとはいえない。森氏はあ くまて、唐人の守言や弘恪が群を述作てきたかどうかを間題にしているのぞあり、かれ らがこの部分の述作をすすんて引き受けた特別な理由や動機があったのか否かについて は、慎重に明一三口を避けている。 天武朝に行なわれた「帝紀」「上古諸事」筆録は日本書紀の基礎資料を整理する作業だ ったと考えられる。すると、持統朝の段階て雄略紀以下と皇極紀以下だけてなく、神代紀 すいこ じよめい 以下や推古・舒明紀の述作も十分に可能だったはずだ。それにも拘わらず推古・舒明紀の 編纂がこの時期になされなかったのは、一つには、推古・舒明朝がまだ生々しい〈現代 史〉の起点ともいうべき時代ぞあり、編纂にも種々の制約や問題があったためと考えられ レよ A フ っ ' 、いど - フして 他方、神代紀や神武紀以下の述作が持統朝に行なわれなかったのは、い 0 日本書紀をつくったのは誰か 267