推古天皇 - みる会図書館


検索対象: 日本書紀の読み方
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1. 日本書紀の読み方

れた。しかし天皇はお亡くなりにな お り、造営てきなくなってしまった。 はりだ 治田の大宮に天の下をお治めになった 大王天皇 ( 推古 ) ど東宮聖王 ( 厩戸 ) は、 池辺天皇のご命令を尊重されて、歳次 ていぼう 丁卯の年に事業を完成なさったのてあ ( 原漢文 ) 丙午年とは用明元年 ( 五八六 ) にあたる。この年用明天皇はのちの推古天皇と厩戸皇子を 召して、病気平癒のため寺院を造営し薬師仏像を作りたいとの誓願を述べた。しかし天皇 が没したのて造営は中止になつご オが、先の二人が丁卯年すなわち推古十五年 ( 六〇七 ) にそ れを実現したというのだ。用明天皇はすてに即位の年に造寺造仏の意向を明らかにしてお り、推古天皇と厩戸皇子とがその遺志を受け継いて天皇の誓願を完成させた、その表れが 金銅薬師仏てあるということになる。 しかし、右の銘文には不審とすべき点がいくつかある。その一つは、書紀ては天皇は用 明二年になってから発病したとすることだ。紀年に一年のずれが生じているのてある。 法隆寺金堂薬師如来像 170

2. 日本書紀の読み方

僧尼の罪に対して天皇が大臣を介して裁断を加えようとした。しかるに渡来僧の観勒が 意見を陳べてそれを抑えた。仏教界には俗世の法を適用させてはならないとする彼の意向 が通ったのだ。しかし、天皇は僧尼を統制する組織を作らせることだけは成功した。 この記事から、天皇が仏教に対して俗権を行使する立場になかったことがわかる。仏教 界には新しい統制組織がてきたのだが、それは大臣と観勒の連携と話し合いのもとて作ら れた。僧正・僧都・法頭に任命された者たちの顔ぶれを見れば、蘇我氏と強いつながりを 持つ者たちてあることが明らかだからてある。さらにいうと、この話の主体が天皇のよう になっているのは書紀編者の造作てある疑いもある。僧尼の事件に俗権を及ばすことがて きたのは、実は蘇我大臣だったと推測てきるからてある。 話を元に戻そう。推古天皇の仏教興隆に関する詔が明記されている主な条文は、「三宝 さか を興し隆えしむ」とする推古紀二年二月条の記事ということになる。従来は「三宝」とい う十七条憲法に出てくる同じ語句の存在ともあいまって、推古天皇の仏教興隆策に関わる 中心的な詔文という評価を与えられてきた文章てある。 しかし私は、この詔には二つの重大な疑問があると思う。 一つは、天皇の詔は「皇太子及び大臣」のみを対象に発布されたものて、広く天下に披 露されたものてはないということてある。 の 174

3. 日本書紀の読み方

ける仏教受容の歴史を次のようにまとめている。 第一に、欽明天皇の世に百済から仏教が伝来した。 崇仏は独り蘇我稲目宿禰に行わせることにしご。 第三に、敏達天皇の世に稲目の子馬子宿禰が天皇の詔に従い独り崇仏を続行した。 第四に、推古天皇の世に馬子宿禰は天皇のために仏像を造り僧尼を恭敬した。 第五に、朕 ( 孝徳 ) がその後を受けて、正教てある仏教を崇め豊かにしようと思う。 お気づきだろうか。ここに述べられていることは、われわれが歴史の授業や書物の中ぞ 学んてきた通説の内容とは、相当にかけ離れているのだ。推古天皇が皇太子すなわち「聖 おこさか 徳太子」と大臣に詔して「三宝 ( 仏・法・僧 ) を興し隆え」 ( 推古紀二年二月条 ) させたことに も、「聖徳太子」の事績にも一切触れていないイ 。ム教の興隆に功績があったのは蘇我大臣 家てあることが称暢されているだけてあり、憲法十七条の条文が孝徳の脳裏に浮かんだ形 跡すらないのてある。 十七条憲法偽作説 うまやとのみこ ご存じの通り、憲法十七条は聖徳太子こと厩戸皇子が作ったとされ、推古十二年 ( 六〇 四 ) 四月に発布された。その内容は法律の体裁というよりも倫理的な規範や訓戒から成っ われ 154

4. 日本書紀の読み方

以上の検討から、法隆寺金堂薬師如来像の銘文にみえるストーリー、つまり用明天皇が 病患を契機に造寺・造仏を表明したというのがすべて作り事てある可能性が強くなった。 書紀編纂時のいすれかの段階て、坂田寺縁起が書紀の記述と薬師仏銘文の双方に巧みに利 用されたと推断すべきだろう。この薬師仏の由来については不明な点が多く、現在ては七 世紀後半の法隆寺再建時に鋳造されたとする説が有力になっている。そうすると、用明天 皇の崇仏問題とはまったく 無関係の史料ということになる。書紀編纂を契機にして、法隆 寺に安置されることになったこの薬師仏に推古天皇と厩戸皇子の事績を語る銘文が施され たと推定てきるのてある。したがって、用明天皇の崇仏は造作された空想てあり、王権が 天下に崇仏を命じたのは少なくとも推古朝以降のことに属するといわざるをえない。 推古の権力と対仏教政策 ては、推古は仏教興隆にどのような役割を果たした天皇てあったのだろうか。推古天皇 と仏教との関係をうかがわせる基本的な史料は、すてに紹介した次の記事てあろう。 ひつぎのみこ さか みめぐみ 皇太子及び大臣に詔して、三宝を興し隆えしむ。是の畤に、諸臣連等、各君親の恩 * 、ほ ほとけのおほとの ( 推古紀ニ年ニ月条 ) の為に、競ひて仏舎を造る。即ち是を寺ど謂、い。 172

5. 日本書紀の読み方

なお、本書中て崇神天皇・推古天皇・天武天皇などの呼称が用いられていますが、これ かんぶうしごう はあくまて便宜上そのように称したまてて、漢風諡号や天皇号の誕生に関しては、前者が 八世紀の半ば過ぎ ( 七五〇年代 ) 、後者が七世紀後半 ( 六七〇年代 ) と考えていることは五人 の共通認識てす。それから、日本書紀の引用は読みやすさを考え基本的に現代語訳としま したが、書き下し文 ( 原文は漢文 ) を掲載するさいには岩波古典文学大系本の『日本書紀』 ( 上・下 ) を用いています。 遠山美都男 二〇〇四年二月十日 てんむ はじめに

6. 日本書紀の読み方

7 世紀の王室と蘇我氏系図 蘇我稲目 宣化天皇女 石姫 欽明天皇 馬子 小姉君 堅塩媛 伊勢大鹿氏 菟名子 糠手姫皇女 息長真手王女 広姫 押坂彦人大兄皇子ー茅渟王 推古天皇 桜井皇子 用明天皇 敏達天皇 穴穂部皇女 穴穂部皇子 崇峻天皇 蝦夷 刀自古郎女 厩戸皇子 竹田皇子 馬子 入鹿 山背大兄王 吉備姫王 法提郎女 古人大兄皇子 舒明天皇 天智天皇 間人皇女 天武天皇 皇極天皇 1 斉明 ) 孝徳天皇 「飛鳥仏教史」を読み直す 161

7. 日本書紀の読み方

おほみたからふたりあるじ 「国に二の君非す。民に両の主無し」ともある。もし仮に大臣馬子がこれらの憲法条文 あな を読んていたならば太子はどうなっていたてあろうか。太子の叔父にあたる崇崚天皇や穴 ほべのみこ 穂部皇子の運命 ( いずれも蘇我馬子の放った刺客によって殺害された ) を知り尽くしていた太子 がこのような文章を公にしたとは考えられまい。憲法は公表されなかったという論によっ てこの矛盾を解決しようとする場合がまま見受けられるが、憲法をあくまても推古朝のも のと固執するからそうした苦肉の想定を弄さざるをえなくなるのだ。そうてはなく、憲法 の述作が孝徳朝の新政 ( 大化の改新 ) と関連して行われた事業てあると解することによっ て、「篤敬三宝」の条文と孝徳天皇の仏教興隆の詔とが自然に符合することになる。 王権が自ら仏教興隆に乗り出した最初の天皇は、述べてきたように推古天皇てはなく孝 徳天皇てあったと判定せざるをえまい。孝徳が大王位に就くまて飛鳥仏教すなわち「蕃 神」の祭祀権を一貫して掌握していたのは、間違いなく蘇我大臣家てあった。孝徳天皇は 「乙巳の変」というクーデターによって蘇我大臣家を滅ばし、仏教の祭祀権を王権の手に 回収したのてある。 【文献案内】 ふたり 遠山美都男「大化改新」中公新書、一九九三 192

8. 日本書紀の読み方

もう一つは、天皇自身が仏教に対していかなる見解を持っていたのかという最も肝心な 点が不明だということてある。本章冒頭て紹介した孝徳詔のように詔文の詳細な内容か言 されていないのて、断定的ないい方はてきないが、実のところ仏教の興隆は主として大臣 馬子に委任されたことてはなかったのか。つまりここても欽明天皇の基本方針が確認され ごだけだと解釈することが可能なのてある。そうてあれば、詔文の詳しい内容は必すしも 必要とはならない ひつぎ ところて推古朝の権力構成は、大王の下に日嗣の太子と大臣がおり、太子・大臣が共同 て大王の統治を輔佐するという形態をとっていたと考えられる。 推古天皇の世に、上宮厩戸皇子ど鴫大臣は共同して天下の政を補佐し、仏教を興隆さ せて飛鳥寺・四天王寺などを建立した。 『上宮聖徳法王帝説』が伝えるこうした王権の権力構造は、継体 ( 欽明の父 ) 朝以来の伝 統になっていた。継体朝から用明朝まては物部大連が蘇我大臣と並んて執政権を行使する 形態が続いたが、用明二年 ( 五八七 ) のいわゆる丁未の役て物部大連家が滅亡し、蘇我大 臣家が生き残った。さらに日嗣の太子がそれぞれの時期の天皇の輔政を行ったこともま けいたい 「飛島仏教史」を読み直す 17 5

9. 日本書紀の読み方

ての拠りどころ、あらゆる国家の根基てある。釈迦の教えはどの時代にも誰にても尊ばれるものて まが ただ ある。極悪の人間は稀て、よく導けば従うだろう。枉った精神は三宝て匡すこどがてきるのだ ) 一方、憲法発布より少し前の日本書紀推古二年 ( 五九四 ) 二月条にはこうある。 ひつぎのみこ おほおみ もろもろのおみむらじたちおのおのきみおや 皇太子及び大臣に詔して、三宝を興し隆えしむ。是の時に、諸臣連等、各君親の みめぐみ ほとけのおほとの 恩の為に、竸ひて仏舎を造る。即ち是を寺ど謂、い。 ( 皇太子ど大臣に 三宝を盛んにしなさ、 どの勅命があった。この時、臣下らは天皇どニ親への 恩を果たそうどして、竸って仏舎を造った。これが寺どいうものてある ) これらの文脈に従えば、仏教を天下に興隆するという考えの始まりは推古天皇てあり、 天皇の意向を受けて憲法にその思想を成文化したのが太子てあったということになる。 こうして、推古朝は飛鳥仏教の画期的な時期てあるとの通説的なイメージが形成されるこ とになった。王室の天皇と太子とがタイアップしてーー言葉を換えていうなら、王権が仏 教を推進する中軸の勢力になったというわけてある。 つだ しかし、十七条憲法は聖徳太子が作成したものてはないとする説が、戦前、すてに津田 おこさか 156

10. 日本書紀の読み方

「乙巳の変」関係略系図 我 馬 子 あが 天皇は稲目に命じて仏法を崇めさせられた。 びだっ 敏達天皇の世には、蘇我馬子宿禰が亡き父 ( 稲目 ) の跡を継いて仏法を敬った。しか るに他の臣らはなお信しようどせす、仏教は滅亡の危機に陥ったが、敏達天皇は馬子 宿禰に仏法を崇めるようにどお命しになった。 じようろくぬいもの 推古天皇の世に、馬子宿禰は天皇のために丈六の繍の仏像ど銅の仏像を造り、仏 教を盛んにし、僧尼を敬った。 そこて私は、さらにこの正教を崇拝し、道を広め、豊かにしようど考える ( 以下略 ) 」 そうみんえみよう とたりの このあと孝徳は、僧旻・恵妙らを「十 のりのし てらのつかさ 師」に任命してその任務を述べ、「寺司」 てらしゅ と「寺主」の責務を明示するなど、仏教に 対する王権の基本方針とその具体像を明ら かにする。仏教伝来以来、これほど明確な 対仏教政策を吐露した天皇はいないのてあ るがここてとくに主目したいのは、詔の 前半部てある。孝徳はそれまての倭国にお 蝦夷ーー入鹿 法提郎女 古人大兄皇子 舒明 中大兄皇子 茅渟王皇極 ( 斉明 ) 軽皇子 ( 孝徳 ) ( 天智 ) あかがね 「飛鳥仏教史」を読み直す 1 う 5