来目 - みる会図書館


検索対象: 日本書紀の読み方
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1. 日本書紀の読み方

築坂邑・来目邑と葛上郡高宮周辺地図 橿原神宮市 かしはら 久米じんぐうまえ 鳥屋町① おかでら あすか 市 田 大 ん っ 町 庄 新 曽我川 脇 御所市 柄 ①鳥坂神社②葛木坐一言主神社 「その名をば大来目主と負ひ持ちて」 これに対して来目部のトモの成立 は、靫負よりも時期的にさかのばると みられるが ( 前述 ) 、次に掲げる日本書 紀神武二年二月乙巳条の所伝が注目さ れる。 かしはら ( 大和を平定し前年に橿原宮て即位し た ) 神武天皇は、論功行賞を行い、 みちのおみのみこと つきさかの 道臣命に宅地を賜わって、築坂 むら 。巴に居らしめ、どくに恩寵を加え おおくめ うねび た。また大来目を畝傍山の西の たかとり ( 高取川の ) 川辺の地に住まわせた。 くめのむら 今、この地を来目。巴どいうのは、 このような事情によるのてある。 「歴史の出発点」としての雄略朝一一ワカタケル大王と豪族たち 129

2. 日本書紀の読み方

築坂邑と来目邑は現奈良県橿原市の鳥屋町と久米町に比定することがてきる。二つの邑 えんぎしきじんみようちょうとりさか は高取川をはさんぞ隣接する位置にあるが、鳥屋町は『延喜式』神名帳の鳥坂神社一一座 ほけっ わしゅうごぐん たいりやくちゅうかい の鎮座地てある。十五世紀半ばに成った『和州五郡神社神名帳大略注解巻四補闕』 ( 『五 たかみむすひのみことあめのおし 郡神社記』 ) は、この神社を大伴神社とし、社家は大伴連、祭神は高皇産霊尊と天押 ( 忍 ) ひのみこと 日命て、道臣命が築坂に神府をつくり、先祖の父子神を祭ったとの伝を掲げている。 神武紀の記事は、大伴氏と配下の来目部が、築坂邑や来目邑に拠点を構えていた事実に もとづき、それを神武の大和平定の物語の中に組み込んだものにすぎないが、築坂邑・来 たかみや かつじよう 目邑の地から南西方向へ道を取ると、「葛城」氏勢力圏の中心部てある葛上郡の高宮 ( 現 ごせ もりわきながら 御所市森脇・名柄 ) の地に至る ( 前ページ地図参照 ) 。 ひとことぬしの ( おお ) かみ 「葛城」氏の奉祭した神て、記紀の雄略天皇条に登場する葛城一言主 ( 大 ) 神は、御所市 森脇の地に鎮座するが ( 「延喜式』の暮木一言主神社 ) 、日本書紀雄略天皇四年二月条は、葛 城山て狩猟をしていた天皇が、一言主神と遭遇し、互いに名乗りをあげ、ともに狩りを楽 しんだと述べ、最後に次のように結んている。 こうして日が暮れて、猟は終わった。神は天皇を送って、来目水まてやって来た。 かり とりや くめのかわ い 0

3. 日本書紀の読み方

つかさ かむおや 伴の遠っ神祖のその名をば大来目主と負ひ持ちて仕へし官」という歌詞が見え る。「大伴氏の遠祖が大来目主という名を負って、大君にお仕えしてきた職務」の意とな にもとづく負名てあ るが、大来目主という名は、特定の祖先名てはなく、大伴氏の職掌 り、来目集団の統率者てあることを表した言葉てある。 大伴氏の前身を来目氏とする説は従来からあったが、『万葉集』巻二十の家持の長歌 ますらたけを やからさと ( 「族に喩す歌」 ) にも、「大久米の大夫健男を先に立て」 ( 来目集団の勇士を先に立たせて ) と くめまい あること、来目部の担った戦闘歌舞てある久米舞が、大伴・佐伯両氏によって伝承され、 宮廷歌舞化したことなどを勘案すると、大伴氏と来目部とは密接不可分の関係にあり、大 伴氏の伴造としての最初のウジ名が来目てあったことは、ほとんど疑問の余地がないと思 われる。 大和政権屈指の巨大氏族Ⅱ物部氏 以上、雄略麾下の武将が、雄略の即位とともに伴造となり、「来目」のウジを名乗った こと、その後、他の多くの軍事的トモも率いるようになり、一一次的に「大伴」のウジ名に 改称したことを述べた。かくして大伴氏は五世紀後半以降、最有力の軍事伴造・執政官と して専制王権を支えることになるのだが、同じことは物部氏の場合にもあてはまる。 おほくめぬし おいな 「歴史の出発点」としての雄略朝一一 - ワカタケル大王と豪族たち 15 ろ

4. 日本書紀の読み方

を任としたトモの集団てある。佐伯部を率いる地方の伴造には直姓の佐伯氏がおり、佐伯 直は佐伯部を率いて出仕し、中央の佐伯連の支配下に入った。佐伯部には、服属し内地に えみし 移住させられた蝦夷が含まれるが、これは蝦夷の持っ呪的能力によって邪霊の宮中侵入を 阻もうとする意図があったためと田 5 われる。 いくさ 大伴・佐伯氏とその配下の兵は、大王の親衛隊の意て、「内の兵」と呼ばれた。『続日本 ぼしん せんみよう みことのり 紀』天平宝字元年 ( 七五七 ) 七月戊申条の光明皇太后の宣命 ( 口頭て宣布する詔 ) には、「ま とほすめろき まっき た大伴・佐伯の宿禰等は遠天皇の御世より内の兵として仕へ奉り来 : : : 」 ( 大伴・佐伯の両 氏は遠い天皇の時代から、天皇の親衛隊としてお仕えしてきた ) 、と記されている。平時は「内の 兵」として宮中の警衛にあたり、有事の際には将帥となって国の内外に派遣されて戦うこ とが、大伴氏や佐伯氏の伝統的な伴造職だったのてある。 りようのしゅうげ だじようかんぶ 『新撰姓氏録』や、『令集解』に引く弘仁一一年 ( 八一一 ) の太政官符によれば、大伴氏や むろや 佐伯氏は雄略朝の大伴室屋の時に多数の靫負を率い、両氏が左右に分かれて宮廷の守門の 任に就くようになったと自ら主張している。彼らがその職掌の起源を雄略朝に求めたこと は、拠るべき何らかの根拠があったとみられる。大伴氏管掌下の軍事的トモのうち、主体 をなす靫負の組織の原形は、実際にそのころ、成立したとみるのが妥当てあろう。 128

5. 日本書紀の読み方

名張の横川六月一一十四日の夜半に伊賀伊勢国司らが出迎えに来た。二日目の夜は川曲の坂本 に入った大海人は、横川 ( 名張川 ) のあた ( 現在の鈴鹿市から四日市市に向かうあたり ) というところて りで占いによって勝利を宣言する。 あさけのこおり 少し休んだだけて北に向かい、朝を朝明郡 ( 現在の四日市 市北部から川越町、朝日町一帯 ) て迎えた。 その時、遅れて鈴鹿から大津皇子が到着し、さらに、 国連男依も馬に乗ってもどっ : 先に美濃に派遣していた村 てきた。そして男依は「美濃の師三千人を発して、不破 道を塞ふること得つ」と報告した。大海人皇子はこの報 、こ。鈴鹿の峠には、それまてに集まっ 告を侍ち望んてし た五百の兵を配置しており、そのうえ、美濃の兵て不破 の地を占拠てきたため、畿内と東国を結ぶ二つの交通拠 点をおさえることに成功したのてある。 皇子の一行は、桑名の郡家に入り、そこに留まること になった。大急ぎて吉野から山道をたどってきたけれ ど、鈴鹿と不破を手中に収めたのて、水陸の要衝てある 桑名を拠点として、近江朝廷と戦う態勢を作ろうとした 以下、写真提供 / 各務原市木曽川学研究所 いくさ おこ かわわ 壬申の乱と「申紀」のあいだ 205

6. 日本書紀の読み方

具体的には、祓は災厄の原因となる虞のある諸々の宗教的 て、本来は別個の儀礼だっこ。 あんねい な邪悪や罪過を祓い除き、社会の秩序更新と安寧回復、その維持をはかるための呪的な宗 教儀礼てあり、古代社会に不可欠な呪術てあった。 ちゅうあい 少し時代は降るもののヤマトタケルの子てある第十四代仲哀天皇のことだから、そのま くまそ ま史実とすることはてきないが、古事記仲哀天皇段には、南九州の熊曾国征討の際に神の お告げを信じなかった天皇が急に亡くなった、そこて、改めて神託を得ることになり、 おやこたはけ とりたはけ・ いきはぎさかはぎあはなちみぞうめくそへ 「生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸・上通下通婚・馬婚・牛婚・鶏婚の罪」の類を求めて大 祓を行った、とある。仲哀天皇を死に至らせた情况を更新するため、スサノヲ神話にも見 える行為などが「罪」として祓い除かれている。 大祓は単に規模の大きな祓のことてはなく、天皇・王権が催す国家的な祓をいう。さら じんぎりよう じんぎさいし に時代は降るが、朝廷の行う神祇祭祀について定めた「 ( 養老 ) 神祇令」には、毎年の六 つごもり 月・十二月の晦日に大祓を行うとある。この定期に催される大祓は、『続日本紀』大宝二 じんじゅっ やまとかふちのふひとべはらへ 年 ( 七〇一 l) 十二月壬戌 ( 三十日 ) 条に、「大祓を廃む。但し、東西文部の解除すること は常の如し」とあるのが史科に見える最初て、大宝元年 ( 七〇一 ) に施行された大宝令か しんがい らの規定だったことがわかる。ちなみに、日本書紀天武天皇五年 ( 六七六 ) 八月辛亥 ( 十六 おほはらへ 日 ) 条の「大解除」が定例大祓の史料上の最初とされるが、これも仲哀天皇死後の場合と や おそれ スサノヲ神話を読み解く

7. 日本書紀の読み方

こうし 欽明天皇の後嗣となった敏達天皇は、仏教にはきわめて冷淡な天皇てあった。日本書紀 すめらみことほとけのみのりう しるしふみこの の即位前紀に「天皇、仏法を信けたまはすして、文史を愛みたまふ」とあるように、 崇仏の事績はまったく伝えられていない そのうえ、天皇は稲目の子馬子とも折り合いが みわのきみさかう ちょうしん 悪かったようてある。排仏派の三輪君逆が天皇の寵臣となったのも、蘇我氏と距離を置こ うとする天皇の意図をよく示している。 他方、書紀は敏達天皇の世に蘇我馬子が崇仏を一層推し進めた様子を記している。敏達 ことし かふかのおみさえきのむらじ 紀十三年是歳条には、鹿深臣・佐伯連が百済から持ち帰ってきた石仏像一一驅を馬子が貰い いえのひむがしのかたいしかわ 受け、修行者三人 ( すべて尼僧 ) を探し出して仏を供養し、仏殿を二カ所 ( 宅東方・石川 くらっくりのすぐりしばたっと いけへのあたいひた 一に設けて仏法を深信したとする。この場合馬子には鞍部村主司馬達等と池辺直水田 ひとほとけのみのりよ 父 という一一人の協力者があったらしいが、「子独り仏法に依りて」とも記すように、 稲目以来の崇仏のあり方を受け継いている点に注意される。すなわち、「蕃神」の祭祀の 実権は蘇我馬子一人の掌中に握られており、それが父子間て世襲され、すてに一つの特権 と化していたのてある。 だいえ おがみ 同紀十四年二月条には、馬子が大野丘の北に塔を建てて大会の設斎を実施し、舍利を塔 はじめこれ の柱頭に納めたとある。書紀はこうした馬子の崇仏を「仏法の初、茲より作れり」と公言 らんしよう しており、日本仏教の濫觴が蘇我大臣馬子にあったことを明記するのだ。 おおののおか うまこ おこ 164

8. 日本書紀の読み方

あたい また神武の大和平定に従ったとある。古事記には、来目部の祖の代わりに久米直の祖の名 を掲げ、大伴連の祖と相並んて、天孫や神武に供奉したと記しているが、これはのちに来 目部の組織の拡大に伴い、地方伴造の久米直が来目部を率いて出仕し、大伴氏の管掌下に 入るようになった時代の状况を反映した伝承にすぎない。 来目部の支配は、大伴氏が直接、来目部を率いるかたちが本来的なものと考えられる。 あめのゆげい しんせんしようじろく 平安初期に成立した『新撰姓氏録』には、来目部を「天靫部」と為し、これが靫負の起源 来目部はその組織に編入されたらしい。す となったと記しており、靫負の成立とともに、 なわち来目部は靫負の組織に先行する古い軍事的トモてあった。 門号氏族は、大伴・佐伯両氏とともに、宮廷およびその諸門を守衛した氏族てある。少 なくとも藤原宮以降、弘仁九年 ( 八一八 ) に改制されるまて、宮城の外面に開く十二の門 たまて あまのいぬかい ( 宮城門 ) には「海犬養門」・「玉手門」などの氏族の名が冠されていた。これら門号に名を えもんふ 残す氏族は、令制下の衛門府 ( 靫負の組織を受け継ぎ、宮城門〔外門〕と宮門〔中門〕の守衛の任 かどべ にあたった官司 ) の伴部 ( トモノミャッコ。前代の伴造の職務を継承する下級役人 ) てある門部にイ ぜられる者が少なくなく、彼らがかって大伴氏に率いられて守門の任務に就いた軍事氏族 てあったことがうかがえるのてある。 さえ 佐伯氏や佐伯部の「サエキ」とは、「塞ぎる」 ( 防御する ) の意て、佐伯部は宮廷の防衛 はんふ 「歴史の出発点」としての雄略朝一一 - ワカタケル大王と豪族たち 127

9. 日本書紀の読み方

みちあなづ 道を軽りたまふ」天皇てあった。天皇のこうした性格が何に起因したのかについては、長 そうみん い留学期間を終えて帰朝してきた僧旻との親密な交わりが大きな要因ぞあるとも考えられ る。本章冒頭に引用した大化元年八月の仏教興隆詔こそは、王権が初めて仏教に対する主 導権を掌握したことを示す歴史的な文書てあると評価てきるのてある。 これまての検討によって、厩戸皇子の親作とされる憲法十七条が推古天皇の時代に作成 されたとする通説の根拠の一角が崩れたと私は考える。憲法第二条には有名な「篤敬三 宝」なる仏教興隆に関わる条文があるが、仏教に対して推古・舒明・皇極の各天皇が欽明 天皇以来の傍観主義的な立場に何らの変史を加えた事実も認めることがてきないことは、 翻っていえば、国法てある憲法が仏教に対する王権の基本方針や原則を恣意的に踏み越え ていたことを意味する。仏教の分野ては太子は自由に振る舞うことが許されていたとても 解釈しなければ、こうした矛盾を解消する方途が見つからないのてある。しかし推古朝に おいて崇仏勢力の中軸は天皇てもなければ太子てもなく、孝徳詔にも明記されているよう に大臣の蘇我馬子てあった。 憲法十七条には、たとえば第三条「詔を承りては必ず謹め」のあとに「君をば天とす。 やっこらま 臣をば地とす。天は覆ひ地は載す」というようないささか抽象的な文章があり、太子は 暗に蘇我大臣家の権勢を批判しているのだと解釈する向きがある。さらに、第十一一条には っち おほ の あめ 「飛鳥仏教史」を読み直す 191

10. 日本書紀の読み方

モノノベ にじゅうにぶし 物部のウジ名は、部制にもとづく。部の制度は、百済の二十二部司制 ( 二十二の部司〔官 司〕が、衆務を分掌する制度 ) の影響を受けて六世紀代に成立し、従来のトモの組織を発展的 に継承し、その組織に部字を当てて「某部」と称するようになったものて、来目部・靫 部・佐伯部も、来目・靫負・佐伯のトモに、のちに部字を付したものてある。 したがって物部のウジ名の成立は六世紀に入ってからてあるが、五世紀代に物部氏の前 身にあたるウジが存在したことは確かてあり、この氏は、「モノ」とかかわる職掌に従事 した伴造と推測することがてきる。 古代の「モノ」という言葉には、モノノフ ( 文武百官 ) ・ツハモノ ( 兵士・武器 ) ・モノノ グ ( 武器 ) ・モノ ( 精霊・霊魂 ) などの用例があるが、これを職掌と関連付けて整理すると、 ①軍事、②祭祀 ( 神事 ) の二種のモノに大別てきよう。 記紀をはじめ古代の文献に記された物部氏の職掌は、①と②の双方に及ぶ。ただ②につ いては、大和政権の武器庫て、この氏が氏神として奉祭した石上神宮の祭祀に関するもの ふつのみたま が大半を占めている。石上神宮の祭神の布都御魂神は神剣てあり、神庫には有名な七支刀 をはじめ、膨大な量の刀剣や武器が収蔵されている。すなわち物部氏の②の職掌は、石上 神宮の武器に宿る霊 ( モノ ) の祭祀を対象としたとみることがてきるが、広義にはそれは はんちゅう ①の軍事の範疇に含めて差し支えないてあろう。 いそのかみ しちしとう 1 ろ 4