つまり物部氏の職掌は、軍事を第一義とし、祭祀はそこから派生的に生じたものぞあっ た。日本書紀ては五世紀後半ごろから、この氏の軍事的な活動が顕著にみられるようにな るが、軍事に加えて犯罪人の逮捕や処刑などに従事する場合も少なくなく、宮中において うちのもののべ こ寸して、物部氏は「内物部」と呼ばれ、もつばら警察官的な は、大伴氏の「内の兵」 ( ヌ 任務を担当していたらしい あさけのいらっこ もののべのうしろ ぼしん ただ、日本書紀雄略十八年八月戊申条には、物部菟代宿禰と物部目連を伊勢の朝日郎 けいたい つくしのきくのもののべおおおのて を討っために派遣し、目連が筑紫聞物部大斧手を率いて朝日郎を斬ったとあり、継体一一 あらか つくしのきみいわい 十一年六月・同八月・二十二年十一月の諸条には、筑紫君磐井の叛乱に際して、物部麁鹿 火大連が大将軍となって、乱を平定したとする。これは叛乱や内戦の折りに、物部氏が軍 隊を指揮して、地方まて遠征するケースの多かった事実を意味するものてあろう。 五十二 物部氏の勢力は全国に浸透している。物部氏や物部の氏族分布を国別に追うと、 あとのもののべ もののべのいせ カ国 ( 六十六カ国中 ) に及び、古代の豪族中、最大の分布率を示す。物部伊勢連・阿刀物部 のようにウジ名を複姓て表記する物部氏・物部の例も少なくない。広域的かつ重層的な構 造から成る巨大氏族の特性を、この氏は顕著に備えている。 ながと 日本書紀によれば、磐井を討つ大将軍に物部麁鹿火を任じた際に、天皇は「長門 ( 山口 県 ) から東は朕が統治しよう。筑紫 ( 福岡県 ) より西はおまえが統治し、自由に賞罰を行 めのむらじ 「歴史の出発点」としての雄略朝一一ワカタケル大王と豪族たち 1 5 5
え」と命じたという。物部氏の家記などに出典を持っ記事とみられ、内容的にはかなりの 誇張があると思われるが、軍事的な遠征などを介して、物部氏の勢力が地方へと急速に拡 大していく事実を、この言葉は端なくも物語っている。 物部氏と「和珥」氏ーー雄略の軍事防衛線で このつき おみ かすがのわにのおみふかめ 日本書紀の雄略天皇元年三月是月条は、天皇の妃の一人に春日和珥臣深目のむすめの童 なぎみ おおいらつめのひめみこ 女君の名をあげ、春日大娘皇女 ( 仁賢天皇皇后 ) を生んだとする。さらに続けて、童女君 うねめ がもとは采女 ( 王宮に属して、大王の身辺の雑務を果たした女性。地方豪族の子女より成る ) て、天 皇と一夜をともにして身籠もったこと、女子が生まれたが、天皇は自分の子てあることを 疑い、養おうとしなかったこと、その子が天皇とそっくりてあることを訝しく思った物部 めのおおむらじ 目大連が天皇に質問して真相を知り、天皇を諫めて女子を皇女とし、母を妃とさせたこと を、克明に記している。 物部氏の宮中における警察業務の中には采女の監視が含まれるのて ( 采女の直接の管掌 伴造てある采女臣は物部氏の同族てある ) 、この話は物部氏の職掌との関係にもとづいて 作られたとみられるが、これとあわせて童女君が春日和珥臣深目の娘てあることにも留意 そうのかみぐん する必要があろう。春日和珥臣とは春日氏のことて、大和国添上郡の春日の地 ( 現天理市 いぶか 1 ろ 6
いちのもと 擽本町から奈良市法蓮町に至る広域的な地名 ) を拠点とした大和の在地土豪てある ( 前ページ地図 参照 ) 。 和珥 ( 和爾 ) は添上郡の和爾の地 ( 現天理市和爾町を中心とする地域 ) を指し、春日の地域の おおやけ かきのもと 中に包摂されるが、和爾の地の周辺には柿本氏、壱比韋 ( 櫟井 ) 氏、大宅氏、井代氏など、 これらの在地土豪は、「和珥 ( 和爾 ) 」と 春日氏と同祖関係にある諸氏の拠点が存在した。 いう族称のもと、春日氏を中心に擬制的な同族集団を形成し、その勢力は春日の北辺 ( こ やまのうえ の地の山上氏も同族 ) からさらに山背 ( 京都府 ) ・近江 ( 滋賀県 ) 方面へと伸びていた。 やまのべ 添上郡の和爾は、石上神宮の鎮座地て、物部氏の大和の本拠てある山辺郡の石上・布留 おびと ( 石上神宮の祭祀にあずかった首姓の物部氏や、そ の地と隣り合う。物部氏 ( 連 ) とともこ の配下の無姓の物部氏は、春日氏と同祖とされ、「和珥」氏の同族団に属する。すなわち 物部氏は、大和東北部・山背・近江一帯を勢力圏とする「和珥」氏と境を接する位置に拠 点を構え、童女君の話や「和珥」系の物部首・物部の存在は、物部・「和珥」両勢力の歴 史的な交流の過程て生み出された産物と解することがてきるのてある。 軍事行動 「和珥」系諸氏には叛乱伝承がなく、逆に王権の側に立って叛乱を平定したり、 に従事したりする伝承が顕著てある。また「葛城」氏や蘇我氏と同様に、王室と婚姻を結 ぶケースが少なくないが、時期的には「葛城」氏が滅亡し、蘇我氏が台頭するまての間に ほうれん い 8
婚姻の集中する傾向がみられる。彼らはおそらく五世紀後半ごろに王権に完全に服属し、 「葛城」氏に代わって王室の姻戚としての地位を占めるようになったのてあろう。 すると、物部氏と「和珥」系諸氏の関係も、次のように推測することが可能となる。っ まり物部氏は、もと雄略の私兵を率い、山辺郡の石上・布留の地に配置され、その北に展 開する在地土豪勢力と対峙していた武将とみられる。これらの地は大伴氏の築坂邑や来目 邑に比すべき雄略の軍事的防衛線てあった。即位後、雄略は物部氏を介して、「和珥」系 諸氏の取り込みをはかるが、その一方て物部氏を伴造に任じ、その軍事 ( 警察 ) 力を強化 して、大和東北部から山背・近江への王権の進出路を確保した 。五世紀後半以降、物 部氏が軍事的・政冶的に台頭する直接の原因はここにあった。 古代の一大画期 すてに述べたように、軍事的専制王権を確立した雄略のもとて王権を支えたのは、ウジ として大王に奉仕するようになった伴造層てあり、その中心をなしたのは大伴・物部の二 大軍事伴造てあった。大和の有力在地土豪の勢力は排除されるか、あるいは「和珥」氏の ように、王権の圧倒的な優位のもとに従属せざるをえなくなった。 りよ、ついき 岸俊男氏は、『万葉集』『日本霊異記』『新撰姓氏録』など古代の文献において、雄略天 「歴史の出発点」としての雄略朝 - ーーワカタケル大王と豪族たち 1 ろ 9
モノノベ にじゅうにぶし 物部のウジ名は、部制にもとづく。部の制度は、百済の二十二部司制 ( 二十二の部司〔官 司〕が、衆務を分掌する制度 ) の影響を受けて六世紀代に成立し、従来のトモの組織を発展的 に継承し、その組織に部字を当てて「某部」と称するようになったものて、来目部・靫 部・佐伯部も、来目・靫負・佐伯のトモに、のちに部字を付したものてある。 したがって物部のウジ名の成立は六世紀に入ってからてあるが、五世紀代に物部氏の前 身にあたるウジが存在したことは確かてあり、この氏は、「モノ」とかかわる職掌に従事 した伴造と推測することがてきる。 古代の「モノ」という言葉には、モノノフ ( 文武百官 ) ・ツハモノ ( 兵士・武器 ) ・モノノ グ ( 武器 ) ・モノ ( 精霊・霊魂 ) などの用例があるが、これを職掌と関連付けて整理すると、 ①軍事、②祭祀 ( 神事 ) の二種のモノに大別てきよう。 記紀をはじめ古代の文献に記された物部氏の職掌は、①と②の双方に及ぶ。ただ②につ いては、大和政権の武器庫て、この氏が氏神として奉祭した石上神宮の祭祀に関するもの ふつのみたま が大半を占めている。石上神宮の祭神の布都御魂神は神剣てあり、神庫には有名な七支刀 をはじめ、膨大な量の刀剣や武器が収蔵されている。すなわち物部氏の②の職掌は、石上 神宮の武器に宿る霊 ( モノ ) の祭祀を対象としたとみることがてきるが、広義にはそれは はんちゅう ①の軍事の範疇に含めて差し支えないてあろう。 いそのかみ しちしとう 1 ろ 4
すなわち欽明天皇は、自らが崇仏に手を下すことは避けて傍観者の立場に立ち、大臣蘇 我稲目にすべてを委ねることにしたのてある。 この後に起こる崇仏・排仏をめぐる紛争については、蘇我氏と物部氏の権力闘争の一部 として対立関係を想定するのが穏当だろう。しかし欽明の態度については、「蕃神」「隣国 の客神」 ( 『日本霊異記しの本質が見定められていない段階ては、当然のありようてあった。 たた 天皇が異国の神を崇めることを公に宣言したことて、もしも国神Ⅱ百八十神が出示りをな し、国内に疫病が流行って農業生産が頓挫するということにてもなれば、社会的混乱を惹 き起こすだけてはなく、王権自体の存立そのものが危うくなるからてある。 そもそも、天皇と群臣の眼前に現れた仏像は畏怖すべき神の姿を現していた。神は常時 こんじきさんぜん 人前に姿を見せないものと考えていた彼らは、奇異な異国風の顔を持ち金色燦然たる輝き おのの を放っ仏像の姿に驚き喫いたはずてある。その反応は人によりさまざまてはあったろう が、一様に何らかの精神的動揺をもたらしたことは察して余りある。 一方、天皇から崇仏の允可を得た蘇我稲目は、早速次のような動きをみせた よろこ 大臣はひざますき、うやうやしく受けて忻んだ。小墾田の家に仏を安置し、丁重に むくはら 仏道を治める準備をした。また向原の家をきれいにして寺どした。 いんか おはりだ 160
遠山美都男 5 第 2 章崇神天皇は実在したか ? 「崇神紀」の読み方 いない ? / 神武と崇神とーーニ人の「ハックニシ オホヒコの「発見」 / オホヒコはいた ? ラス天皇」 / 「崇神紀」をどう読むか / ヤマトの神々を祭るということ / 天皇への服属のニ 段階 / 四道将軍ーーなぜ出雲は出てこない ? / ミマキイリヒコイニヱの正体が見えた ◆日本書紀の読みどころー②◆ 初代天皇神武の正体 / 「欠史八代」ーー天皇創造のカラクリ / 名 天神とは何か ? 前に探るヤマトタケルの人間性 / 神功皇后紀の奇妙さについて 加藤謙吉 第 3 章「歴史の出発点」としての雄略朝ワカタケル大王と豪族たち 暗殺と謀殺のすえに / 履中系王統と允恭系王統 / 安康天皇暗殺の真犯人は ? / 雄略の即位 はいつだったか ? / 「葛城」氏い雄略 / 最初の「治天下大王」 / ウジの成立とラワケ、ムリ テ / 大伴氏と物部氏ーー雄略王権のニ大軍事伴造 / 大伴氏「内の兵」の統率者 / 「その名 をば大来目主と負ひ持ちて」 / 大和政権屈指の巨大氏族物部氏 / 物部氏と「和珥」氏 ーー雄略の軍事防衛線で / 古代の一大画期 / ワカタケル大王と渡来人
時点て、初めてトモとして負うべきウジ名が成立するのてある。平獲居臣や无利弖は、武 蔵や肥後の首長、もしくはその一族の有力者とみられる人物てある。彼らがウジを名乗 政治的な地位を確立する時期は、むしろ六世紀代とみたほうが自然てあろう。 大伴氏と物部氏ーー・雄略王権のニ大軍事伴造 ワカタケル大王のもとて、まずウジを形成したのは中央の豪族層てあった。ワカタケル が抗争に勝利を収めることがてきた最大の要因は、精強な私兵を配下に擁していたことに : 、即位後は専制君主体制を樹立するために、この私兵組織を発展的に解消し、王権 直属の軍事組織 ( トモの組織 ) に再編成することが急務とされた。そのためワカタケル麾下 の有力な豪族・武将たちが、分掌的に軍事的トモを率いる伴造職に就き、職務の固定化に ともなって、最初にウジを名乗るようになったと田 5 われるのてある。 おおとももののべ その代表的な存在が、大伴・物部の両氏てあるが ( 後述するように、大伴・物部のウジ名自体 かっし は二次的なものて、最初は別のウジを名乗っていたと推測される ) 、雄略即位前紀十一月甲子条には 次のような記述が見える。 天皇 ( 雄略 ) は、有司 ( 官吏・役人 ) に命じてタカ、こクラ ( 天皇即位のための玉座 ) を泊瀬 はっせ 124
つかさ かむおや 伴の遠っ神祖のその名をば大来目主と負ひ持ちて仕へし官」という歌詞が見え る。「大伴氏の遠祖が大来目主という名を負って、大君にお仕えしてきた職務」の意とな にもとづく負名てあ るが、大来目主という名は、特定の祖先名てはなく、大伴氏の職掌 り、来目集団の統率者てあることを表した言葉てある。 大伴氏の前身を来目氏とする説は従来からあったが、『万葉集』巻二十の家持の長歌 ますらたけを やからさと ( 「族に喩す歌」 ) にも、「大久米の大夫健男を先に立て」 ( 来目集団の勇士を先に立たせて ) と くめまい あること、来目部の担った戦闘歌舞てある久米舞が、大伴・佐伯両氏によって伝承され、 宮廷歌舞化したことなどを勘案すると、大伴氏と来目部とは密接不可分の関係にあり、大 伴氏の伴造としての最初のウジ名が来目てあったことは、ほとんど疑問の余地がないと思 われる。 大和政権屈指の巨大氏族Ⅱ物部氏 以上、雄略麾下の武将が、雄略の即位とともに伴造となり、「来目」のウジを名乗った こと、その後、他の多くの軍事的トモも率いるようになり、一一次的に「大伴」のウジ名に 改称したことを述べた。かくして大伴氏は五世紀後半以降、最有力の軍事伴造・執政官と して専制王権を支えることになるのだが、同じことは物部氏の場合にもあてはまる。 おほくめぬし おいな 「歴史の出発点」としての雄略朝一一 - ワカタケル大王と豪族たち 15 ろ
いわれかわかみにいなめ 用明二年のこと、磐余の河上に新嘗を行った天皇はその直後に体調を崩してしまい、群 よ いましたちはか 臣に「朕、三宝に帰らむと思ふ。卯等議れ」 ( 私は三宝に帰依したいと思っている。お前たちて 協議してほしい ) と詔した。例によって物部大連らは反対し、馬子は天皇の意向を尊重する と述べた。物部・蘇我の対立は一触即発の情況になっ , 驀、 オカ天皇は重篤の危機に陥ったの くらっくりのたすな やっかれ おほみため いへで おこな ほとけのみかた て、鞍部多須奈が「臣、天皇の奉為に、出家して修道はむ。又丈六の仏像及び寺 まっ いまみなぶちさかたでら を造り奉らむ」と述べ た。こうして多須奈が天皇のために造ったのが、「今南淵の坂田寺 ぼさち の木の丈六の仏像・挟侍の菩薩、是なり」と伝えるのてある。 右の話からわかるのは、第一に、虚偽か事実かは別にして、書紀が用明天皇を仏教の理 解者てあったと見なしていることてある。死没の直前というきわめて切迫した情況の下 て、天皇はたしかに仏教にすがろうとしたことが明記されている。 第二に、それてもなお王権自体は崇仏を天下に公言したわけてはない。 用明は特殊な事 情と個人的な想いに よって三宝に依存しようとしたのてあり、欽明天皇以来の傍観主義的 立場には何らの変更も加えられていない。物部・蘇我の執政官同士の対立がなお続いたの は、王権が前代からの基本方針をまったく変えていないことの表れてあろう。 第三に、書紀の右の伝記はおそらく坂田寺縁起にもとづいて構成されたものて、この寺 だんおっ の檀越てある鞍部多須奈一族が蘇我氏に協力する有力な崇仏集団てあったことから、用明 われ けふじ 168