編纂 - みる会図書館


検索対象: 日本書紀の読み方
62件見つかりました。

1. 日本書紀の読み方

いかるがのみや は彼が斑鳩宮に遷る以前の住居名と説明しているが、用明紀 7 群 ) には「是の皇子、初 ましま め上宮に居しき。後に斑鳩に移りたまふ」とあり、群の作者は斑鳩と同じ地名と理解し ており、彼が厩戸皇子とその時代に関して十分な予備知識をもっていなかったことが明ら かだ。この点からいっても、群の書き手が中国人てある可能性は大きい ともあれ森氏の研究が、従来のややもすれば平板な区分論を乗り越え、それを日本書紀 の編纂過程を生き生きと描き出す立体的な区分論に高めた意義は大きい。日本書紀全三十 巻が大きく二つのグループに区分され、その編纂に二つの段階があったことは、今後のこ ( 遠山美都男 ) の分野の研究の積み重ねによってさらに確かさを増してい 日本書紀の「編集方針」とその変容 前節て紹介した森博達氏の日本書紀区分論は、従来のそれとは異なり、各グループのも っ羅格を鮮明にし、その部分を執筆することがてきたのは誰てあるかまて、実に大胆に推 定を試みた。 それによれば、群の書き手としては中国人が考えられるとして、六六〇年の唐による 日本書紀をつくったのは誰か 26 う

2. 日本書紀の読み方

一例として、鎌足の死を記す天智紀八年十月条を取り上げよう。この条には、病床の彼 えききよう せきぜんのよけい を見舞った天皇の詔のなかに「積善余慶」の文言が記される。『易経』などに由来し、善 じようえ 行の積み重ねによって子孫に慶福が及ぶことを表したこの言葉は、『藤氏家伝』上の貞慧 むちまろ ( 不比等の兄 ) 伝や下の武智麻呂伝にも見える。さらに光明皇后の自筆とされる正倉院宝物 とかりっせいざっしょようりやく の『杜家立成雑書要略』には「積善藤家」の朱方印が捺印されており、原鎌足伝て使われ た「積善余慶」が、藤原氏の功績を顕彰する代名詞として、一族に継承されていったもの とみられる。 またこの詔に対して、鎌足が薄葬を願い出た遺言を、日本書紀は往古の哲人の「善一言」 にも比すべきものとして評価しているが、持統一二年 ( 六八九 ) 六月には、施基皇子と六人 せんぜんげんし の官人が「撰善一言司」に任命されている。この官司はすてに指摘されているように、宋の はんたい ここんぜんげん 范泰の著した『古今善言』の例にならって、古今東西の典籍から名言を撰録し、皇太子軽 皇子の帝王教育の教科書とする目的て設立されたらしい。『善言』は編集未了のまま終わ り、その稿本は日本書紀編纂の資料となったとみられるが、鎌足の遺言もその採録された ものの一つと推測することがてきるのてある。 鎌足が実際にこのような遺言を残したのか、原鎌足伝のなかに記されていた文言なのか いよべのむらじうまかいっきのいみきおきな は定かてはないが、『善一言』の編修にあたった官人のうち、伊余部連馬飼と調忌寸老人の しきのみこ 250

3. 日本書紀の読み方

されたのが七二〇年のことだから、その編纂期間はおよそ四十年の長期におよんだことに なる。当然のことながら、三十巻のすべてが同一人物、あるいは同じスタッフの手て書き 日本書紀はいったい誰の手て、どのようなプロセスをたどっ 下ろされたとは考えがたい。 て編纂されたのだろうか。 まよわのおおきみ その一端を伝えるのが、日本書紀巻十四、雄略天皇紀冒頭に見える眉輪王という少年 による安康天皇殺害というショッキングな事件の記述だ ( 第 3 章参照 ) 。巻十三、安康紀の 末尾てもこの事件のことが触れられているが、安康死去をあっさりと記すだけて、「詳し ( ことは隹略紀にあ ) る」と主「している。コしいことは隹・各紀にあ一る」し」の主は、日本 書紀編纂が巻数の順になされたのてはないことを物語っている。安康紀↓雄略紀の順番て 編纂が進められたならば、安康殺害の詳細な記述は安康紀に収められるべきてあって、 「詳しいことは隹略紀にある」との主は不要だろう。 日本書紀の編纂上、安康紀と雄略紀の間に切れ目があることは明らかてあり、雄略紀以 下の諸巻が編纂された後に、安康紀以前の諸巻が書かれたことが想定される。日本書紀編 纂はかならすしも天皇が即位した順に、巻数順に行なわれたのてはなかったのてある。 この点に着目して、日本書紀の叙述や文体・語句などに精密な検討を加え、共通する特 徴をもっ巻ごとにグルービングを試みる研究 ( これを区分論とよぶ ) が行なわれた。これは日 日本書紀をつくったのは誰か 261

4. 日本書紀の読み方

はくそんこう くだら また、皇極紀以下は乙巳の変や大化改新、それに百済救援戦争や白村江の戦いなど、朝 鮮三国に対する唐の介入に端を発する東アジアの動乱を背景とした叙述てある。それは守 言や弘にとって所詮〈外国史〉にすぎなかったとはいえ、かれらの人生をも大きく変え た動乱の〈同時代史〉の一部なのだから、かれらの関心も決して浅くなく、述作も比較的 容易になし得たのてはないかと考えられる。 以上のように考えるならば、群・群それぞれの編纂方針もおのずと明らかになろ う。結果的に守言と弘恪が担当した群の編纂方針とは、かれらのよく知る雄略の時代を 歴史の起点と定め、さらにかれらにと「ても〈同時代史〉というべき皇極朝以下の叙述を 質量ともに豊かなものにするというものだ「たことになる。他方、群の編纂方針は、 群編纂段階 ( 持統朝 ) にはなか「たが滝群の編纂段階 ( 文武朝以降 ) には確立していた、律 令法こもとづく国家体制の〈根源〉を説くための歴史の創造ということだ「たに違いな い。神代の物語や神武以下歴代天皇の物語の述作は、そのためにこそ果たされる必要があ ( 遠山美都男 ) 日本書紀をつくったのは誰か 269

5. 日本書紀の読み方

しよくしゅげん さっこうかく 百済侵攻のさいに俘虜となり倭国 ( 日本 ) に送られた続守言と、来朝の経緯不詳の薩弘恪 おんのはかせ の二人に注目した。両名とも唐の正音を教授する音博士に任命されており、かれらの協力 なしに漢文の史書編纂は不可能だったというわけてある。 他方群のほうは倭人 ( 日本人 ) によって書かれたと見られるという。このグループの もんじよう やまだのふひとみかた わどう 書き手として考えられるのが、ます文武朝の文章博士、山田史御方だ。そして、和銅七年 きのあそんきょひと みやけのおみふじまろ ( 七一四 ) に国史編纂の命を受けた紀朝臣清人 ( のちに文章博士 ) や三宅臣藤麻呂も群の撰 述に関わったことがほば間違いないとする。 上記推定をふまえ、森氏は日本書紀編纂のプロセスをつぎのように復元したのてある。 じとう あすかのきよみはらりよう すなわち、持統三年 ( 六八九 ) 六月に飛鳥浄御原令が完成、その編纂作業から解放された 守言と弘恪が日本書紀の撰述に取り組むことになり、守言は群のうち巻十四 ( 雄略紀 ) 以下の部分、弘恪は巻二十四 ( 皇極紀 ) 以下をそれぞれ担当した。だが守言は巻二十一 ( 崇 峻紀 ) の完成間際に倒れ不帰の客となる。弘恪は大宝律令の編纂に忙殺され、巻二十七 ( 天智紀 ) まぞを仕上げたが、まもなく亡くなった。 日本書紀編纂に不可欠の両名を失ない、その後、事業は暗礁に乗り上げるかに見えた。 もんむ だが、文武朝になって山田御方が起用され、群すなわち巻一 ( 神代紀上 ) から巻十三 ( 安 康紀 ) まてが撰述される。大宝二年 ( 七〇一 l) に持統太上天皇が亡くなると、巻三十 ( 持統 266

6. 日本書紀の読み方

た国守が殺されている。ということは、この時点て吉備は近江側についた可能性が高い 西国の動向は記されていないのて推測に頼らざるをえないが、大和の戦闘が終わってか かんやく おごおり ら、吹負は難波の小郡 ( 政府の出先機関か ) にて、西国の国司に官鑰・駅鈴・伝印を差し出 させている。事実上の降伏要求てあった。東国に対してはそのようなことはなかったか ら、やはり西国は近江朝廷の命令下にあったと見られる。もう少し近江ぞの戦闘が継続し ていれば、西国の兵が続々と難波に集結していたかもしれなかった。壬申の乱は、実際の 戦闘は大和・近江とその近辺に限られていたが、兵の動員範囲はかなり広かったようてあ る。まさに「天下両分」 ( 大海人皇子の占言 ) の様相を示していたのてある。 壬申紀の記述と史実の間隙 さて、壬申紀に即して争乱の推移と問題点を見てきたが、ここて改めて記述自体に立ち 返って考えてみたい。 先に、近江瀬田の戦いの記述において、書紀の編者が『後漢書』の文章を参照していた ことに触れた。漢文を用いる以上、編纂者はその表現を漢籍に即して工夫し、とくに史書 を熟覧したてあろうことは想像に難くない。間題は、読者てあるわれわれがこのような記 述と史実の間にどのような「鬲たり」を認識するのかということてある。 壬申の乱と「壬申紀」のあいだ 255

7. 日本書紀の読み方

本書紀編纂の具体的なプロセスを解き明かすために、地味だが確実かっ不可欠の作業てあ り、実に多くの研究者が区分論に取り組んだ。 たとえば、岡田正之、和田英松、鴻巣隼雄、藤井信男の諸氏は使用語句の分析から、永 田吉太郎、太田善麿、菊沢季生、西宮一民の諸氏は仮名の字種の検討によって、上記太田 氏は分注の件数と本注の在りかたの点検から、そして小島憲之氏は出典と素材の研究を通 じて、それぞれの区分案を呈示したのてある ( 表参照 ) 。これらの研究によって、巻十三と 巻十四のリ Ⅲに引かれた区分線がはっきりと確認されることになった。 たカ、これら区分案は、用字や記述形式など実際に目に見えるものを手掛かりにい かのグルーピングを示したにとどまっていた。区分されたまとまりがもつ意味、すなわち 各グループの特徴が編纂上のどのような実状に由来するのかといった問題に深く踏み込ん だ論究をなすまてには至らなかったのてある。 それに対し森博達氏は、日本書紀の音韻と文章に対する観察によって、それまての区分 論をより確実なものとし、区分のもつ意味を掘り下げることに成功した。森氏は従来の区 分論をふまえ、群と群という区分を呈示し、編纂は群から滝群という順て進められ たと推論したのてある ( 『日本書紀の謎を解く』中公新書など ) 。 262

8. 日本書紀の読み方

天皇の病気平癒のために坂田寺の仏像が造られたとするのてあろう。 しかし、用明天皇にまつわる右の記事は信用てきるものなのだろうか。元来まったく別 の由緒て造られた本尊の縁起の内容を、用明天皇の事績に結びつけることによって寺の存 在理由を明確にしようとした坂田寺側の意図が、書紀編纂時に利用された可能性も考慮に 入れておく必要がある。用明天皇が本当に崇仏の意向を吐露したのか否かについては、実 きえ のところ真偽のほどは不明なのだ。そもそも天皇の仏教への帰依はあまりにも突然のこと てある。書紀編者は、用明天皇が蘇我系最初の天皇 ( 母が稲目のむすめ ) てあったこともあ り、厩戸皇子の崇仏の伏線としての意義を持たせるために、右のような記事を造作したの てはあるまいカ それは法 天皇と仏教との関係をめぐっては重要な史料があることを忘れてはなるまい 隆寺所蔵の金堂薬師如来造像記てある。本像の光背銘文には次のような造像の由来が刻記 されている ( 奈良国立文化財研究所飛鳥資科館編『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』同朋舎出版 ) 。 いけのヘ 池辺の大宮に天の下をお治めになった天皇 ( 用明 ) が御病気になられた時、歳次丙午 の年に、大王天皇ど太子どをお召しになり、 誓願をお立てになられた。私の病が治る ようにど望んています。そのために寺を造り薬師の仏像を作るようにどご命令になら 「飛鳥仏教史」を読み直す 169

9. 日本書紀の読み方

それはたんに美辞麗句といった表現に止まらず、たとえば、官職の名称や戦いの規模な 壬申の乱当時に使われ どについても間題となる。「国司守」「郡司」などといった用語が、 ていたのかというとそれは疑間てある。やはり書紀の編纂時の認識て用いられたのてあろ う。美濃の兵「三千」、尾張の兵「二万」も疑わしい。尾張の兵二万という数字は、奈良 時代の尾張国の人口がおよそ五万五千余と推定されていることからすれば ( 澤田吾一『奈良 朝時代民政経済の数的研究』柏書房復刊 ) 、ますありえない数字といってよい。大海人皇子の命 令のもと、伊勢と近江にそれぞれ数万の兵が進出したというのも、同様に誇大な数字てあ ろう。したがって、戦いの規模も書紀がいうほどには大きく考えないほうが穏当てある。 もちろん、だからといって戦い自体がなかったわけてはない。記述と史実との間には明 らかに「鬲たり」が存在するのてある。それを書紀編者の造作と言ってしまえばそれまてだ 、、。、記述と史実の狭間に目を向け、記述の性格や特質を検討することが大切なのてある。 そこて壬申紀の基本的なモチーフは何かというと、すてに指摘してきたように、「現代」 の慕開けにふさわしい、大海人皇子の輝かしい勝利を述べるところにあった。主人公てあ る大海人皇子の言動も、神の加護を得ていたという数々の「証拠」とともに紹介される。 ぞは、はたしてそれらは「事実」てあったのか。たしかに、神の守護を語るエピソード は印象的てある。けれども、 たからこそ壬申紀の中て「演出」された部分ともいえよう。 254

10. 日本書紀の読み方

古事記は「読み物」「文学作品」として読みやすく、面白いけれども、日本書紀はそう という声をよく耳にします。現に古事記は ーいかない、何となく堅くて取っつきにく、 近年、三浦佑之氏の名訳 ( 『ロ語訳古事記〔完全版〕』文藝春秋 ) が世に出て、実に多くの読者 を獲得しているのに、日本書紀のほうはさつばりてす。 日本書紀は難しい。たしかに一般の読者だけてなく、専門の研究者にとっても日本書紀 は難物中の難物といって過一言てはないてしよう。それはひとえに、日本書紀が編纂物・編 纂史料てあることによるようてす。編纂物てすから、そこにはすてに確固たる「歴史像」 さんいっ が呈示されています。しかし、編纂に採用された原資料も採用されなかった原資科も散佚 していて実見てきず、記述の「事実性」を検証することがてきないわけてす。 りつこくし せきがく かって日本古代史の碩学、坂本太郎さんは「日本書紀を初めとする六国史を使って古代 くらもいるが、六国史そのものを研究しようとする人よ少よ、 史の研究をする人はい しよくにほんぎ にほんこうき しよくにほんこうき にほんもんとくてんのうじっ しって警鐘を鳴らしました ( 六国史Ⅱ日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実 ろくにほんさんだいじつろく 録・日本三代実録 ) 。ところて昨今はといえば、日本書紀を史料として用いて古代史の研究 はしめに はじめに