八段 - みる会図書館


検索対象: 昭和将棋史
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1. 昭和将棋史

は指させてもらって、七段になれるかどうかだけはハッキリさせて行きたい。 しかし、数えたら、入隊まで七日間しかない。規定対局の六局を指すのは不可能に近い。で も指さなければと決意し、木見先生にお願いした。 さすがの木見先生も困惑の様子だったが、「ほかでもない希望だから、努力してみよう」と の言葉が返って来た。 先生はあちこち飛び回って、説得をし、了解を取りつけた結果、五日間で六対局を行なうこ とになった。 私も精根をつくして戦ったが、規定の六勝はできなかった。しよせん無理な日程たったから である。 軍隊入りは、卩、 只死を覚悟するという考えが当時の常識だったから、私もとうとう、「大山六 段で終わるのか」と、落ちこんだ状態で軍隊入りをしたのである。だが、兵隊になってからは、 棋その六段が幸いして、それほど、ひどい目に会わされずに生きて帰ってこられたのである。 の東京に関口慎吾六段という、 大器と見られていた同時代の仲間がいたけれど、南方に連れて 戦 いかれたまま、消えてしまった。人間の運、不運を思うとき、胸詰まるものがある。 後年、升田さんや私がプロ棋界を制覇する勢いにあったとき、東京の仲間たちが、「関口さ

2. 昭和将棋史

勢観望がよいと考え、順位戦に打ちこんでいこうと決意した。 それにしても、当時朝日新聞と並ぶ読者層を持っていた毎日新聞から将棋欄が消えてしまっ たのは、普及をうたい文句にした社団法人日本将棋連盟にとっては、かってないほどの痛手と 一一 = ロうほかはなかった。 初の九段位に就く 情報も出て来た。将棋欄に力を入れていた読売新聞 落ちこみ状態の将棋連盟たったが、いい 社が、「九段戦」をつくりたいと呼びかけてきたのである。 読売新聞は、昭和二十三年から「全日本選手権戦、という棋戦をつづけてきた。そして、華 やかな名人戦を目のあたりにして、将棋にいっそう興味を深くしたらしく、「九段位」の争奪 戦をつくりたいという方針を決めたわけである。 道タイトル戦といっても、名人戦とは格違いと考えた将棋連盟幹部は、すぐに OX し、いまの へ十段戦の前身である九段戦ができあがった。そして、昭和二十五年、第一期九段戦で私が優勝 名し、初代の九段になったのである。 九段位は戦前にはなかった。「名人即九段」の考えがならわしになっていたからである。私 115

3. 昭和将棋史

「たべる心配がない」内弟子生活が、そのような気持ちにさせていたようにも考えられるが、 物質面のことについては、全くの子供でしかなかったわけである。 戦争 昭和十六年に太平洋戦争が始まったが、すべりたしは、勝利、勝利の = = ースばかりが多か ったから、世間には祝勝気分があふれ、娯楽としての将棋も割合に歓迎されていた。そのせい か、将棋を掲載する新聞社も多くなった。主な新聞は、以下の通りである。 毎日新聞ーー名人戦 朝日新聞ーー番付将棋 読売新聞ーーー勝継戦 報知新聞ーー昇降段戦 界 棋都新聞・国民新聞ーー低段者の勝継戦 の 大陸新報ーー四・五・六段トーナメント 戦このほか、地方新聞も、四社連合というグループをつく「て、将棋にスペースをさいていた。 これは、現在の王位戦を掲載している、地方新聞では一番大きいグループであったようだ。

4. 昭和将棋史

れも勝てないようだから、しくみを変えよう」という問題を持ちだしてきた。大成会幹部も異 議なく賛同して、挑戦者の選出方法を変えたが、その挑戦の資格さえ握る棋士が出ないまま戦 況が悪化して、名人戦も中断の状態になり終戦を迎えたのである。 笑い話に大まじめの論議 昭和十八年ごろになって、戦況は日本にとって思わしくないという裏の情報を聞かされるこ とが多くなった。体力的に私と同じぐらいの人たちも、どんどん兵隊入りするようになった。 表に流れるニュースは、相変らず勝利を告げていたが、四囲の状況からして、軍隊に行くの は免れられそうもないように思えた。 でも私は若かったし、性格によるのかも知れないが、この世から自分が消え去るなどとは、 夢にも考えなかった。だから、盤上にも一生懸命に打ちこむことができた。そして、規定どお 棋りの成績を収め、六段昇進が決まった。 の ところが、「おれを負かしていないのだから、六段昇進は認められん」という先輩が出現し 戦こ 0 、 ナしま考えれば、ムチャを通りこして、笑いころげるほかはない話だが、当時は大まじめな 論議となり、すんなりとは六段になれなかった。

5. 昭和将棋史

しかし、この称号にはどこかから横ャリがはいるのでは、と心配されたが、何事もなくすん だ。終戦直後のトラ・フルを思い出し、胸をなでおろす気分だったが、反面、もうプロ将棋界は それほど注目されないようになったのだな、と少々寂しい気持ちになった。 さて、私は棋聖戦の誕生は本当にうれしかったが、また悩みのタネが一つふえたように感じ られた。棋聖戦のできる少し前に、九段戦が十段戦に昇格し、幸い、私が決定戦に勝って十段 位のタイトルを握っていた。こうして、私は「四冠王」の地位で棋聖戦に参加するようになっ たからである。 王位戦ができた時にも負けられないという気持ちが強かったが、今度はもっと重い負担とも いえる。しかし、これに勝てばタイトルを独占して、「五冠王」の称号を名乗ることができる。 そうなれば、空前絶後の偉業を成し遂げることになり、大変な栄誉となる。こういう 条件下で は、プレッシャ ーカかからないわけはない。 五冠王となる 棋聖戦は、初めてのタイトル戦であり、開催時期の都合もあって、まず第一期戦は、私と、 升田、塚田両九段の三人で棋聖位を争うことになった。

6. 昭和将棋史

また、棋聖戦では中原さんの前に、二上さん、山田道美さん ( 故九段 ) にも負けた。くやしく はあったが、ショックは少なかった。棋聖位を軽く見ていたわけではないが、棋戦に歴史と伝 統が加わらないうちは、伝統の重みを加えている他のタイトルとは、プロの目にも、アマの目 にも、ちがう映り方をするのは・せひもないことだったと思う。 ところが、十段戦ともなれば、そのころ三大タイトル戦の一つといわれるほどだったから、 私も襟を正して対戦する気持ちでいた。しかし、中原さんの若さに押し切られた。私は、四十 八年に十段位を取り戻したがすぐ取り返されて、以後、十段とは縁が切れてしまっている。 それはとにかく、恐るべき大天才の出現に身がひきしまる思いであった。そして、とうとう 昭和四十七年の名人戦では、中原さんと顔を合わせることになった。 抗悔いの最たる一戦 の 名人位は長い歴史と伝統をもっ地位で、私が棋士生命をかける意気込みで、持ち続けている また、名人戦といえば、プロ棋 世称号である。中原さんがどんなに天才でも、簡単に渡せない。 新 界一番の大舞台である。相手は若いし、すべての面で経験不足、負けてはならないし、負ける 3 はずもない。私はこうした考えで戦いに臨んだが、その考えが甘さを誘って、大きなエラーに

7. 昭和将棋史

かったのも、戦争で十分な治療ができなかったからとも考えられる。 将来のプロ棋界を背負って立っと期待された和田庄兵衛六段が、青森県に在住したまま病気 で倒れ、四月三十日に十分な治療もできないままこの世を去った。 升田さんや私などのよい対戦相手になったであろうと見られていた関口慎吾六段の戦死の報 を知らされたときは、残念でならなかった。一瞬の差で生きながらえた経験のある私は、 さらながら戦争のこわさを思い、憎しみをつのらせた。和田、関口の両六段が健在であったら、 プロ棋界も様変りしたのではないかと、悔やむ仲間も少なくなかった。 そしてまた、関根十三世名人が世を去ってから四カ月後の七月二十一二日、大阪の巨星坂田三 吉氏が、波瀾の生涯を閉じた。過去の一切の権威がゆらいでいる時代に、いさぎよくこの世を 去った両巨匠は、むしろ勝負師の面目を貫いた生涯を喜んで閉じた、と言えなくもない。 「吹けばとぶよな将棋の駒にかけた命を笑わば笑え」 道この一節は、戦前に指し盛りを迎えたプロ棋士の心境を唄いつくしているように思う。ただ 〈残念に思われるのは、大成会が経済的に窮境にあったので、淋しい別れをするよりなかったこ 名 とである。両巨匠を失ったプロ棋界にとっては、前途に光明を見出しながらも、悲しい戦後そ のままの昭和一一十一年であったわけだ。

8. 昭和将棋史

い図はロ 2 ニ玉まで ) 9 8 7 6 5 4 3 〔 1 図からの指し手〕 1 七角ロ 7 二飛 ・ 2 六角ロ 5 三角 大山持駒なし 三四五六七八九 8 六銀ロ 8 五桂・ 4 五歩ロ 7 五歩 4 四歩 a 同銀・ 2 四歩ロ同歩 第歩香・ 2 囀王第歩 飛・ 4 五歩ロ 3 三銀・ 5 三角成ロ同銀 7 五歩ロ 4 六歩・同銀ロ 4 七角 第歩桂角 ・ 2 六飛ロ 6 四銀 ・ 6 一角 07 一飛 第歩銀 図 ・ 5 二角成ロ 7 五銀・同銀ロ同飛 第歩 ・ 7 六歩 07 二飛 ・ 6 三馬 09 二飛 第歩金 ・ 8 六歩ロ 7 七歩・同桂ロ 9 五歩 等囀第歩銀金 ・ 8 五桂 0 同歩・ 4 四桂ロ 4 二金寄 歩玉桂 ・ 7 四馬 07 二飛・ 8 三馬ロ 7 一飛 第歩 香 ・ 8 二馬ロ 6 一飛 ・ 2 五歩ロ同歩 っ由妊 D ・同桂 ( 2 図 ) 152

9. 昭和将棋史

しかし、プロ棋界が隆盛になるにつれ、「大阪には升田、大山という凄い若手がいるそうだ。 東京の若手とはどっちが上かしらん」という世間の声も大きくなってきた。これは当然新聞界 まの中部日本新聞社である。 にも大きく伝わっていく。そのときに乗り出して来たのが、い 戦時色はいよいよ濃くなっ 人人て、新聞統合案により、名古 3 名 右村 木屋地方の新聞も合併となって、 にい中部日本新聞社が出現した。 泉お 温人それを記念する意味もあった の らしく、木村名人対大山五段 湯段 県五の香落戦が、特別棋戦として 重山 物三大催されることになった。 月生大阪に関心のうすかった東 年木京本部も、ファンの声と、新 和か聞社の要求には耳を貸さない 昭め わけこま、 冫しかなかったにちが

10. 昭和将棋史

当時は、「昇降段戦 , という棋戦が行なわれていて、及第点をとれば、すぐ昇段できる規定 になっていた。それなのに、「おれと指していないから」などという方もいう方だが、それが、 論議のタネになるなどとは前近代的な感覚というほかはなく、当時の将棋大成会は一般社会に まともに通じる団体ではなかったと思う。 とはいっても、大成会幹部の良識で、笑い話を挟みながらも、六段に昇段することができた のである。いまでも、それほどではないが似た感じの事件がなくもない。 これらは、いわば天 才業ともいうべき人たちの集団にはっきもののモメごとであるのかも知れない。 本音 ところで「かくすより、現わるるはなし」といううまい言葉があるが、昭和十八年の秋ごろ には、敗戦の様相がいろいろな面で感じられる状況になった。 ニ = ースでは勝利ばかりの報道だったが、新聞社の人たちも、「こんな世の中では、いつま でも将棋を掲載してゆけるかどうか」と、まじめに心配するようになっていた。そうした言葉 を聞くたびに、世の中がせつばつまってくれば、最初に見捨てられるのは、趣味、娯楽の部門 だな、と切実に考えられてならなかった。