棋界の事情通は、「ああ、そうかそうか」と、い それはとにかく、革新協会派は神田七段を八段に推し上げて、威勢のよいすべりだしをして いるかに見えていた。 残留組も負けてはいられず、萩原七段を八段に推し上げて名人戦を続行していた。 しかし、名人戦に木村八段に対抗する一番手の花田八段、それに金子八段の名前がないのに 世間は納得しなかった。 実力名人制が発足すると同時に、関根名人の家に仮住まいしていた「日本将棋連盟本部」は、 渋谷区青山北町に新しい本部をもうけていたが、閑散とした事務所を見て胸詰まる思いがした、 と東京の棋士が話してくれた。 分裂に一番頭を痛めたのは、関根名人であったようだ。残留組の土居、金、木村の各八段も かわいい弟子なら、革新協会の花田八段も大事な弟子、金子八段は孫弟子 ( 土居八段門下 ) 、 棋泉七段もやはり関根直門である。そんな弟子たちのケンカだから、関根名人の心中はいかばか りであったろう。 戦 っていたそうである。
をとっていたわけである。 そんなことから、十一日会側としては、神田七段を名人戦に加えたいという希望をもつのは 当然とも考えられる。けれども、神田さんは七段であるし、東京側とはしつくりしていない面 もあって、参加できない立場だった。 そこで、細かいいきさつはよくわからないが、朝日新聞社の主催で、昭和十年六月から半年 にわたって、神田七段と、東京側の七段、八段との対抗戦が行なわれることになった。 いまから考えれば、東京側の権威のなさにもびつくりさせられるが、新聞の力には対抗でき なかったのだろう。底流には毎日新聞社だけが主催する実力名人戦を快からぬ思いで見ていた 人たちもいたかも知れない。 「ケチをつけてやれーというせまい感情が暗い流れをつくりだし ていたのではないか、との見方も聞かされることがあった。 水掛け論 それはとにかくとして、神田さんは七人の八段全部に勝ち、七段には三勝四敗と負け越した。 これは不思議な現象とも考えられるが、その成績から「神田八段」を実現すべし、との声がプ ロの間にはもちろん、アマの中にも巻き起った。神田さんを八段にするという約東すみで対抗
木村名人の時代 木村実力名人出現 実力名人戦の第一期は、木村八段、花田八段、金子八段などが優勝候補と見なされていたが、 一般の予想が当って、 ーグ戦第一位の木村八段と第一一位の花田八段の熾烈な争いになった。 革新協会の代表格だった花田さんと、残留組の事実上の リーダーだった木村さんとの顔合わせ になったのは不思議なめぐり合わせで、よりいっそう世間の興味をひいた。 かい規定はあったが、とにかく、リ ーグ戦最後の一番勝負で木村さんが勝てばそれで決ま りという状況だった。 昭和十二年十一月、湯河原温泉で決戦が行なわれたが千日手となり、十二月五、六日、改め て指し直され、木村さんの若い力が、花田さんのワザを抑えて、第一期名人の座についた。 木村さんが初代の実力名人になったのに対しては、「なるべき人が名人になった」との声が 圧倒的に多かったと伝え聞いている。そして、プロ棋界にとっては大きな喜びであり、プラス
であった。 それでも、一生懸命盤上に打ちこんだのは、強くなれば段位が上がる、段位が上がれば教授 料も高くなるからであった。 若い棋士たちが、そのころの最高位であった八段に早くなりたい、 と願うのは共通の心理た った。私も早く八段になりたい、と念願していたが、自分の収入についてはあまり関心を持た よ、つこ 0 内弟子は食費はいらなかったから、自分の収入は一応木見先生の奥さんに差し出すならわし であった。そして、月末になると、なにがしかの小遣いを奥さんから頂戴したのである。酒、 タバコには縁のない年ごろだったし、盤上一途の日々だったから、小遣いはほとんど使わない で貯金していた。 私は軍隊に入るとき六段であったが、そのころも同じ内弟子生活を続けていた。兵隊に行か なかったら、おそらく八段になるまで内弟子のままでいたにちがいない。 ありがたい後援者 家族を持っている年輩の棋士は、私のようなわけこよ、 冫しかないから、後援者づくりや、教授
仲間割れ 実力名人制度が開催されて、プロ将棋界は夜明けをむかえた。前にも書いたが一番の喜びは、 。フロ棋士の収入が大きく伸びたことである。私なども、早く八段にならなければとせき立てら れる思いだナ ところが、「好事魔多し . の古き伝えが、そのまま出て来た。つまり、仲間割れが起きたの である。昭和十年十月のことだった。 第一期の実力名人戦に参加した棋士は八段の七棋士だけだったが、関西からもう一人加えた 棋いと、いまでいう「仕掛け屋」が出現したのかも知れない。 ーワンとも見なされる神田辰之助七段が存在していたこと の関西プロ棋界に、実力ではナン・ハ 戦は前にも紹介した。神田さんには大阪朝日新聞社が肩入れしていて、「十一日会」なるものを つくり、東京側と対立の色を濃くしていた。その点、神田さんは木見八段とは、全然別の立場 3 ゆれる将棋界
念な次第であった。現在も多くはない。その主な理由は、経費の問題である。 私は五冠王というぬるま湯にどっぷりとっかって、四十五年頃まではこの世の春を楽しんで いたが、運営の中心である将棋連盟会長は、原田さんから、丸田祐三八段、二度目の坂口允彦 八段、加藤治郎八段へと変っていった。 私は会長の選出問題にはあまり関係を持たない方針だったが、「いろいろ変るなあ」と、割 り切れない気持ちになる時も、なくはなかった。 180
という方針だけは、将来ともに守って行こうとの決議を行ない、世間に発表した。 建前論を捨てて、プロに徹する道を選択したのはプラスであったか、マイナスであったかを 論じても、しよせんは空しいことかもしれない。また、どんな道に生きようと、その人なりの 全盛期は、必ず一度はある。その全盛期を段位で表示しておくのも、決して愚かな選択ではな いと田 5 、つ それにしても、当時、抜擢の制度を大きく取り上げたのは、ありがたく思えた。中には「三 段跳び」と言われる棋士も出現していた。私もそれほどではなかったが、恩恵に浴した一人で あった。八段にならなければ名人位挑戦者になれないと思っていたのに、成績が良かったから、 七段の地位で挑戦者になれるチャンスを与えられたのだった。 前年には級順位戦の優勝者が名人位挑戦者になるとされたが、昭和二十一一年には規約が改 正され、級の優勝者と二位、三位の者、および級の優勝者の四人が三番勝負を行ない、名 人位挑戦者を決定する仕組みに変った。すなわち、まず級優勝の私が級第三位の花田長太 郎八段と対局することになっていたのだが、花田さんは病気で倒れ、そのためすぐ級第一一位 の大野源一八段と三番勝負を闘った。その結果、私が二対一で勝ち、いよいよ級優勝の升田 さんと対戦することになったのである。
プロとは言えなかった 五段になると「一人前のプロ棋士」といわれるのが、当時の通例であった。私は昭和十六年、 十九歳で五段になった。つまり、一人前になったわけである。 収入もかなり多くなったはずだが、私はその点に関心が薄かった。内弟子のならわしとして、 収入は全部先生の奥さんに渡して、月になにがしかのお小遣いをいたたいていたからである。 十七年の十二月には、毎日新聞社の嘱託になり、月の手当が百円と聞かされた。東京方の五 段で、月給百円と伝え聞いていたが、大阪の五段は二十二円五十銭。 しまだったら細かくしらべる でも、みんな奥さん行きだったから、私にはよくわからない。、 だろうが、私は八段になるまで内弟子生活をすると覚悟を決めていたから、収入はお任せの状 態だった。 いまの考え方からすると、あのころの私はプロではなかった。プロフェッショナルであれば、 収入に一番の重きをおくのは当然の話で、金銭のことについてなんにもいわないのでは、単な る将棋好きの青年にすぎない。しかし、私は強くなるのがすべてに優先すると考えていた。 それでも、早く八段になって三百円の月給をもらいたいという思いは頭から放れるときがな かったから、これはまたおかしな心理状態というほかはない。
うである。ただし、「仲良しクラ・フ」といった感 じではなく、新聞社との関係、それに師弟のつな 人 名 がりによる集まりが多かったと伝え聞いている。 + 齪関根名人の一番弟子は土居市太郎さん ( 故名誉 聞名人 ) であった。土居さんは、早くから東京日日 根日新聞との縁を深くしていたので、関根名人に負け ないほどの勢力を誇示していた。つづいて、金易 一一郎さん ( 故名誉九段 ) 、花田長太郎さん ( 故九段 ) 、 小泉兼吉さん ( 故八段 ) 、木村義雄さん ( 故十四世名人 ) と、皆さん一国一城の主とよぶにふさわ しい棋士たちだった。 他に大崎熊雄八段が別派として、国民新聞、都新聞などの将棋関係を担当していた。大崎さ んだけは、関根名人とつながりの薄い存在であったようだ。それでも新聞社との縁が深く、か なりの勢力を持っていたことは疑いない。 空前の名人ともてはやされた木村さんが、二十歳前後の若さで台頭してきたのもこの時代の ことで、プロ棋界の革新が見込まれる様相を呈してきた。 第
坂田さんの活躍 東京の。フロ棋界がさかんになれば、大阪もその影響を受けて活気づくのは当然といってよい。 ことに、神田八段も名人戦に参加することになったから、いままではそれほどでもなかった朝 日新聞も、何かと将棋に力を入れるようになった。 さらに、昭和十二年に入ると、朝日、毎日の両新聞を追いかけていた読売新聞が、坂田三吉 さんを引っ張りだして、当時名人候補と見なされていた木村、花田の両八段と対決させること に成功した。木見、神田に追い抜かれて「カヤの外」におかれていた坂田さんは、異常な決意 で出馬に踏み切ったにちがいない。 しかし、当時六十八歳の坂田さんが、絶頂期にある両八段に勝てるはずはなかった。二月に 京都南禅寺で行なわれた坂田・木村戦と、三月に京都天竜寺で行なわれた坂田・花田戦は、 ずれも坂田さんの敗北に終わった。この両局とも坂田さんは最初に 9 四歩、 1 四歩と端歩を突 く奇策に出ている。 将棋としては一方的な展開になってしまったが、このような企画が現れて、上昇中のプロ棋 界をいっそう盛り上げた坂田さんと木村さん、花田さんの功績は大きかった。 後に木村さんは、「もしあの勝負に負けていたなら、私は名人戦に勝っても〃名人位〃には