指し手 - みる会図書館


検索対象: 昭和将棋史
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1. 昭和将棋史

〔 1 図までの指し手〕 ・ 7 六歩ロ 8 四歩・ 2 六歩ロ 8 五歩 ・木見持駒なし 2 五歩ロ 3 一一金・ 7 八金口 8 六歩 三四五六七八九 ・同歩ロ同飛・ 2 四歩ロ同歩 ・同飛ロ 2 三歩・ 2 六飛 08 二飛 ・ 8 七歩ロ 3 四歩・ 4 八銀ロ 5 四歩 で 等第歩 5 六歩ロ 6 二銀・ 6 九玉ロ 5 三銀 疉 4 王歩 図 ・ 5 七銀ロ 6 四銀 ・ 5 八金口 4 一玉 4 5 歩第 角 0 6 六歩ロ 4 二銀・ 6 七金右ロ 5 二金 第歩銀金玉 図 ・ 7 七角ロ 4 四歩・ 3 六歩ロ 4 三銀 第歩金銀 ・ 5 九角ロ 3 三角・ 1 六歩ロ 5 五歩 8 囀 歩桂 6 五歩ロ 5 六歩・ 6 六銀ロ 5 三銀引 5 五歩ロ 4 五歩 ( 1 図 ) 〔 1 図からの指し手〕 5 六金口 4 四銀右・ 7 七角ロ 4 二角 ロロロ囲ロロ住 田口ロロロロ住 ・ロ臨ロロロ囲ロ住

2. 昭和将棋史

でもあったと思われる。 木村さんが将棋の指し手の技術や勝負術に抜 八群の技量を持っているというのは当時の定評で 。曇を。木あったし、盤上以外の面でも、政界、財界のト 、 - っ ップクラスと交友を深めていたようだから、将 棋の社会的地位を高めるには最良の名人を得た と、木見先生から十四歳の私はよく聞かされた 人聞 3 名新ものである。 1 侮昭和十三年二月、新名人の就位式が、新しく つくられた赤坂表町の将棋大成会本部で盛大に 9 金行なわれた。現代のプロ棋界が、ここに始まっ たのである。 昭段

3. 昭和将棋史

大正六年六月十五ー十六日 東京・築地大村屋 先・七段坂田三吉 平手 0 八段関根金次郎 関根さんと坂田さんの対戦 脚 「明日は東京に出ていくからは、なにがなんで 提 社も勝たねばならぬ」 新 ドラマに、演歌によく出て来る坂田三吉先生を 日 侮唄 0 た一節である。勝たねばならなかった相手こ 吉そ、他ならぬ関根名人であったわけである。 田 なお次に記す両先生の段位は、当時正式に段位 坂 を決める機関がなかったので、自称であったかも しれない。 〔 1 図までの指し手〕

4. 昭和将棋史

つながり、必勝とも思える形勢を一手で台なしにして、あっというまに連続十三期守りつづけ た名人位を失ってしまった。 私の生涯に悔いることがあるとするなら、この一戦が最たるものであるかもしれない。 コマを投じて、呆然としていた。対局終了の瞬間は、なんと・ ( 力な手を、と思うだけだった が、時が経つにつれて、逃がした魚が巨大なものであるのを知るようになった。 心底からくやしかったと言いたい一戦をお目にかける。 第三十一期名人戦・第七局 昭和四十七年六月七ー八日 東京・渋谷羽沢ガーデン 先・名人大山康晴 平手 0 八段中原誠 〔 1 図までの指し手〕 ・ 7 六歩 03 四歩・ 2 六歩ロ 4 四歩・ 2 五歩ロ 3 三角 ・ 4 八銀ロ 4 二銀・ 5 六歩ロ 5 二飛 ・ 6 八玉ロ 6 二玉 184

5. 昭和将棋史

Ⅲ五冠王時代 一勝一敗。この結果に、「まだ負けない」と自信が出てきた。それがうぬぼれにつながって、 三戦、四戦と連敗し、壁つぶちに立たされてしまった。 五戦目に敗れれば名人位を去らなければならぬ、と考えたら、全身にふるえが出た。私はこ のように追いつめられた気持ちで盤に向かった。 過去をふりかえって、「ただ必死」という言葉でしか表現できない勝負の一つだったから、 五戦目をごらんに入れて、私の苦闘を察していただく。 第十六期名人戦・第五局 昭和三十二年七月十日ー十一日 東京・渋谷羽沢ガーデン 先・名人大山康晴 平手 ロ王将升田幸三 〔 1 図までの指し手〕 ・ 7 六歩ロ 8 四歩・ 6 八銀ロ 3 四歩・ 7 七銀ロ 4 二銀 143

6. 昭和将棋史

第七期名人戦・第四局 昭和二十三年四月二十九日 和歌山県白浜温泉桃の井旅館 先・名人塚田正夫 平手 0 八段大山康晴 〔 1 図までの指し手〕 戦て・ 2 六歩 08 四歩・ 2 五歩ロ 8 五歩 1 六歩 01 四歩 名・ 7 八金 03 二金 ・ 4 八銀ロ 6 二銀・ 2 四歩ロ同歩 ・同飛ロ 2 三歩・ 2 八飛ロ 8 六歩 ・同歩ロ同飛・ 8 七歩ロ 8 二飛 7 六歩ロ 3 四歩・ 5 八金口 5 四歩 和列 昭中 ・ 4 六歩ロ 5 三銀・ 4 七銀ロ 4 一玉 ・ 6 八銀ロ 4 二銀上 6 九玉ロ 4 四歩

7. 昭和将棋史

平常心を忘れる とても勝てないと考えていた升田さんに、三番勝負の一戦目を勝たせてもらった。 となると、もう一番勝てば夢にさえ見なかった「名人挑戦者」になれるという欲で頭はいっ ばいになる。うぬぼれ心も少しは湧いてくる。逆に、「ふるえ」の気持ちでコチコチになる。 つまりは平常心を失って、実力が割り引きされてしまう。 将棋の戦法は移り変って行く。それが指し手技術の進歩につながる。勝負術もすぐれたもの を持つようになる。 また、トツ。フクラスの棋士が一つの戦法を用いて、よい成績を収めると、流行形になって多 くの人が指すようになる。アマチ = アの人たちも流行形を用いて、知らない相手を煙に巻いて 喜んでいるのをよく見かける。 当時は「相腰掛け銀」戦法が流行していたが、攻めぎるか、受けぎるかという単純な進行に なりやすいので、私の好きな戦法ではなかった。曲折の多い経過で勝負するのが、私の一番好 きな戦法であった。 三番勝負は、一番勝ったあとの次の一局が勝敗のポイントになると言われている。

8. 昭和将棋史

し / し 特別棋戦の開催は私にとっては、大きな喜びで、感激もしたし、大きな希望に胸もふくらん で来た。では、その一戦をお目にかける。 中部日本新聞特別棋戦 昭和十七年十一月二十七日 三重県湯の山温泉寿亭 左香落ロ名人木村義雄 ・五段大山康晴 ・ 6 八銀 5 六歩 04 二銀 ロ 3 四歩 1 六歩 03 二飛 2 六歩ロ 6 二玉・ 2 五歩 04 四歩・ 5 七銀ロ 4 三銀 ・ 6 八玉 ロ 3 三角・ 1 五歩ロ 3 五歩・ 4 八銀上ロ 3 四銀 07 二玉・ 7 八玉ロ 5 二金左・ 5 八金右ロ 9 四歩・ 9 六歩 08 二玉・ 7 六歩ロ 5 四歩・ 4 六歩ロ 7 二銀・ 4 七銀 〔 1 図までの指し手〕

9. 昭和将棋史

挑戦試合ではないわけだ。 塚田さんは、トップクラスの力を十分に見せていたが、やはり全盛期の迫力には及ばぬもの があったから、四勝一敗の成績で私が勝ち、初代の王位に就いたのである。挑戦して奪い取る よりも、よほど苦しい勝負であったし、うれしさもまた格別のものがあった。そして、三冠王 の栄位とはちがった負担の重みも感じ取った。王位戦の主催紙は、地方を主体とする新聞社だ ったから、地方将棋界の発展のためによい棋戦にして行かなければ、と考えたからである。 初代の王位を決めた一戦もぜひお目にかけたいので、勝負の経過を掲げておく。 第一期王位戦・第五局 昭和三十五年九月十九ー二十日 大阪府高石町羽衣荘 先・名人大山康晴 平手 0 八段塚田正夫 ・ 7 六歩 03 四歩・ 2 六歩 04 四歩・ 2 五歩 03 三角 〔 1 図までの指し手〕 158

10. 昭和将棋史

に敗れ、一時的にではあるが、五冠のうちの一冠を失ってしまった。 王将位を手離すにいたった第六局を掲げて、さえていた二上将棋の一端をお目にかけておく。 ニ上さんの振り飛車 第十二期王将戦・第六局 昭和三十八年三月十九日ー二十日 神奈川県箱根町強羅石葉亭 先・名人大山康晴 平手 ロ八段二上達也 〔 1 図までの指し手〕 ・ 7 六歩ロ 8 四歩・ 7 八銀ロ 3 四歩・ 7 七銀ロ 6 二銀 ・ 2 六歩 04 二銀・ 4 八銀ロ 3 二金・ 7 八金口 6 四歩 3 六歩ロ 6 三銀・ 5 八金口 7 四歩・ 6 九玉ロ 5 四歩 六歩 07 三桂・ 6 六歩ロ 5 五歩 ・ 2 五歩ロ 3 三銀・ 4 174