順位戦 - みる会図書館


検索対象: 昭和将棋史
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1. 昭和将棋史

順位戦の不安 さて、順位戦の仕組みについて簡単にのべよう。 プロ棋士全員は段位なしになったが、それまでの実績を勘案して、級、級、 0 級の三階 級に分類することになった。すなわち、八段十四名全員を級、七段・六段二十名全員を級、 五段・四段二十九名全員を 0 級としたのである。 そして、級の優勝者を名人位挑戦者とすることに決めた。ほか全員の序列は点数繝度によ って決めることにした。しかし、この決定は、周囲の状況を考えた場合、非青の約東とも一 = ロえ るものだったから、世情の移り変わりによって、変史されるのが当然と考えられていた 戦前も昇降段戦が催されていたが建前の感が強く、昇段も降段も実現することはなかった。 ところが、順位戦では一年ごとに昇降級するのだから、初めての時は過酷とも考えられた。普 通でさえ将棋などでは食べていけない時代なのに、地位まで失ってしまうのではたまったもの ではない、という声がしだいに大きくなるのも無理はなかった。 それに、スポンサーの日本ハップの求めた交換条件は、新聞の将棋欄に、「タベシリンと いう薬品名を取り入れてほしいというものだったが、毎日新聞はむろん、他の新聞社も、よい 返事はしてくれなかった。時事新報社と、いくつかの地方新聞には、毎日の使わない順位戦を

2. 昭和将棋史

果せない状態だったのである。 久しぶりに見る田園風景は、落ちこんだ気持ちを少しはなぐさめてくれた。 また、後援会の人たちもあたたかく接してくれるので、傷心もしだいにいやされる思いだっ た。ふるさとはいい、と思わず声を上げたい気持ちになったが、名人位をめざした頃の気魄が 消えていたのか、小さい声しか出なかった。 。自分の好きなよ 「康よ、地位、名誉、それにオカネなんかにあまりこだわらない方がいし うに将棋を指して、勝負は気にしない方がしあわせだよ。」 私の落ちこみを心配していた父の一言だったが、電流のように私の心の中をかけめぐる言葉 であった。 「そうだ、しあわせという言葉を忘れていた。なんのためにプロ棋士になったのか。それは、 つまりはしあわせな人生をすごしたいからだった。その原点を忘れ、初心を失っていては、自 代分の将来はそこそこに終わるしかない。」 王そこに気がついたとき、頭の中のモヤモヤはすっかり消えて、やり直しの第一歩を踏みだす 五気持ちになり、勇んで上京したのである。そして、どんな対局にもスッキリした気分で対局で きるようになった。升田さんから王将位と九段位を奪い返し、順位戦では塚田さんと名人位挑 149

3. 昭和将棋史

次 目 戦時下の将棋界・ 悲壮な名人戦 / 笑い話に大まじめの論議 / 本音 / 戦後は遠 くなりにけり / 無理を承知 / うれしかったこと / 棋道報国 会 / 運のよい人間 / 将棋大成会消える 名人への道 : ・ 終戦直後の苦労・ プラス、マイナスの入り混じり / 故郷へ / 順位戦開始 / イ ンフレに悩む / 順位戦の不安 / 任意団体なのには閉ロ 2 高野山の決戦 塚田新名人誕生 / 段位復活 / 高野山の決戦 / 升田さんの鋭 い攻め / 平常心を忘れる / トン死で勝ちを拾う / 対局場設 営の苦労 3 名人位へ初挑戦・ 粉屋をやめる決意 / 悲報 / なぜか燃えない対局 / 勝って望 .0 ・ 9. 111

4. 昭和将棋史

という方針だけは、将来ともに守って行こうとの決議を行ない、世間に発表した。 建前論を捨てて、プロに徹する道を選択したのはプラスであったか、マイナスであったかを 論じても、しよせんは空しいことかもしれない。また、どんな道に生きようと、その人なりの 全盛期は、必ず一度はある。その全盛期を段位で表示しておくのも、決して愚かな選択ではな いと田 5 、つ それにしても、当時、抜擢の制度を大きく取り上げたのは、ありがたく思えた。中には「三 段跳び」と言われる棋士も出現していた。私もそれほどではなかったが、恩恵に浴した一人で あった。八段にならなければ名人位挑戦者になれないと思っていたのに、成績が良かったから、 七段の地位で挑戦者になれるチャンスを与えられたのだった。 前年には級順位戦の優勝者が名人位挑戦者になるとされたが、昭和二十一一年には規約が改 正され、級の優勝者と二位、三位の者、および級の優勝者の四人が三番勝負を行ない、名 人位挑戦者を決定する仕組みに変った。すなわち、まず級優勝の私が級第三位の花田長太 郎八段と対局することになっていたのだが、花田さんは病気で倒れ、そのためすぐ級第一一位 の大野源一八段と三番勝負を闘った。その結果、私が二対一で勝ち、いよいよ級優勝の升田 さんと対戦することになったのである。

5. 昭和将棋史

順位戦開始 二十一年の初めに、東京の将棋大成会本部から、朗報が届いた。 棋戦再開の知らせである。私はびつくりしたが、うれしさがこみ上げて来た。父はもっと喜 んでくれたようだ。「康、よかったな」と言うだけで、後は言葉にならないつぶやきに変った。 当時考えていた私の本音を言えば、将棋で収入を得るとか、生計を立てていくことよりも、 「早く強くなりたい、早く八段になりたい」ということだけであった。だから、本当の意味の プロフェッショナルではなかったようにも思う。その占、 いまの若手は計算も早く、収入の面 にも強い気配りを見せているから、「プロ」の呼び名がビッタリする感じだ。 過去の栄光とか、権威なるものがすべて消え去ろうとしている時、プロ棋界だけがその流れ にさからっていては、将来への展望はない。過去に身につけた「段位ーの称号を捨てて新しい 出発をすべき時と考える、という発想のもとにつくられたのが、「順位戦」という棋戦たった。 提案者はむろん木村名人であった。 戦前、実力名人戦を主催し、その棋譜を掲載していた毎日新聞社が、すぐその提案に賛成し た。しかし、費用の一切を受け持つのには難色を示していた。

6. 昭和将棋史

勢観望がよいと考え、順位戦に打ちこんでいこうと決意した。 それにしても、当時朝日新聞と並ぶ読者層を持っていた毎日新聞から将棋欄が消えてしまっ たのは、普及をうたい文句にした社団法人日本将棋連盟にとっては、かってないほどの痛手と 一一 = ロうほかはなかった。 初の九段位に就く 情報も出て来た。将棋欄に力を入れていた読売新聞 落ちこみ状態の将棋連盟たったが、いい 社が、「九段戦」をつくりたいと呼びかけてきたのである。 読売新聞は、昭和二十三年から「全日本選手権戦、という棋戦をつづけてきた。そして、華 やかな名人戦を目のあたりにして、将棋にいっそう興味を深くしたらしく、「九段位」の争奪 戦をつくりたいという方針を決めたわけである。 道タイトル戦といっても、名人戦とは格違いと考えた将棋連盟幹部は、すぐに OX し、いまの へ十段戦の前身である九段戦ができあがった。そして、昭和二十五年、第一期九段戦で私が優勝 名し、初代の九段になったのである。 九段位は戦前にはなかった。「名人即九段」の考えがならわしになっていたからである。私 115

7. 昭和将棋史

一期目の順位戦が終了して、会員の中には「メシが食えない」という声が大きくなった。対 局料が少なすぎたからである。しかし、新聞社も苦しいし、スポンサーの日本 ( ツ。フもかんば しくないので、対局料の値上げは満足するほどできない。 そうなると、プロ棋士は他の働きで収入を増やさなければ生活はできない。対局料以外の収 入といえば、教える、講演をする、書くということぐらいしかない。その場合、なにか肩書き がないと格好がっかない、という不満が噴出した。 たとえば、「級大山康晴」では対局なら通るとしても、他では通じないというわけだ。世 間は混乱の時代であるし、「目立つ」ことはプロ棋界に・せひ必要だった。こうして、段位復活 問題が連盟幹部の間にも議論されるようになった。 「一年しか経たないのに、もう段位復活とはけしからん」との声も湧き出ていた。建前論か らすれば、なんたる軽薄、なんたる信念のなさ、と見なされ、非難されるのは当然と言ってよ 道かろう。 へしかし、プロ棋士は、将棋で生活する人びとである。それが不可能ならば「プロ棋士」とは 名呼べない。食うため生きるためにはぜひもなしとの意見が建前論を制して、「段位の復活ーを 決定した。とはいえ、段位と実力とを一致させる見解は捨てて、実力の表示はクラス制にする

8. 昭和将棋史

車を指すという意表の戦術に出たのである。 私は振り飛車が好き、というだけで、居飛車戦法よりもすぐれた作戦とは考えていない。む しろ、居飛車がよいのかも知れぬ、と思っているほどだ。だから、塚田振り飛車には、喜んで 居飛車で対抗した。振り飛車を嫌う人が、単にかけひきだけのことで振り飛車を用いても、う まくいくはずはない。終盤戦で、かなり追いこまれはしたが、それほどの苦労もなく私の勝ち になり、初代の王位を手にしたのである。 塚田さんは、戦後最初の名人になり、木村さんに取り返されたが、元気いつばいで九段位を とり、そして王位を争うほどの勢いを見せていた。これは「将棋は命」とまで言い切る、シン からの将棋人であったからだと思う。ただし、「将棋が好き」と「勝負に強い」とは、多少の 違いがあって、塚田さんにはいさぎよさが目立っ感じだった。 私は四冠王の立場になって、いつまでその地位を守れるかどうかが心に、 カかるようになって 将棋会館完成 加藤会長が勝負以外の面を リードするようになってから、発展にはずみがついて、新会館づ 162

9. 昭和将棋史

んな発言をするか、と会員はもちろん、。フロ棋界に関心を持っファンの方々も興味を深くして 塚田新名人は、「私は盤上一途、勝負一筋で、名人位を守っていきたいと思います。行政の 面は、今まで通り木村さんにお願いいたします」と、賢明な発言をした。おかげで会員には動 揺もなく、復興と発展をめざして進んで行ったわけである。 しかし、木村前名人にはかなりのショッ クであったらしく、次の順位戦でも全く生彩を欠い ていた。木村前名人とて鬼神ではないのだから、無一物のプロ棋界を復興させるのに精力を奪 われ、そのうえ、戦前の三日がかりの勝負ではなく、持ち時間各八時間の不馴れな一日勝負の 重圧に粘りを欠いたのが敗因と言えなくもなかった。それに、塚田さんが短期戦にことのほか 強味を持っていたのも、木村名人を倒す大きな要因であったと思う。 さて、勝負の世界は塚田名人時代に入ったわけだが、世間の経済情勢は苦しさを増してきた。 私は製粉業で、申し訳けないくらいのんびりしていたから、将棋で生計を立てて行こうという 気持ちは、それほど強くなかった。 段位復活

10. 昭和将棋史

六十三名のプロ棋士が参加する棋戦なので、木村名人も費用の面には苦悩していたらしい。 だが、「窮すれば通ず」の格言は・ハ力にならない。将棋愛好家の日本ハップ製薬会社の社長、 長原芳郎氏が、将棋欄に自社製品名を入れるという条件付きで一肌ぬごうと、共催を提言して きたのである。 これでプロ 木村名人としては、受け入れ難い条件ではなかったから、「ありがたきしたい、 将棋界も復活できる」と、長原社長の好意を受け入れた。経費の負担たけでなく、賞金も出そ うというのだから、棋士の多数も賛成した。 しかし、中には段位廃止には反対として、そのまま現役を去った棋士もいた。それなりの気 骨であったと思う。 順位戦が開始されて、プロ棋界は活気づき、復興の展望は大きく開かれてきた。私なども喜 び勇んで上京したが、あの時のはずむ思いはいまだに忘れられない。 道しかし、手に入る対局料は小遣い程度だったので、製粉業は続けることにした。将棋一本で へ生活を支えることのできる棋士はほとんどいなかったから、収入の面は初めからあきらめてい 々っこ 0