て注記するのと同じく、大宝律令見る青木和夫の = = 日律令国家論攷』岩波書店、一九九 二年 ) によるべきてあろう。「当時の人々は大宝律令を近江朝に創始された諸制度の順当 な発展と見ていたと思われる」と、青木は説くが、『日本書紀』は、そのような「歴史」 し」して五るとい - フこと、てある。 たいしよくかんでん 近江令編纂があったかのようにいう「大織冠伝」 ( 『藤氏家伝』 ) や「弘仁格式序」 ( 『類聚 ほんちょうもんずい 三代格』、『本朝文粋しはあるが、それをそのままもちこむのてなく、『日本書紀』が語る 「歴史」に即して見なければならない ( ,. ーこの天智 = 一年、十年の記事からさかのばれば、大化のときに制度整備として、 = 一年 ( 六 四七年 ) 是歳条・五年二月条に冠位制定があったことをいう。それに対応するものとして、 この記事はあるのてあ「て、、引盟日・い引・べ・ぎ ものとは認められない。 こ、つぶり 大化の冠位の改正として天智三年、十年のそれがあったが、大化の冠位は、「古き冠を ( 大化四年四月朔条 ) というのてあって、「古き冠」とは、推古天皇代のいわゆる冠位。 十二 ( 推古天皇十一年六〇一一〉十二月壬申条 ) のこと、の改定・ ' というのてある。 つまり、推古天皇のときの制度が起点てあって、その「古き」制度の転換を、大化以来 すすめてきた展開が、天武・持統天皇において、天武天皇十四年正月丁卯条の爵位の改 定、「令二十二巻」の編纂・班賜という、法制の整備となったというのてある。その『日 や とうし
持統朝の到達 『日本書紀』の「歴史」は、そうし ' 持統朝の到達、、。、大化以後の展開を経て果されたこ し」 . 早 ) ーい 天武朝からさらにさかのばるかたちて見てゆけば '—大智天皇十年 ( 六七一年 ) 正月甲辰 ヤ」うぶりくらいのり のたまいおこな ひつぎのみこみことのり あるふみ おおとものみこみことのり 東宮太皇弟奉宣して、或本に云はく、大友皇子宣命す。冠位・法度の事を施行ひたまふ。 あめのしたおおきにつみゆる のりのふみ 天下に大赦す。法度・冠位の名は、具に新しき律令に載せた という。それは、さきだって、同三年二月丁亥条に「冠位」を改定したとすることと関連 する。これを記事の重出として天智天皇の紀年にからめる論もあるが、『日本書紀』にそ のまま従って、天智朝に繰り返された冠位制定の動きとして見よう。 近江令の論議もこれにかかわってあるが、本日記に令の制定を示す記事はない。 分注に「新しき律令に載せたり」というのは、「近江令」のことと解されてきたが、直前 けだ ぎよしたいふ の十年正月癸卯条の「御史大夫」に「御史は蓋し今の大納言か」と、大宝令の官制をもっ 0 つぶさあらた 75 第三章文字の文化国家へ 「日本書紀」の「古代」
本書紀』のいう、推古朝以来の冠位制度の展開と、天武朝における根本的転換 ( 大宝令の 制につながるもの ) という「制度史」は、図表化して明確にされる。 青木和夫前掲書に、推古天皇十一年条、大化三年条、同五年条、天智天皇三年条、天武 天皇十四年条、大宝元年三月甲午条を、図表化したものがある ( 参照、本書爲四。 「一見して明らかなことは、智ての冠位が推古の冠位十二階の分化発展てあり、大宝 3 〔「をは、天武のそれの整理〔てあ「た」と青木のいうとおりてある。はじめてまとま った法典を得たのも、天武天皇のもとに編纂されて持統天皇の段階て班賜されたものてあ それが『日本書紀』のいうところて ( これが大宝律令の「准正」となった ) ある。 一 ( いたって、文字の文化国家として、世界が運行される水準が作り上げられた 持統天皇こ と、『日本書紀』は語る。それは歴史の現実の問題てはない。『日本書紀』からいかに現実 をとらえるかということに向かってきた歴史研究に対して、『日本書紀』に見るべきなの は ( 正確にいえば、見ることがてきるのは ) 、現実てなく、『日本書紀』の作る「歴史」の なかの持統朝だとあらためていおう。八世紀初の人々にとって、いまの自分たちの世界は そこにつながってあるのだという確認を果すものとして、それはある。 77 第三章文字の文化国家へ 「日本書紀」の「古代」
大智大黒大乙・ 建武立身 下 ! 上 下一上 上 下 下 ! 中 ! 上ー下一中一上下一中一上 . 建 肆 ! 参ー弐 : 壱肆ー参ー弐ー壱肆参ー弐 : 壱肆 字 諸 は 臣 下一上ヨ下一上下 ! 上ー下一上下一上 ! 下 ! 上下・ 「日本書紀』「続日本紀にみる推古朝以来の冠位制度の展開・転換 ( 青木和夫「日本律令国家論攷」岩波書店より ) 広次転次広 ! 大三震大広次 ! 広三発震大広次転 ! 広次広 ! 1 ごロ ・七位 : , 八位・ ・初位・ 「日本書紀」の「古代」 第三章文字の文化国家へ 7 9
そ きしのおなり ふくり 大使とす。吉士雄成をもて小使とす。福利を通事とす。唐の客に副へて遣 ことば つつし ここすめらみこと す。爰に天皇、唐の帝を聘ふ。其の辞に日はく、「東の天皇、敬みて西 もう の皇帝に白す。〈以下略〉」 さっき いっかのひ うだのの ふじはらのいけほとりつど くすりがり ⑥ ( 十九年 ) 夏五月の五日に、菟田野に薬猟す。鶏鳴時を取りて、藤原池の上に集ふ。 したが あけぼのも もろもろのおみきもの こうぶり すなわゆ 会明を以て乃ち往く。〈中略〉是の日に、諸臣の服の色、皆冠の色に随 だいにんしようにん だいとくしようとくならびこがね おのおのうずさ ふ。各髻花著せり。則ち大徳・小徳は並に金を用ゐる。大仁・小仁は なかっかみお だいら ) 豹の尾を用ゐる。大礼より以下は鳥の尾を用ゐる。 あいつづ みかどもうおもぶ はた ⑦ ( 二十年 ) 夏五月の五日に、薬猟して、羽田に集ひて、相連きて朝に参趣く。其の うだ かり 装束、菟田の猟の如し。 ⑧ ( 二十二年 ) 夏五月の五日に、薬猟す。 くにつふみおみのこむらじ ことしひつぎのみこしまのおおおみ はか すめらみことのふみ ⑨ ( 二十八年 ) 是歳、皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連 とものみやっこくにのみやっこももあまりやそとものおあわせおおみたからどももとっふみしる 伴造国造百八十部井て公民等の本記を録す。 冠位十二階 ( ② ) が、憲法十七条 ( ③ ) とともに、 持統朝への展開の起点てあることは 見たとおりてある。その冠位は、④とあいまって、秩序を目に見えるかたちて示しだすも のてあり、具体的な行事の場面Ⅱ五月五日の行事て顕現して ( ⑥⑦⑧ ) 、意味をもつ。その おおっかい よそい そいっかい きみとぶら あかっき おさ やまと つかわ もろこし
文字とは別にあった「古代」ーーー「古事記』の「古代」 文字のはたらきを語らないことは、文字とは別にあったものとして語るというのが正し いてあろう。 『古事記』は、自分たちの「古代」は、文字とは別にあることが元来のすがただと語ろう としたのぞある。文字が外から来たことを強く意識して、文字にふることがなかったと イわ いうべきなのご。 八世紀初の律令国家成立時において、司天皇以前が。・ー間掲川分たちにつながらないも のとして「古」てあった。『古事記』が、そこて区切りとしたという結果に従ってそう見 よう。その「古代」にと「て 2 賢天皇以後、系譜記事しかないということは、その他は 語るべきものてはなかったということてある。 うまやとのとよとみみのみこ たとえば、『日本書己の推古天皇巻は、厩戸豊聡耳皇子を皇太子として、その執政の もと、仏教受容を推進し、冠位十一一階と憲法十七条を制定、中国王朝との交渉をひらくな 3 『古事記』の「古代」と『日本書紀』の「古代」
「古代」は、その「歴史」のなかにもとめられたのてある。 法制をたどって見たように、その「古代」世界は推古朝において大きく転換し、持統天 皇にいたりつくものはここにはじまるというのてあった。冠位十二階と憲法十七条とは、 文字の法制の国家への起点となる踏み出しなのだということがてきるが、ことは世界の運 行という点て見られるべきてあろう。 起点としての推古朝 そうした視点から、推古朝にあらわれたものを取り出してみるならば、つぎのような記 事が取り出せよう。 かむなづき くだらほうしかんろくもうおもぶ てんもん ふみあわせ ① ( 十年 ) 冬十月に、百済の僧観勒来。 。仍りて暦の本及び天文地理の書、井 どんこうほうじゅちふみたてまっ ふみまなぶるひとみたりよたり て遁甲方術の書を貢る。是の時に、書生三四人を選びて、観勒に学び 3 「古代」の転換としての推古朝 よ こよみためし
とある。 にほんりよういき 「朱鳥」延長にかぎっていえば、すてに、平安時代初期の『日本霊異記』 ( 弘仁年間Ⅱ八一 おおみわのたけちまろ 〇ー八二四年に成ったと認められる ) にも確認される。上巻第二十五縁は大神高市万侶がその 言オカ書き出しにはつぎのようにある ( 新日本 一丁いによって、諸天の感応を得たという舌ご・ : 古典文学大系『日本霊異記』出雲路修校注、岩波書店、一九九六年による ) 。 ふみ おおきさき もとのちゅうなごんじゅさんみおおみわのたけちまろのまえっきみ 故中納言従三位大神高市万侶卿は、大后天皇の時の忠臣なり。有る記に云はく いでま みか もろもろっかさおおせこと あかみどり みずのえたつのとしきさらぎ 「朱鳥七年壬辰の二月に、諸の司に詔して「三月の三日に当りて伊勢に幸行さ なりわい さまた こころ むとす。此の意を知りて設備くべし」とのたまふ。時に中納一巨農務を妨げむことを したが いでま ひょうたてまっ おそ 恐り、表を上りて直諫めたてまつる。天皇従ひたまはず、なほ幸行さむとす。是に 其のな《の冠を脱きて朝庭に擎上り、また重ねて諫めたてまつり、「方に今農 とき いでま の節なり。行すべからず」とまうす」といふ 要するに、農耕の時季の行幸は、民の妨げになると諫言し、いれられなかったのて官職 をかけて再度諫言したというのぞある。「其の嬋の冠を脱きて朝庭に擎上」ったというの 0 やよい もうひとつの「歴史」 203 第八章「万葉集」
わたしたちは、「聖徳太子」の名を、ごく普通に用いている。遣隋使・冠位十二階・憲 法十七条を、「聖徳太子」の事績としていうことも、教科書などて一般になされている。 しかし、『日本書紀』が、遣隋使等、推古朝の事績を語るなかには、「聖徳太子」の名は 見えない。あくまて「皇太子」てある。たとえば、憲法十七条に関しては、推古天皇十二 いつくしきのりとおあまりななおち ひつぎのみこみずかはじ うづきひのえとらついたちっちのえたつのひ 年条に、「夏四月の丙寅の朔戊辰に、皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたま ふ」し」い - フ 、。語るべき「古代」てはないのてあり、 には、推古天皇条は系譜だけしかなし 『古事記』 かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと はしひとのあなほべのみこ 卩という名が登 間人穴太部王の所生の御子として、「上宮之厩戸豊聡耳」 用明天皇条に 録されるだけてある。 要するに、『古事記』にも、『日本書紀』にも、「聖徳太子」が語られることはないのて に、古代の人々が ある。「聖徳太子」はどこにあったのか。『古事記』『日本書紀』とは」一 みずからの「古代」をつくるいとなみのなかにありえたものとして見るべきてはないか。 0 166
ふみ は、官を朝廷に返上したことをいう。ここに「有る記」が引用されるのだが、「朱鳥七年」 云々というのは、持統天皇六年の伊勢行幸のことてある。その「記」は、八世紀に遡るか もしれないテキストご、 オが、そこに、天武天皇末年の「朱鳥」がそのまま延長されて用いら れているのてある。 四四歌左注は「読み違え」ではない この諫言のことは、『万葉集』 に、その伊勢行幸関係の歌 ( 四〇ー四四歌 ) を載せたあと の左注にもかかわる。『日本書紀』と、「有る記」との三者の関係が問題となるのだが、対 照のために、原文のまま、左注と『日本書紀』とを掲げよう。 四四歌左注右日本紀日、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以浄広肆広瀬王等、為留守 官。於是、中納言三輪朝臣高市麻呂、脱其冠位、擎上於朝、重諫日、農作 之前、車駕未可以動。辛未、天皇、不従諫。遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、 御阿胡行宮。 ( 六年 ) 三月丙寅朔戊辰、以浄広肆広瀬王・直広参当摩真人智徳・直広肆 『日本書紀』 2 0 4