きよみはらりよう 持統卓 ( 元年Ⅱ六八七年、六九七年八月譲位 ) には、法制 ( 浄御原令といわれている ) が整備さ れ、生活の秩序化ないし組織化が果されたと、『日本書紀』は語っている。生活の秩序化 というのは、暦の施行と、宮廷行事の組織とを、そう呼ぶのがふさわしいから だが、それは、世界の運行の問題として、法制の整備と一体のものてある。 宮廷行事の体系化 生活の秩序化 ( 組織化から見てゆこう。 暦の施行は、持統天皇の四年 ( 六九〇年 ) 十一月甲申条に 0 げんかのこよみぎほうのこよみ 0 ・・勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ。 とある。元嘉暦は、南朝の宋の一嘉一一十年 ( 四四 = 一年に観承天がつく「た暦、儀鳳暦は、 唐の麟徳一一年 ( 六六五年に李淳風がつくった暦という。両者を併用したというのてある。 それとあいまって体系的に組織された宮廷行事について、持統朝にはじまったとされるも のを、列挙的に示せば、次のとおりてある。 ( 組織化 ) みことのり うけたまわ 65 第三章文字の文化国家へ 「日本書紀」の「古代」
辛亥五三一 為 ~ 朋安閑即位 空位 壬子五三ニ 癸丑五三三 甲寅五三四安閑元 2 崩宣化即位 乙卯五三五 丙辰五三六 宣化元 己未五三九 4 崩欽明即立 庚申五四〇欽明元 辛卯五七一 〔書紀〕 丁亥五〇七継体元 崩 継体・欽明朝年表 継体元 安閑元 2 崩宣化即位 宣化元 〔喜田・林屋説〕 4 崩 % 崩 ・天月卩立一 へ工日 - 日い′ 4 ー 欽明一兀 鬨崩 第六章「占事記』「日本書紀」とは別にありえた「古代」 15 3
一般化されてしまう「聞こしめす」「言向く」 丸山はさまざまなテキストから統治にかかわる表現 ( キイワード ) を取り出して並べ、構 造化するというやりかたをとる。その資料の中心となるのは『古事記』だ。「政事の構造」 ても『講義録』ても、論述をささえる具体例は、たとえば、「ことむく」は『古事記』に しか見えないとさきにいつご、、、、 ほとんど『古事記』から出たものなのぞある。 そのように『古事記』に依拠しながら、しかし、 ハラタイム化されたものは、「きこし めす」にしても「ことむく」にしても、言語行為によって「政」と天皇のありようとを表 象するという、『古事記』の本質に目を向けることなくすり抜けさせてしまっている。 丸山にあって、「きこしめす」も「ことむく」も、 一般化することによって言語行為に おいて表象されるということをうしなわせてしまったのてあった。 「きこしめす」は文字通り「聞く」て、覆奏・奏上を聞くことに通ずる。そして臣下 の奏上を聞くということは、聴覚を通じて外のものが入ってくることてあり、ロの味 覚を通じて外のものを食するのと同様に古代人が考えたとしてもおかしくない。 ( 『講 義録し 53 第二章「聞く」天皇ーー「古事記」の「古代」世界
と答えて、平定は完了する。「言向け」は、服属を誓う「言」の確認てあったといえる。 ちなみに、大国主神は、なぜ「僕は、白すこと得ず。我が子八重言代主神、是白すべ し」というのか。「八重言代主神」の名義は、「八重」が美称、「言代」は神言の代行をい 「主」はその代行をつかさどる謂い。 つまり、大国主神を祭り、その神のことばを示 す職能が神格化された神てあり、神を祭るものたちがみずからを神格化したものなのてあ る ( 参照、益田勝実『火山列島の思想』ちくま学芸文庫、二〇〇六年、初出一九六八年 ) 。祭られる神 のことばは、この祭る神を通じてしかあらわれえないのてあり、大国主神が「僕は、白す こと得す」とい - フゆえんてある。そこにまた、まさに、 ことばが決 ~ 疋的た 0 のだとい - フこと をも見るべきてある。 ひとつの方向に組織された言語行為において表象される天皇 このように見てきて、あらためて、倭建命にたちもどって確認しよう。その「政」 「言向け」は、「荒ぶる神とまつろはぬ人等」からのことばの徴発てあり、それを果して 「かへりことまを」し、天皇が「きこしめす」ことによって完了するのてある。こ - フして、 「聞く」天皇について、次のように図式化してまとめることがてきる。
の月」となったのてあり、日本思想大系本の注が指摘するとおり、「万機を摂行せしむ」 が、『日本書紀』にはないのも、別なものに拠ったからてあろう ( 他の記事についても同 じことがいえる ) 。また、『日本書紀』は、即位紀年て述べるが、「景行天皇五十一年辛酉」 のご」 / 、に、 一々の年に干支をつけることはない。さらに、第二蔀の首を、六六一年とす あめとよたからいかしひたらしひめ ることについて、「天豊財重日足姫天皇、七年辛酉秋七月崩じ、天智天皇即位す」と、蔀 首の年たるゆえんを確認するのだが、この辛酉は、天智天皇の称制のはじめてあって、即 ー・ン立した年てはない。 もはや、『日本書紀』そのものは見られていないといわざるをえない。『日本書紀』にか ロ〕 ) わるものに拠っていて、それを「日本紀」と呼んているのてある。その「日本紀」は、 『日本書紀』と無縁てはないが、『日本書紀』を改編したテキストというのが正当てあろ う。それが、勘文という、まさに公的な文書をささえていて、権威をもっているのてあ 「皇代記」ーー・正史の簡略化テキスト 現実にあった、そのテキストは、のちに「皇代記」と呼ばれる類と性格を共通にするも のてあった。正史を簡略化し、通史化した、「皇代記」と呼ばれるテキストが、同じ名て 107 第四章紀年をもつ「日本書紀↓の「歴史」
「政事の構造」 テキストの「古代」を一般化して古代の問題として見、現実の間題につなぐのてあって はならない このことを、丸山真男「政事の構造」 ( 『丸山真男集第十二巻一九八二ー一九八 七』岩波書店、一九九六年、初出一九八五年 ) 〈の批判を通じて、よりはっきりさせよう。 丸山は、古代天皇制国家における「政事 ( まつりごと ) 」の把握を次のような図式化に 集約する。 つに まゐりのばる ( 参上 ) 3 丸山真男批判 きこしめす しろしめす・しらす ( 治・知・馭・馭宇 ) か ~ りこぎまをす ( 覆奏・復命・報命 ) つかへまつる ( 仕奉 ) そ心く ( 背向・叛 )
皇以来の全体を構成する。部分的なものを、レベルの違う全体構成に対置するのは、正当 なやりかたとはいえない。 はやく、喜田貞吉「継体天皇以下三天皇皇位継承に関する疑間」から、これを支持した 丸山二郎『日本紀年論批判』 ( 大八洲出版、一九四七年 ) 、林屋辰三郎「継体・欽明朝内乱の 史的分析」 ( 喜田・林屋の論は、上田正昭編『論集日本文化の起源 2 日本史』平凡社、一九七一年に 収められている。初出は、喜田一九二八年、林屋一九五二年 ) などの論議は、この点て批判的にふ りか、んら、ね、はたる 6 、 『法王帝説』の紀年によって生じる問題として、欽明天皇の治世年数が四十一年て、その 七年の戊午年 ( 五三八年 ) に仏法が伝来したということだと、五三二年が欽明元年となる 一方、『日本書紀』の紀年によると、五三四年が安閑元年て、五三六年が宣化元年だから、 この二天皇と、『法王帝説』の欽明治世とが、まったく重なってしまう。喜田・林屋は、 それを、欽明朝と安閑・宣化朝との二朝が並立した ( 喜田 ) 、ないし、一一朝が対立する内乱 状態にあった ( 林屋 ) という把握に導いたのてあった。その問題のとらえかたは、次ペ ジのように年表化される。 『法王帝説』の欽明天皇の紀年を、そのまま、『日本書紀』の欽明のところにいれると、 たしかに、重複・並立という事態のようにみえる。しかし、喜田・林屋説は、ひとつのテ 152
すくなびこなのかみ となっ ' 、、 オこの神の国作りを御子の少名毘古那神が助け、高御産巣日神は、天孫降臨にあ たって天照大御神とならんて高天原の側の主神てあったこと等々、てある。 「古事記』の一般化 その『古事記』の叙述を通じてとらえだされることが、一般化されてしまうのてある。 それにあわせて、『日本書紀』の冒頭については、 『淮南子』や『三五暦紀』の文句て修飾したために、多少字句は修正したものの、こ のギャップ ( 「古代中国の観念に圧倒的な影響を受けながらも、日本の古伝承との間の、ある種の 違和性」と前にあるのをうける ーー神野志 ) が埋まらないままて、「故日、開闢之初、洲壌 浮漂」云々という節にはじまる説話に入っている。 として、「故日」以前に語られる陰陽論的な天地の分離という世界のはじまりは「修飾」 だといって実質的には排除され、『古事記』とともに「古伝承」を見ることが成り立って たしかに、『日本書紀』の冒頭、
は、「ことむけ」ー↓「 ( をす・」ー↓「きこしめす・」、とい , フ、こと、ばのべク -z ・ルに見るとおり にもかかわらず、それがことばの間題てあることを落として一般化されてしまうの は、『日本書紀』等とあわせて、古代の「政事」のありようとして一般化しようとするこ とによる。さらには、日本の全時代を通じる構造ということが、そうとらえるならば整合 的に成り立っことによる。『古事記』把握の不徹底をいわねばならないと述べたが、じっ はその不徹底ゆえに成り立っ論議なのてある。ことは、根本的な方法の問題としてある。 「歴史意識の「古層」」について よく知られている「歴史意識の「古層」」の論 ( 丸山真男「歴史意識の「古層」」『丸山真男集 第十巻一九七一一ー一九七八』岩波書店、一九九六年、初出一九七二年 ) についても同じことをいわ ねばならない この論は、「記紀冒頭の叙述を手がかり」に、「共通した基本発想」として 「なる」「つぎ」「いきほひ」という「基底範疇」を取り出し、日本の歴史意識の「執拗な 持続低音としてひびきつづけてきた思様式」を見ようとしたものてある。 しかし、 記紀神話の冒頭の叙述の流れが、ムスヒの二神の象徴する生成増殖の、「萌え騰る」
いくつもおこなわれていたことは、よく知られている ( 参照、『国史大辞典』吉川弘文館、「皇 代記」「年代記」の項 ) 。「皇代記」と呼ぶのは、天皇の代をおうかたちて編成されるからてあ る。もっとも簡略には、前天皇との続柄・治世年数・即位年・崩御年月・御年という要素 だけてなるものもあり、治世における主要事項を書き入れるものもあって、記事量にはあ る程度幅があるが、要するに、コンパクトな通史てある。 それは、六国史のように、大部て、しかもいくつもにまたがるのてなく、見渡しがてき るものとしてもとめられたのてある。平安時代後半以後、実際に歴史認識をになうのは、 「皇代一 = 」類てあった。『町本嚮紀プを・見・をご、い」なく、それらによっ・・て、・、、「古代」・・・に・識ざれ ていた。 いま、三善清行も、この「皇代記」的なテキストに依拠して、「古代」の辛酉・ 甲子を検証したのだと認められる。『日本書紀』の範囲をこえて、その検証はなされてい るのてあり、通史化したものに拠っていることはあきらかだ。 『日本書紀』と異なるテキストに拠ったと見られることは右のとおりだが、「皇代記」 のつながりをより積極的に加えるならば、神武元年を「周の僖王三年」にあたると確認す るような、和漢対照の記事の問題てある。中国との対比が、辛酉・甲子に関してなされる こうした対照記事が定型化して 力、もとより、それは『日本書紀』にあったのてはない。 ゆくことは、「皇代記」類に見られる。もっともはやい「皇代記」類のひとっとして確認 108