天皇 - みる会図書館


検索対象: 複数の「古代」
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1. 複数の「古代」

志癸の御世に、戊午の年の十月十二日に、百斉国の主明王、始めて仏の像経 わたまっ 教井びに僧等を度し奉る。 とある。 『法王帝説』の末部の天皇一覧には ( この部分は、訓読文は不要と思われるのて、句読点を施すだ けにした ) 、つぎのようにある ( 参照、次ページ図版 ) 志帰嶋天皇治天下卅一年辛卯年四月崩。陵、檜前坂合岡也。 他田天皇治天下十四年乙巳年八月崩。陵、在川内志奈我也。 池辺天皇治天下三年丁未年四月崩。秋七月奉葬 ( 河内磯長中尾山陵 ) 。或云、川内志奈我中尾陵。 倉橋天皇治天下四年壬子年十一月崩。実為嶋大臣所滅也。陵、倉橋岡在也。 少治田天皇治天下卅六年戊子年三月崩。陵、大野岡也。或云、川内志奈我山田寸。 「志雰」は欽明天皇、「他田天皇」は敏達天皇、「辺天皇」は用明天皇、「倉耨天 おはりだ 皇」は崇峻天皇、「少治田天皇」は推古天皇のことてある。 0 143 第六章「古事記」「日本書紀」とは別にありえた「古代」

2. 複数の「古代」

ことてある。 け加えていえば、系譜記事にあっては、后と御子とをあげ、さらに、御子について説 明するかたちをとる。そのなかては、どの御子が天皇となったかを確認することを含むの が定型てある。 図式化すれば、次のとおりてある。 命、坐ーー宮、治天下也。 ( 系譜記事 ) ( 物語記事 ) 天皇御年、ーー歳。御陵、在ーー也。 これが基本的なかたちてある。記事の多い天皇の条は、系譜記事が長くなり、物語記事 力はいることによって、拡大されるだけのことてあり、構成の基本は、変わらない て、物語記事には紀年がない。 これが、『古事記』中下巻のありようだ。 『日本書紀』は、神武天皇を除くすべての天皇の元年の末尾に「是年、太歳ーー」と干支 を記して天皇の治世のはじまりを標示したうえて、記事は、ー年ー月ー朔ー として、天 1 2 2

3. 複数の「古代」

「政」を「聞こしめす」神武天皇 一 ) し J は として元来の「古代」を語るのが『古事記』だ ラル 文字とは別な、 いたか、それは、そうした世界にあるものとしての天皇のすがたを見ることとともに より明寉にされる。 最初の天皇神武の、いわゆる東征の発端のことばは、問題をくつきりと示している。 はか たかちほのみやいま ねいっせのみこと かむやまといわれびこのみことそ 神倭伊波礼毘古命と其のいろ兄五瀬命との二柱は、高千穂宮に坐して議りて云はく なおひむかし いでま か つくし て、即ち日向より発ちて、筑紫に幸行しき。 これが、中巻の書き出してある。その「東に行」 まつりごと 天皇と「政」 たいら あ ふたはしら かしはら くことは、橿原の地に宮を定めて天下

4. 複数の「古代」

りにあたって、こうした「聞く」という表現て天皇のありようを示すことは注目されてよ いのてはないか。 聞′ \ こし」は、、 しうまてもなく、それ自体ては成り立たない。言う ( 天皇に対してならば 「まをす」 ) ことと対応して成り立つものてある。そのことは、『古事記』中巻のおわりの応 神天皇の物語において、いまの神武天皇のことばとあたかも対応するようなかたちてあら われてくる。 「政を執りて白す」 応神天皇条は、「陀和気命、軽島の明宮に坐して、ルの下を治めき」と書き起こした おお あと、后妃・皇子女の系譜記事が型どおりに続き、物語的記事に入るが、そのはじめに大 やまもりのみことおおさざきのみことうじのわきいらっこ 山守命・大雀命・宇遅能和紀郎子の三人の皇子の分治の話がある。 天皇が、大山守命と大雀命とに向か「て「汝等は、兄の子と弟の子とれか愛しぶる」 ( お前たちは、年上の子と年下の子とてはどちらがいとしいと思うか ) と尋ねたという。これは、末 の子てある宇遅能和紀郎子に天下を治めさせたいという気持ちがあってのことだった。大 山守命は年上がいとしいと思うと答えたが、大雀命は、天皇の心を察して、年上の子はす ぞに成人しているのぞ心配ないが、年下の子はまだ成人していないのて、こちらがいとし

5. 複数の「古代」

と認められる。『法王帝説』自体は平安時代中期に成されたものてあり、直接の資料とな ったのはその時点にあったものだ。しかし、漢風諡号てなくそれ以前の呼び名により、 「冶天下」とあるのは、八世紀以前にさかのばる資料から出たものということになる。 その一覧において、欽明天皇について治天下四十一年とするのてあり、『日本書紀』が 欽明天皇の治世年数を三十二年とするのと大きく異なる。この『法王帝説』の紀年構成な 図版に見るとおり、 らば、戊午年は欽明七年としておさまり、混乱もきたさない ( ただ、 「王代云卅二年文」という注記がある。「王代 ( 記 ) 」を見合わせて、それには、三十二年 とあるというのてある。このことについては後に述べる ) なおいえば、さきの一覧ては、池辺天皇 ( 用明天皇 ) 三年、倉橋天皇 ( 崇峻天皇 ) 四年と いう治世年数も、『日本書紀』とは異なる。『日本書紀』ては、用明の治世は二年、崇峻の 治世は五年となっている。崩年干支は『日本書紀』にあわせたものてある ( 『日本書紀』 は崩年に干支を記さないから、正確にいえば、元年の干支にあわせて崩年の干支を導いオ ものてある ) 。 欽明四十一年、用明三年、崇峻四年という、『法王帝説』の治天下年数は、崩年干支と は別に見るべきてあり、治世年数は、あきらかに『日本書紀』とは異なる紀年に由来する ものと認められる。 145 第六章「古事記」「日本書紀」とは別にありえた「古代」

6. 複数の「古代」

めと とこねつひこいろねのみこと あがたぬしはえ むすめあくとひめ が兄、県主波延が女、阿久斗比売を娶りて、生みし御子は、常根津日子伊呂泥命。次 しきつひこのみこと みこたちあわ おおやまとひこすきとものみこと に、大倭日子鈕友命。次に、師木津日子命。此の天皇の御子等、井せて三柱の中に おさ みこいま おおやまとひこすきとものみこと 大倭日子鈕友命は、天の下を治めき。次に、師本津日子命の子、二はしらの王坐し うま・」 なばり いなき いなき き。一はしらの子、孫は、〈伊賀の須知の職・那婆理の稲置・三野の稲置が祖ぞ〉。一はし あわじ みこ わちつみのみこと みいのみや かれ むすめあ らの子、和知都美命は、淡道の御井宮に坐しき。故、此の王、二はしらの女有り。兄 はえいろね また おおやまとくにあれひめのみことおと はえいろど の名は、蠅伊呂泥、亦の名は、意富夜麻登久邇阿礼比売命。弟の名は、蠅伊呂杼ぞ。 皇の御年は、肆拾玖歳ぞ。御陵は、畝火山のみほとに在り。 綏靖天皇と安寧天皇とは記事の分量は違うが、かたちはおなじてある。まず、名をあ げ、「冶天下」をいうことにはじまる ( はじまりの標示 ) 。下巻の場合は、名の前に前の天 皇との続柄を示す ( 仁徳天皇と雄略天皇を除く ) 。それにつづけて、系譜記事があり、物 かある場合には系譜のあとにつづける。そして、「御年・御陵」て閉じる ( おわりの標 示 ) 。ただ、 下巻には「御年」 ( 享年 ) のないものが少なくない ( 参照、後掲の一覧 ) 。訓読文 を載せるときに、「綏靖天皇」「安寧天皇」というような、見出しをつけることが多いが、 原文には、そうしたものはない。はじまりの標示・おわりの標示といったのは、『古事記』 においては、はじまりとおわりの約束がこのようにあることて区切りとなっていたという おや え 1 2 1 第五章紀年をもたない「古事記」と崩年干支月日注

7. 複数の「古代」

丸山真男による「政事の図式」 ( 「丸山真男集第 12 巻」岩波書店より ) 天神 ( あまっかみ ) 皇祖第 太上天皇 正統性天皇・大王・・大君・帝・国家 - すめらみこと / おはきみ / みかど ( Legitimacy ) 政 決定大臣・卿・群卿・大夫 第二章 cf. あめのした ( 天下 ) cf. あまつひつぎ まへつきみ . / まへつきみたち (Decision- makin g ) 政事 まつりごと つかへまつる ( 仕奉 ) 百姓・民・人良・万民・蒼生 おほみたから / ひとくさ / あをひとくさ a ) b ) c ) d ) e ) ( 天津日継 ) つかへ - まつる ( 仕奉・奉仕・奉持 ) まをす・まをしたまふ ( 申・奏・奏賜 ) をさむ・をさめまつる ( 治・理・治奉 ) なす・おこなふ・とる ( 為・行・執 ) とりもつ ( 執持・取持 ) ことむく・ことむけやはす《 ( 言向・言趣・言向和平 ) cf. おもむけ ( 風化 ) ( む ) - は実質的な政事関係を示す。 は文章の接続を示す。 5 1 「聞く」天皇 「古事記」の「古代」世界

8. 複数の「古代」

暦録第一云。崇神天皇六十一一年乙酉秋七月、詔日、農天下之大本也。然待 溝池乃成。宜作池溝。冬十月、造依網池。十一月、造苅坂池・反折池。 ( 『政事要略』所引 ) 『暦録』が意をとって『日本書紀』を簡略化することは見るとおりだ。 四巻という圧縮ぶ りは、『日本書紀』ては巻五の崇神天皇を第一巻に収めるというのても諒解される。 さきの『伝暦』跋文は、『日本書紀』に不満をもっといいつつ、『暦録』の暦年に依拠す るというのてあった。『暦録』と『日本書紀』とか別物てあるかのようにいう、その不可 解さは、『日本書紀』そのものは見ていない ( 名だけ知っている ) ということだと認めてよ いてあろう。 さらに、『暦録』の紀年のありかたか、年に干支を示し、月まてにとどめて日は記さな いことが注目される。これは、『釈日本紀』等に見える他の逸文ても同じてある。『日本書 紀』の紀年を改編したものなのてあるが、『伝暦』の紀年のかたちも、これと同じてある。 そして、それは、第四章に見た、『革命勘文』が依拠した通史的なテキストの紀年のかた ちに通するものてあることか、たたちに想起される。 『暦録』 186

9. 複数の「古代」

いうかたち ( 大唐皇帝、と同じ ) て制定されたことによっても、『日本書紀』という書名 の原則 ( 正史は『漢書』のごとく、王朝名を冠する ) によっても、王朝名と認められる。 王朝名が、この世界関係の「歴史」を負ってあるものとして根拠づけられるのてある。 中国王朝とのあいだては「倭」と呼ばれる関係は、第三章にとりあげた、推古朝におけ る「大唐」 ( 隋 ) とのあいだの国書に見るとおりてある。 これに対して、『古事記』ては、神功皇后が新羅国王に服従を誓わせることは同じだが、 っさいあらわれない。つまり、呼びあらわしがないのてあり、それは、朝 鮮が外部にあるということてはなく、それゆえ、朝鮮との関係を標示することがないとい うまかい みやけ うことてある。『古事記』において、新羅は騎飼、百済は海の向こうの屯家と定めたとい う。大八島国の延長にそのまま包摂され、天皇の「天下」の一部となるのてある。さら あめのひほこ 、応神天皇条の最後に、新羅の国王の子天之日矛の話を載せ、神功皇后が、天之日矛の 血筋をひくことをいう。それは、皇后と新羅とのかかわりの必然をいうとともに、新羅か ら渡来したものがそのまま定着したというのてあって、新羅が外部てはないことをし めす。 次ページのように図式化すれば、問題は明確になろう。 この章のはじめに、『古事記』と『日本書紀』とては、神功皇后の扱いが違うといった 「日 , 个」は、い 1 1 5 第四章紀年をもつ「日本書紀」の「歴史」

10. 複数の「古代」

持統朝の到達 『日本書紀』の「歴史」は、そうし ' 持統朝の到達、、。、大化以後の展開を経て果されたこ し」 . 早 ) ーい 天武朝からさらにさかのばるかたちて見てゆけば '—大智天皇十年 ( 六七一年 ) 正月甲辰 ヤ」うぶりくらいのり のたまいおこな ひつぎのみこみことのり あるふみ おおとものみこみことのり 東宮太皇弟奉宣して、或本に云はく、大友皇子宣命す。冠位・法度の事を施行ひたまふ。 あめのしたおおきにつみゆる のりのふみ 天下に大赦す。法度・冠位の名は、具に新しき律令に載せた という。それは、さきだって、同三年二月丁亥条に「冠位」を改定したとすることと関連 する。これを記事の重出として天智天皇の紀年にからめる論もあるが、『日本書紀』にそ のまま従って、天智朝に繰り返された冠位制定の動きとして見よう。 近江令の論議もこれにかかわってあるが、本日記に令の制定を示す記事はない。 分注に「新しき律令に載せたり」というのは、「近江令」のことと解されてきたが、直前 けだ ぎよしたいふ の十年正月癸卯条の「御史大夫」に「御史は蓋し今の大納言か」と、大宝令の官制をもっ 0 つぶさあらた 75 第三章文字の文化国家へ 「日本書紀」の「古代」