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検索対象: 複数の「古代」
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1. 複数の「古代」

というとらえ方てある。「古代社会論」 ( 「岩波講座日本歴史 2 古代 2 』岩波書店、一九七五年 ) にはじまる、この門脇の地域国家論の全体把握は、『古代日本の「地域王国」と「ヤマト 王国」』上・下 ( 学生社、二〇〇〇年 ) に、わかりやすくまとめられたが、『古事記』『日本書 紀』の語る「古代」とは異なるかたちて、いわば多元的に見ようとするのてある。 また、ひとつには、古田武彦の「多元的古代」の論がある。「多元的古代の成立ー - ー邪 馬壹国の方法と展開」 ( 『史学雑誌』九一編七号、一九八二年 ) をはじめとする論は、『多元的古 代の成立上邪馬壹国の方法』『多元的古代の成立下邪馬壹国の展開』 ( 駸々堂出版、一九 八三年 ) 等にまとめられたが、中国側史料に見るべきなのは、七世紀にいたるまて近畿 王朝とは別な九州王卓オ 月ごとして、古代日本列島における権力の多元性を主張するものて ある。 両者は、現実の古代の把握としては、根本的に異なるところがある。しかし、『古事記』 『日本書紀』には、そうした現実の古代があらわされず、、、、第 6 " 第町・・ ~ い・ 2 ・い叫一ー 「古代」に一元化してしまっているとして、批判的に見ようとすることは同じだといって これに対して、テキストのレベルて見届けようとするのは、現実の側の間題てはないの 29 第一章文字をめぐる「古事記」「日本書紀」の物語

2. 複数の「古代」

とあり、『元興寺縁起』と合致している。 「日本書紀』の紀年的世界と『法王帝説』の欽明親子五天皇史 『日本書紀』における紀年構成は、公定のものとしてあったが、そこに収斂されてしまう のてなく、それとは別なものが、ならんてあったというべきなのだ。仏法伝来が、五五二 年か、五三八年かという、その違いは、「古代」構築の問題のなかにあったということて ある。異説・異伝などてはなく、多元的な「古代」と、その紀年構成というのが正当てあ ろう。『日本書紀』によってひとつの一致した紀年構成を得たというのは、ことの本質を 見誤ってしまうてあろう。 ただ、『日本書紀』の紀年構成は全体にわたるものてあった ( 鎌田元一前掲「暦と時間」 す、「紀年的世界」というとおりてある ) が、他にあったものが、それほど全体的てあっ たか、疑わしい 『元興寺縁起』は、推古天皇百年史てあり、『法王帝説』は、欽明以下五天皇にかかわる 範囲ぞ、あれこれの記事を切り貼りして集成したものてあって、欽明親子五天皇の範囲て の「古代」史だ。このことに留意したい。 『法王帝説』の五天皇の治世年数と崩年干支は、部分的なものだ。『日本書紀』は神武天 151 第六章「古事記」「日本書紀」とは別にありえた「古代」

3. 複数の「古代」

「日本書紀』と合致しないことの意味 『古事記』にとっての意味を見ようとするとき、大事なのは、その崩年干支注が、『日本 書紀』の紀年と異なるということそのものだ。要は、『日本書紀』の紀年構成と異なるも スタイルもふくめて、徹底して『日本書 のーー見たとおり、干支そのものだけぞなく、 紀』とは違ってあろうとするもの , ーーが、現実にならんてあったということてある。先行 した試みてあったが、一元化されない紀年構成が並存したのてある。 それは、『古事記』を、『日本書紀』とは違う「歴史」としてあらしめるというべきてあ ろフ その崩年干支は、部分的施注に過ぎないといわれるかもしれない。鎌田元一前掲「暦と 時間」が、『古事記』のような「紀年構成の試みは、やがて『日本書紀』の紀年的世界と な」るというのには、全体生をもたない ( 「紀年的世界」とはいえないレベルに過ぎない ) 『古事記』の崩年干支ということをこめたニュアンスがうかがわれる。 しかし、徹底的に異なるというありようから、あえていうならば、施注された崩年干支 は、それしかなかったのてはなく、全体的に崩年干支によって紀年構成されたものてあっ たなかから、『日本書紀』とは合致しないものを選びとっているのだと見ることも不可能 てはない ( 『古事記』の成立が七一二年て、『日本書紀』が七二〇年の成立だから、成立過 135 第五章紀年をもたない「古事記」と崩年干支月日注

4. 複数の「古代」

巻一、二の基本的なかたちをモデル化すれば、次のようになる。 ーー・宮御宇天皇代 ーー時ーー作歌 日本紀 ( 紀、日本書紀 ) 曰 こうしたかたちて組織されているものは、巻一、二だけてあり、この二巻の特別性を示 している。『万葉集』をいわば規定していると見るべきてあろう。 全体が一貫して整えられているとはいいがごい。たとえば、巻一ては、五四歌以 後、題詞に年号が記されるという、以前とは違った体裁となる。五三歌まてがます編ま かのえとら 庚寅の年の秋九月に、天皇が紀伊国に行幸したとある ) という左注がある。具体的な年月の確認 てある ( 「朱鳥」という年号の問題は後に述べる ) 。 巻一、二には、このような左注があわせて十七例にのばる。 巻一、ニの基本的なかたち ( 歌 ) 19 4

5. 複数の「古代」

同じ延喜のころに、『暦録』があり、『革命勘文』の依拠したテキストがあったのてあ る。その関係は、不明というほかないか、『日本書紀』にかわって、こうした、改編され 簡略版通史的テキスト ( 「皇代記」の類 ) がおこなわれていて、公認もされ、スタンダ ードとなっていたことを見るべきてある。 そうしたなかて、『伝暦』は、『暦録』をみずからの紀年の基準とし、そこに、『日本書 糸』かっくったところから広がっていったものをはじめとする、さまざまな説話的拡大を 引き取りながら、「聖徳太子」を完成したのてある。 「法王帝説』の位置 この『伝暦』と対抗するようにして、第六章て見た『法王帝説』は成されたのだととら えられる。『法王帝説』は、平安時代中期に成されたものてあり、『伝暦』と同じ資料的環 境にあった。そのなかて、欽明天皇以下五代における仏法展開と、そこて大きな役割を演 じた「聖徳法王」とを、『伝暦』のごとき、『日本書紀』的紀年 ( 実際には、『日本書紀』 を簡略化した『暦録』においてあった ) とは別なものをもとめて構成したのだといえ ば、その性格を明確にてきよう。 『法王帝説』は、「太子伝の流れのなかてやや孤立した存在て、後代の太子伝 ~ の影響は 「古事記」「日本書紀」の語らないもの 187 第七章「聖徳太子」

6. 複数の「古代」

ごと、あらためていおう。 テキストにあらわれる王権 ( 国家 ) については一元的といってよいことに即して見よう ということなのてある。現実はどうてあれ、『古事記』『日本書紀』ともに、同じひとつの ( 〔第をしての「歴史」・を語るという、ことは動かない。同じ天皇の代々において、大和を中 心とする国家として語るのてある。しかし、その「代」世界のありようは一元的てなく 示しだされることを、「複数」とい それぞれの「古代」を見てゆきたいのてある。

7. 複数の「古代」

「講談社現代新書」の刊行にあたって 教養は万人が身をもって養い創造すべきものてあって、一部の専門家の占有物として、ただ 一方的に人々の 手もとに配布され伝達されうるものてはありません。 しかし、不幸にしてわが国の現状ては、教養の重要な養いとなるべき書物は、ほとんど講壇からの天下りや 単なる解説 ( こ終始し、知識技術を真剣に希求する青少年・学生・一般民衆の根本的な疑間や興味は、けっして 十分に答えられ、解きほぐされ、手引きされることがありません。万人の内奥から発した真正の教養への芽ば えが、こうして放置され、むなしく滅びさる運命にゆだねられているのてす。 このことは、中・高校だけて教育をおわる人々の成長をはばんているだけてなく、大学に進んだり、インテ リと目されたりする人々の精神力の健康さえもむしばみ、わが国の文化の実質をまことに脆弱なものにしてい ます。単なる博識以上の根強い思索カ・判断力、および確かな技術にささえられた教養を必要とする日本の将 来にとって、これは真剣に憂慮されなければならない事態てあるといわなければなりません。 わたしたちの「講談社現代新書」は、この事態の克服を意図して計画されたものてす。これによってわたし たちは、講壇からの天下りてもなく、単なる解説書てもない、 もつばら万人の魂に生する初発的かっ根本的な 問題をとらえ、掘り起こし、手引きし、しかも最新の知識への展望を万人に確立させる書物を、新しく世の中 に送り出したいと念願しています。 わたしたちは、創業以来民衆を対象とする啓蒙の仕事に専心してきた講談社にとって、これこそもっともふ さわしい課題てあり、伝統ある出版社としての義務てもあると考えているのてす。 一九六四年四月野間省一

8. 複数の「古代」

あまりなかったようてある」といわれる ( 飯田瑞穂『飯田瑞穂著作集 1 聖徳太子伝の研究』吉川 弘文館、二〇〇〇年 ) 。それは、『日本書紀』的紀年が圧倒的てあったなかて、あえて、それ とは別なものをもとめたが、太子伝においては、『伝暦』が圧倒的に規制的てあったと、 - フこし J 、てのる。 『法王帝説』における、戊午年 ( 五三八年 ) の仏法伝来、壬午年 ( 六一三年 ) の太子薨をは じめとする紀年構成は、紀年標示において、月にとどまるのと、日まて記すのとがあるこ とからすれば、複数のテキストによったと見るのが妥当てあろう。 それらが、八世紀にさかのばるものから発していると認められることを、第六章て見 た。そこには、『日本書紀』とは異なる「古代」構築の可能性が、部分的てあれ、あった。 『法王帝説』が、『伝暦』に対抗する紀年構成をもとめ、実現したとき、その可能性が、あ らわれててしまったのだというべきてある。 のべてきたことを、次ページのように図式化してまとめとしよう。 188

9. 複数の「古代」

第三章に述べたこともあわせて、まとめていおう。 「法王 ( 皇 ) 」として、上宮太子を特別視するテキストが、はやく七世紀前半、太子の薨 後すぐに成された。それは、独自な紀年を有するのてあった。法隆寺薬師仏光背銘や天寿 け、拡大する諸テキストが、七世紀末以後になってつくられる。 国繍帳銘など、それをう 「聖王」「大王」などと呼びながら、仏法の興隆を、太子に仮託して語るものてあった。そ うしたなかて、八世紀初には、「聖徳」という諡号も定着していた それは、歴史認識ということがてきる。推古朝と太子とを「歴史」における画期とす る、八世紀的認識というべきてある。 それが、「古代」としての推古朝をつくるいとなみのもとにあり、『日本書紀』において は、全体的な紀年構成をもって「歴史」を構築するなかに、「古代」の転換としての推古 朝を成り立たせて具体的なかたちを得た。それにならんて、別な紀年と「聖徳」とをもっ て語るテキストもあったのてある。「聖徳」の名は、『日本書紀』とは別なところて定着を 3 「聖徳太子」の完成 180

10. 複数の「古代」

『古事記』崩年干支に見られるような紀年構成の試みは、やがて『日本書紀』の紀年 的世界となって結実した。 としたのてあった。 えているところがある 鎌田が、『日本書紀』の構築を「紀年的世界」というのは、いい が、やはり、『古事記』にとって間われるべきものが間われていないといわねばならない 『日本書紀』とは異なる紀年構成が、『日本書紀』以前の試みとしてあったといっておわる のては、『古事記』がそれを注記することの間題は、問われないままだ。 大事なのは、成立の事情てなく、崩年干支の注が、『古事記』にとってどういう意味を 0 つ、が 4 に 4 並んであった紀年 134