目次 はじめに 日本国家の起源に迫る / 発掘考古学が変える邪馬台国像 / 東国からみた邪馬台国 第一章「魏志倭人伝」の謎 中国の史書に書かれた古代の「倭」 / 『三国志』のなかの「魏志倭人伝」 / 「魏志倭人 伝」から邪馬台国は探せない / 女王卑弥呼と箸墓伝説 第ニ章「魏志倭人伝」を読む 卑弥呼の外交戦略 / 「魏志倭人伝」の全文を読んでみよう 第三章邪馬台国成立前夜ーーー激動の東アジアと倭国大乱 邪馬台国成立前夜の中国と朝鮮半島 / 中国の史書のなかの倭国大乱 / 「漢委奴國王」 印の謎 / 後漢中平年鉄刀への疑問 / 朝鮮半島系の遺物が語ること / 祭祀の道具に転 化した青銅器 / 出雲神庭荒神谷遺跡の銅剣 / 出雲に青銅器が集中している理由 / 銅 鐸の祭りはなぜ終わりを告げたか / 共通した思想体系 / 東京湾沿岸も邪馬台国の
いるのだが、この大廓式土器について、赤塚次郎氏は、尾張地方の廻間式土器との関連か ら「この土器は廻間Ⅱ式で、二三〇年だね」と断定した。 もしも赤塚次郎氏の土器編年による暦年代が正確だとすると、邪馬台国の卑弥呼は二四 七か二四八年に亡くなっているので、卑弥呼の生きていた時代に沼津には六〇メートル前 後のかなり立派な前方後方墳が登場し、斜縁の二神二獣鏡のような朝鮮半島系の鏡も存在 していた、ということになる。 私たちは、中央の文化は徐々に地方に影響をおよぼし、伝播するものだと理解してきた が、まちがいなのかもしれない。古墳の出現は中央の畿内からだけでなく、全国各地域で も政治的、経済的な諸条件が整えば、その地域に出現する可能性はじゅうぶんにありうる のではないか。 このように考えれば、前述の高尾山古墳で大廓式土器が出土し、三世紀初頭頃の前方後 方墳が発見されたことは少しもおかしいことではない。 もう少し尾張・遠江・駿河などの考古学資料の精緻な分析の結果を待たなければならな いことは言うまでもないが、高尾山古墳は、邪馬台国時代の見方をとらえかえす契機にな るかもしれない。 191 第五章土器と墓が語る邪馬台国
尾古墳や山口県周南市の竹島 ( 御家老屋敷 ) 古墳出土の正始元年鏡などまですべて国産鏡だ とすると、なぜ三世紀前葉の魏の年号、すなわち景初三年、正始元年という年号を入れた のか理由がっかめない。 森浩一氏は青龍三年鏡は国産鏡との立場をとっており、「日本に東渡した中国工人が、 直接あるいは間接的に製作に関与した銅鏡である」と考えている。作家の松本清張氏など も、この鏡は国産だという主張をされていたが、京都大学系の先生方は依然として、舶載 鏡であるとの立場である。 しかし日本本土でも鋳型が出ないのでは日本製であるという証明もできない。弥生時代 の中期から後期にかけて、あれほど細かい銅鐸を作った技術があったにもかかわらず、鏡 の鋳型が出ないというのはどうしたことであろうか。もっとも、鋳型といっても石型でな く、砂型で仕上げれば、こなごなに壊してしまうのだから、という人もいる。 考古学というのはあくまでも厳正な事実にもとづく学問なので、これまで一面も中国本 土から出てこないということは、中国製ではないのではないか、はっきりと態度を決する べきだと、九州説の先生がたはおっしやるわけである。 三十三面の三角縁神獣鏡 150
これらを総合すると、卑弥呼の宗女台与が王となり、その後男王がまた立ち、中国の爵 位を並び受けた。晋の武帝泰始初に通訳を重ねて入貢したのは卑弥呼の死から数えて約十 八年後と理解できる。 そしてその情報は『日本書紀』神功紀六十六年の条に引用として、「武帝泰初二年十月、 倭女王遣重訳貢献」と記されているのである。これらのことから倭の女王台与が、二六六 年に西晋に朝貢したとされることは、どうも事実とみてよいのだと思われる。 その後台与がどうなったか、いっ亡くなったかはまったくわからない。しかしこの記事 は、箸墓築造年代が争点になるなか重要な意味をもっことになった。つまり、測定 法によって箸墓の築造が二四〇—一一六〇年と限定されるなら、二六六年に西晋に遣いを送 って爵位までもらっている台与の墓であるはずがない。 もしも邪馬台国が近畿にあったと仮定すると、二四〇—二六〇年に突如として築造され た最初の巨大な前方後円墳である箸墓は、卑弥呼の墓の可能性がきわめて高くなる。 はたして箸墓築造二四〇 5 二六〇年は、正しいのか否か。正しいとすれば何がわかるの か。これはのちほど考古学の観点から検証してみることにしよう。
おこなって人びとを惑わせる。年はすでに長大で、夫や婿はいない。弟がいて政治を助け ている。卑弥呼が王になってから、卑弥呼を見たものは少なく、千人ぐらいの婢が身の回 りの世話をしている。男一人が、飲み物や食事を給仕したり、卩 命令を伝えたりするため に、出人りを許されている。宮殿には楼閣や、城柵などが厳重につくってあり、兵がつね に武器をもち警護している。 いよいよ、ここからが邪馬台国論の本丸である。「其の国」というのは、邪馬台国のこ とか、倭国のことか、ということである。 私どもは考古学の研究者であるから、読み流してしまうのであるが、文献史学の研究者 は綿密に検討している。前後の文脈からいって邪馬台国なのかどうか。邪馬台国では男子 をもって王となしたことがあったのかどうか。解釈の仕方によっては、倭国であるという こと、もでを」る。 とどまること七、八十年。つまり男の王が七、八十年治めていたが、倭国あるいは邪馬 台国が乱れて何年ものあいだ戦闘状態になり、そこで一女子を共立して、王となした。そ の女王を卑弥呼というのだと。 ひみこ 卑弥呼は、じつはどう読むのかわからない。日巫女、日御子、姫御子、日女子、姫子な ど男性の敬称「ヒコ ( 日子 ) 」に対する女性の敬称ともされている。 たかどの ひみこ むこ ひめみこ ひめこ ひめこ
ロ年のところは欠けていてわからないのであるが、中平年間は後漢末の年号 ( 一八四、一 八九 ) である。そのなかで五月に丙午があるのは、中平元年と中平四年と中平五年の三回 しかない。この三回のうちのいずれかの年に造られた大刀ということになるのであろう。 かとく ただ、陰陽五行説では丙は火徳、午は南を意味するそうで、こうした刀には、おめでた い丙午という文字を入れる習慣があるので、五月の丙午という銘から年号は特定できない のだという意見もある。 星宿は天球を二十八に分割した二十八宿で構成され、丙午は南方七宿 ( 朱雀 ) にあると いう。占術でいまも用いられる言葉のようである ( 以上、『よみがえるヤマトの王墓ーーー東大寺山 古墳と謎の鉄刀』天理大学附属天理参考館考古美術室編、天理大学出版部、一一〇一〇年 ) 。 しかし、この刀をどう解釈すればよいかは容易ではない。二世紀の終わり近くに後漢で 造られたものが、奈良県天理市の四世紀中—後半頃に造られた全長約一三〇メートルの前 方後円墳に眠っていた。 考古学の常道は「もっとも新しい副葬品で、遺跡の年代を決める」ことであるが、それ からいえば、全体の副葬品からみて、四世紀後半の築造と思われるこの古墳の年代がまず 基本になる。 しかしこの鉄刀の製作年代は一八四年から一八九年までの中平年間。『梁書』の記す霊
が、東日本の長野県木島平村の根塚遺跡から出ている。海外からの遺物が西日本の、日本 海沿岸の地域だけでなく、より東方の地域から出てきている。 出雲の弥生時代遺跡からは、楽浪系の弩といわれる、木で作った機械的に矢を放っ弓の すずり 一部が発見されている。また楽浪郡時代の硯の破片も出ている。このように、日本海沿岸 の有力な首長とその集団の半島との交流が、弥生時代の後期段階には活発化していたので はないかと思われる。日本列島内における弥生時代の社会発展は丹後半島から若狭湾へと のびる日本海沿岸の海上輸送力の増大にともなって大きく伸長したのである。 これらの事例はかならずしも九州経由ではないのかもしれない。モノと人の流れが北音 九州を経て、日本海沿岸におよんだという理解の仕方もできるし、ダイレクトに日本海沿 岸の地域に人ってきたとも考えられる。このようにダイナミックに人とモノとが移動して いる。 箸墓と大和連合政権 二千字足らずの「魏志倭人伝」は文献としては、倭の古代を知るうえで、たいへん貴重 な史料である。しかし、最近の考古学関係の資料を見ていけば、よほど色眼鏡をかけなけ れば、邪馬台国は北部九州にあったとは言えない。また纒向遺跡が邪馬台国の所在地だと 252
かどうか。その確証はまったくといっていいほどない。きわめて有力な遺跡ではあるとし ても、纒向遺跡全体の五パーセントしか調査されていないとされるため、現時点ではまだ 何も断言できない。これが考古学の立場から見た現実である。 もともと「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の記述はわずか二千字足らず。しかもその 記述はあまり正確なものではない。 「魏志倭人伝」には魏から邪馬台国に至る里程が記されているのであるが、邪馬台国の所 在地の解明をその記述に求めていくと、女王国は九州の陸地を越えてはるか南海に達して しまうという厄介な問題にぶちあたる。 江戸時代から読み継がれてきた連続式の読み方は、「魏志倭人伝」の旅程をそのまま素 直に読み下した読み方。一方、東京大学の榎一雄氏が戦後発表された放射式の読み方は、 伊都国をセンターとして放射線状に各国と通じるというとらえ方で邪馬台国を九州内に納 めた。 大和説の場合は南へ邪馬台国に至る、という記述を東への誤りだとして読み替える。あ るいは九州にあった邪馬台国が東遷して大和に来て大和王権をうちたてた、という具合に 解釈して所在地を比定しようとする。しかしまだまだ多くの研究者を説得できるほどの説 も遺跡も出てきてはいない。 25 第一章「魏志倭人伝」の謎
莱一章 莱二章 莱三章 講談社日 00K 僕楽部 http://www.bookclub.kodansha.co.jp/ 下記 URI. て、現代新書の新刊情報、話題の本なとが直接ご覧いたたけます。 http://www.bookclub.kodansha.co.jp/books′gendai/ 著墓は卑弥呼の墓か、纒向は邪馬台国の宮殿跡か 講談社現代新書 起源に迫る ! 日本国家の 三角縁神獣鏡は「魏志倭人伝」の鏡か 談 社 現 代 書 2154 四章 莱五章 莱六章 本書の内容 「魏志倭人伝」の謎 「魏志倭人伝」を読む 邪馬台国成立前夜ーー激動の東アジアど倭国大乱 薯墓 = 女王卑弥呼の墓の可能性をさぐる 土器墓が語る邪馬台国 鉄鏡の考古学 邪馬台国をとらえなおす 288154 ・ 8 現代新書 2154 ー https://eq・kds.jp/kmail/ 編集担当者のこほれ話なとを配信。下記 URL よりお申し込みくたさい。 こでしか読めない充実の連載、各月の新刊情報、著者からのメッセージ、 ・現代新書メールマカジンのご案内
の考古学的事実は、当時の備前と大和、出雲とがかなり深い連帯関係にあったことを示す と考えられるのである。 また、瀬戸内地方と大和との関係性もまだまだ考えなくてはならない点が大いにある。 だから私は二四〇—二六〇年という年代についても、直ちに決定とは考え難く、なお慎重 に検討すべきではないかと思っている。 また箸墓古墳では二重周壕跡Ⅱ外壕遺構と盛り土が発掘されている。 桜井市教育委員会によれば、墳丘南側から外壕と見られる遺構と、その外縁部に人工的 な盛り土の跡が見つかり、墳丘北側ではすでに同様の遺構が発見されている。 幅は約一〇メートルの内壕、その外側に幅約六メートルの堤、さらにその外側に幅約五 〇メートル、深さ約一・二— ・六メートルの外壕と見られる遺構が見つかった。また、 その外縁部に高さ約一メートル分の盛り土を施していたということで、二重周壕だったこ とがほぼ確定したということである。 ちょういき これで、箸墓は巨大な兆域と初期の前方後円墳としての規格を備えた墓であることがよ り濃厚になったわけである。 しかも殉葬の問題もなおざりにはできない。卑弥呼の墓の周辺に一緒に埋葬されたはず の奴婢百余人の痕跡はどうなのか。この記述が正しいかどうかもまた問われなければなら 227 第六章箸墓 = 女王卑弥呼の墓の可能性をさぐる