この庄内式土器、布留式土器の北部九州の集中度をいったいどのように理解すればいい のか。 土器の移動や集中と、邪馬台国の所在とは関係ないという考え方もあるが、こういう土 器のありかたを見れば、この時代には九州よりも畿内が台風の目であると言わざるをえな いのである。 それを裏付けるように、纒向の箸墓古墳の墳丘からは、台風で倒れた木の根元から、岡 山地方の特殊器台や特殊壺と同様の特徴をもっ器台や壺が、多くの供献された土器どとも たてつき に出土した。その岡山地方の特殊器台はさらに、倉敷市楯築墳丘墓と、出雲市の西谷三号 という四隅突出型墳丘墓との関係の深ささえ論じることができるほど共通した特色を示し ていた。 ほうき この事実は、日本海沿岸の出雲・伯耆・因幡などの山陰地方と、備前・備中と播磨、摂 津という瀬戸内地方との関係の深さを示す。このような、広範な地域における弥生社会か らの交流と発展状況を見ていけば、箸墓古墳が出現する歴史的背景として、山陰・北陸地 域と瀬戸内沿岸の備前・備中から播磨、摂津という広汎な地域の歴史的な動態と密接な関 係が結ばれていた事実が浮かびあがってくる。この点を克明に解き明かしていけば、おの ずと邪馬台国の実像が見えてくると思われるのである。 いなば 200
山第系 向遺跡 吉第系 継向遺跡への土器の集中 ( 橿原考古学研究所附属博物館 ) 外来系 15 % そ 大総数 他纒向 2 式 和 844 個 85 % 西部瀬戸内 3 % 播磨 3 % 近江 5 % 紀伊 1 % 関東 5 % 7 % 河内 山陰 北陸 その他 3 % 鉢 4 % 纒向 1 式 甕 ~ 高坏 4 % 123 個 纒向 3 式 50 纒向出土外来系土器の比率 ( 石野博信・関川尚功編「纒向」 ) 駿河系 大和 外来系 1 開 % 西部瀬戸内 近江 ヒ陸 - ' 紀伊 内 番磨 関東 50 0 東海 纒向 1 式 纒向 2 式 纒向 3 式 総数 10 % 123 個 / 17 % 器台 4 % 1 開 % 50 0 ロ その他 1 開 % 0 第五章土器と墓が語る邪馬台国 199
尾江博 、近属 備内所 一か系学 の山 地、河蔵 各系駿館 ところがいま見てきたように、日本各地でつくられたと思われる遺物が出土しているに もかかわらず、九州の土器はほとんどない。これはなぜなのだろうか。 土器の流れで見ると、近畿地方から吉備、瀬戸内を通って北部九州に広がっていく。そ れから、琵琶湖沿岸を通って山陰へ。あるいは近畿から東海地方を通り、海岸伝いで千葉 県、東京、埼玉へ人る。 二世紀後半から三世紀代、まさに、邪馬台国の時期に畿内の庄内式土器や布留式土器 が、吉備の土器、山陰の土器とともに、福岡平野、かっての奴国のあった地域に運ばれて いる。しかし、数のうえでは圧倒的に庄内式と布留式土器が他の土器を凌駕している。 り - よ、つか 198
纒向遺跡への土器の流入は最大規模 さて卑弥呼の宮殿跡が見つかったと話題になった奈良県の纒向遺跡には日本列島内の各 地から、人とモノが集まっている痕跡がある。しかも、他地域からの土器の流入は日本最 大規模だ。 纒向遺跡の発掘に携わっている桜井市教育委員会の報告によると、多数の搬入土器 ( 外 来系土器 ) の割合は、大和の土器が八五パーセントであるのに対して、一五パーセントも ある。一五パーセントの外来系土器のうち東海系が四九パーセント。山陰・北陸系が一七 ーセント。河内が一〇パーセント、吉備が七パーセント、関東が五パーセント、近江が ーセント、紀伊が一バーセントと ーセント、播磨が三パ 五パーセント、西部瀬戸内が三パ なっている。東海地方のものが多い。 大和の纒向遺跡と東海地方との人やモノの交流はかなり色濃い。しかし、山陰や北陸な どとも関係があることがわかる。そして纒向遺跡も時代が新しくなるにしたがって、外来 系の土器の比率が高くなってくる。 弥生後期後半になると東海だけでなく、山陰、北陸、河内、近江の土器が増えてくる。 ということは、広範囲で人の往来が激しくなってきたことの証である。 197 第五章土器と墓が語る邪馬台国
先に述べた愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎氏のように、方形周溝墓から前方後方 墳へ展開したとし、尾張地域中心の弥生土器が土師器に展開したとする説もある。字状 ロ縁台付甕形土器の拡散、伊勢湾沿岸地域の特色をもった土器の広がり、前方後方型周溝 墓制の強力な拡大などを論拠とし、独特の文化、社会体制の地域があったとして、尾張を 狗奴国と考える説もある。ひとつの仮説としては面白いと思うが、断定できる段階ではな いだろう。 これまで見てきたように、弥生時代中期後半の社会が示す文化的な領域を考えれば、列 島の広汎な地域を包みこんでいたと理解すべきではないか。 また朝鮮半島の土器が、北九州だけではなく、瀬戸内、畿内、関東からも出ている事実 も押さえておかなくてはならない。東日本からも朝鮮半島の土器が出ているのは、二世紀 から三世紀、邪馬台国が登場する時期の日韓関係、日中関係が活発だったことを物語って いる。 しかも、これまでわれわれは北九州こそが大陸との人やモノの受容の入り口だと考えて きたが、朝鮮半島から直接日本海沿岸にいたる交通というものも考えられる。 邪馬台国の勢力範囲を考えるとき、その事実を抜きにしては語れない。非常に複雑化し ていたというように考え方が変わりつつある。 196
団移住。これもまた平穏な社会とは思えない。この頃、日本列島のなかで、何かがあった と考えられる。その背景には、一八〇年代の倭国の大乱で卑弥呼が共立されるという列島 内の内乱状況があったのではないか。 「卑弥呼死す」頃の土器 邪馬台国時代の最近の発掘調査を見ると、各地がほぼ同時進行のかたちで時代が刻々と 移っていたのだと考えられるようになった。 弥生後期後半から終末にかけて、地域的斉一性、つまり畿内的、いわば中央日本的な土 器の特色は、各地へ拡散し広範囲に伝播していく。弥生終末期には、畿内の庄内式土器な どが瀬戸内から北九州地方へ大量に運ばれている。 なかだかせかんのんやま また群馬県富岡市には中高瀬観音山遺跡があるが、この標高六〇メートル以上の丘陵の 上に弥生後期・終末期の集落があり、そこの住居はほとんどが火災にあっていたことがわ かった。 そういう弥生後期・終末期の村落のありかたは、はたして出雲をふくんだ西日本の世界 だけで終わるのか否か、あるいは関東をふくまない東海以西に統一性があるのかどうか、 私たちはそれを考えなくてはならない。 195 第五章土器と墓が語る邪馬台国
ま畍国Ø讙ØVJ 味 0 0 193 第五章土器と墓が語る邪馬台国
土器と人間の激しい移動 こうして土器の動きや墓の変遷を追いかけてみると、二世紀から三世紀の日本社会の変 化の動的要因には、邪馬台国問題が少なからず関わっていると思える。しかしそれが商業 的な経済活動の結果によるものなのか、あるいは戦乱によるものか、考古学的に実証する のは無理なようにも思われる。 ただ、畿内のほうが古くて、先進的という理解、つまり大和政権の成立地であるから中 央が優位で地方が劣勢という従来の理解は、改める必要がある。最近の土器の型式論、編 年論、他地域の土器の移動、人間集団の移動等を総合的に考えると、弥生時代の終末期 は、日本列島内で土器が地域間でかなり激しく動いていたということだけはまちがいなく 言えるのである。 関東では、荒川流域の武蔵野台地のいちばん縁辺にある、成増、赤塚、赤羽に至る地域 から弥生後期の住居跡がたくさん発掘されている。ここから遠江地方の弥生土器が出土し ている。東京都新宿区の、長径一一〇メートル、短径九〇メートルくらいの、やや楕円形 しもとっか の堀を巡らした弥生時代後期の大環壕集落である下戸塚遺跡からも、大井川、天龍川を越 えて東海地方西部の土器が見つかった。他にも、東海や北陸地方の特色をもった土器が相 当量出ている。 なります 192
いるのだが、この大廓式土器について、赤塚次郎氏は、尾張地方の廻間式土器との関連か ら「この土器は廻間Ⅱ式で、二三〇年だね」と断定した。 もしも赤塚次郎氏の土器編年による暦年代が正確だとすると、邪馬台国の卑弥呼は二四 七か二四八年に亡くなっているので、卑弥呼の生きていた時代に沼津には六〇メートル前 後のかなり立派な前方後方墳が登場し、斜縁の二神二獣鏡のような朝鮮半島系の鏡も存在 していた、ということになる。 私たちは、中央の文化は徐々に地方に影響をおよぼし、伝播するものだと理解してきた が、まちがいなのかもしれない。古墳の出現は中央の畿内からだけでなく、全国各地域で も政治的、経済的な諸条件が整えば、その地域に出現する可能性はじゅうぶんにありうる のではないか。 このように考えれば、前述の高尾山古墳で大廓式土器が出土し、三世紀初頭頃の前方後 方墳が発見されたことは少しもおかしいことではない。 もう少し尾張・遠江・駿河などの考古学資料の精緻な分析の結果を待たなければならな いことは言うまでもないが、高尾山古墳は、邪馬台国時代の見方をとらえかえす契機にな るかもしれない。 191 第五章土器と墓が語る邪馬台国
沼津の前方後方墳と朝鮮半島系の鏡 たかおさん 二〇一〇年春に発掘がおこなわれた静岡県沼津市にある高尾山古墳 ( 調査当時は辻畑古 墳 ) といわれる前方後方墳は注目すべき古墳である。発掘調査報告によると、舟形の割竹 形木棺から、斜縁の破鏡舶載鏡 ( 半肉彫六乳獣帯鏡 ) が一面と、剣・鉄鏃などの鉄製品が若 干出てきた。 0 れら 0 鏡は、出現期 0 古墳に副葬されて」る三角縁神獣鏡より前に、朝鮮島 0 地で 製作された可能性が高まっている。あるいは楽浪郡経由で入ってきたとなると邪馬台国 論にも影響を与える。さらに、発掘された鏡など副葬品からも、高尾山古墳は沼津で一番 古い古墳だろうと推測される。 この高尾山古墳の後方部の墳頂や周壕内からは相当量の土器が発掘された。外反する幅 広のロ縁部に、縦に隆起線が何本かつけてある二重ロ縁の壺形土器がかなりふくまれてい た。この土器の型式をどうとらえるかによって高尾山古墳の年代が推定される。 また、二重ロ縁の壺形土器のロ縁部が逆転して、下のほうに落ちている場合もある。静 おおぐるわ 岡県の考古学研究者は、この土器に大廓式土器という型式名をつけている。 この土器は、二〇〇〇年頃までは、弥生時代と古墳時代の境目にあたるものといわれて きた。全国の土器編年でみると、筆者は古墳時代前期初頭の土器である土師器だと考えて つじばたけ 190