9 3 2 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 3 0 2 6 1 0 1 3 1 192 1 1621 2 18 137 291 9 274 25 37 円後 336 ※京都府丹波 66 フ 9 1 4 7 弥生時代の鉄製品出土数 ( 大阪府立弥生文化博物館編「青いガラスの燦 き』大阪府立弥生文化博物館、 2002 より。川越哲志「弥生時代鉄器総 覧」 をもとに作成 ) ど中 め て 鉄 あか に と に 子 し的な九 も 文 う 白勺 . し るな数 甲 邪器 、化 解て い州 Ⅱ 見 て を 馬 わ は い 。が絹程釈出 は射 こ邪地れ 九 て九優製度す土 る 福 と 馬 国州 か い州位品や ら 。岡 る し が は 以 ロ る 説 や 社 と い国検 が は外 し の て 0 論な 生 . △ か く の 討 く た か っ活構 し倒邪 論す る 迴 考 的 . 馬 も て て も か理 る の ロな 古 工、キ旨 ロ 存 い 北多 に と つ ど 学 と優国摘 部 る く 在は の か 的 イ立 こ 出 す納鉄広 九出 の は ら 矛 の所 る得 た と 土 月 1 土 い 盾 の 考 よ 在 は例い し だす の の っ を か否 い出古 う 地 も け る て、 第四章鉄と鏡の考古学 109
それが後漢鏡であれば後漢鏡を多く埋納している九州が有力になる。一方、卑弥呼の鏡が 魏の皇帝から贈られたとすれば、その鏡は魏鏡で、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡であるは ずだと考える研究者が多かった。 二三センチメ 三角縁神獣鏡は、鏡縁がダイナミックな三角形断面を呈し、面径は一三 ートルという大型鏡で、主要な文様が神獣文であるという点が特徴である。この縁が三角 たかはしけんじ になっている鏡を三角縁神獣鏡として鏡式にしたのは、上野の帝室博物館にいた高橋健自 氏だった。高橋氏は、三角縁神獣鏡という名前は使っていない。この言葉を学術用語とし てはじめて使ったのは、やはり帝室博物館にいた、筆者の恩師の後藤守一先生である。後 藤先生は『考古学雑誌』十巻六号 ( 一九二〇 ) に「銅鏃に就て ( 五 ) 」というテーマで論文 を連載されたことがある。このなかで三角縁式神獣鏡という鏡式名を使ったことから、三 角縁神獣鏡と呼ばれるようになる。 とみおかけんぞう 京都大学の兼任講師をされていた富岡謙蔵氏は大正のかなり早い段階に、『古鏡の研 究』のなかで銘文中の「銅出徐州」「師出洛陽」という文言から、三角縁神獣鏡を魏晋代 に限定できるとし、卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」は、この鏡だという見解を示した。 こくぶちゃうすやま 国分茶臼山古墳 ( 大阪府柏原市 ) から出土した三角縁神獣鏡には、「銅出徐州、師出洛陽 ( 銅は徐州に出づ、師は洛陽に出づ ) 」の銘文があった。これを富岡謙蔵氏は、「鏡の原料の銅は 125 第四章鉄と鏡の考古学
加茂岩倉 9 号 出土地不明 ( 表馬 419 号冫 / ・増定出震 ( 木報家 ) 転福井 伝岐阜 物ヶ 吉野ヶ里 川島神後 - 太田黶田 人とモノが行き来していたことが見えてく る。その事実は、見逃してはいけない。そし てこれらの出土地を見れば、畿内から西が銅 鐸や青銅器の文化圏であったことがはっきり わかるのである。 それにしても、これらの銅鐸がどうして出 雲などから埋納された状態で出土するのか。 なぜ、銅鐸の祭祀は三世紀前半に消滅してい ったのか。これらの銅鐸の分布と邪馬台国の 勢力範囲とはどのような関係にあるのか、そ 関タ れらが問題になる。 そこで頭に浮かんでくるのは、大型古墳の 銅査 弟調 兄財副葬品に銅鐸が出た例は一例もない、という ことである。つまり大型古墳が築造されるよ の埋うになる前の弥生時代の最終段階で、銅鐸の 雲県 出根祭りは終わりを告げたということである。 100
れ ) 」であるべきだとして、三角縁神獣鏡・盤龍鏡は日本のエ人が日本で作ったものとした。 第四の問題は銅鏡銘文中の「本是京師絶地亡出」と読んでいた文字は「杜地之出」が 正しく、「絶地」を「異域」とし、また「亡出」を「亡命」と解釈した王仲殊氏の説を批 判し、呉のエ人の渡来による三角縁神獣鏡製作説を否定している。 第五の問題点は銘文の音韻が錯誤しているという内容である。鏡の銘文は他の中国銅鏡 と同様に「詩文」の形式で、かならず「音韻学」の道理にかなっていなければならないの に、三角縁神獣鏡の銘文は押韻をしていないことから魏鏡とは考えられないとする。 右の五点から王維坤教授は、、日本のエ人が漢以来の大型神獣鏡 . と小型の三角縁盤龍鏡 ( 三虎鏡と三龍鏡 ) を模倣して日本で製作した「仂製鏡」だと結論づけているのである。 また王維坤教授は景初三年鏡・正始元年鏡・景初四年鏡 ( 京都府福知山市広峯十五号墳 ) の 銘文についても述べる。 第一は年号の問題で、景初四年 ( 二四〇 ) はありえないとし、絶対に中国製ではないと する。また、銅原料の「科学分析の結果」 ( 鉛の同位体分析か【筆者注 ) 日本の原料であると する。 第二は「魏の年号」のことで、なぜ呉のエ人が「正始元年」「景初四年」を用いたのか 疑問として、王仲殊氏が一九八〇年代に出した「倭に渡来した呉のエ人の製作説」 ( 魏と対 148
あった。押韻の意識もない、拙劣な銘を刻んだ鏡を特鋳して賜るとは考えにくい、という のである ( 毎日新聞二〇〇〇年九月十二日付 ) 。 三角縁神獣鏡には、「銅出徐州」の銘があるため、材料である銅の産地は、徐州が有力 な候補に掲げられる。鏡をもとにそれを原型に踏み返して鋳造された踏み返しや、銘文の 模倣なども考えられ、即断はできない。しかし日本国内で古墳の研究調査がこれだけすす んでも、中国本土では三角縁神獣鏡が一面も出ていないし鋳型も出ていない、朝鮮半島か らも出ていない。これも事実である。鋳型さえ未発見なのである。 東京国立博物館の西田守夫氏も「神獣鏡の図像」 ( 『』二〇七号、東京国立博物 館、一九六八 ) という論文で、三角縁神獣鏡というのは、中国の画像鏡や、神獣鏡など、い ろいろな鏡の文様を取捨選択して、文様構成を作っている、だけど中国本土から一面も出 てこないということは、いかなることなのかといっている。 ー 8 による測定結果についても、自然科学者から疑義が出されていて、三 角縁神獣鏡の鋳造の状況はすべて同じではなく、六面は中国製、二面は和製ということに なるのが疑問とする。これも、直ちに卑弥呼の鏡という結論には難がある。 三角縁神獣鏡は日本で作られた ? 144
祭器の問題である。 どうはこ まず青銅器には銅剣、銅矛、銅戈、銅鐸がある。 弥生時代前期から中期初頭の青銅器は、戦争のための実用的なものだった。実戦的な銅 剣や、銅矛、銅戈が朝鮮半島から輸入されていたのである。それが、弥生時代中期にな ると北部九州では祭器に転化している。つまり祭りの道具としての役割が濃厚になって いく。 例えば発掘された銅矛の例を見てみると、もっとも古い銅矛は弥生時代前期の細形—式 と呼ばれるもので、福岡県の板付田端から出土した実用的なものである。 そして弥生時代中期になると、細形Ⅱ式と呼ばれる銅矛が作られ、全体がだんだん長く なって大型になる。さらに、弥生時代後期になると身幅もひろがって、人を殺傷できるよ うしな うな武器としての機能は喪われていき、祭祀のための道具となっていく。 また弥生時代後期の祭りの道具としての銅矛は、佐賀県、福岡県など北九州から多く出 土している。長崎県対馬から出土した弥生時代後期の広形銅矛は長大なもので、これら は、どう見ても実用的な体裁ではないので、祭祀のための道具として使ったことはまちが いない。 対馬から出た青銅の祭器は広形銅矛や銅剣など、いずれも国産の青銅器である。 いたづけ どうか 89 第三章邪馬台国成立前夜ーーー激動の東アジアと倭国大乱
備 吉 大別北部九州出雲 城ノ越式上野Ⅲ式南方式 須玖 I 式 中期須玖Ⅱ式天神式菰池式 前山Ⅱ式 知井宮Ⅱ式 仁伍式 鬼川市 I 式 波来浜式 九重式上東式鬼川市Ⅱ式 鬼川市Ⅲ式 的場式 才の町 I 式庄内 I 式 庄内Ⅱ式 才の町Ⅱ式 庄内Ⅲ式 下田所式 庄内Ⅳ式 河内 ( 米田 ) 後期 底化している。 土器編年は研究者によって見解 が異なるので単純ではないが、ま ず近畿地方の弥生後期の土器を見 てみることにしよう。 弥生墳丘墓や纒向型前方後円墳 出現期の研究をされ、土器型式に かんして「布留 0 式」を提唱され た寺沢薫氏案によると、弥生後期 式 谷カ の最終段階には第Ⅵ様式が設定さ 協 氏れている。庄内式土器の特徴は、 出 式式式 式 全体に土器の胎土 ( 本体の粘土 ) が 日 潴隈 田 新 西 有 薄く、そのことで熱効率をよくし 高下 石 ているところにある。丸底である とが が少し尖っている。そして口縁部 器 し邪馬台国開Ⅱ 3 2 丸時代 土 が「く」の字状になっていて、ロ 鍵尾式酒津式 亀川上層式 169 第五章土器と墓が語る邪馬台国
古墳 ( 崇神天皇陵、今までは四世紀中頃、後半頃築造とされてきた ) 近くの一三〇メートルの前方後 円墳である。ここに三角縁神獣鏡三十一二面が副葬されていたということは、大和古墳群の 前期古墳の歴史的性格を推測する点で多くの材料を提供したことになる。 明らかに違う扱われ方 黒塚古墳の発掘中に、筆者は調査担当者の河上邦彦氏から現地見学の案内を受けてい た。が、あいにく山梨県甲府市内の病院に入院中だった。退院したばかりの一九九八年一 月七日。まだ人気のない黒塚古墳を訪れ、河上氏から説明を受けた。私のもっとも驚いた のは、その鏡の副葬状況だった。 遺骸の頭上に置かれていた直径一三・五センチメートルの画文帯神獣鏡の一面は画文帯 ちゅう 神獣鏡のなかでは小ぶりで薄い。中央にある鈕の周囲に乳と呼ばれる小さな突起が四つ配 置されていて、その突起のそれぞれには龍の文様がからみ、周囲を半円と方形の文様帯が めぐっている。 大和古墳群では、同タイプの画文帯神獣鏡が前出の柳本天神山古墳 ( 奈良県天理市 ) と桜 井茶臼山古墳 ( 奈良県桜井市 ) の二カ所で確認されている。 この一面の画文帯神獣鏡は、三角縁神獣鏡よりやや古い時代 ( 中国後漢の末期、三国時代 ) にゆう い 4
古代日本における出雲の重要度は、『古事記』の神代記で三分の一ほどを出雲神話が占 おおくにぬしのみこと めていることからも推測できる。神話によると、出雲国の始祖としての大国主神は天昭 すさのおのみこと 大神の弟である素戔男尊 ( 素戔嗚尊 ) 、『古事記』では建速〈たてはや〉須佐之男命の子とされ ていて、ある時期大和王朝に屈したように記されている。しかも国譲りというかたちをと か生 っての服属であることが読みとれる。 て し この記紀神話をひとつの根拠に、古 こ代出雲はもともと独自の文化圏をもっ た大きな勢力であったと考えられてき 木代 たのである。そして、その証とも思え る重要な考古学的発掘成果があがって 分呂いる の比 一九八四年 ( 昭和五九 ) から八五年に ひかわひ 器」書かけての発掘調査で、島根県簸川郡斐 こうじんだに かわ 川町 ( 現出雲市 ) 神庭西谷の荒神谷遺跡 の」角 の標高二八メートルの小丘陵の南斜面 紀戦た 2 らま中腹から、四列に並べられた三百五十 第典出製項丘第 物器台 突線式鋼発の 主な分る域 すさのおのみこと ( 近・式 ) ノ ) ( 三式 ) を■■ 広形鋼矛の 主な分を域 0 広影鋼矛 三式鋼 たけはや 0 かんば 91 第三章邪馬台国成立前夜ーー激動の東アジアと倭国大乱
0 この年代測定結果はいずれも二世紀。勝山古墳の墳丘 状型型型型型 形本財はニ 上で執行された祭祀の年代は、推定伐採年代よりも古く 報 概 はならないから、資料 1 の 198 + 1 A. D. が築造年代 査 代 年 3 2 2 0 として考えられるわけである。 11 、ー - 11 ・ー亠 11 跡 遺 しかし橿原考古学研究所の方でも、資料の推定伐 定数 7 輪ー -9 、 -0 1 、 0 0 11 っ朝「 / 、ー亠、ー人 11 11 一 1 ー一 奈採年代が、そのまま勝山古墳の築造時期を示しているの 年 キキキキキ かといえば、そうではないと記している。木材の伐採か 種一 ノノノノノ 輪 樹 ヒヒヒヒヒ 年 概ら製材、加工にかかる時間幅および、使用から廃棄にい たる経緯やその間の時間幅をも考慮する必要があるが、 製オ材材材材片調究 木歌板柱柱板断掘研 発学それを極端に長く見積もる必要はないものと考えられ よ 0 お 考る、としている。 11 っ朝 11 11 1 ー亠 物 さらに報告書は、一九八九年 ( 平成元 ) 、近くの石塚古 木 土 欠次次次次次古立 山県墳周壕内から出土した板材の年輪年代測定結果にも触れ 出 墳調第第第第第 奈ている。 行 山 裕度 1 っっ 0 -4 画一 0 この勝山古墳の南東約一キロにある石塚古墳でも南北 本年 資 橋 0 両側の周壕内、くびれ部付近から、建築部材・農耕具・ 214