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検索対象: 邪馬台国をとらえなおす
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1. 邪馬台国をとらえなおす

漢鏡 1 期 ( 前一一世紀前半、前漢前期 ) 2 漢鏡 2 期 ( 前一一世紀後半、前漢中期前半 ) 。っ漢鏡。っ期 ( 前一世紀前半から中頃、前漢中期後半から後期前半 ) 4 漢鏡 4 期 ( 前一世紀後葉から後一世紀はじめ、前漢末から新の王莽の時代 ) 漢鏡 5 期 ( 一世紀中頃から後半、後漢前期 ) 6 漢鏡 6 期 ( 二世紀前半、後漢中期 ) 7 漢鏡 7 期 ( 二世紀後半から三世紀はじめ、後漢後期 ) 8 漢鏡 8 期 ( 三世紀の三角縁神獣鏡をはじめとする魏鏡 ) 一方、呉鏡のところで触れたが、大阪大学の福永伸哉氏は、三角縁神獣鏡三百五十面を ふくむ千数百面の鏡の鈕孔 ( ひも通し孔 ) の研究から、三角縁神獣鏡の鈕孔のかたちが長方 形であることに注目、他の鏡の鈕孔は円形や半円形であり、それとは明らかに異なってい る、と述べている。福永氏は、鈕孔が長方形であるのは、ある中国工人群が三角縁神獣鏡 岡村氏は漢と三国時代の鏡をつぎのように分類され、その分類をもとに分布図をつくら れた。 142

2. 邪馬台国をとらえなおす

後で検討するが、ホケノ山古墳の築造年代が三世紀前半、箸墓が二四〇年から二六〇年 で認められるとすれば、・黒塚古墳は三世紀後半から四世紀初頭頃の年代が与えられると筆 者は考えている。 つまり製作された鏡の絶対年代はわかっても、古い鏡が人っていたというだけでその墓 なり遺跡なりの年代の確定はできないということである。 歴史的経過を経ながら北九州までやってきて、そこから畿内へ流れ埋納されるまで何年 と考えるべきか。鋳造年プラス住として、住の数値を求めるのは至難のことである。 三角縁神默鏡はいっ登場するか 箸墓古墳よりわずかに先行すると思われるホケノ山古墳は、庄内式土器が多数出土し、 石囲い木槨墓からは画文帯神獣鏡や内行花文鏡が出土している。しかしホケノ山に三角縁 神獣鏡はなかった。三角縁神獣鏡が古墳副葬鏡として登場するのはいつの頃からであろう か。第一段階の三角縁神獣鏡は景初三年銘や正始元年銘鏡であるから、その年代は一一三九 年、二四〇年であり、三世紀の中頃ということになる。ホケノ山古墳をはじめ庄内式土器 併行期には三角縁神獣鏡はまだ登場していないと見なければならない。各地の弥生時代後 期後半から終末頃に出現する墳丘墓には三角縁神獣鏡はないようである。 157 第四章鉄と鏡の考古学

3. 邪馬台国をとらえなおす

邪馬台国の祭りとその後の祭りとのあいだに関連性はあるのかどうか。銅鐸祭祀の消滅 が三世紀前半とすれば、邪馬台国女王卑弥呼擁立の時点か、あるいはその統治のまっただ 中の出来事だったのか、それは邪馬台国との関係のなかで解き明かされなければならない 問題である。 共通した思想体系 近年の東国、とりわけ信濃における弥生時代中期後半の青銅器の一括発見は注目に値す ゃなぎさわ る。二〇〇七年十月、長野県中野市柳沢遺跡で千曲川の堤防整備工事中に七本の銅戈と銅 鐸片が発見された。これは弥生時代中期後半での青銅祭器発見の北限例であった。長野県 の弥生中期後半といえば、栗林遺跡の栗林式土器の時期であり、さらにしぼりこめば紀元 前後頃の年代が考えられる。 柳沢遺跡での七本の銅戈のうち一本は九州型銅戈であり、他の六本は大阪湾型銅戈で、 これらが同一土坑のなかに刃を立て切っ先を西に向けて並列していたことは考古学的に見 て驚くべきことである。そしてその至近距離に銅鐸一個が埋納されていたところから、こ れらの青銅器は祭器として一括して埋められたものと推定された。 れきしようもっかんぼ その後柳沢遺跡では、礫床木棺墓と呼ばれる、長野県から群馬県方面に見られる同時代 くりばやし ちくま 101 第三章邪馬台国成立前夜ーー激動の東アジアと倭国大乱

4. 邪馬台国をとらえなおす

タ物を ( 加速器質量分析法Ⅱ炭素を直接数える ) によっ - - つ、 LO LO 4- ・′つ、 11 うノ 士ロ 2 1 2 1 2 セ て年代測定をした結果、表のような年代が得られたとす 0- 尸っし 定 浦さ財 る。ただこれらの数値の多くが三世紀の前半に集中して CD 禾ー 蔵 はいるものの、誤差が四十 5 五十年もあって、ホケノ山 ま埋 ロロ -0 -0 -0 亠皿 製率率率靭率あ市古墳の正確な年代とは言いがたい状況でもある。 木確年井 何よりも問題とすべき点は、箸墓古墳に先行する石塚 び代代代代代 よ年年年年年値古墳やホケノ山古墳の纒向型前方後円墳の築造時期が三 お正正正正正 較較較較較劼 誤補世紀前葉となり、箸墓古墳の登場が三世紀中葉前後の可 木网が代 1 ー 1 1 ー 1 1 ー 1 11 ーし 年能性が強くなったことである。つまり考古学的には古墳 出 なはねはて 墳 と時代の開始年代が三世紀前半代にまでさかのぼることが 中直 古 国 3 4 るも確実となり、邪馬台国の時代が弥生時代ではなく、古 z z z z Z 測 ケ純純世代料墳時代のくくりに人ってきたことになる。この意義は大 4 " 一きい。 邪馬台国の女王卑弥呼の共立が二世紀後半、西暦一八〇年代後半とすれば、「魏志倭人 伝」に記される倭と魏王朝との交流期間は、完全に古墳時代出現期に該当することになる からである。 210

5. 邪馬台国をとらえなおす

考古学界の全般的な反応はなお測定値の再検を待つ意向が強い ( 現在、新しい年代観を採り入 れるべきか揺れ動いているのが実情である。本書では各遺跡の報告書などに従いつつ、一部筆者の年代観に もとづいているところがあることをあらかじめお断りしておく ) 。 東国からみた邪馬台国 また邪馬台国の場所と範囲を考えるうえで、もうひとつの視点として筆者が強調してお きたいことは、列島内における古墳出現前夜すなわち弥生時代後期の東国の歴史的展開に ついてである。 二世紀後半から三世紀前半期にかけて、東国各地の日本海沿岸地域と、太平洋岸の広汎 な地域内で、土器が激しく移動していることをどうとらえるべきかという問題である。 すでに北部九州と畿内地方の土器が、山陰・北陸地方や瀬戸内沿岸地方と行き来してい たことは認められているが、それが東国にもおよんでいたとなると大きな意味をもつ。 二、三世紀段階に東国までもふくめた列島内の人びとのかなり激しい集団的な移動があっ たものと考えられるからである。 つまり「魏志倭人伝」が伝える「百余国にわかれていた」や、「いま使訳通じるのが三 十国」とある倭国の範囲は、九州文化圏、畿内文化圏だけでなく、中部日本、東北地域も

6. 邪馬台国をとらえなおす

東日本、とくに南関東地方における弥生時代の終末と古墳の出現年代については、最近 の研究動向からいえば年代が遡上する状況にある。奈良県桜井市の箸墓古墳やホケノ山古 墳の年代が基準となり、また列島内の広い地域での土器の移動、つまり人とモノの移動か ら、畿内と関東の年代差がほとんどない状態が確実なので、東日本における古墳出現年代 は三世紀の前半代に求めるようになってきた。したがって、南関東の弥生時代の終末は、 ほぼ西暦二〇〇年頃になると考えている。これは行燈山古墳 ( 崇神陵 ) の四世紀後半とい う年代観によれば、三世紀中頃から四世紀前半代の前期古墳時代の社会が明確になりつつ あるということになる。 ・こうど 庄内式土器が出土した時代を古墳出現期とすれば、千葉県市原市の神門三、四、五号墳 出土の土器は布留式の前の庄内期の土器となる。前野町式の古相段階はそれより古いのだ から弥生式土器と考えるべきであろう。 いま確実に言えることは、弥生後期の一世紀から二世紀にかけて東日本では、土器の特 色が地域によって分かれ、地域ごとの特色がよく見られるということである。それが少し 後の二世紀終末から三世紀初頭には、庄内式土器をはじめ東海地方の土器文化が、かなり とおとうみ 強力に東日本に流入する現象がある。つまり、三河・西遠江の弥生時代後期の山中式土器 かけやま と欠山式土器の関東への移動現象が見られるということである。東海地方とくに西遠江地 174

7. 邪馬台国をとらえなおす

弥生時代の人間が使った土器には大きく分けて二つある。物を貯蔵する土器である壺 と、煮炊きに使う甕である。これが弥生人の生活の基本的な土器である。 壺も弥生後期は四つの段階に分かれている。弥生後期前半の新段階以降になると、二重 ロ縁の壺が出てくる。ロ縁部が外反し複合状態を呈している。こういう壺形土器のロ縁部 の外反という傾向が、弥生時代後期後半の中段階からいちじるしくなってくる。しかも、 円形浮文といわれる、丸いボタン状の飾りをつくって、ロ縁部に貼り付けてあるものも出 てくる。この文様は円形貼付文ともいわれている。そして頸部や肩部などには、櫛描き波 状文。そして頸部と肩のところに、隆起帯が一条まわっている。これはかなり重要な特徴 しとつもん である。そしてその間にも櫛描き状の文様があり、凸帯の上縁には刺突文というか、刻み 文がつけられているのである。そして、肩の上部には櫛描きの波のような文様がついてい はけめ て、胴部には刷毛目がついている。 甕形土器の場合は弥生後期前半新段階から終わり頃まで、底部は平底である。そして口 縁部は「く」の字状に、強くはないが外反しながら曲がっている。胴部の真ん中よりは少 こす し上のほうに、最大径がある。土器の器面には、叩き目の文様がついたり、器面を板で擦 ってつける刷毛目文がついたりする。 そして庄内式土器の古段階の新相になると、尖り気味だった底部がだんだん丸底化して 167 第五章土器と墓が語る邪馬台国

8. 邪馬台国をとらえなおす

には大型甕棺が使われるようになった。こうした甕棺のなかには、朝鮮製の青銅器 ( 銅 剣・銅矛・銅戈 ) や楽浪郡経由で入手したと見られる前漢鏡、玉類などが副葬されている例 がある。 弥生時代中期、後期の吉野ケ里遺跡の北側には紀元前一世紀頃の墳丘墓があり、その墳 つかがしら 丘墓上に十四基の甕棺墓があった。そのうちの八基に把頭飾付き有柄細形銅剣、中細形銅 くだたま 剣をふくむ銅剣八本やガラス製管玉七十九個が副葬されていた。しかし鏡の埋納はなかっ た。この他、吉野ケ里を形成している何千という甕棺墓列のなかには、そういった遺物は ほとんどなにも人っていなかったが、中期後半の甕棺墓からは前漢鏡が見つかっている。 また弥生時代中期の前半、あるいは前期末の遺跡として福岡市が整備をつづけてきた西 区にある吉武高木遺跡では、朝鮮半島からダイレクトにもたらされた青銅器、朝鮮式青銅 たちゅうさいもんきよう 武器や細形銅剣や細形銅矛、細形銅戈などとともに多鈕細文鏡が発見されている。 多鈕細文鏡は朝鮮半島から沿海州、シベリアなどの北系統の特徴をもった鏡で、吉武高 木遺跡をはじめ各地から十面くらい出ている。弥生時代の前期末から中期前半にかけて北 九州の甕棺の副葬品としては、朝鮮製の多鈕細文鏡に青銅器がともなうという事例が多く なる。 くおかもと また倭の奴国とされる福岡県春日市岡本の須玖岡本遺跡からは多くの鏡が発見されてい 116

9. 邪馬台国をとらえなおす

祭器 ( 弧紋円盤 ) ・朱塗りの木屑片等が多数出土している。 出土した板材一点も推定伐採年代は 7 + ~ ( ~ 北 20 ) 年という測定結果が出た。 これら木製品と一緒に出土した土器から見ると、勝山古墳の土器も、寺沢編年の布留 0 式期、石塚古墳の場合も、布留 0 式期である。 これはじつに重要な結果といわざるをえない。最古の古墳と考えられていたふたつの古 墳から、二世紀中葉から後葉、三世紀前半の結果が出て、それが「布留 0 式期」であ った。つまり、いままで三世紀後半から四世紀初頭と考えられていた「布留 0 式」土器の 実年代は、ここでもまた三世紀初頭あたりまでさかのぼることになってしまったわけで ある。 箸墓古墳の特別な設計 纒向に土器の移動や集中があるとすると、やはりその纒向が邪馬台国の遺跡であろうと 考えるのは当然である。纒向遺跡近くに突如として出現した前方後円墳の箸墓が卑弥呼の 墓であると考えるのも無理からぬことだ。 箸墓の現状での規模は墳長約二八〇メートル、後円部径約一五七 ( 一六〇とも ) メート ル、高さ約三〇メートル、前方部は前面幅約一三〇メートル、高さ約一六メートル。体積 215 第六章箸墓 = 女王卑弥呼の墓の可能性をさぐる

10. 邪馬台国をとらえなおす

堆積土の中から布留 1 式の土器とともに発掘されており、後世の攪乱等で混じった可能性 はない」と発表している。桜井市教育委員会の橋本輝彦氏は、三世紀末から四世紀初めぐ らいのもので纒向遺跡では後半期のもの、との見解を示している。箸墓の築造年代や馬文 化の日本への影響の時期を考えるにあたっては大きな謎を抱えこんだことになる。 従来考えられていたよりも百年も古い時期に馬が纒向にいたということなのか。それと も布留 1 式の土器はもっと新しい年代に編年されるべきなのか。布留 1 式土器がもっと新 しい年代に編年されるのであれば箸墓卑弥呼の墓説は霧散する。これは東アジアの馬文 化の伝播の問題をもふくむ大きな謎である。 備前・大和・出雲の連帯関係 さて箸墓古墳、正式の陵墓名は、倭迹迹日百襲姫命大市墓。この墓が発掘できない以 上、周りの民有地の濠や土手などを調査してなんとか築造年代を割りだそうとするのであ るが、それが箸墓本体の年代であるかどうかの確証はないわけである。それでも少しだ け、墳丘の内容が明らかになっている。 一九九八年 ( 平成十 ) 九月二十二日に関西地方を襲った台風七号が、箸墓古墳の立木を なぎ倒し、二十九カ所もの倒木や根起きを引き起こすということがあった。 おおいちのはか かくらん 224