馬台国に直接かかわる問題なだけに拙速な判断はするべきではないだろう。つぎの例を見 てみよう。 景初四年紀年銘鏡の謎 ひろみね さて、一九八六年 ( 昭和六十一 ) に京都府福知山市広峯十五号墳から出土した一面の鏡は 学界にまた大きな波紋を巻き起こした。 全長四〇メートルのさほど大きくない前方後円墳の木棺直葬の主体部から出土した、鏡 しゃえんばんりゅう 径一六・八センチメートルの斜縁盤龍鏡に、「景初四年五月丙午」にはじまる三十五文字 の銘文が認められたのである。 先にも述べたように、魏は景初二年に遼東半島を討伐し、公孫氏は滅んでいる。朝鮮半 島を経て卑弥呼の遣いが朝貢したとすると、朝鮮半島が落ち着く景初三年が卑弥呼の遣使 の年であるとする説がある。 しかし魏の明帝はその景初一二年の元日に三十四歳で亡くなったとされている。つまり景 初という年号は三年までしかなく、翌年は正始元年 ( 二四〇 ) だった。景初四年という年 号の鏡は存在するはずがない、というのである。 あるはずのない紀年の銘鏡をめぐって、議論が噴出した。 1 引第四章鉄と鏡の考古学
あてにはならない。 つか いた 景初二年六月、倭の女王、大夫難升米〈なとめ〉等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献 たいしゆりゅうかりしよう せんことを求む。太守劉夏、吏将を遣わし送りて京都に詣る。 景初二年三三八 ) 六月、倭女王卑弥呼は大夫難升米らを派遣し、郡に来て、中国の皇 帝に朝献を求めた。太守の劉夏は、役人の大将を遣わし彼らを都 ( 洛陽 ) に送らせた。 「魏志倭人伝」の二千字足らずの文章のなかにある、景初二年六月、卑弥呼が魏の皇帝に 遣いを送ったという記述。「はじめに」でも紹介したが、この景初二年六月は、中国の他 の資料を分析すると、景初三年六月の書き間違いであると、多くの専門家は指摘してい る。景初二年八月に遼東半島の公孫氏は魏に滅ぼされ、魏は楽浪郡・帯方郡を奪還したと いう理由である。 その公孫氏を魏が制圧したため、邪馬台国は帯方郡を経て、魏の洛陽に遣いを出した。 つまり女王卑弥呼が難升米らを遣わしたのは景初三年、西暦二三九年で、難升米らが朝鮮 半島の帯方郡に至って、太守 ( 長官 ) の劉夏が、卑弥呼の遣いを高官に案内させて、実際 に中国本土の魏の都まで行き、そして翌年元日に、皇帝が亡くなり、改元して正始になっ たというのである。 けいしょ なしめ
れ ) 」であるべきだとして、三角縁神獣鏡・盤龍鏡は日本のエ人が日本で作ったものとした。 第四の問題は銅鏡銘文中の「本是京師絶地亡出」と読んでいた文字は「杜地之出」が 正しく、「絶地」を「異域」とし、また「亡出」を「亡命」と解釈した王仲殊氏の説を批 判し、呉のエ人の渡来による三角縁神獣鏡製作説を否定している。 第五の問題点は銘文の音韻が錯誤しているという内容である。鏡の銘文は他の中国銅鏡 と同様に「詩文」の形式で、かならず「音韻学」の道理にかなっていなければならないの に、三角縁神獣鏡の銘文は押韻をしていないことから魏鏡とは考えられないとする。 右の五点から王維坤教授は、、日本のエ人が漢以来の大型神獣鏡 . と小型の三角縁盤龍鏡 ( 三虎鏡と三龍鏡 ) を模倣して日本で製作した「仂製鏡」だと結論づけているのである。 また王維坤教授は景初三年鏡・正始元年鏡・景初四年鏡 ( 京都府福知山市広峯十五号墳 ) の 銘文についても述べる。 第一は年号の問題で、景初四年 ( 二四〇 ) はありえないとし、絶対に中国製ではないと する。また、銅原料の「科学分析の結果」 ( 鉛の同位体分析か【筆者注 ) 日本の原料であると する。 第二は「魏の年号」のことで、なぜ呉のエ人が「正始元年」「景初四年」を用いたのか 疑問として、王仲殊氏が一九八〇年代に出した「倭に渡来した呉のエ人の製作説」 ( 魏と対 148
四獣鏡が出土した。 そして一九七二年 ( 昭和四十七 ) 出雲の神原神社古墳から二面目の景初三年銘鏡が発見さ れた。 ところがこの景初三年銘鏡は和泉黄金塚古墳が画文帯同向式神獣鏡であるのに対し、三 角縁同向式神獣鏡だった。古墳の形状や築造年代も異なっていた。和泉黄金塚古墳が四世 紀後半頃の前方後円墳であるのに対し、神原神社古墳は狭長の竪穴式石室をもっ四世紀中 頃の方墳だった。 神原神社古墳は、青銅器が出土した加茂岩倉遺跡から南東に約一・八キロのところに位 置している。当古墳の上に神原神社があり、発掘当初墳形は円墳と思われたが、現在は東 西三〇メートル、南北三四メートルの方墳とされる。 石室は内法の長さが五・八メートルの粘土床で、長さ五・八メートルあまりの割竹形木 棺が据えられていたようである。 副葬品は景初三年の三角縁神獣鏡一面、素環頭大刀・木装大刀・剣・槍などの鉄製武器 や農工具、多量の古式土師器の壺と円筒形土器、玉類 ( ヒスイの勾玉・碧玉の管玉・滑石製臼玉 など ) もあったと報告されている ( 「神原神社古墳」賀茂町教育委員会、二〇〇二年 ) 。 しかしこの鏡がそのまま、魏の景初一二年に魏で造られたと考えてよいものかどうか、邪 かんばら い 0
はしめに 日本国家の起源に迫る 邪馬台国についていま何が言えるのか。この課題は案外難しい。 けいしょ さんどくし ぎしよとういでんわじんじよう ぎしわじんでん 中国の正史『三国志』「魏書東夷伝倭人条」 ( 通称「魏志倭人伝」 ) に、魏の景初二年 ( 二三 しんぎわおう ひみこ 八 ) 、邪馬台国女王卑弥呼が魏に遣いを送り、皇帝 ( 明帝とされる ) より「親魏倭王」の金印 えんたん や錦、銅鏡百枚、真珠、鉛丹などを賜った、と記される古代日本の国家「邪馬台国」。 景初二年は書き写しの際の誤りで、景初一二年 ( 二三九 ) が正しいという多くの専門家の を、ど・つ 指摘もあるのだが、いずれにしても西暦二世紀の後半から三世紀の中頃、日本は、鬼道に 仕える卑弥呼という女王によって統治されていたことは事実のようである。しかし、その 邪馬台国の所在地はいまもって解明されていない。 「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の記述はわずか二千字足らずなのだが、その文献学的 解釈はさまざまで、邪馬台国の場所を確定するような説はまだない。「径百余歩」と記さ てい れる女王卑弥呼の墳墓の記述、「銅鏡百枚」の記述についても百家争鳴の態である。これ 5 はじめに
九年にも再発掘調査がおこなわれている。 これまでの調査から、現在の鳥居原狐塚古墳は墳丘の大半が消失しているが、推定墳丘 径約一八メートル、高さ三メートルほどの方形で五世紀末頃に造営されたとみられてい る。内部主体は割石小口積竪穴式石室で朱が塗布されていた。 副葬品は赤烏元年銘平縁神獣鏡のほか、仂製内行花文鏡、滑石製臼玉、鉄刀、鉄剣、銅 鈴、土師器片数点、須恵器破片、陶磁器破片などが出土している。鳥居原狐塚古墳は東海 地方の弥生文化や畿内の古墳文化が流人した地域であるが、埴輪は確認されていないよう である。五世紀末頃の築造と考えられる。銘文は「赤烏元年五月廿五日丙午造作明竟百 練清銅服者君侯宣子孫寿萬年」と読まれている。鏡の面径は一二・五センチメートルとさ れる。 「赤烏元年」は呉の年号で、まさに魏の景初二年に該当する。その五月といえば、公孫氏 の滅亡直前ということになる。朝鮮半島から遼東半島地域を支配していた公孫氏は魏と敵 対する一方で、呉と外交関係にあったとされているが、赤烏元年 7 景初一 l) 八月に魏によ って滅ぼされている。 すでに紹介したように、「魏志倭人伝」には、女王卑弥呼が魏に朝貢して親魏倭王の称 号を与えられたのが景初三年三三九 ) と記されているので、その前年ということになる 137 第四章鉄と鏡の考古学
墳一墳 を記した鏡について考えてみたい。 円円 円円 墳。万・万 - 墳一・万墳・万墳〕明・十カ・万墳一 現在までに日本で出土している五百面以上の賀 削円不削亠削国〕 に双ロ長円亠則十刀 1 鏡のうち、邪馬台国時代と関係のある紀年銘鏡は 半 半 頃半頃 推葉 末後 中初末後中 破片もふくめると十種類十四面である。そのなか イ紀紀紀紀紀紀紀紀紀紀紀 せいりゅう 造雑世世世世世世世世世 で、「青龍三年」の紀年銘鏡をまず取りあげたい。 ロ白へ 利不阪〕 一九九四年 ( 平成六 ) 、現在は京都府京丹後市の 手・Ⅲ」ム小 - 庫 ・山・人 . 根 地 やさか 出墳 竹野郡弥栄町と中郡峰山町の境界尾根上の大田南 古墳塚塚古墳融浜岾墳 十ロ . 山口写狐ム正社ロ写 ~ 白ハ墳一屋一・日塚→ 燔田キロ立も米 ( - ~ 局 墳宀呂 ~ 用原、臾〕御 ト亠 五号墳という四世紀の初めあたりの長方形墳か ~ ~ 田明一居、杲一原峯辮】崎・尾 ( 豕非「〈星 宀女・人不・自詞相釉〕広」広此木木林だ御妝宀女 ら、鏡径一七・四センチメートルの方格規矩四神 11 11 又土 1 《 11 。 1 1 、ワ】ワ】、 1 1 、つっ 0 ワ 0 ・破 鏡が発見された。鏡背には三十九文字の銘文があ って、その文字のなかに「青龍三年」の紀年銘が ム凹・回ム冖・冖測冖 鏡規規規置同同 対・丗市一隊 角覊翡同恥銘確認された。青龍三年は卑弥呼の二三九年の遣使 杦呷格格〔・文 - 角・一 ~ 月角・角一 ~ 用〕一糘年 「亠刀亠カ亠カ・平 . 一岡二二州一二一二 に先立っ四年前のことである。おそらく倭が遼東 魏魏魏呉魏魏魏魏魏魏魏魏呉晋た っ 0 00 - - っしっし 2 砌獅獅第期土半島で勢力をのばしていた公孫氏との接触によ 0 つワワ朝ワワりしりし 0 乙 觚年觚觚年年年年觚年年觚でて、こうした鏡をも人手していたのではないかと 一二三三一兀三三四四一兀一兀一兀一兀七〔凵 年龍龍龍烏初初初初始始始始烏康本 紀青青青赤景景景景正正正正赤元日推測される。後漢鏡の主たる文様であった方格規 みねやま 127 第四章鉄と鏡の考古学
出土品は、主室頭部横にあった斜縁盤龍鏡のほかに、副室に碧玉管玉 ( 残欠共 ) 、鉄剣、 やりがんなてつぶ 鑓鉋、鉄斧などである。 問題の盤龍鏡は、銘帯に、「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人諂之位至三公母人諂之 母子宜孫寿如金石兮」の銘文が三十五文字鋳出されている。 また鏡には絹布がわずかに付着しており、絹布にくるまれて納められていたものと推定 される、とある。この鏡が丹後から出土したことになにか意味があるのかどうか、鏡の製 作地などともからんだ研究が重要になってくる。 桜井茶臼山古墳の「正始元年」銘鏡 そうほう さて中国の歴史上存在しない景初四年は、実は魏の第三代曹芳 ( 一般的に斉王と呼ばれる ) の正始元年である。その正始元年銘鏡が破片もふくめて四面が見つかっている。出土した それぞれの古墳の築造時期は三世紀末から四世紀後半頃である。 古墳の築造時期と出土地、そして出土する鏡の関係、鏡の分有関係は列島の支配体制を 知るうえでひとつの手がかりとなる。 二〇〇九年、奈良県立橿原考古学研究所は奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳を再調査し た。桜井茶臼山古墳 ( 三世紀末 ) は、初期大和政権の大王墓の可能性があると考えられてい 1 勢第四章鉄と鏡の考古学
こうした遼東半島の政治的状況や公孫氏の動向からすると、たしかに景初一二年とする方 が辻褄が合う。しかし皇帝の死が景初三年元日であるとすると、卑弥呼の遣いは新皇帝に 朝献したことになるのか。魏は正始五年 ( 二四四 ) 、高句麗の首都を陥落させるなど勢いが あったのであるが、内部での権力争いにより、正始十年 ( 二四九 ) には、クーデタ 1 が起 こるなど中枢は不安定な状況にあった。 この頃の楽浪郡、帯方郡と魏そして倭国の関係がどのようなものであったのかが垣間見 えてくる。この緊迫した半島情勢のさなか、魏に遣いを送ったのは卑弥呼自身なのだろう か。邪馬台国は敵対する狗奴国を押さえこむために魏に頼らざるをえなかったという事情 もあったと思われるが、この時代、東アジア全体が激動の社会情勢にあったことはじゅう ぶん考慮する必要がある。三世紀の邪馬台国の女王卑弥呼は、帯方郡を通じて北東アジア の新しい情報を必死に得て、それに対応する動きをしていたのである。卑弥呼、あるいは そのプレーンは外交にかなりカを注いでいたといえるのではなかろうか。 しよ、つしょ 其の年十二月、詔書して、倭の女王に報じて日く、 なしめ なんじ せいしよう 「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏、使を遣わし、汝が大夫難升米〈なとめ〉、次使 はんぶ 都市牛利〈っしごり〉を送り、汝が献する所の、男生ロ四人・女生ロ六人、班布二匹二丈 しんぎわおう とし・こり せいこう かいまみ ひつじよう 65 第二章「魏志倭人伝」を読む
遺跡の実年代は、紀元前五二年という具体的な数字によってはじめて確定されたのであ る。このことにより、弥生中期の年代は従来よりも五十年から百年はさかのぼると考えら れるようになった。つまり、紀元後一世紀から二世紀末頃までが後期、三世紀初頭頃は終 末期の段階に該当し、二世紀後半から三世紀中頃の卑弥呼の時代は、弥生後期段階とはい えず、古墳の出現期ではないかと多くの研究者は考えるようになったのである。 一方、弥生後期から古墳時代に連続する土器型式の変遷を科学的に追究する作業もすす められていた。 奈良県桜井市にある、もっとも初期の定型プランをもった前方後円墳とされてきた古墳 ちゅうせき しゅうごう はしはか が箸墓古墳である。その一部の周壕や渡り土手周辺の周壕内の沖積状況と、出土する土器 型式の層位的検討がなされ、築造時の土器型式が布留式と割り出された。奈良県天理市の 布留遺跡ではじめて出土した布留式土器は庄内式土器の後にあたる土器型式であるが、箸 墓古墳周壕最下層の土器はその布留 0 式土器 ( 古相 ) であると判明したのである。 はるなりひでじ そのようななか、二〇〇九年の五月に国立歴史民俗博物館の春成秀爾氏らは、日本考古 学協会第七十五回総会において、炭素年代測定法による箸墓古墳の築造年代を発表し た。箸墓古墳の「築造直後」の布留 0 式土器の年代を二四〇—一一六〇年と推定したのであ る。卑弥呼の魏への使節派遣は景初二年 ( 二三八 ) か景初三年、卑弥呼の死は正始七、八 7 はじめに