考古学 - みる会図書館


検索対象: 邪馬台国をとらえなおす
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1. 邪馬台国をとらえなおす

発掘上の事実から何が見えてくるのか。日本の古代国家はどういう成立の仕方をして、 現代につながってきたのか、その真実の一端を考古学の視点から浮かびあがらせようとす るのである。 しかし邪馬台国研究の現状は、考古学上からも文献学上からも、双方互いに推測に推測 を重ねて迷走しているように私には思える。 発掘考古学が変える邪馬台国像 この難問を、ひたすらモノを基礎に据えて、型式学 ( 出土物を特徴どとに分類する ) と層位 学 ( 遺物をふくむ層の積み重なる順序などで年代の新旧を考える ) の方法論で解こうとするのが発 もとおりのりなが あらいはくせき 掘考古学である。日本では、江戸時代から新井白石 ( 一六五七 5 一七二五 ) 、本居宣長 ( 一七 ばんのぶとも 三〇 5 一八〇一 ) 、伴信友 ( 一七七一一了一八四六 ) などの大学者が文献史学の立場から邪馬台国 の所在地論を展開してきた。しかし発掘考古学の歴史はそう古くはない。 江戸時代から古墳の調査研究などはあったが、・・モース ( エドワード・シルヴェスタ ・モース、 Edwa 「 dSyIveste 「 Mo 「一八三八、一九二五 ) が当時の欧米の最新知識にもとづいて おこなった大森貝塚の調査と、その調査報告書の刊行が日本における考古学の嚆矢だった。 しようない それから約百年、日本の考古学は出土した土器の編年により、例えば畿内では庄内式土器 5 はじめに

2. 邪馬台国をとらえなおす

さんかくぶちしんじゅうきよう こそが卑弥呼の鏡だと言われた三角縁神獣鏡をめぐる研究も、その形や大きさ、原材料 の分析など多岐にわたってはいるが、やはり決め手を欠く。 しかし「魏志倭人伝」に記された景初三年三三九 ) から正始八年三四七 ) の倭国と魏 王朝との交流の記録が真実であるとすれば、女王卑弥呼の死をふくむ邪馬台国の記事は、 まぎれもなく古代日本の二世紀後半から約百年にわたる歴史事実である。邪馬台国がどこ にあったのか、邪馬台国と日本の最初の王権とされる大和王権とはどのような関係にある のか。邪馬台国問題は日本国家の起源に迫るには避けては通れない重要な鍵なのである。 しかしいま、私たちは邪馬台国についていったいどこまで知っているのであろうか。 そもそも邪馬台国とは何なのか。 邪馬台国のいったい何が問題なのか。 私は考古学者であるから、考古学からの視点で邪馬台国問題を考えようとする。考古学 とはつねに新しい事実によって古い常識が書き換えられていく、そういう学問だ。思考の 基盤は「モノ」であり考古学的な事象である。 つまり、考古学で邪馬台国を解くということは、発掘によって出てきた「モノ」で「魏 志倭人伝」の謎を解くことである。日本の二世紀後半から約百年前後の地層から邪馬台国 の真実を掘り起こすことである。 せいし

3. 邪馬台国をとらえなおす

ば、箸墓は卑弥呼の墓ではなく台与の墓の可能性が高くなり、二四〇—一一六〇年築造とい う年代もまちがいだということになる。考古学がモノに語らせる学問であるというのは、 まさにそういうことなのである。 この時代に突如として纒向の地にあらわれた二〇〇メートルを超える前方後円墳の箸墓 は、女王卑弥呼の墓である可能性は現段階では高いと思う。しかし、被葬者が女性である ことが確認されねば、簡単に「卑弥呼の墓」とは言えない。文献と考古学的事象との一致 ということは、容易なことではない。であるから「卑弥呼の墓」とする可能性はあるとし ても、確実には断定しがたいのである。 したがって、いまの考古学的資料からは、奈良県桜井市箸墓古墳が卑弥呼の墓と断定で きる状況にはないと言わざるをえない。 ただ箸墓が卑弥呼の墓と断定できないとしても、巨大な前方後円墳が大和で誕生した 背景には、大和政権だけでなく、瀬戸内の吉備や播磨の首長のバックアップ体制や、出雲 の首長との関わり、列島内の広範な地域との連携があったことを考古学的事実は示して いる。 そうすると播磨、摂津、河内、紀伊という、大阪湾に面した地域との関係も問題になっ てくる。当然、四国も問題になってくる。日本海沿岸の山陰・北陸地方、それに備前、大 254

4. 邪馬台国をとらえなおす

「魏志倭人伝」から邪馬台国は探せない 邪馬台国の所在地については、二大学説として畿内説と九州説があり、加えて、岡山、 いとま 島根、四国、名古屋、千葉、甲信越、岩手など、邪馬台国の候補地には枚挙に遑がない。 まきむく 「はじめに」でも触れたが、宮殿跡が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡は畿内説の有力 な候補地である。しかし、これが考古学的に見て、邪馬台国の宮殿跡であると断言できる ていたことにより、『日本書紀』の編者は、卑弥呼と神功皇后とを関連づけて考えていた と思われる。 日本にあったと中国の史書に記されているのに、当の日本には邪馬台国の名も卑弥呼の 名も、史料どころか伝承さえも存在せず、その確たる痕跡もない。どこにあったかも確定 していない、まぼろしの国。それが邪馬台国である。 このまぼろしの国の実像を求めて、文献史学や考古学から、地理学、気象学、天文学に 至るまで、じつにさまざまな分野からの幅広い研究がおこなわれてきた。 一九四五年の第二次世界大戦終結後は、考古学研究の分野での研究資料の増大があいっ ぎ、いまや文献史学研究上だけでなく、考古学的研究の成果が大きく問われるようになっ てきている。

5. 邪馬台国をとらえなおす

遺構の土層の層位識別を正確におこない、そして、土器の型式論のなかで、纒向遺跡から 出る土器の年代、庄内式土器の実年代をどのように考えるかということが重要となる。 安本美典氏は、宮殿遺跡や箸墓の年代についても、邪馬台国時代ではなく、もっと新し い年代に位置づけられるはずであると手厳しい反論をしている。 研究者によって実年代がまちまちなのであるから、纒向遺跡が邪馬台国の女王卑弥呼の 居館跡であるというようなことは、とても簡単に結論づけられるものではない。考古学上 の事実と解析については、考古学研究者の一層の努力が必要だと思う。 考古学で得られたモノはウソはつかない。しかしそれを解析する段階で人間がかかわら ざるをえないというところに、考古学の難しさがある。 纒向遺跡周辺の古墳の年代 纒向遺跡には、箸墓と同時期、あるいはそれより早い時期に造られた纒向石塚、勝山、 ホケノ山、東田大塚など古墳時代初期と考えられる古墳がある。 次頁の図の右側中央付近は三輪山。すでに紹介したが、箸墓の神婚伝説に登場する第七代 こうれい やまとととひももそひめのみこと の孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命の元へ毎夜通った男はこの三輪山の神の化身だった。 纒向遺跡はその神の山の北西に広がっているのである。 206

6. 邪馬台国をとらえなおす

九州が圧倒する弥生後期の鉄器 倭国大乱の時代を経て、邪馬台国の時代を迎える。邪馬台国はどこにあるのか、その論 争は決着のつかぬまま長いあいだ展開されてきた。本章では、考古学的観点から二大学説 である「邪馬台国畿内説」「邪馬台国九州説」、それぞれの主張を再検討してみよう。 やじり 「魏志倭人伝」には、倭人は鉄の鏃を使う ( 「竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり」 ) と記さ れているが、九州説に有利な考古学的な根拠は鉄器の出土数が大和を圧倒しているという ことである。 『季刊邪馬台国』 ( 梓書院 ) 責任編集者の安本美典氏など、九州説をとる先生方が主張され とうす ているように、九州では奈良県の約百倍の鉄鏃が出土し、鉄刀、鉄剣、鉄鉾、刀子も同様 の分布の特色を示しているという事実がある。つまり鉄器の出土数の多さが九州説の拠り どころのひとっとなっているのである。これは畿内説を唱える学者にとっては考古学的矛 盾を抱える大問題だ。 たしかに鉄刀・鉄剣・鉄鉾・鉄戈などの鉄製武器は、畿内よりも、九州から圧倒的に多 く出土している。 大和が邪馬台国の本拠地というのであれば、鉄製の武器などが、圧倒的に北部九州に集 108

7. 邪馬台国をとらえなおす

第四章鉄と鏡の考古学

8. 邪馬台国をとらえなおす

馬台国問題は弥生時代の事象であったが、いまや考古学上の年代測定法が進歩して、三世 紀は古墳時代に属することになってきた。 三世紀の日本列島、つまり倭国に邪馬台国が実在していたとすれば、考古学上の所見に したがうと、それは近畿地方にあると考えるのが、もっとも蓋然性の高い結論になるとい うのが、本書の主張であった。 奈良県桜井市纒向遺跡が邪馬台国の卑弥呼宮殿跡であるとか、桜井市箸墓古墳こそ女王 卑弥呼の墓であるという一 = 口説は、その可能性があるということであり、あくまでひとつの 推測に過ぎない。二四七年か二四八年頃に死んだと解釈しうる卑弥呼の死因さえも不明で あり、壮大な「径百余歩」という塚を築いたと記すものが箸墓かどうかの確証もない。 箸墓古墳を完全に卑弥呼の墓であると考古学的に立証するのは不可能である。箸墓は現 在は宮内庁によって、欠史八代のなかにふくまれる、第七代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲 姫命大市墓と治定されている。たとえ将来、学術的な発掘がおこなわれたとしても、墓誌 などの実証品が出土しなければ卑弥呼の墓などと認定できるわけがない。第一、三世紀中 頃の日本の古墳に墓誌などを副葬する習慣はない。しかし、箸墓は卑弥呼の墓にほぼまち がいないといえるためには、より考古学的な確率の高い情報を得るしかないであろう。 第六章で指摘したことであるが、一九九八年の秋に関西を襲った台風で、箸墓古墳の立 242

9. 邪馬台国をとらえなおす

松本清張『空白の世紀清張通史 2 』講談社文庫、一九八六年 安本美典責任編集『季刊邪馬台国』、梓書院 山尾幸久『新版・魏志倭人伝』講談社現代新書、一九八六年 主な論文・発掘調査報告書など 赤塚次郎「「字甕』について」『欠山式土器とその前後』第三回東海埋蔵文化財研究会、一九八六年 赤塚次郎「初期前方後円 ( 方 ) 墳出土の土器」『季刊考古学』第五一一号、雄山閣出版、一九九五年 新井宏「科学から見た邪馬台国問題」、一一〇一〇年度「えびす大学」講演 (http://members3.jcom.home ・ ne.jp 、 arai-hi 「 oshi/lecture/l(). 06.21.pdf) 岩崎卓也「古式土師器考」『考古学雑誌』第四八巻第三号、日本考古学会、一九六三年 王維坤「日本の三角縁神獣鏡の性質に関する私見」『洛陽学国際シンポジウム報告論文集』 ( 明治大学東洋史資料叢刊 8 ) 氣賀澤保規編、明治大学大学院文学研究科・明治大学東アジア石刻文物研究所、一一〇一一年 奥野正男「青柳種信と『柳園古器略考』」『歴史と人物』一九八一一年三月号、中央公論社 田中琢「布留式以前」『考古学研究』第一一一巻第一一号、考古学研究会、一九六五年 寺沢薫「首長霊観念の喪失と前方後円墳祭祀の本質ーー日本的王権の原像」『古代王権の誕生』 1 、角川書店、一一〇 〇二年 寺沢薫「古墳時代開始期の暦年代と伝世鏡論 ( 上 ) ( 下 ) 」『古代学研究』一六九号・一七〇号、古代学研究会、一一〇 〇五年 新納泉「王と王の交渉」「古墳時代の王と民衆』 ( 古代史復元 6 ) 都出比呂志編、講談社、一九八九年 西本豊弘「炭素年代測定による高精度編年体系の構築」国立歴史民俗博物館、一一〇〇九年 橋本輝彦「纒向遺跡中枢部の調査」『女王卑弥呼の国を探る . 桜井』 ( フォーラムプログラム ) 奈良県桜井市、一一〇一 〇年 258

10. 邪馬台国をとらえなおす

奈良県天理市の柳本古墳群のなかに位置する黒塚古墳は、いままで四世紀中頃の築造で あると考えられていた。この黒塚から約二キロ南には卑弥呼の墓と言われる箸墓があり、 にしとのつか たしらかのひめみこふすまだ 付近には箸墓のつぎに築造されたと考えられる西殿塚古墳 ( 継体天皇皇后・手白香皇女衾田 しぶたにむこうやま けいこう 陵 ) 、行燈山古墳 ( 崇神天皇陵 ) のほか、渋谷向山古墳 ( 景行天皇陵 ) などの巨大天皇陵、一一十 三面の鏡が見つかっている柳本天神山古墳などもある重要な地域である。 ( 上 ) 黒塚古墳石室 ( 下 ) 棺内遺骸の頭上には画文帯神獸鏡が立てら れていた ( 橿原考古学研究所蔵 ) けいたい 151 第四章鉄と鏡の考古学