邪馬台国 - みる会図書館


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1. 邪馬台国をとらえなおす

さんかくぶちしんじゅうきよう こそが卑弥呼の鏡だと言われた三角縁神獣鏡をめぐる研究も、その形や大きさ、原材料 の分析など多岐にわたってはいるが、やはり決め手を欠く。 しかし「魏志倭人伝」に記された景初三年三三九 ) から正始八年三四七 ) の倭国と魏 王朝との交流の記録が真実であるとすれば、女王卑弥呼の死をふくむ邪馬台国の記事は、 まぎれもなく古代日本の二世紀後半から約百年にわたる歴史事実である。邪馬台国がどこ にあったのか、邪馬台国と日本の最初の王権とされる大和王権とはどのような関係にある のか。邪馬台国問題は日本国家の起源に迫るには避けては通れない重要な鍵なのである。 しかしいま、私たちは邪馬台国についていったいどこまで知っているのであろうか。 そもそも邪馬台国とは何なのか。 邪馬台国のいったい何が問題なのか。 私は考古学者であるから、考古学からの視点で邪馬台国問題を考えようとする。考古学 とはつねに新しい事実によって古い常識が書き換えられていく、そういう学問だ。思考の 基盤は「モノ」であり考古学的な事象である。 つまり、考古学で邪馬台国を解くということは、発掘によって出てきた「モノ」で「魏 志倭人伝」の謎を解くことである。日本の二世紀後半から約百年前後の地層から邪馬台国 の真実を掘り起こすことである。 せいし

2. 邪馬台国をとらえなおす

るから、伊都国から発進して舟と、陸を行くこと一カ月という読み方をすべきだという見 解もある。女王の都で七万戸余りある。 邪馬台国をめぐる議論のなかで、邪馬台国の国名をどう読むかという論争がある。古田 やまいっこく 武彦氏は、邪馬台国は誤りで、正しくは邪馬壹国であると主張されている。一番古い版本 では邪馬壹国となっているのだから邪馬壹国が正しいという主張である。 しかしほとんどの文献学者や東洋史学者によれば、ほかの中国の文献と比較検討した結 果、邪馬壹国は書き誤りであって、邪馬臺 ( 台 ) 国が正しいというのが一致した見解で、 こちらが定説になっている。 「魏志倭人伝」の二千字足らずの文章のなかで、邪馬台国と出てくるのは、ここ一カ所だ けで、あとは倭国となっている。 南に行くと邪馬台国があり、邪馬台国は女王が都するところである。そして邪馬台国に は七万余戸があったと書かれている。しかし筆者は、朝鮮史を専門にしている学者から は、「大塚さん、『韓伝』を見なさい。馬韓なんかの賑やかな港町で五千戸だよ。それが投 馬国で五万余戸、邪馬台国に至っては七万余戸。大きすぎませんか。このままの戸数を信 じるわけにはいかないよね。朝鮮半島にかかわる文献を見て、近似性を見たほうがいい」 という忠告を受けている。 にぎ 45 第二章「魏志倭人伝」を読む

3. 邪馬台国をとらえなおす

発掘で増えている。牛の肩胛骨だけではなく、火にあてた金属の棒を甲羅にあてがい、甲 羅のひびの割れ方で事の吉凶を占う、亀トなどに使った亀の甲羅などの遺物も出ているの で、邪馬台国ではこうしたト骨、骨占いがおこなわれていたことはまちがいない。 元広島大学教授の重松明久氏は著書『邪馬台国の研究』のなかで、卑弥呼の鬼道は道教 的なものとしている。もしも卑弥呼の鬼道が道教的な色彩の濃いものであるのなら、道教 はすでに三世紀の日本に人ってきていたと考えざるをえなくなる。 また楼閣や城柵を設けた宮室は、邪馬台国の女王卑弥呼の住んでいるところ。高島忠平 氏が中心となって発掘した吉野ケ里では、二重の環壕がめぐらされていて、大きな柱穴が あった。建築学者はそれを十数メ 1 トルから二〇メートルを超える高見櫓の跡だと指摘し ている。 たてあな そういう敵をいつも見張るところがある場所こそ、宮室である、と。さらに大型竪穴住 居や、城柵が発掘されたので、吉野ケ里こそ、邪馬台国の卑弥呼のいたところだと注目を 集めた。 「吉野ケ里に立って周りを見渡すと、邪馬台国が見える」と高島忠平氏が語ったので、マ スコミにとりあげられたこともあった。では、吉野ケ里が邪馬台国かというと、残念なが ら吉野ケ里は邪馬台国よりも少し前の時代の遺跡なのである。 やぐら

4. 邪馬台国をとらえなおす

目次 はじめに 日本国家の起源に迫る / 発掘考古学が変える邪馬台国像 / 東国からみた邪馬台国 第一章「魏志倭人伝」の謎 中国の史書に書かれた古代の「倭」 / 『三国志』のなかの「魏志倭人伝」 / 「魏志倭人 伝」から邪馬台国は探せない / 女王卑弥呼と箸墓伝説 第ニ章「魏志倭人伝」を読む 卑弥呼の外交戦略 / 「魏志倭人伝」の全文を読んでみよう 第三章邪馬台国成立前夜ーーー激動の東アジアと倭国大乱 邪馬台国成立前夜の中国と朝鮮半島 / 中国の史書のなかの倭国大乱 / 「漢委奴國王」 印の謎 / 後漢中平年鉄刀への疑問 / 朝鮮半島系の遺物が語ること / 祭祀の道具に転 化した青銅器 / 出雲神庭荒神谷遺跡の銅剣 / 出雲に青銅器が集中している理由 / 銅 鐸の祭りはなぜ終わりを告げたか / 共通した思想体系 / 東京湾沿岸も邪馬台国の

5. 邪馬台国をとらえなおす

庄内式土器の動きと邪馬台国 そしやく 邪馬台国にかんする、膨大な新しい考古学的資料。それをどのように咀嚼するかは、た いへん難しい。しかし、考古学的な手法で邪馬台国論にアプローチするとすれば、やはり 土器との関係を問題にしなければならない。 この章では、集落遺跡などから出土している土器の面から、あるいはその土器が出土す る弥生墳丘墓などの関係から邪馬台国論を構築してみたいと思う。 「はじめに」でも触れたが、近年まで邪馬台国は、弥生時代の出来事であり、それも後期 に属することだと考えられていた。ところが、弥生中期後半が紀元前一〇〇年から紀元前 後頃までとなれば、卑弥呼が王に共立された二世紀の終わり頃から卑弥呼が死去する三世 紀中頃は、弥生後期の終末期か古墳時代の出現期にあたると思われるので、その時代の土 器の分布が邪馬台国の範囲を考えるうえでのヒントになる。 西暦一八〇年頃から二五〇年頃の日本列島の土器はどのような状況だったのか。発掘さ れた土器をどのように認識するか。それをどのように分類するか。また、掘ったトレンチ の壁面の土層を三層に分けるのか、五層に分けるのか、そういう土層の見分け方、上下の 識別によっても土器型式の分類が変わってくる。 166

6. 邪馬台国をとらえなおす

「魏志倭人伝」から邪馬台国は探せない 邪馬台国の所在地については、二大学説として畿内説と九州説があり、加えて、岡山、 いとま 島根、四国、名古屋、千葉、甲信越、岩手など、邪馬台国の候補地には枚挙に遑がない。 まきむく 「はじめに」でも触れたが、宮殿跡が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡は畿内説の有力 な候補地である。しかし、これが考古学的に見て、邪馬台国の宮殿跡であると断言できる ていたことにより、『日本書紀』の編者は、卑弥呼と神功皇后とを関連づけて考えていた と思われる。 日本にあったと中国の史書に記されているのに、当の日本には邪馬台国の名も卑弥呼の 名も、史料どころか伝承さえも存在せず、その確たる痕跡もない。どこにあったかも確定 していない、まぼろしの国。それが邪馬台国である。 このまぼろしの国の実像を求めて、文献史学や考古学から、地理学、気象学、天文学に 至るまで、じつにさまざまな分野からの幅広い研究がおこなわれてきた。 一九四五年の第二次世界大戦終結後は、考古学研究の分野での研究資料の増大があいっ ぎ、いまや文献史学研究上だけでなく、考古学的研究の成果が大きく問われるようになっ てきている。

7. 邪馬台国をとらえなおす

かどうか。その確証はまったくといっていいほどない。きわめて有力な遺跡ではあるとし ても、纒向遺跡全体の五パーセントしか調査されていないとされるため、現時点ではまだ 何も断言できない。これが考古学の立場から見た現実である。 もともと「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の記述はわずか二千字足らず。しかもその 記述はあまり正確なものではない。 「魏志倭人伝」には魏から邪馬台国に至る里程が記されているのであるが、邪馬台国の所 在地の解明をその記述に求めていくと、女王国は九州の陸地を越えてはるか南海に達して しまうという厄介な問題にぶちあたる。 江戸時代から読み継がれてきた連続式の読み方は、「魏志倭人伝」の旅程をそのまま素 直に読み下した読み方。一方、東京大学の榎一雄氏が戦後発表された放射式の読み方は、 伊都国をセンターとして放射線状に各国と通じるというとらえ方で邪馬台国を九州内に納 めた。 大和説の場合は南へ邪馬台国に至る、という記述を東への誤りだとして読み替える。あ るいは九州にあった邪馬台国が東遷して大和に来て大和王権をうちたてた、という具合に 解釈して所在地を比定しようとする。しかしまだまだ多くの研究者を説得できるほどの説 も遺跡も出てきてはいない。 25 第一章「魏志倭人伝」の謎

8. 邪馬台国をとらえなおす

九州が圧倒する弥生後期の鉄器 倭国大乱の時代を経て、邪馬台国の時代を迎える。邪馬台国はどこにあるのか、その論 争は決着のつかぬまま長いあいだ展開されてきた。本章では、考古学的観点から二大学説 である「邪馬台国畿内説」「邪馬台国九州説」、それぞれの主張を再検討してみよう。 やじり 「魏志倭人伝」には、倭人は鉄の鏃を使う ( 「竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり」 ) と記さ れているが、九州説に有利な考古学的な根拠は鉄器の出土数が大和を圧倒しているという ことである。 『季刊邪馬台国』 ( 梓書院 ) 責任編集者の安本美典氏など、九州説をとる先生方が主張され とうす ているように、九州では奈良県の約百倍の鉄鏃が出土し、鉄刀、鉄剣、鉄鉾、刀子も同様 の分布の特色を示しているという事実がある。つまり鉄器の出土数の多さが九州説の拠り どころのひとっとなっているのである。これは畿内説を唱える学者にとっては考古学的矛 盾を抱える大問題だ。 たしかに鉄刀・鉄剣・鉄鉾・鉄戈などの鉄製武器は、畿内よりも、九州から圧倒的に多 く出土している。 大和が邪馬台国の本拠地というのであれば、鉄製の武器などが、圧倒的に北部九州に集 108

9. 邪馬台国をとらえなおす

はしめに 日本国家の起源に迫る 邪馬台国についていま何が言えるのか。この課題は案外難しい。 けいしょ さんどくし ぎしよとういでんわじんじよう ぎしわじんでん 中国の正史『三国志』「魏書東夷伝倭人条」 ( 通称「魏志倭人伝」 ) に、魏の景初二年 ( 二三 しんぎわおう ひみこ 八 ) 、邪馬台国女王卑弥呼が魏に遣いを送り、皇帝 ( 明帝とされる ) より「親魏倭王」の金印 えんたん や錦、銅鏡百枚、真珠、鉛丹などを賜った、と記される古代日本の国家「邪馬台国」。 景初二年は書き写しの際の誤りで、景初一二年 ( 二三九 ) が正しいという多くの専門家の を、ど・つ 指摘もあるのだが、いずれにしても西暦二世紀の後半から三世紀の中頃、日本は、鬼道に 仕える卑弥呼という女王によって統治されていたことは事実のようである。しかし、その 邪馬台国の所在地はいまもって解明されていない。 「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の記述はわずか二千字足らずなのだが、その文献学的 解釈はさまざまで、邪馬台国の場所を確定するような説はまだない。「径百余歩」と記さ てい れる女王卑弥呼の墳墓の記述、「銅鏡百枚」の記述についても百家争鳴の態である。これ 5 はじめに

10. 邪馬台国をとらえなおす

帝の治世の年号であり、倭国大乱の頃となる。二世紀の終わり頃に後漢末の年号が銘され た刀が、いつ日本に伝来したのか。その経緯はどのようなものであったのか。この古墳の 被葬者の先祖からの伝世か、あるいは、この被葬者が直接手に入れたのか、いろいろな疑 問がわく。 多くの研究者は、一三〇年に後漢が滅んだ後、遼東半島では公孫氏が非常に勢力をもっ た時期があり、この頃、邪馬台国の女王卑弥呼は公孫氏とも通交していた可能性があると 指摘している。あるいはこの頃に日本に渡ったのかもしれない。 公孫氏の記録のなかには、「倭と漢が服属す」という言葉が出てくるので、邪馬台国の 女王卑弥呼は、帯方郡、楽浪郡との関係から、遼東半島の公孫氏とも関わりをもっていた と思われるのである。 その公孫氏は二三八年に魏によって滅ぼされる。翌年の一一三九年、邪馬台国の女王はた だちに遣いを送り、帯方郡経由で魏の皇帝に朝貢する。そして、魏の皇帝から「親魏倭 王」の印綬を授かる。邪馬台国の女王卑弥呼は、このように日中外交に素早く対応してい ることを見逃してはならない。 卑弥呼だけでなく、国そのものの構造が、激動する東アジアと即応できる体制にあった のではないか。 85 第三章邪馬台国成立前夜一一一激動の東アジアと倭国大乱