山科 - みる会図書館


検索対象: 風水と天皇陵
17件見つかりました。

1. 風水と天皇陵

かじゅじ 生母てある藤原胤子を弔った勧修寺が庭園のある美しい境内を広げている。 鍋岡山はさきほど問題にした方位軸ていえば、山科陵の真南に位置し、堪輿の用語てい うならば陵の「朝山」となっている。朝山ははるか前方にあって、ここが陵墓の真正面と 思える位置にばつんと鎮座する独立山ぞある。景観において、びんと張った糸が見えるほ ど陵墓と緊密に結びついているからよくわかる。私は背後から山科陵と鍋岡山を見通し て、その糸を見た。意識をもって現地を訪れた人なら、私の見た糸が見えるかも知れな 天智陵の位置を山科盆地の中軸から西に偏らせたのは、この鍋岡山を真南に据えるこ とを意識した結果てはなかろ - フか たとえ山科陵と鍋岡山の位置関係が偶然の所産てあったとしても、平安京の宝地を選定 したような堪輿家ならば「山科陵に美しい朝山がある」と思い込んだことだろう。平安京 が船岡山・吉田山・双ケ岡の三山を景観に取り入れた都てあったことを思えば、大胆な選 地を旨とする堪輿家の伝統があったとしても、おかしくはなかろう。そして、一一本目の糸 は双ケ岡の西を縦断している。 桓武天皇所望の地は村上陵であった てんりやくち ここに天暦の治て知られる村上天皇の名を登場させるのは唐突てあろうか。そして、 2 ろろ風水て、解く桓武天皇陵の謎

2. 風水と天皇陵

だいもんじゃま 科盆地の北端やや西寄りの位置にある。山科盆地は、北を比叡山地南端の大文字山、東を おおいわやま おとわやまだいごやま きよみずやま 音羽山と醍醐山、西を清水山・稲荷山・大岩山などに囲まれた東西五キロ、南北六キロの 盆地てある。西方にならぶ京都盆地に比べると格段に狭いが、それだけに風景はまとまっ ている。盆地の北辺は大文字山から南へ派生する二筋の太い尾根によって三筋の谷に分か れ、そのうち西側の谷に山科陵がある。 あんしようじびしやもんどう 開口部に»--æ東海道本線山科駅があり、内に安祥寺や毘沙門堂を抱える中央の谷は盆地 の中軸にあって、ここに陵を築けば、盆地ての位置は安定するのだが、谷奧が山地に深く 切れ込んているため、大水をこうむる恐れがある。その点、山科陵のある谷は背後にそれ ほど深い渓谷もなく、しかも陵は川筋 ( 旧安祥寺川 ) から北にそれた扇状地上にあるため、 流される心配がない。陵地を選んだものがそういう計算をした結果、盆地北辺のやや西に たカ私は理由がほか 偏る場所に落ち着いたのては、と考えるのがふつうの思考てある。ご、、 : に↓のるし」田 5 - フ 天智陵の墳丘は一一段の方形壇の中央に三段の八角墳を築いたものて、八角形の一辺が真 南に向くように設計されている。現在の参道は真南からやや西へ振っているが、山科陵の 築造に際しては、夜半の北極星から真北を求めて引いた方位軸を基本線にしたことが、墳 丘の調査から判明している。 2 ろ 0

3. 風水と天皇陵

ちなみに、古代人は現代人よりも敷地や建造物を方位軸に合わせることに神経を使って いた。方位軸を意識することから上地計画の発想が起こり、民衆の居住区が条里のおよぶ 平坦な土地に限定され、碁盤目の設定てきない山野に住むことが抑制されたのてある。逆 現代の乱開発は方位軸の枠から解放された人の産物とも言えるのだが、こればかりは 解放という言葉に不快感を覚える。 山科陵に見える朝山への糸 それはそうと、山科陵の背後には明治二三年 ( 一八九〇 ) に開通した琵琶湖疏水が流れ、 ほんごくじ その奧には勾配のきつい谷が口を開けている。そこには本圀寺という日蓮宗の寺がある。 陵を中央に載せた扇状地の要となる地点てある。境内の高所に登ると、森に包まれた山科 陵の拝所からては見えなかった盆地の景色を展望することがてきる。そうして見れば、陵 の左右が尾根て守られている様子がよくわかる。そして、注目すべきは陵の前方彼方に見 える山てある。 なべおかやま 鍋岡山と呼ばれるその山は、名のとおりの鍋を伏せたような形のよい山て、西の山地か ら完全には切れていないのだが、山科盆地の南端に突き出て、とりわけよく目立つ。山項 たかふじ には『今昔物語集』にも登場する藤原高藤の墓があり、山の北には高藤の娘て醍醐天皇の 2 ろ 1 風水 ( 解く桓武天皇陵の謎

4. 風水と天皇陵

がんぎよう 皇を皇祖と仰ぐ以上、当然のことてある。また逆に、元慶八年 ( 八八四 ) の改正て春日宮 たわら そうした結果が『延喜式』「諸陵寮」 天皇の田原西陵が十陵から脱落したのは寂しい。 きんりようきんぼ えんりようえんぼ 規定された「近陵・近墓」と「遠陵・遠墓」の分類てある。そこに示す遠近の差は平安 朝の天皇を基点とした親疎の差に等しく、天智系の天皇陵や藤原氏の墓には広大な兆域が 設定された。 天智天皇と桓武天皇を結ぶ選地 ここてすこし歴史を戻し、山科陵に焦点を合わせよう。ここに来てはじめて天智天皇陵 に注目するのは、陵の選地をもって桓武天皇と天智天皇を結びつけることがてきるからて ある。もちろん、山科陵と比較すべき陵は柏原陵てはない。桓武天皇みすからが選んだ宇 しよもう 多野の造陵予定地てある。私は宇多野を歩いて、桓武天皇が所望した場所、あるいは堪輿 家が天皇に薦めた場所はここしかないという地点を見つけた。それが単なる思い込みてあ ると批判されてもかまわない。私の意見をきっかけとして宇多野を訪れた人が共感して下 い。「もっともらしい」説明て人を納得させることも人文科学の真髄て されば、それてよ ある。 さて、ますは山科陵の立地を見よう頁参照 ) 。陵は京都の市街地から一山を隔てた山 228

5. 風水と天皇陵

十陵の筆頭は天智山科陵 桓武天皇が曾祖父、天智天皇の親政を模範とする旨を明確に示した詔勅はない。だが、 一一人の天皇の事績には何かしら似た点が多い。思えば壬申の乱以来、朝廷を揺れ動かす大 うっせき 変革はなく、国内に鬱積した不平不満も国家を転覆させるだけの力とはならなかった。天 みこし 皇はいっしか官僚たちの御輿にかつがれ、達官貴族たちの勢力争いに右往左往させられる ような飾り雛になりかけていた。壮年の四五歳て即位した桓武天皇はみすからの意志て国 家を動かす久しぶりの天皇てあった。その強いリーダーシップが桓武天皇と天智天皇の姿 を重ねさせるのてあろう。 前章ては光仁天皇の即位を皇室史の革命てあると表現した。少なくとも平安朝の皇族や 朝廷はそういう意識をもっていただろう。そのことは陵墓の扱いを見ればわかる。天安一一 のさき 年 ( 八五八 ) に清和天皇は「十陵四墓の制」を定め、数ある歴代陵墓の中から荷前を奉る やましな べき陵墓を選抜した。その筆頭にあげられたものは天智天皇の山階陵 ( 山科陵 ) てあり、 一一し」っ 天智天皇以前の陵と天武系天皇の陵は完全に除外された。なぜなら、平安朝の皇室 ( ての祖は天智天皇一身に限定されたからてある。 その後、何度かの入れ替えはあったが、十陵の筆頭はかならす山科陵てあった。天智天 びな 227 風水て、解く桓武天阜陵の謎

6. 風水と天皇陵

平城京の六陵一墓 飛鳥は日本史の原点てあるといわれる。日本国家の歴史を語るための種がわんさと落ち かんよ ているからてある。堪輿術の研究も飛鳥の陵墓を巡ることてひとつの種を得た。あとはそ の種をどう芽生えさせてゆくかを考えねばならない 育てる方法は意外に簡単てある。考古学の常套手段てあるが、まずは類例を集めること ぞある。集めるだけて終わるのは寂しいが、類例に当たってゆけば、たいていは次の着想 が生まれるものてある。ここては飛鳥時代以後の天皇陵を訪ね、堪輿術を感じさせる類例 を集めよ - フ。 てんじ まゆみ ひのくま 飛鳥京と藤原京に対応する陵墓区は檜隈と真弓てあった。大津京を造営した天智天皇の やましな 山科陵 ( 京都市山科区 ) を忘れているわけてはない。山科陵の立地からはすこし違った要素 あおに を引き出せるのて、第六章て扱おうと考えている。となれば、次に訪ねるところは、青丹 げんめい よし奈良の都、平城京に対応する陵墓区てある。平城京て政務を執った天皇は元明・元 じゅんにんこうにんかんむ しようしようむしようとく 正・聖武・称徳 ( 孝謙 ) ・淳仁・光仁・桓武の七帝てある。このうち、淳仁天皇は不幸に も藤原仲麻呂の乱によって淡路島に幽閉され、陵は淡路にある。桓武天皇は長岡京を経て 平安京へ朝廷を移し、陵所は洛南の伏見に落ち着いた。そのことは第六章て触れる。 164

7. 風水と天皇陵

録された堪輿家の事績 : : : 佐保山に眠るニ人の女帝 : : : 「墳丘を造るな」という指示 江戸中期に発見された元明陵の石碑 : : : 聖武陵の地形を損なった多聞築城 : : : 平城 京ー佐保川ー聖武陵 : : : 宮城と陵を結ぶ水の流れ : : : 孝陵は歴代堪輿術の集大成 : : : 魄 の宿る場所を消し去る悪習 : : : 称徳女帝の陵を探せ : ・ : ・「山陵八町を除く」の割注 : 堪輿家の視点で推論すると : : : 太安万侶墓に見る真の風水 : : : 天智系復活はひとつの革 命 : : : 桓武天皇による父帝光仁陵の改葬 : : : 天智系の新陵区を造る 第六章風水て解く桓武天皇陵の謎 東アジア最高の風水の宝地 : : : 都から放り出された桓武天皇 : : : 平城天皇の言葉の裏を 読む : : : 桓武柏原陵の所在地を推理する : : : 四つの史料の記述から : : : 稲荷山の麓に見 つけたニ嶺一谷の兆域 : : : 十陵の筆頭は天智山科陵 : : : 天智天皇と桓武天皇を結ぶ選地 : 治定された 山科陵に見える朝山への糸 : : : 桓武天皇所望の地は村上陵であった : ・ 村上陵と「小右記』の矛盾 209

8. 風水と天皇陵

ろう。やはり顔役は必要てはないかと思って納得しよう。かって天武天皇は信濃へ宮地探 みののおう 索の調査団を派遣したとき三野王を団長に立てた。そのことを思えば、皇族の壱志濃王は 奉勅の一行てあることを示す旗頭てあったとも考えられる。 天智系の新陵区を造る やみくも 彼らは大和国に派遣されたと記されていたが、 闇雲に巡ったわけてはないだろう。おそ らくめざしたのは当初から田原てあったものと思う。そのわけは長岡京時代に起こった大 事件に求められる。 たねつぐ 延暦四年 ( 七八五 ) 九月に、桓武天皇は藤原種継の暗殺事件に関与したとして同母弟の さわらのみこおとくにでら 早良親王を乙訓寺に幽閉し、皇太子の地位を剥奪した。そののち「山科山陵」「田原山陵」 「後佐保山陵」の三陵に官僚を派遣して廃太子の報告をさせたことが『続日本紀』に記さ れている。通説ては山科山陵を天智天皇陵、田原山陵を光仁天皇陵、後佐保山陵を聖武天 皇陵てあるとするが、光仁天皇が田原に改葬されたのは翌年の延暦五年 ( 七八六 ) 一〇月 のことてあって理屈が合わない。聖武天皇陵は佐保山南陵てあって後佐保山陵てはない 第一、早良親王の廃位は身内の一件てあって、血のつながりの薄い五代前の先帝に報告す る義務はない。礼儀として行う歴代山陵への奉幣とはわけが違う。 204

9. 風水と天皇陵

いわしみず おとこやま る山を見つけることがてきるだろう。それが男山てある ( 頁参照 ) 。石清水八幡宮を戴く 男山は平安京の案山というべき重要な独立山てある。村上陵から見れば、その男山がほば 真南の位置に形よく浮かび上がり、山科陵て感じた陵と鍋岡山とを結ぶ糸がここても見え てくる。そして、その糸は山裾の妙光寺に下りても切れることはなかろう。なぜなら、こ の付近て視界をさえぎる双ケ岡は真正面からやや左 ( 東 ) ~ それているからてある。 前頁の図をよく見れば、妙光寺が村上陵の山から分かれる二筋の尾根とさらにその後方 から分かれる一一筋の尾根によって二重に抱えられている地形が読めてくる。前方の視界は 太秦のある平野部に向けて通り、遠方に朝山となる男山が鎮座する。そして、前方左手に 隆起する双ケ岡は妙光寺以下の宇多野を平安京から適度に隠す働きをする案山てある。双 だいり さ、らに ケ岡があるばかりに、平安京の内裏からは見える宇多野が下京からは見えない だいだいり は、男山 ~ 向かうライン上に長岡京の大内裏が位置することも意味ありげてある。 このように説明すれば、平安京の「乾の方角」の近接地にある宇多野が堪輿家の求める すべての条件を満足させる宝地てあったことを理解していただけると思う。その宇多野に おいて、桓武天皇の希望した奧津城はここしかないという地点が妙光寺の境内てあった。 2 ろ 7 風水て解く桓武天皇陵の謎

10. 風水と天皇陵

どまんじゅう 砂礫を葺いた上饅頭形の円墳を馬蹄形の壇上に築き、前面には二段のテラスを付設して いる。これは孝明天皇陵よりも、より舒明天皇陵に近い設計てある。壇を含めた墳丘の平 つりがね 面形は西洋式の釣鐘のように裾が広がり、拝所から眺めた立体的な外観は、前方部から見 た前方後円墳に似ている。この「前方後円」の設計が大正天皇の多摩陵や昭和天皇の武蔵 野陵にそのまま採用されたことは、もうおわかりてあろう。谷奧部密着型の選地もしつか りと受け継がれた。復古的に再現された伝統が現在にまて到達しているのてある。 ただひとつ、桃山陵と多摩・武蔵野陵との相違点をあげるとすれば、それは陵前に広が る見事な風景てあろうか。この大胆な風景は桃山陵の個性てある。それは天智天皇の山科 陵や桓武天皇の所望した宇多野にもない広大て開放的な風景てある。 中国ては皇帝の死後に奉る諡号を人格や業績ぞ決定する習慣が古くから継承されてき おもむき た。陵の規模や趣にも皇帝の生格や実績が反映された。そして、同様の習慣が日本にも存 在したことは、本書て探訪した飛鳥の古墳や奈良朝の陵墓がそれぞれに個性をもっていた ことからも理解てきるだろう。陵が遺詔によって築かれたものなら、なおさら天皇の個性 が投影されたはすぞある。そうとなれば、桃山陵の個陸に明治天皇の人格と業績を見るこ し」がて、さよ , フ ならば、冒頭に訪れた多摩・武蔵野陵の個をどう解釈すればよいのだろう。多摩丘陵 0 269 天阜陵の環境を考える