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検索対象: 風水と天皇陵
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1. 風水と天皇陵

と 域 ) て田畑を耕せば杖 ( 棒たたき ) 一百、墳丘を損なえば徒 ( 労働 ) 一年、許可なく埋葬す ちむち れば笞 ( 鞭うち ) 三十、草木を伐採すれば杖一百と、それぞれに厳しい罰則を設けていた。 、兆域内への立ち入りも厳禁された。『唐 帝陵の兆域においては、なおさら罰則が厳しく 律疏議』の規定を列挙する。 ( 太廟の門および山陵兆域の門より入るるものは、徒一一年。 ①もろもろのみだりこ わか ②垣を越ゆるものは、徒三年。守衛の覚らざるは、一一等を減ず。 ③もろもろの山陵兆域内にて失火するものは、徒二年。林木を延焼せしものは、流 ( 流刑 ) 二千里。その外にありて失火し延焼せしものは、各一等を減ず。 ④もろもろの園陵内の草木を盗むものは、徒二年半。 ①は許可なく廟門や兆域の門に立ち入ったもの、②は築地塀を乗り越えて侵入したも の、③は過失によって兆域内の樹木を焼いたもの、兆域内て火災をおこし林木を延焼した もの、兆域外て火災をおこし、兆域内の林木を延焼したもの、④は兆域内の草木を伐採し たものなどに対する罰則てあり、いずれも違反者は二年から三年の徒刑を科せられた。重 罪てある。 じよう たいびよう 2 5 1 天皇陵の環境を考える

2. 風水と天皇陵

、 .4 一心ま 2 嬋 ) 3 高雄 ' 山ドま第上 ド鴨囀ル 第ゞド 、Ⅳま . 天智天皐陵・ ー稲褓ⅲ冫盆 ~ , ・・桓武天皇陵推定地 0 1 2 3 4 5km 平安京の地形 基図 : 25000 分の一地形図「京都西北部」「京都西南部」「淀」「宇治」 ( 平成図年 版 ) 「京都東北部」 ( 同に年版 ) 「京都東南部」 ( 同 6 年版 ) / 国土地理院 平安京 252 GS

3. 風水と天皇陵

町されている。梅原の想像図を根拠とし 「一一太て、聖徳太子墓の石室は岩屋山式石室の 三下ま , 一 1 いラ」・、【 ) 、第 = 府年代に指標をケえる資科として活用され るようになったのてある。聖徳太子は 版『日本書紀』によれば推古二九年 ( 六二 辺一 ) 二月五日、「天寿国繍帳銘」と「法 周平 陵 ( 隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」によれば推 一、、 0. 天の古三〇年二月二二日に世を去り、墓が造 用「営されたのはそのすこし前のことぞある と図 墓のて、築造は七世紀の第一四半世紀 ( 六 太都〇一ー六二五年 ) に収まる。つまり、岩屋 聖子山式石室の年代はおおむね七世紀の前半 聖徳太子墓 に比定されることになる。 考古学者のなかには岩屋山式石室の年 代がもうすこし下るものと論断し、梅原 基の復元案を否定するか、あるいは聖徳太 用明天皇強、、

4. 風水と天皇陵

尾根を切る車道へ下りるまてに天武・持統天皇檜隈大内陵の雄姿が真正面に見えてく る。そこはすてに大内陵の景観的領域てある。大内陵は『日本書紀』に見える築造当初か らの陵号てあり、その名が示唆するように、陵は「大いなる谷の内」に築かれている。一 日をかけて谷に築かれた飛鳥の陵墓を観察したあと、最後にこの谷に入るとわかる。これ こそ神にします「おおきみ」の谷てあると。 しゅちょう 大内陵は天武天皇が崩御した朱鳥元年 ( 六八六 ) の一年後から工事がはじめられ、さら にその翌年の持統二年 ( 六八八 ) になって、はじめて天皇の亡骸が葬られた。二年間にお もがりのみや よぶ殯宮の儀礼と盛大な葬儀は大いなる天皇の送終にふさわしいものてあった。大内陵 には大宝二年 ( 七〇一 I) に五八歳て没した持統天皇の遺骨も納められた。持統天皇は遺誥 だび こうざんじもんじよ ( 上皇の遺言 ) によって荼毘に付された。明治一三年 ( 一八八〇 ) に京都の高山寺文書から発 あおきのさんりようき んりやく 見された『阿不幾乃山陵記』は鎌倉時代の文暦二年 ( 一二三五 ) に現陵が盗掘を受けた直 めのう しつかん 後の実検記てあり、そこには瑪瑙 ( おそらく大理石 ) の石室に漆棺と金銅製骨蔵器が納めら れている状況が克明に記されていた。治定された現陵が大内陵てあることを否定するもの は、ほとんどいない。 歴史は重なってゆくものてあり、ゼロから出発するまったく新しい事象などはそうな とはいえ、歴史の山に新鮮な土壌を大きく積んだものは、歴史を刷新した人物として おおうち 1 5 1 飛鳥の陵墓をめぐる

5. 風水と天皇陵

でら 応するように霧ケ峰の南斜面がえぐられ、コの字形をした谷が造成されている様子が見え てくる。西隣にある欽明天皇陵に匹敵する大規模な工事てある。この古墳も人工的な谷側 部密着型の選地がなされている。 欽明陵は梅山か見瀬丸山か 金塚古墳の西を仕切る尾根を過ぎると、欽明天皇陵に治定された平田梅山古墳が見え る。東西に軸をとる全長一〇〇メートルの、檜隈ては唯一の周濠をもつ前方後円墳てあ る。欽明天皇陵の治定については諸説があったが、今はこの梅山古墳を推す説と、近鉄岡 みせごじようのまるやま 寺駅の近くにある見瀬 ( 五条野 ) 丸山古墳を推す説が対峙する局面となってきた。論戦は 複雑ぞあるため、ここぞその詳細を述べる余裕はないが、私の立場は示しておかねばなら 『日本書紀』には欽明天皇を「檜隈坂合陵」に葬ったことが明記されている。『日本書紀』 が編纂された養老四年 ( 七二〇 ) からさかのばれば、欽明天皇の崩年 ( 書紀年代て五七一年 ) は一五〇年前のことてある。檜隈に葬られたことを間違う可能性は少ない。要は檜隈の地 をどこまて広げるかという点てある。見瀬丸山古墳を推すものは、霧ケ峰を越えた北方ま ムよ會隈の景観が霧ケ峰て止まるものと て檜隈の地域を拡大しなければならない。だが、不ー おか 160

6. 風水と天皇陵

なくとも一五〇メートル以上は歩いて登らなければならない。鳥居は牛車を寄せられる平 地にある。山裾まて近づくと、山頂の村上陵は完全に隠れてしまう。ところが、実資は鳥 居の所から御在所の様子をつぶさに見ている。 、こごナこと思う。冶定された山項の村上陵は『小右記』の記載と合わ ない。実資の日記からすれば、村上陵は平地もしくは平地に近い山麓にあったはすてあ る。村上陵は仁和寺の西にあり、「村上」すなわち「村の上手」にあ「たという。仁和寺 西方の旧村落といえば、往時の宇多野村 ( 福王子神社の西 ) がある。その範囲て以上の条件 を満たし、なおかっ天皇の陵を築くにふさわしい地点は、そう、妙光寺の境内しかない 村上天皇は詩文に優れ、奏楽をたしなむ賢君てあり、天暦の治として称えられる堅実な ' 」、つほ、つ 親政を行「たが、惜しくも康保四年元六七 ) に四二歳の若さて世を去「た。桓武天皇の 崩年から数えると一六〇年余りが経過している。宇多野の地ての造陵が賀茂神の怒りに触 れた例の一件は書物てしか伝わらない史話にな「ていたことだろう。実際すぞに、文徳天 皇・光孝天皇・宇多天皇の三帝は宇多野の周辺に陵を構え、当地はひとつの陵区とな「て つまり、村上陵の選地は往年の事件に何の関係もなく行われたはすてある。村上陵 の兆域を選んだ堪輿家の理想形と一六〇年前に桓武陵の兆域を選んだ堪輿家の理想形がた またま一致したともいえよう。しかしながら、私はそれを偶然の一致てあるとは思わな 2 ろ 9 風水て解く桓武天皇陵の謎

7. 風水と天皇陵

これからはじめようとする調査の対象はきわめて個人的な興味によって選ぶ遺跡てあ り、そのような遺跡の調査に付き合ってくれるものはいない。つまり、調査は終始単独て いってみれば、巻尺の片方を持ってくれる人がいないのてある。それ 行わねばならない。 そこて思いついたのが原始的な歩測法てあった。そ ても土地や遺跡を測らねばならない して、これはのちに抜群の効果を発揮した。一〇〇メートルの歩数を測る試みは私の単身 フィールドワークの原占となった。 風水の探索に南京をめざす その年の夏に私は北京から南京に向かった。南京はいうまてもなく中国の古都てある。 けんこう そんけんせきとう 古くは三国時代に呉の孫権が石頭城を築き、洛陽を捨てた晋王朝 ( 東晋 ) が当地て建康と いう都を構えた。建康は倭の五王が遣使した南朝の宋・斉・梁・陳四王朝の都てもある。 みん その後、隋唐時代を隔てた五代十国時代に南唐国がこの地て文化を昇華させ、明王朝を建 しゅげんしよう てた朱元璋は三億個のレンガをもって堅固な城を築いた ( 拙著『万里の長城攻防三千年史』 えいらく 講談社現代新書、二〇〇三年 ) 。明の永楽帝の時代、首都は現在の北京に定められ、以後は両 者を対峙させた北京と南京の通称が定着した。のは、日中戦争中の一九 = 一七年、日本 軍に撃破され、かの惨劇が起こった。日本人にとての南京は中国に対する負い目の象徴 風水の原点を探る

8. 風水と天皇陵

けんこう 景は、我が懐かしき都、建康の田園風景にそっくりてはないか」と。 そういう想像を楽しみながら阿知使主を祭った於美阿志神社の北に回ると、東へ下りる 農道がある。そのまま直進すれば、左手に文武天皇陵の森が見える。高松塚古墳は近い。 文武陵の中途半端な立地 文武天皇は七歳にして父の草壁皇子を亡くした。持統天皇は実力者の高市皇子が没した あと、すぐさま愛孫を皇太子に立て、その年 ( 六九七年 ) のうちに譲位した。文武天皇の 治世は大陸風の本格的な都てある藤原京を中心として日本の律令体制が急速に整備された きよううん 時期てある。京の名ていえば、もう飛鳥時代てはないが、慶雲四年 ( 七〇七 ) に二五歳ぞ あこのおか 没した文武天皇の亡骸は五カ月後に飛鳥岡て荼毘に付され、飛鳥の安古岡に葬られた。元 に「アンコウ」 禄から幕末にかけて陵の推定地は二転三転したが、日、冫 月台一四年 ( 一八八一 ) の小字名を残す当地に治定された。それが現陵ぞある。 文武陵の墳丘らしき封土は、南東から北西に下り最後は南西に鋭く折れて口を開ける長 さ四〇〇メートルの谷の開口部に近、 し北側の斜面にある。その選地は大化改新以後の陵墓 に特徴的な谷奧部突出型てもなく谷奧部密着型てもない。谷との位置関係だけをとれば、 たしかに谷側部密着型の選地てあるともいえようが、すぐ近くの小尾根に包まれている様 144

9. 風水と天皇陵

まんじゅう ているため、後方はやや窮屈になり、どちらかといえば東西に長い楕円の饅頭形をして けつかい ると表現したほう力ししオ 、、。、、ごろう。墳丘の裾には頭を尖らせた圭形の結界石が二重にめぐ らされ、美しく整備されている。もっとも、それは後世の造作てある ( 内側は鎌倉時代、外 側は江戸時代 ) 。墳丘の中段内部に口を南に向けた横穴式石室が築かれているが、今は破風 おおいや をもっ立派な覆屋が墓道にかけられて、石室の内部はもちろんのこと、墓のロすら拝めな とはいえ、往時には石室に立ち入ったものが少なからずいオ てんぎ 好ましくない目的をもって立ち入ったものとしては、平安後期の天喜二年 ( 一〇五四 ) ちゅうゼん に忠褝という僧が石室て不可思議の作法を行ったと『聖徳太子伝私記』に見える。つい げんきゅう ごびようじ て鎌倉時代の元久年間 ( 一二〇四ー〇六年 ) に叡福寺の前身てある御廟寺の僧二人が忍び込 み、太子の歯を盜み出したという。一方、江戸時代には石室の実測を行うものも現れ、明 きよおみ 治一二年 ( 一八七九 ) には宮内省から派遣された大沢清臣らが石室内部の詳細な記録を作 成しご。 オこの調査には南画家の富岡鉄斎も同行し、スケッチを画いている。 すえじ その六〇年後、大沢らの記録をもとに石室の構造を復元した考古学者の梅原末治は、切 えが いわややま 石を几帳面に積み上げた石室の図面を画いた。その際、梅原は明日香村越にある岩屋山古 みねづか 墳の精美な石室を頭に思い浮かべたらしい。あとて紹介する天理市の峯塚古墳などには岩 屋山古墳の石室とよく似た切石積みの石室が築かれ、それらは岩屋山式石室として類型化 てっさい 大化改新以前の陵墓を歩く

10. 風水と天皇陵

している。二筋の尾根は体院の門前て先端をそろえ、幅八〇メートルばかりの谷口を作 っていた。その開口部から龍王大神まての距離は約三〇〇メートルてある。つまり、袋の ように口をすばめる谷の奥部中央に短い尾根が突出していて、なおかっ谷は西大寺に向け て口を開いているのてある。龍王大神の付近に陵を置けば、西大寺と景観的な連帯をもっ 谷奧部突出型の選地となる。 谷は周囲の尾根も含めて、本願御陵の地とされた右京一条四坊北半と北辺坊を合わせた 敷地にまるごと収まる。さらには『延喜式』「諸陵寮」に規定された「東西各五町 ( 約五五 〇メートル ) 、南北各三町 ( 約一二三〇メートル ) 」の兆域の範囲内にもうまく収まる。そういう 整合性から、私はこの谷が鈴鹿王の宅地を利用した高野陵の兆域てあると推理する。 太安万侶墓に見る真の風水 左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安万侶以癸亥 年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳 このせ 昭和五四年 ( 一九七九 ) の正月に奈良市此瀬町の竹西秀夫氏が裏山の茶畑から黒い炭と 195 奈良時代の天皇陵を推理する