武蔵野陵 - みる会図書館


検索対象: 風水と天皇陵
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1. 風水と天皇陵

の等高線をよく観察すれば、武蔵野陵の築かれた敷地が谷奥の狭い斜面を大きくえぐって 造成した平坦面てあることが読める。元来の谷が狭くて急なために、大胆に土地を整形し 。ごごし、それごけに後方と左右両側の斜面がより急になり、 て敷地を確保したのだろうナオ 土砂崩れのことも考慮したのか、墳丘を包む矩形の敷地は多摩陵よりはすっと広く取られ ている。 このことを逆に考えよう。それほど大掛かりな造成を行ってまて武蔵野陵を谷の奧に隠 居させた理由は何か。多摩陵は谷中に突き出た尾根の前面に寄せられ、武蔵野陵は谷中の さらに奧まった場所に築かれた。多摩陵の選地 ( 上地を選ぶこと ) には、なるほどと思える オオカ武蔵野陵はどうだろう。激動の時代に六四年間の治世をまっとうし 本拠が見えご。ご、、。、 た天皇の墓所ならば、もっと前面に押し出してもよかったのてはないか。そもそも、多 摩・武蔵野陵は、どうして谷中にあるのか。近畿にある天皇陵の多くはすっと開放的な土 地にあって、陵の存在を主張していたはずてある。それなのに東京の御陵はどうして谷の 中にあるのか 地形を意識して観察すれば、次から次へと疑問が膨らむ。そして、ここてまた正直にし っておこう。この疑間に対しては、すてにひとつの答えが出されている。それは多摩・武 のっと 蔵野陵が「風水思想」に則って築かれたからだ、という解答てある ( 渡邊欣雄『風水気の 現代の天皇陵を訪ねて

2. 風水と天皇陵

どまんじゅう 砂礫を葺いた上饅頭形の円墳を馬蹄形の壇上に築き、前面には二段のテラスを付設して いる。これは孝明天皇陵よりも、より舒明天皇陵に近い設計てある。壇を含めた墳丘の平 つりがね 面形は西洋式の釣鐘のように裾が広がり、拝所から眺めた立体的な外観は、前方部から見 た前方後円墳に似ている。この「前方後円」の設計が大正天皇の多摩陵や昭和天皇の武蔵 野陵にそのまま採用されたことは、もうおわかりてあろう。谷奧部密着型の選地もしつか りと受け継がれた。復古的に再現された伝統が現在にまて到達しているのてある。 ただひとつ、桃山陵と多摩・武蔵野陵との相違点をあげるとすれば、それは陵前に広が る見事な風景てあろうか。この大胆な風景は桃山陵の個性てある。それは天智天皇の山科 陵や桓武天皇の所望した宇多野にもない広大て開放的な風景てある。 中国ては皇帝の死後に奉る諡号を人格や業績ぞ決定する習慣が古くから継承されてき おもむき た。陵の規模や趣にも皇帝の生格や実績が反映された。そして、同様の習慣が日本にも存 在したことは、本書て探訪した飛鳥の古墳や奈良朝の陵墓がそれぞれに個性をもっていた ことからも理解てきるだろう。陵が遺詔によって築かれたものなら、なおさら天皇の個性 が投影されたはすぞある。そうとなれば、桃山陵の個陸に明治天皇の人格と業績を見るこ し」がて、さよ , フ ならば、冒頭に訪れた多摩・武蔵野陵の個をどう解釈すればよいのだろう。多摩丘陵 0 269 天阜陵の環境を考える

3. 風水と天皇陵

覆われた土饅頭形の墳丘が真新しい。 武蔵野陵の墳丘はなぜか多摩陵よりも身近に感じる。陵を包む樹木がまだ若いせいもあ るが、理由はそれだけてはなさそうてある。正直にいって、その原因を現地ては解明てき なかった。なぜなら、現地ては二つの陵を同時に見比べることがてきないからてある。こ ういう場合に、撮ってきた写真と地形図が役に立つ。それを見て、謎はす。 理由は簡単てある。武蔵野陵が多摩陵よりも四メートルばかり低い位置に築かれている からてある。つまり、高い位置にあった多摩陵は、仰ぎ見る角度て眺めるために、墳丘の 周囲が前方の壇によって隠されて見えにくく 一方、武蔵野陵は割合と低い位置にあるた め、奧にある墳丘も上から下まての全体が見えるのてある。よく見えるから身近に感じ る。田 5 えば当たり前の理屈てあった。しかしながら、ここてその違いと原因に納得してし まっては、踏査の醍醐味が薄れる。なぜ武蔵野陵は低い位置に築かれているのか。そうい うところまて頭をひねる。飽くなき思考がさらなる事実を引き出す。 陵墓選地と風水思想 現地ては何となく感じるのだが、武蔵野陵のある位置は閉鎖的な谷の、さらに奧深く包 まれているような気がする。そして、その感覚が錯覚てはないことが地形図てわかる。丘

4. 風水と天皇陵

昭和天皇 武蔵野陵 香淳皇后冫 , 武蔵野東陵 1 2 開 m 多摩御陵第 、ー : - 警備派出所 / 、宮内庁書陵部 . / \ 多摩陵墓、、ノ ー監区事務所 イ物宿 大正天皇 多摩陵気ー、一 - - ・貞明皇后 ー摩東陵 ・・物れ 熊野社 多摩・武蔵野陵の周辺地図 基図 : 2500 分の一東京都地形図「長房」「高尾」「八王子霊園」 「西浅川」 ( 平成Ⅱ年版 ) / 東京都都市計画局 っ”ロ 現代の天皇陵を訪ねて 21

5. 風水と天皇陵

四角い住居や城郭に囲まれた人工的な居住空間から出た発想てある。思想の起源は中国に あり、陵墓に応用した例は飛鳥時代の古墳に求めることがてきる。また、円形の墳丘を奧 にして裾の広がる方形の壇を前にする配置は前方後円墳を彷彿とさせる。はたして多摩陵 の設計ー よそうした前例を踏襲したものなのか。気になるところてあるが、その疑間には本 書の中ていずれしつかりとお答えする。ちなみに、谷にある四陵のすべてが同一の構造に なっているのは、「上円下方」「前方後円」の設計がすてに帝后陵の規格として定型化して いるからてある。これは将来においても不変てあろう。 武蔵野陵が身近に感じられる理由 はいしょ 多摩陵から東へ戻れば、すぐさま貞明皇后の多摩東陵の拝所に出る。陵の構造は同じて あるが、全体に多摩陵よりも幾分小さい。規模だけてはなく、さまざまな施設に省略があ る。中国ぞは皇帝の数は陽数 ( 奇数 ) の極数 ( 最大値 ) てある「九」、皇后の数は陰数 ( 偶 数 ) の極数てある「八」と定められ、陵墓においても設計に一割から二割の縮小がなされ そ - フい一フことを ~ 実咸しながら、さらに た。その比率は日本においてもさほど変わらない おきっき 東へ進めば、道はおのずと北にある武蔵野陵へ向かってゆく。昭和天皇の奥津城 ( 墓所 ) てある。また、手前の右方向に二一世紀の陵てある香淳皇后の武蔵野東陵がある。礫石て ほうふつ 現代の大阜陵を訪ねて

6. 風水と天皇陵

第第第第鋼第 昭和天皇武蔵野陵

7. 風水と天皇陵

フロローグ 第一章現代の天皇陵を訪れて 大正天皇と昭和天皇の葬地 : : : 「陵の森」へ向かう : : : 古人の立場に立ってみる : : : 多 摩陵が築かれた位置 : : : 武蔵野陵が身近に感じられる理由 : : : 陵墓選地と風水思想 : 古代風水師の始祖郭璞 第一一章風水の原点を探る 単身のフィールドワーク : : : 風水の探索に南京をめざす : : : ある考古学論文に導かれて ・ : 中国南朝陵墓は風水思想の原型 : : : まずは拠点の確保から : : : 南京周辺にある陵墓 目次 9.

8. 風水と天皇陵

長さと幅の比率はおよそ五対一になる。人体ていえば、伸ばした腕のシルエットに近似す る値てある。 いかに懐の深い谷てあるかを実感していただけるだろう。 古人の立場に立ってみる 谷のロを横切るように立てた低い透垣を越えると、砂利の敷かれた広い参道が谷の南縁 にそって西へ向かってゆく。谷の北縁にも同様の道があるのだが、そちらは一般人の立ち 入りが禁じられている。透垣の内にあり、谷の水を集める長い池は、ほどよく石が配され こうたいじんぐう て、庭園の泉水を思わせる。高い並木に挟まれた砂利道は昼ても薄暗く、伊勢の皇大神宮 を歩いた言憶か引き寄せられるような光景てある。しばらく行けば、左手の尾根が道に近 つく。たいていの参拝者はここてはじめて丘に包まれていることに気づくのだろう。あた りはそういう単純な地形が読めないほど密に木々が茂っている。そこから道は西と北 ~ 分 かれる。西 ~ 進めば大正天皇の多摩陵、北 ~ 進めば昭和天皇の武蔵野陵にいたる。 ここて順序を迷う人には助言しよう。先に参拝すべきは多摩陵てある。作法があるわけ てはないが、物事の歴史を感じるには、時代を追って見るのが定石てある。歴史博物館の 観覧順路がそうてある。また、最初に位置を占めたのは多摩陵てある。当然のことなが ら、谷中の最もよい場所に営まれている。つまり、多摩陵を見れば、この谷を陵墓地に選

9. 風水と天皇陵

『万里の長城攻防三千年史』 ( 講談社現代新書 ) てお世 実は本書の執筆をはじめる前に、 話になった小山光氏と現代新書出版部の山岸浩史氏と三人て多摩・武蔵野陵を訪問した。 こうじゅん 以前にも一人て訪れたことはあったが、そのときに建設中てあった香淳皇后陵の完成し た姿を確かめておこうと思ったのてある。また、私は持ち前の観察法を披瀝して、お二人 の反応も確かめた。こうした研究法に読者を引きつける力があるかどうかを最終的に寉忍 しておかねばならない。 そういう気持ちもあった。多摩陵の前て職務質間を受けるという ハプニングはあったが、緊張感を共有すれば、不思議と見学が面白くなる。それこそワン パク仲間て小川をさかのばるような気持ちてある。 そのような現地て味わう感動をいかにもらさずお伝えするか。本書てはその点に力を集 中した。史跡めぐりの会て積んだトレーニングの成果を試す場所てもあった。はたして私 のれない試みが通用したかどうか。やや不安てはあるが、情熱だけはお伝えすることが てきたと田 5 う ししオたしにご一画々、み ) し 末ながら、日頃共に歩いて下さる皆様、多摩陵にお付き合、 て、私を支えて下さるすべての方々に感謝します。 平成一六年八月二〇日 来村多加史 276

10. 風水と天皇陵

み : フい - フ仕掛けにしご、。 「陵の森」へ向かう ますは高尾駅の古風な駅舎を背にして国道二〇号線を右に歩き、熊野神社近くの歩 道橋に登ろう。歩行者が階段を嫌がるせいか、最近てはあまり架けられなくなった歩道橋 てはあるが、街中て景色を展望するには便利な施設てある。歩道橋に登れば、建物に隠れ ていた北の丘陵が顔を出す。左手 ( 西 ) から右手 ( 東 ) に目を移せば、裏高尾の山々が急 に項を低くして丘陵へと姿を変え、その丘が長々と彼方まてのびてゆく景色を眺めること がぞきる。実は、京王線高尾駅のプラットホームに立てば、さらに美しくこのパノラマを 目儿るこし」かて、ごる。 とりどりの森となり、尖った樹冠や丸い樹冠が入り 歩道橋から北の丘をよく見ると、色 交ざって不統一てある。これは森が材木を切り出すための植樹林てはない証拠てある。さ まざまな樹木を植えて、あるいは元来の木々を保護して、さながら原生林のような景観を 現出した、明らかに「見せるため」の森てある。そして、見せる相手は一般市民てはな みささぎ こうじゅん 大正天皇と貞明皇后、昭和天皇と香淳皇后の霊魂てある。これを陵の森と呼ばう。 多摩の山地から 陵の森へ向かう自動車道は左から右へ流れるやや蝠の広い川をまたぐ。 そこて、さっそく多摩・武蔵野陵をめざして歩く