歹ナカ大化改新後には消えた。大化一一年 式石室が現れてからも、この手法はしばらく戈つご、、。、 はくそうれい ( 六四六 ) 三月に孝徳天皇が発した倹約の詔、通称「大化薄葬令」によって巨大な石室の構 築が制限されたため、重量感を引き立たせる手法もすたれたのてあろう。かわりに流行し た石室は居室の空間に近い箱型の石室てあった。あらゆる構造物に直線的な設計を反映さ せることが新時代を担う人々の好みてあったようだ。人は几帳面になるほど原始の力を失 う。そういう真理を歴史に感じる好例てある。 そのような石室の変遷から見て、文殊院東古墳が西古墳よりも早くに築造されたことは 歴然としている。東古墳の南には東の丘から晴明神社を戴く短い尾根が西へ突き出て東古 墳を抱えている。また、西古墳の西、現在の本堂付近は北の丘から南へ尾根が突き出て西 古墳を抱えている。つまり、東西の古墳は二つして左右の尾根に包まれているのてある。 その姿は父親の両腕てしつかりと引き寄せられた二人の子供を想像させる。 両古墳の前方には文殊院境内の南を縁取る丘が迫って視界がしつかりと遮断され、兆域 の閉鎖性はかなり高い。まとめるならば「東を奧にして西へ口を開く谷の、開口部に近い 側斜面が小尾根に包まれた場所」に両古墳がある。てきれば紙と鉛筆を用意してこの略 、、、ご、。よぜなら、そのような場所を意識して 図を画き、本に挟んておいて下さればありカオしオ 築かれた古墳があとにも出てくるからてある。 大化改新以前の陵墓を歩く
ほうれん な上り坂に変わり、そののち北を流れる佐保川に向かってまた微かに下り、陵前の法蓮橋 可こいたる南北二五〇メート にいたっている。すなわち、奈良女子大学の北東隅から法蓮橋 ( ルの間にわすかな高まりがある。一メートルばかりの高低差てあるが、これは聖武陵の選 地を考える上て見落としてはならない地形の痕跡てある。 平城京ー佐保川ー聖武陵 オ ( 力と田 5 - フ。とはい - ん、瞳 東大寺を参拝しても境内の地形を把握している人は稀てはよ、 を閉じれば、 いくつかの景色は田 5 い出されることだろう。そこて思い出していただきたい かがみいけ がらん のが大仏殿を囲んだ伽藍周辺の風景てある。参道から回廊の中門を見て、右手には鏡池 があった。左手はどうなっていただろう。何か土地が窪んて谷がてきていたのては。そう かいだんいん いえば、大仏殿院から西の戒壇院へは谷にそう小道を歩いたかしら。そして、記億をたぐ り寄せれば見えてくる。たしか戒壇院は小川の北に盛りあがる高台の上にあった。 東大寺の境内はその尾根を 戒壇院の丘は若草山から西に派生する尾根の背筋にあたり、 削って造成した平坦面の上に広がっている。そして、戒壇院の尾根の北に並行し、同じく 西へのびる尾根を利用したのが正倉院てある。東大寺を巡ってそういう地形を観察する人 はめったにいないだろうが、実はこの二筋の尾根がさらに西へ上地を押して、消える直前 まれ 181 奈良時代の天皇陵を推理する
だいもんじゃま 科盆地の北端やや西寄りの位置にある。山科盆地は、北を比叡山地南端の大文字山、東を おおいわやま おとわやまだいごやま きよみずやま 音羽山と醍醐山、西を清水山・稲荷山・大岩山などに囲まれた東西五キロ、南北六キロの 盆地てある。西方にならぶ京都盆地に比べると格段に狭いが、それだけに風景はまとまっ ている。盆地の北辺は大文字山から南へ派生する二筋の太い尾根によって三筋の谷に分か れ、そのうち西側の谷に山科陵がある。 あんしようじびしやもんどう 開口部に»--æ東海道本線山科駅があり、内に安祥寺や毘沙門堂を抱える中央の谷は盆地 の中軸にあって、ここに陵を築けば、盆地ての位置は安定するのだが、谷奧が山地に深く 切れ込んているため、大水をこうむる恐れがある。その点、山科陵のある谷は背後にそれ ほど深い渓谷もなく、しかも陵は川筋 ( 旧安祥寺川 ) から北にそれた扇状地上にあるため、 流される心配がない。陵地を選んだものがそういう計算をした結果、盆地北辺のやや西に たカ私は理由がほか 偏る場所に落ち着いたのては、と考えるのがふつうの思考てある。ご、、 : に↓のるし」田 5 - フ 天智陵の墳丘は一一段の方形壇の中央に三段の八角墳を築いたものて、八角形の一辺が真 南に向くように設計されている。現在の参道は真南からやや西へ振っているが、山科陵の 築造に際しては、夜半の北極星から真北を求めて引いた方位軸を基本線にしたことが、墳 丘の調査から判明している。 2 ろ 0
安倍氏本拠の谷首古墳 文殊院の正門てある西門を出て門前の道を南に下ると、右手に安倍寺跡がある ( 真の すう 図参照 ) 。西の塔、東の金堂を取り囲む回廊の北に講堂が建つ本格的な古代寺院ぞあり、崇 きようじ 敬寺という名をもっ安倍氏の氏寺てあるとする説が有力てある。当地が安倍氏の本拠地て あるという前提に立てば、当然の結論てある。公園となった安倍寺跡を散策したあと、阿 たにくび 部丘陵の南辺にそって東へ歩けば、大和桜井園という施設の西隣に八幡神社を戴いた谷首 古墳がある。古墳は文殊院東古墳よりも一回り大きな石室をもっ方墳て、一辺は三五メー トル程度てある。同じく方墳てある艸墓古墳が一辺二〇メートル前後てあるから、墳丘の 規模もかなり大きいことがわかる。阿部丘陵の中ては最大の規模を誇る古墳てある。考古 学者が好む表現を使うなら、安倍氏の首長墓てある可能性が高い そういう谷首古墳の周辺地形は南に迫る住宅地の開発によって完全に破壊され、阿部丘 陵の南を縁取る丘の南斜面を利用した古墳てある、という簡単な説明しかぞきない状態に なってしまった。しかしながら、開発前の地形図や写真は、西に口を開く谷奧の斜面に谷 首古墳が築かれていた状況を伝えてくれる。阿部丘陵に分布する他の古墳同様、谷を意識 した選地てあったのだろう。 大化改新以前の陵墓を歩く 9
・称徳天皇陵兆域推定範囲 北・西一辺・ 人、路で北京極路、レ 講堂を 称徳天皇陵推定地 , ト路ー中実門声 鞳 . 東攜 = 凉一条第坊 0 路 ・右原一条坊ー 南 = こ南閂 - 大 路 疉つ 1 : ー 0 1 2 開 m - ・ 西大寺は右京一条の三坊と四 良坊、つまり三二町の寺域をケえら そうぎ レれたが、三坊東北隅の一町に喪儀 寮 ( 葬祭用具を管理する役所 ) が置 平かれていたため三一町の寺域とな 皇幻 った。ここて最大のポイントとな 徳「るのが「山陵八町を除く」の割注 称図 と画てある。これは寺域が西辺の京極 ニ一口 大路から八町の敷地を山陵に提供し 大ていたことを意味している。鎌倉 の時代以降の西大寺文書には山陵の 位置を「東北隅」と記すが、「西 図北隅」の誤りてあろう。というの も鎌倉時代に画かれた「西大寺往 古敷地図」には伽藍の北西に当た りよう 192
た。そのとき私には陵地を選んだ某人の心が読めた。だからカ強く読者に説くことがてき るのてある。 多摩陵が築かれた位置 多摩陵の墳丘は谷の奧からやや手前の北側斜面に座っている。陵前の広場からさらに西 へ谷がつづいているのだが、足止めの柵が渡され、厳しい顔をした警備の人が詰め所から ちゅうちょ 怪しげな私をにらんているため、谷の奧を覗き込むことに躊躇する。よって地形図て見 れば、そこから一五〇メートルばかり西まて谷が切れ込んている。表現は慎まねばならな いが、谷奥にも陵を築けそうな場所がまだある。ただし、多摩陵は奧からすこし前方へ戻 った位置に築かれた。その理由は簡単てある。多摩陵の築かれた尾根が谷の中ては最も安 ちょういき 定した位置にあたるからてある。私が見たところ、兆域の丘陵には少なくとも四代の天 皇陵を築く適所があるのだが、第一の陵がそのうちの最もすぐれた場所に築かれたのは当 然のことてある。 陵の背後には形のよい丘が隆起し、前方には西から東へ尾根がのびて、多摩陵に眠る大 正天皇の机のような役割を果たしている。陵の左右を見ると、谷が北へ鋭く切れ込んてい る。視点を変えれば、多摩陵のもたれた丘が広い谷の奧から南へ突き出ているような地形 現代の大皇陵を訪ねて
長さと幅の比率はおよそ五対一になる。人体ていえば、伸ばした腕のシルエットに近似す る値てある。 いかに懐の深い谷てあるかを実感していただけるだろう。 古人の立場に立ってみる 谷のロを横切るように立てた低い透垣を越えると、砂利の敷かれた広い参道が谷の南縁 にそって西へ向かってゆく。谷の北縁にも同様の道があるのだが、そちらは一般人の立ち 入りが禁じられている。透垣の内にあり、谷の水を集める長い池は、ほどよく石が配され こうたいじんぐう て、庭園の泉水を思わせる。高い並木に挟まれた砂利道は昼ても薄暗く、伊勢の皇大神宮 を歩いた言憶か引き寄せられるような光景てある。しばらく行けば、左手の尾根が道に近 つく。たいていの参拝者はここてはじめて丘に包まれていることに気づくのだろう。あた りはそういう単純な地形が読めないほど密に木々が茂っている。そこから道は西と北 ~ 分 かれる。西 ~ 進めば大正天皇の多摩陵、北 ~ 進めば昭和天皇の武蔵野陵にいたる。 ここて順序を迷う人には助言しよう。先に参拝すべきは多摩陵てある。作法があるわけ てはないが、物事の歴史を感じるには、時代を追って見るのが定石てある。歴史博物館の 観覧順路がそうてある。また、最初に位置を占めたのは多摩陵てある。当然のことなが ら、谷中の最もよい場所に営まれている。つまり、多摩陵を見れば、この谷を陵墓地に選
いちおはかやま かとする説もあるが、越智岡丘陵の南にある市尾墓山古墳 ( 古式の横穴式石室をもっ全長六六 メートルの前方後円墳 ) にも二つの羨道が通り、玄室には石棺がちゃんと納められていた 羨道が二つあるからといって古墳てないとするのは、あまりにも場当たり的な発想てあ る。ここては真弓鑵子塚を古墳として話を進めよう。 真弓鑵子塚古墳の築かれた丘は南東方向から細長く連なる尾根の先端にあたり、 切れ込む谷が前方て合わさって真西の方向へのびてゆく。直線的に西へ下る谷は幅が八〇 メートル程度て一定しており、谷奥から九三〇メートルてひとますの開口部にいたる。 「ひとまず」と表現したのは、谷は幅を広げながらさらに西へとのび、一二五〇メートル 先にある越智の集落まてつづいているからてある。この全長約二・二キロの谷全体を越智 谷と言っておこう。それは越智岡丘陵を南と北に分断する谷てある。 風水の祖型に出会う 真弓鑵子塚古墳は直線的な越智谷の奧部中央にあり、谷の景観を独占している。古墳の 付近から越智谷を眺めると、谷口の先にある山に目を引きつけられる。手前には南から北 に横切る曽我川を隔てて神武天皇が国見をしたと伝えられるホホマの丘が迫り、その背後 かつらぎさん には薄い山影を見せる葛城山の最高峰が重なっている。直線的な谷筋のライン上に前後の 124
たとしか思えないような一致てあった。 おそ 前触れもなく訪れる感動は畏れに似た反応を引き起こす。そういう法則を作りながら藪 ほ、つ→ 0 い から出た。古墳はカモフラージュされた砲塁のように隙間もなく茂る藪に包まれていた。 前回に発見てきなかったのも無理はない。 こんどは冷静になって地形を見ようと古墳から ゃなぎいけ 離れ、永久寺の谷のロにある柳池まて後退しこ。 オここて私はまたも興奮した。 峯塚の北に横たわる丘が古墳の左右から腕をのばしている。左腕は峯塚を隠すように横 手からのび、右腕は真っ直ぐに突き出して谷に入る者をさえぎる構えをしている。それは 文殊院西古墳の立地に瓜二つぞあった。しかも、こちらは旧地形がそのまま保たれてい る。「東を奧にして西へ口を開く谷の、開口部に近 い --r 側斜面が小尾根に包まれた場所」 の略図を画かれた読者は横に置いていただきたい。 峯塚古墳はその定義を模型にしたよう ちょうねい な地形の中にあった。南朝陵墓の例ていうならば、長寧陵に似た選地てある頁参照 ) 。 このように大きな谷の側面に墓を寄せる選地を「谷側部密着型」と命名しよう。 谷の景観を我が物にする 法隆寺の裏にある仏塚古墳はもうひとつの典型ぞある。日本最古の木造建築を残す西院 伽藍から百済観音堂へ移り、東院の夢殿へ向かう順路が法隆寺参拝の定番てあるが、古墳 104
の高まりが先に見た道路の傾斜に表れているのてある。鏡池から発する谷の小川が西へ去 あんきょ れ、暗渠となって奈良女子大学の北辺を流れていることも知る人は少ない。 法蓮橋の北にある聖武天皇陵の丘と東大寺のある尾根は佐保川を挟んて東西に向かい合 その間に視界をさえぎる地形がないため、往時は互いに見通せる関係てあったことも ひとつの大事な視点てある。ただ、私が注目するのは、北東から南西に向かう佐保川の流 れが尾根の脇に当たってやや北に押され、聖武陵に接近したあと、尾根が消えたことに安 心したかのように流れを南に変えていることにある。この地点の流れは奈良時代から大き く変化していないだろう。 平城宮の東西を流れる佐保川と秋篠川の流路は解明されているようて不明な点が多く、 そうはいっても、秋篠 奈良時代の流れは発掘調査の進展を待たねば正確な図にてきない。 きよういき 川が南北の大路にそって南へ流れ、佐保川の水が京域の東辺にそった水路や京内を走る 多数の用水路に分けて用いられていたという推測はなされている。 ひえだ 佐保川の水は、西へ向かい、南へ折れながら京域を斜めに流れ、奈良市稗田町の南て朱 ざくおおじ 雀大路の延長てある下ッ道を横切って、その西て秋篠川に合流していたらしい。つまり平 城宮から南を見て、左後方から右前方にかけて斜めに横切る川筋をとっていた。これは聖 武天皇陵と佐保川の関係と同じてある。つまり、聖武陵と平城宮もしくは聖武陵と平城京 わル 182