地名 - みる会図書館


検索対象: 人麻呂の暗号
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1. 人麻呂の暗号

一つの世界に見たてたものらしい。 この時、仲間の一人が、大きな目をさらに丸くしながら、「アッ」と声を上げた。彼女の親戚が奈 良にいるとい、つ。何度か遊びに行った斤、 「石見は行っても、何もないからつまらないよ」 と言われたことを思い出したらしい。何に対して驚いたのか、事情を説明しよう。 大和郡山から南に橿原まで延びている近鉄橿原線に、島根の石見と全く同名の駅がある。この沿線 のほとんどの駅の案内版には、古墳とか、寺などの観光案内が満載されているのに、この石見にだけ は、その類の名所が何もないという。 みやこ 奈良の周辺と言えばいずこも古代史の京である。そこに住む住民にとっては迷惑千万な話だろうが、 住域によっては、自分の家を一軒建てる時ですら、必ず市役所の文化課に申請をしなければならない らしい。古都の外観を損なわないということはもちろんだろうが、何より地面を掘り起こしたらどん な古代の貴重な遺物がでてくるかわからないという、このあたりの地ならではの配慮からである。 石見。いったいどういうこと そんな中で、古墳といった類も何もないと言われる小さなスポット、 なのか、不老不死ーー墓がない : これは偶然の一致だろうか。いずれにせよ、地名が無意味につけられているということはないはず である。 地名の漢字からのこうした解釈が、実際のその地の地形、事情などに呼応することなどを発見した 瞬間はいつも不思議な気持ちになる。カルタの歌と絵がピタリと合わさったような満足感を覚える。 ビョロ 「硯は朝鮮語でって言うんだって」 「同じ音で、他の意味はない ? 巧 0

2. 人麻呂の暗号

人麻呂の遺書 その一言がきっかけで、さっそく捜査開始となった。いったい人麻呂が、どのくらいの頻度で地名 を歌に登場させていたのかを、万葉のすべての歌について調べてみようというのである。 こういうことでは、トラカレの人海戦術にまさるものはないだろう。とにかく、アガサの「捜査 網」が動きだしていた。学生総動員での " 地名探し ~ である。 結果は予想したとおり人麻呂がダントツだった。大伴家持、山部赤人、山上憶良らと比べても、人 麻呂の地名の多さは際立つばかりなのである。 含有率を求めてみる。人麻呂の歌に含まれる句数は、あわせて三一五句、そのなかで、地名は五七 回もでてきている。含有率を求めてみると一八・一ヾ ーセントである。対して、その他の歌人を総計 してみても、三三四五句中、三〇九個が地名、含有率は九・二。ハーセントにしかならず、これではま るで勝負にならない。 みつ みめめ いなびの あかしおおとけい のじまふじえ 地名に関しては、羈旅の歌でも、三津、奴嶋、敏馬、野嶋、藤江、稲日野、可古、明大門、飼飯と いう具合に、実に十もの地名を登場させている。なぜこんなに多くの土地を記す必要があったのだろ 三津埼の歌で、地名が人麻呂の「筆先」を暗喩していたように、次からの歌でも地名に何か重大な 意味を潜ませているのだろうか。三津埼の歌を解いてからというもの、次の七首にはなんとなく手が のびないでいる。人麻呂の悲痛な声が、私たちを重苦しい気持ちにさせるからだろうか。 アガサは、そんな私たちの気持ちにはおかまいなしに二つめの大福餅に手をのばしている。本家本 元のアガサより少なくとも迫力の点では数段まさっているようだ。 「八首のなかでも、この歌ほど単純な歌はないでしよ。そこがひっかからない ? 私たちはアガサの方へ向き直った。 みめめ 「訳文では " 美しい藻を刈る敏馬を離れて、夏草しげる野島の埼に舟は近づいた ~ ということになっ 19 う

3. 人麻呂の暗号

さそうな、激しい感情の発露である「嗚呼」が、地名というあたりさわりのない姿の中に収まってい るのである。 あみの浦は、現在の三重県鳥羽市小浜の南岸を指すのではないかという説があるものの定かではな ) 0 もし " あみの浦 ~ の " あ ~ という音を借りるだけならば、他にいくらでも適当な漢字がありそう なものである。万葉仮名で " あ。の音に当たるものとしては阿や安がすぐに思いつく。さらに奇妙な のは、 " あ。の一音にわざわざ嗚呼の二文字が当てられていることだ。いや、この言い方では逆にな る。原文の嗚呼を " あ ~ の一音で読んでいるのだから。ともかく複字一音という点でも稀に見るケー スである。 「ホントだ。嗚呼というのは珍しいね とみんながうなずく中でも、必ずだれか、「でもホントかな ? , と言い出す人がいるのがトラカレ である。 「けっこう他にも同じ字を使っているケースがあるかも知れないじゃない。万葉集には大勢の歌人が いるんだもの」 「いやいや人麻呂だからこそできた技だよ」 ではとにかく " 嗚呼…の特殊性について調べてみようということになった。 トラカレ生みんなで手分けをして万葉集の歌全ての中から " あ ~ の音を表記している漢字をもれな く拾い出し、その頻度を見ていく作業が、たちまち行われた。はたしてその結果は、軽い気持ちで作 る 業を始めた私たちを興奮させた。 " あ ~ の音を「嗚呼」と表記するのは、全万葉集中、他に一例も見 つからなかったのだ。 呂 人

4. 人麻呂の暗号

安胡乃字良奈布奈能里須良牟乎等女良我安可毛能須素奈之保美都良武賀 をとめ 英虞の浦に船乗りすらむ少女らが赤裳の裾に潮満つらむか ( 巻十五ー三六一〇 ) この三六一〇番は、少しちがいがあるものの、まぎれもなく四〇番の「あみの浦」の歌ではないか。 他の四首も既に前の巻に出ていた歌であり、いわばこれらはリバイバルなのだ。それもそのはず、巻 十五は後に遣新羅使によって口誦された歌を集めたものだったというのだ。 問題の「嗚呼」が消えている。そして所在不明のあみの浦が、れつきとした実在の地名英虞の浦に すり変っている。また、珠裳が赤裳に変っているのも、当時の女官たちが通常赤い裳を着ていたから であろう。見事に当り障りのない美し ) しいわゆる " やまとことば ~ の歌になっているのである。そ もそもそういった意味のすり替えは、元になっている白文の表記のしかたの違いが引き起こしたので あろう。三六一〇番は、万葉後期特有の一字一音の音借仮名の表記になっていて、ここでは漢字は音 を示す道具に過ぎない。音借仮名では、漢字の意味の方があまり目立たないように、平均的なありふ 巻十五に同じ歌が 「ねえ、ちょっと、こんなとこにも人麻呂の歌があったよ」 万葉集の本に指をさし挟んだまま仲間のひとりがやって来た。その子が見つけたのは三六〇六番か ら三六一一番までの五首だった。 「へえ ! そんな後ろの方に ? 」 人麻呂の歌は、万葉集の初期、巻一 5 巻四に集中しているのだが、それら五首は巻十五の中にあっ

5. 人麻呂の暗号

人麻呂の親らしく、人麻呂をあやすようにして慈愛のこもった顔で笑いかけている。ところが、真中 にいる人麻呂は童子だなんて、とてもじゃないが思えない。皮膚がたるみ、顔にはしわがよって。と もすると両親よりふけて見られるってのに、七歳だっていうのですから」 「肖像までが謎めいているというわけですね」 「じっと見ていると、こっちまでゆううつになってくる面構えだなあ、あれは。不思議な険がある」 神社には、この像にまつわる古い伝承が残されていた。古いといっても徳川期以降のものだそうだ かたらひ が、それによれば、人麻呂は七歳のとき、突如としてこの神社の主「語家命」夫婦のもとに現れたの なりわい かたりべ だという。人麻呂の育ての親である彼らは、「語部」を生業とする渡来人であったという。 このことを調べてきた ()0 は、この伝承と人麻呂の残した暗号とが、何かの糸に結ばれているものな のではないかという。人麻呂ほどの歌人である。渡来人だった可能性はかなり大きいし、そういう推 測をする人も古来少なくはない。 けれども、人麻呂が渡来人だったかどうかということよりも、人麻呂の生涯が、彼の残したことば によって明らかにされること、そのこと自体に私はより大きな魅力を感じていた。 同じことを考えていたのか、アガサはゆっくりと煙草に火をつけると歌に目を戻していた。 「この八首は旅の歌だけあって、さすがに地名が多いわね。万葉には約四五〇〇首もの歌があるとい われるけれど、地名がでてくるものだけで三〇〇〇首以上になるでしよ。地名も枕詞のように裏の意 味がこめやすかったせいじゃないかしら」 アガサの推理が始まった。 " 人麻呂渡来人説 ~ の方は、アガサの煙草の煙にまかれていったんおあ ずけになってしまったようである。 「人麻呂は歌のなかで、どのくらいの数の地名を詠んでいたのかしら」 こども 194

6. 人麻呂の暗号

こもりえ 浪と隠江 三津埼浪矣恐隱江乃舟公宣奴嶋奈 ( 巻三ー一一四九 ) 羈旅の歌の最初におかれた歌である。「三津」は地名で、一説では、難波 ( 大阪市 ) の湊を指すとい われている。 みさき そこの崎の波が恐ろしいので入江の舟で君は祈っている、美奴の島に・ーー - ーというのがこの歌の解釈 の一例である。 ところで「君ーとは一体誰のことだったのだろう。 特にこのことをふくめた後半「舟公宣奴嶋奈」の部分には定訓がなく、さまざまに解かれている。 これでは、訓をたより ここで君が祈っていたという美奴の島も、所在不明の謎の島というほかない。 にしても何もわからないではないか そこで地名に注目してみると、人麻呂はこの歌で謎の島「奴」を末尾に、そして「三津埼」を冒頭 に二つの地名を織りこんでいる。 わたし つまり渡を意 三津は朝鮮語でとくと「囹 ( 三 ) こ、己 ( 津 ) ーとなり「舟をつなぐのに格好の場」 わたし 味していることがわかる。三津崎が、古代から渡として最適な場であったことがその表記からうかが えるわけだ。この調子でさらに歩を進め、漢字の語源をみてみることにする。 三は、数字の 3 を表した指示文字であるが、もとはいろいろなものが集まる意味であって ' 必ずし も 3 という数ではない。古く『説文解字』では、その意味をもって三を彡印に象ったとしている。っ 188

7. 人麻呂の暗号

私は、もう一度手元の万葉集をひろげてみた。なにげなく字面をおっていると「泉」の一字に、目 あま が釘づけになった。なんと「白水郎」は、原文では「泉郎」とある。武田祐吉氏の万葉によると、 「泉郎」は、漢語の白水郎をつめて書いたものと説明している。つまり、もとは白水を組合わせた文 よみ 字が泉だったのである。 " 黄泉 ~ という語に示されるように、この泉は " あの世 ~ を意味することば でもある。 ここで「泉郎」とすると、 たびゆくわれを とかみらむ と、同じことを重ね 「泉郎 ( 死にゆく男 ) 跡香将見 ( だと見るだろうか ) 旅去吾乎 ( 死にゆく私を ) てうたっていたことになる。 ペクスサネ 泉郎、白水郎という両方の表記から、人麻呂の「叫キ ( 清廉潔白な男 ) 」でありながら死なねば 月 " 手五ロこよって読みとれる。 ならぬ、という切々とした想いか卓魚言 ( このことばから、死んでいく身ではあるが本当は無実なのだ、という悲痛な叫びがきこえてくるよ うである。冒頭の「藤江の浦」も決してたんなる地名ではなかった。人麻呂は、藤江の浦の断崖に死 にゆく自分の喪服を、だぶらせていたのだろう。呑気に釣りなどしていたはずはない。アガサのこと ばが胸をよぎる。 すすき 鈴と鱸 すずきつる ここまで解けてくると「鈴寸釣」は、ますます謎めいた用字に見えてくる。これまで「鈴寸ーは魚 すすき の鱸だとされてきた。 麻鱸は、万葉仮名では「鈴寸」と表記され、この歌の他にも、 21 う

8. 人麻呂の暗号

ややあって辞書に目を走らせていた仲間の一人が答えた。 「えっと、断崖だって」 硯を表す朝鮮語は、同時に、川の付近や海辺にある危険な断崖を意味する。古代朝鮮人は、硯 の平らな所から水のたまる所へと落ち込む傾斜の部分を、厂型に切りたったガケと同形と見ていたよ うである。 古代中国における漢字の原義から、生と死の狭間のようなイメージが浮かんでいたのだが、朝鮮語 で、断崖という意がでてきたことによって、人麻呂と石見の地名の関係がさらに具体的になるよ うである。「崖は高き辺なり」 ( 『説文』 ) とあるように、ゴッゴッと切りたった高いガケ。そのガケっ ぶちに臨んでいるのが人麻呂だったということになる。一歩足を踏みはずせば、まっさかさまに死の 淵に向かって落ちていくのである。人麻呂にとって石見という地名が暗示する状况は、死に到るよう なギリギリの所まで追いこまれ、生と死の分かれ際に立たされていたということではなかったか。 字形は何を暗示するか 次に歌の冒頭の地名とされている語、鴨山という漢字は何を映しだすのか。歌に返って考えてみよ 鴨山之磐根之卷有吾乎鴨不知等妹之待乍將有 ( 巻二ー二二 ズ 読み下し文は、「鴨山の磐根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ」 外従来の解釈の代表的なものを掲げれば、 " この鴨山の岩根を枕にして死のうとしている自分を、そ åうとは知らないで、妻がひたすらに待ち焦れていることであろうか ~ といったあたりであろう。 岩根を枕として死ぬとはいくら比喩だとしても、まことに奇異な表現ではないか。まるで旅先の野

9. 人麻呂の暗号

記になって、続けて現われている。ともかくこの人麻呂の三部作は、四二番で何らかの形の終結をむ かえるはずである。 またしても地名と数字 さらに注目すべきは三たび地名が記されていることである。あみの浦↓答志島の岬↓伊良虞の島、 とまるで伊勢の名所めぐりのようである。だが海岸から湾内の島へ移り、さらに沖に出て離れた島へ と向う動線は、もう帰らぬ旅を暗示しているようでもある。イラゴの表記がまた奇妙である。 五十等児 数字が単なる数ではなく、また音を借りるだけのものでもなく、ちゃんと一つの漢字として意味を 持っていることは、四〇番の歌でも見たとおりである。五は、元は X の形をしており、これは上下の 二線が x に交差することを示している。片手の指で十を数える時、→の方向に数えて五の数で←の方 向に戻る。その→←の交差点を示す、と『漢和大字典』の字解にはあった。これは寄せては返す波の動 き、満ちては引く沖 月の動きのようでもある。また次の十とも合わせると、十字路にさしかかった運命 の別れ道、生と死との境い目をも示しているように思われて来る。 そして「五十等児」を地名とは切り離してパッと見た時、五十人もの女たち、つまり、多くの女た なびきねしこ ちと読めた。児は、人麻呂の「靡寐之児」などの使い方からもわかるように、子どもに限らず女のこ とも指すのである。死に追いやられた女たちがかくも多かったのか。 す 発 さらにこの数字の謎をまったく別な方向から切る可能性が残されていた。 麻「韓国語で読むと泣き声が聞こえるよ」 言っている内容とはうらはらに、とても嬉しそうに目をパチクリさせながら仲間が言った。 リ 9

10. 人麻呂の暗号

法によって語順は変わることがあっても、その意味は変わらない。物理的にその地を過ぎていく行為 の中に、昔の日々を回想している人麻呂の姿があったのではないだろうか。 一体、この " 可古の島。や " 稲日野 ~ という地名はどこのことだったのだろう。 稲日野は古く、播州平野南東部、兵庫県加古川市、加古郡、明石市にかけての一帯のことであった。 これは「印南野」とも表記され『風土記』にまつわる、景行天皇の求婚伝説に登場する伝承の地でも ある。可古の島はというと、兵庫県加古川の河口に浮かぶ三角州の島であるという。これらは、いず れも定かではないことが、『万葉集事典』の地名解釈や、『万葉の歌人と風土 ( 兵庫 ) 』 ( 神野富一著・ 保育社 ) を参照してもわかる。 稲日野とは、加古川の河口部一帯をさす地名だったのだ。この加古川は印南川とも称され「可古の 島」も「稲日野」の一部であったことがわかっている。だが、このことは私たちには思いがけないこ とであった。 人麻呂は、今までの歌では一首のなかに、 < 点から点へ移動する距離感が詠みこまれていた。そ れは、物理的な " 動き ~ であったとともに、彼自身の境遇や立場の変化を示すものでもあった。その " 動き ~ こそが歌の深淵では、大きな " うねり ~ となっていたが、この歌ではその距離感が、あとか たもなく消されてしまっている。 一見離れた地であるかのごとく詠んではいるが、実は、稲日野と、そこを流れている川とはまった く同一の場所だったのだ。 稲日野は、古代、大和と西海道を結ぶ東西交通の中継地であった。語源を解くと、稲は臼の中でこ ねた粘りのでる穀物、日は、身近にねっとりとなごむ暖かさ、野は、伸びるという意であるから、 「稲日野」とは肥沃な土地がどこまでも広がっている状態をいっていたのだろう。これは、別表記で 224