いられているのである。「敏馬に用いられている「馬」も同じく南を表しているのではないか。馬 韓はいうまでもなく、後の百済のことである。 「珠藻苅」という枕詞は、すでに私たちには馴染みの深いものとなっている。前に同じ人麻呂の歌で、 玉藻・珠裳という表記で登場したからだ。い ずれも、なよやかな藻の様子に女性を比喩した表現であ おとめ る。敏馬と女性とは深い関係があったし、「一本云」では、敏馬は「處女」の意となっている。 「敏馬」の二字を睨んでいた仲間が、いきなり声を挙げた。と、そのはすみに食べかけのポップコー ンかハラバラと床にとび散った。 「わかった、とけたよ。ママじゃない ? これ」 「えつ、ママ」 「人麻呂が " ママ ~ だなんて、イメージわかないネェ」 私たちは、その突拍子もない発言に笑いころげてしまった。これにはさすがのアガサもことばがで ない。しかし、ひょっとするとこれは、かなりおもしろい発見かも知れない。 このくらい荒唐無稽だ とかえって、本当かもしれないという気にさせられる。 オンマ 朝鮮の人たちは、母親のことを「可」とい 、中国の人たちは「媽媽」である。最近のテレビで も、中国残留孤児たちが、画像で口々に「マーマ」といっていたことは記億に新しい。「敏馬」の馬 (mäg/?) を媽 (mäg/?) と考えることもできるだろう。たしかに「敏馬」と読めなくもない。け れども音が似ているということだけでは語呂あわせの域を出ず、納得できない。 の 辞書を引いて驚いた。敏の字源は「母親の出産のさいのように力をこめる」という意だったのであ 麻る。それも、左側に意符として毎 ( 母親 ) を伴う字だという。まさしく「敏 ( 母 ) 馬」Ⅱ「媽」とい う図式が成立する。 197
ているわけ。でもね、このなかで " 珠藻苅″と″夏草之 ~ は、それぞれ地名を修飾する枕詞になって いるでしよ。これを除くとど、つなる」 「敏馬を過ぎて野島に舟が近づいたか」 「そう、驚くほど単純な歌になってしまう。こんな歌を人麻呂が詠むのかしら」 素人の単純な疑問といっていいかもしれなし ゝ。けれども、単純に見えるものほど、その奥に深い意 味が隠されているということを、私たちは今まで解いてきたいくつかの歌を通して確信していた。地 名も例外ではない 。こうして「敏馬」と「野嶋」の探索が始まった。 敏馬ーー母親ーーー百済の関係 珠藻苅敏馬乎過夏草之野嶋之埼奈舟近著奴 ( 巻三ー一一五〇 ) 一本云、處女乎過而夏草乃野嶋我埼奈伊保里爲吾等者 敏馬ーー敏とは「疾きなり」 ( 『説文解字』 ) とあることから、敏馬とは「疾き馬」の意であろうか。 とりあえず、その音のところを当たってみると、早速その糸口らしきものがみつかった。敏の音 「 miän/? 」である。これは、民と同音同義のかけことばになっていた。これが突破口になったのだ った。 「説文解字』によれば「民とは氓なり」。 つまり、他国からの移住民のことである。「敏、の一字から、渡来の民という意が炙り出されてき 馬の朝鮮語音は「可」。これは、朝鮮の船乗りのことばで「南」を意味するが、古く、三韓の時代 ( 三 5 四世紀頃 ) 、馬韓 ( 可叱 ) は朝鮮半島南西部に割拠した韓族である。馬は南の音借表記として用 はや 196
「野嶋」は「上 ( 北 )_ を表している。この対比は、前半の敏馬での光景が、後半のそれと対をなして いることを示している。 そして、それは末尾の「舟近著奴」で結ばれるのである。舟が死のモチーフとしてあることは、先 にも見た通りである。いたく荒ぶる野嶋に舟が近づくとは、人麻呂自身がじき葬り去られること、す なわち死期が切迫していることを表している。 これまで表層部の解釈では、単純に敏馬から野嶋へ、という移動の歌にすぎない。が、人麻呂は、 敏馬から野嶋に移動していくと歌いながら、その背後に、南から北へ刈られ覆われていく自分の姿を おお 見ていたのである。敏馬に故郷に対する讃美の気持を響かせ、後半では一変して蔽われ荒ぶる島に自 分の死を暗示していた。 「敏馬」にはたんに郷愁のイメージを響かせていただけではない。刈り集められる乳母たちの姿に、 時の権力者から刈られていく自分自身の姿をダブらせていた。 己れもまた、権力の前に屈し刈られる「藻」のようなものにすぎなかった。 美しい藻、母たちを めのと 乳母として刈るとい、つのか 渡来の民の地、敏馬において 権力に刈られていくわが身は 、い懐しいこの地を過ぎて 覆われ荒ぶる死の島へと 向っていく 204
性がなくてはね。あとは、全体性のなかで、部分を解釈していることを忘れては駄目」 たしかにその通りだ。ただ、アガサに話したおかげで、自分たちがどこまでわかり、どこからわか っていないのかかはっきりとしてきた。私たちは、もう一度別の角度から " 敏馬の地 ~ を探ってみる 敏馬は、現在、神戸市灘区岩屋中町四丁目、敏馬神社の周辺の地といわれている。摂津国の「風土 みぬめ 記」の逸文では美奴賣と表記され、敏馬神社の縁起とも重なる内容の記事がある。 みぬめ 神功皇后の新羅征討にあたって、御船に宿った美奴売の神の助けによって勝利を納め、その後に、 イ船か神意のままこの地に留まりその神を祀ったというのだ。 古来、この敏馬の地は明石海峡に近く、水路の拠点として関所の役割をしていた。当然、朝鮮から の船もかなり古くからやってきており、彼らの移住地として敏馬周辺に一国を築いていたのである。 ゆかり 渡来人とは切っても切れぬ縁の深い土地柄であったことは、疑いようもなし : 『紀』の敏達天皇の段 では、敏馬周辺こ、 ーいかに秀れた渡来人がいたかを伝える説話がある。難波の津に、高麗の使か国書 をもってきたという件りがそれである。 つど もろもろふびとめ あた うちみなよ 諸の史人を召し聚 ~ て読み解かしむ。是の時に、諸の史、三日の内に皆読むこと能はず。爰に月 史の祖、王辰爾有りて能く読み釈き奉る」 おうじんに 宮中の史人が三日かかっても、誰一人として読めなかった文を " 王辰爾。という人は、スラスラと 読み解いてしまったというのだ。天皇は、彼の功績を高く賞して、宮中に召しかかえたという。この 王辰爾は百済系の渡来人といわれている。 麻当時、国書はすべて外国語 ( 漢文 ) だけで書かれたものだった。漢語に通じていた人など、ざらに はいなかったことがこの話からもわかる。公の文書を読み解くことなど、渡来の民のみがなし得たこ みか つかやふみ ここふねの 199
おとめ 「珠藻苅」という枕詞が敏馬や「處女。にかかるのも女性の意でかけてあったのだ。しかも、被枕詞 のなかでは、その女性が母親であったことが強調されている。「敏馬」すなわち「媽」が表す意味は、 地名としての南 ( 方角 ) であり同時に母親だった。だが、この南もたんに場所としての方位をいうの だろうか、それとも馬韓 ( 百済 ) との関係を暗示したものだったのだろうか。 表記で母の意を伝え、「珠藻苅」という枕詞で " 女性 ~ であることを強調する一方、さらに音をあ わせて " 南の民 ~ ーー百済という語を潜ませる。なんとここでは三重の意味がかけられていたのかも しれないのだ。 表面では、美しい藻を刈る敏馬の地とうたいながら、背後では " 母親を刈る ~ といっていたのだ。 いったいどういうことか。どうやらただごとではなくなってきたよう だか、″母親を刈る ~ とは、 たか、この疑問は後の楽しみにとっておくことにしよ、つ。 まずは、このことと " 百済″とはどのようなつなかりかあるのかという、ここか解けなくては、こ れは偶然の単語の羅列でしかなくなってこよう。敏馬。ーーー母親ーーー百済。この関係性はどこにあると いうのだろう。私は無意識に、このことばをノートに何度も書きとめていた。 もう一つの敏馬 水曜日のアガサの講義のあと、食事にでかけようとするアガサをつかまえて、私たちの " 敏馬 ~ の 解釈をぶつけてみた。この日はアガサをつかまえるだけで一苦労である。いつもの学生数に加えて、 聴講生が山のようにいる。外にお昼を食べにいく人たちの波がひくと、やっと一息つくことができる。 私は、この合間をぬって敏馬についての解釈を話し始めた。 解釈をひととおり聞いたアガサは眉をしかめた。 「たいたい " 母親を刈る ~ という表現は、日本語になっていない 。もっと " 刈る ~ という部分に具体 198
ことのもと りて、児を養す縁なり」という乳母の縁起ともいうべきものが記されている。 また、『宮人職員令』には、皇族は年十三まで乳母を官給され、その待遇は宮人に準ずる規定であ ったとされている。そのため、皇族の乳母、及びその一族は特別な待遇をうけ、政治的にも大きい影 響力を持っていたという。 時代が下ってもその慣わしは残存している。たとえば、院政期における白河上皇の乳母、また近世 では徳川三代将軍家光の乳母、春日局など閨閥とはまたちがった政治力をもっていたことも有名だ。 これら乳母の背後には、有力な百済系渡来人の氏族がいたことを「敏馬」という表記が証明してい る。「敏Ⅱ母」とは、この場合、乳母のことであり、「馬Ⅱ南」とは百済系渡来人の地のことである。 その地で「珠藻苅」とは、女性を乳母として無理に集めた ( 召し出した ) ことを表している。 うねめ 古代、その源を五世紀頃までさかのばると乳母と同じようなものとして「采女」の制度があった。 、にのみやっこあがたぬし 采女は、天皇に奉仕する女官として国造や県主の娘を選んであてたという。これが、ひとつの宮 廷への忠誠のあかしだったのである。美しい娘たちを宮廷へさしだすことは、少領以上の家に限られ たことであり、当然その身分も保証される。乳母にしても同じである。いずれも選ばれたエリート階 層の女性たちだった。 ところが人麻呂は、ここであえて「刈る」という表現を用いている。そこに人麻呂の朝廷への反発 がよみとれはしないだろうか。家族のもとを離れ、文字通り、無理に刈られるように召し出されてい った女たち。この歌を眺めていると、そんな印象がっきまとって離れない。 敏馬、最初に見た「疾き馬」が象徴したものは、馬を自在にあやつり疾く走ることのできた人々へ の呼称でもあったろう。それは、たんに馬に乗る技術をさすだけではない。同時に、高い文化、技術 をも象徴するものであった。疾き馬、渡来の民の地、敏馬において珠藻苅、すなわち女性刈りが行わ 202
れたことを人麻呂は告発していたのではないか。人麻呂が自ら、歌の中にこのことを詠みこんでいた のも、彼らとのつながりがあったことを示すものではなかったのか。 かたら こよると、渡来人語家命の養子であったと伝えられる。この説は、 人麻呂は、前にも触れたが一説し ひとまろひみつしよう かんふん 寛文十年二六七〇 ) につくられた『人丸秘密抄』にはじまるものである。 かたらひ 「石見国美濃郡戸田郷小野といふ所に語家命といふ民あり。ある時後園柿樹下に神童まします。立よ よろこび こたへいはく りとへば、答て日。われ父もなく母もなし、風月の主として敷島の道をしると。夫妻悦てこれを撫 し、後に人丸となりて出仕し和歌にて才徳をあらはし玉へり」 ( 『人丸秘密抄」 ) かたら あやべ 人麿神社の伝承による語家命の系譜は不明とされるが、これもある研究では、その子孫が " 綾部 あや 氏 ~ という名をもっことから百済系渡来人、東漢氏族と関係の深い人物ではなかったかと推測されて いる。また、さらにこの「柿本朝臣」の名は、五 5 六世紀前半にかけて栄えていた百済系氏族、和珥 おみ 臣の系譜にも見られる。これらの人物と人麻呂との関係は定かでないが、人麻呂の父祖の地が百済だ ったということはますます動かしがたいものに思われてくる。人麻呂にとって「敏馬」は、ただ足早 に過ぎていくにはあまりにも探く関わる地だったのであろう。 北へ行く舟 さて、後半の「野嶋」まで足をのばしてみることにしよう。 「夏草」は野嶋にかかる枕詞である。夏、草はともに「大きく地表を覆う」というのが原義である。 のび広がっていく、という字解をふまえて野に同義でかかっている。つまり、夏草之野嶋は「覆われ 窈た嶋」ということを表していたのである。 呂 麻 また、ここでおもしろいのは、野嶋は今の淡路島北端、江崎から蟇浦にかけての一帯の地であるが、 ノ 人 朝鮮語で「王」とは「北」の意味である。前半の「敏馬」が、「碑 ( 南 ) 」を指すのに対して、後半の マ 203
人麻呂の遺書 その一言がきっかけで、さっそく捜査開始となった。いったい人麻呂が、どのくらいの頻度で地名 を歌に登場させていたのかを、万葉のすべての歌について調べてみようというのである。 こういうことでは、トラカレの人海戦術にまさるものはないだろう。とにかく、アガサの「捜査 網」が動きだしていた。学生総動員での " 地名探し ~ である。 結果は予想したとおり人麻呂がダントツだった。大伴家持、山部赤人、山上憶良らと比べても、人 麻呂の地名の多さは際立つばかりなのである。 含有率を求めてみる。人麻呂の歌に含まれる句数は、あわせて三一五句、そのなかで、地名は五七 回もでてきている。含有率を求めてみると一八・一ヾ ーセントである。対して、その他の歌人を総計 してみても、三三四五句中、三〇九個が地名、含有率は九・二。ハーセントにしかならず、これではま るで勝負にならない。 みつ みめめ いなびの あかしおおとけい のじまふじえ 地名に関しては、羈旅の歌でも、三津、奴嶋、敏馬、野嶋、藤江、稲日野、可古、明大門、飼飯と いう具合に、実に十もの地名を登場させている。なぜこんなに多くの土地を記す必要があったのだろ 三津埼の歌で、地名が人麻呂の「筆先」を暗喩していたように、次からの歌でも地名に何か重大な 意味を潜ませているのだろうか。三津埼の歌を解いてからというもの、次の七首にはなんとなく手が のびないでいる。人麻呂の悲痛な声が、私たちを重苦しい気持ちにさせるからだろうか。 アガサは、そんな私たちの気持ちにはおかまいなしに二つめの大福餅に手をのばしている。本家本 元のアガサより少なくとも迫力の点では数段まさっているようだ。 「八首のなかでも、この歌ほど単純な歌はないでしよ。そこがひっかからない ? 私たちはアガサの方へ向き直った。 みめめ 「訳文では " 美しい藻を刈る敏馬を離れて、夏草しげる野島の埼に舟は近づいた ~ ということになっ 19 う
三津の崎波を恐み隠り江の舟公宣奴嶋奈 ( 巻三ー二四九 ) 珠藻苅敏馬乎過夏草之野嶋之埼奈舟近著奴 みぬめ のしま 珠藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野嶋の崎に舟近づきぬ ( 巻三ー二五〇 ) 粟路之野嶋之前乃濱風八妹之結級吹返 あはぢ 淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹きかへす ( 巻三ー二五一 ) 荒栲藤江之浦奈鈴寸釣泉郎跡香將見旅去吾乎 あま すずき 荒材の藤江の浦に鱸釣る白水郎とか見らむ旅行くわれを ( 巻三ー二五一 l) 稻日野毛去過勝奈思有者心戀敷可古能嶋所見 ( 一云、湖見 ) いなびの 稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき可古の島見ゅ ( 一に云ふ、湖見ゅ ) ( 巻三ー二五 留火之明大門奈入日哉榜將別家當不見 ともしびあかしおほと 留火の明石大門に入る日にか漕ぎ別れなむ家のあたり見ず ( 巻三ー二五四 ) 天離夷之長道從戀來者自明門倭嶋所見 ( 一本云、家門當見由 ) あまざかひな ながぢ やど 天離る夷の長道ゅ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゅ二本に云ふ、家門のあたり見ゅ ) ( 巻三ー一一五五 ) あらたへ たまも みつ と 186
とだったのだろう。また一方で、このことは亡命百済人などが、日本の宮廷に数多く召しかかえられ たことを抜きにしては考えられないことである。ここまでくれば、人麻呂もそのひとりだったと断言 してしまっても ) しいたろう しかし、それは朝鮮の人々に限ったことではない。大和朝廷は、律令制を中国から学び、中央集権 をうちたてるにあたって、実に数多くの遣隋使、遣唐使を中国へとおくっている。藤堂氏の説による と、六三〇年から八九四年に遣唐使が中止されるまで延べ千人を越える人々が、唐土の文物を吸収し て戻ってきたという。さらにこの遣唐使の多くは渡来人であったとする説もある。 からさえずり 飛鳥文化が開花する過程で、すでに「韓語」を駆使しうる知識層が要求され、それにこたえ、知 識層を供給したのは、主として大和・摂津・河内の渡来系氏族であったという。 「六〇八年 ( 推古十六 ) に、ト野妹子は隋使の裴世清の送使として、隋に赴いたが、このとき学生 いまきのあやひとおおくに やまとのあやのあたいふくいんならのおさえみようたかむこのあやひとくろまろ として倭漢直福因・奈羅訳語恵明・高向漢人玄理・新漢人大国が、また学問僧として、 みなぶちのあやひとしようあんしがのあやひとえおんいまきのあやひとこうさい いまきのあやひとにちもんみん 新漢人日文 ( 旻 ) ・南淵漢人請安・志賀漢人恵隠・新漢人広斉の計八名が隋に派遣された。日本 から初めて入隋 ( 唐 ) した学生・学問僧の、すべてが渡来人氏族の出身であった事実にも、この一端 が示されていると思う」 ( 『古代朝鮮仏教と日本仏教』田村圓澄著、吉川弘文館 ) まつりごと これらの人々が、中国、朝鮮の文物を日本に伝え、それぞれの集落、小国家を築き、政事の中心に いたのだった。 みやこ その代表が奈良であろう。古代、都として栄えた「奈良」の京も、朝鮮語「蚪 ( 国 )_ のことだ 人麻呂は、 った。敏馬の地も、規模は小さいながらもそのひとつだったにちがいない。 " 敏馬 ~ それが百済系の人々の地であることを伝えたいのだろうか。 刈られた母たち 200