「万葉集って、もともとは漢字だけで書かれていたんだね」 私たちはいまさらのように思い出したのだった。万葉集を繙きはじめた頃のことである。このうか っさは、私たちだけの落ち度ではないだろう。中学・高校の古典の授業では、まず読み下し文にふれ て、その奥に漢字だけで書かれた原文があることまでには、なかなか指摘が及ばない。市販の本でも 原文抜きで紹介されているケースの方が圧倒的に多い。いかにも百人一首のカルタや、絵巻物のよう に、かな文字混りでさらさらとしたためられているようなイメージを、私たちはいつの間にか持たさ れてしまっていた。 歴史年譜によると、西暦二八五年ごろ王仁が「千字文」を持って渡来したと記されている。これが 一般的には、初めての文字の伝来というエボックメーキングな出来事として捉えられている。しかし、 王仁なる人物が、突然文字をあたかも他の物品同様に一挙にドサッと持参したなどと考えられるだろ うか。王仁の渡来に先立っことはるか以前から、ある時は小規模に、ある時はかなり大規模に渡来人 がやってきていたであろう。すでに文字を持っていた大陸の先進文化人たちが、文字だけを残し、身 ひとつで渡ってきたなどということはありえない。長い年月にわたって、渡来人たちは大量のことば を文字とともに、日本の古代言語世界に運びこんできていたに違いないのである。この文字の渡来は、 他のどんな物品、技能や制度の渡来にもましてはるかに重大なことであった。いかに先進的な思想や 技術であっても、文字なくしてその土地に根づくことは不可能である。 文字の渡来以前にも土着の言語が数多く話されていたであろう。とすれば、文字の渡来の意味はさ らに重大である。文字を所有する以前の言語は定着性も低く、流動的で、語彙数もかなり制限されて いたに違いない。文字を持っことで言語は、一挙に定着性を高め、造語の可能性のワクも大きく押し 広げられる。 このように考えると、文字こそが一言語統一へ向けての唯一の足がかりだったのである。古代の有力
全ての学問と思想の根本となる文字。それは当然、国家統一の基礎となるものであった。文字によ って政治のイデオロギー、しくみ、制度を伝えていくわけであるから、文字は統治行政のために必須 のものであった。 このように考えてくると、文字の発明が、同時に支配という それは現代も古代も何ら変りはない。 人間の思想を発明したと一言えるのかもしれない。 万葉の時代、文字 ( 漢字 ) のもっ性格をふんだんに駆使し、ことばの織りなす彩りをますます鮮や かにしていった人麻呂。 前人の後に垂るる所以、後人の古を識る所以なり。 私たちは残された表記ーーー漢字に立ち返ることによって、初めて意味未詳とされていた枕詞を解く 筋道を見つけたように思う。同じように、人麻呂の歌の全容も彼が残したことば、文字によってきっ と解いていけるはずである。私たちはそこに映し出される生々しい人麻呂の姿をきっと見つけられる と田 5 、つ。 唯一の手掛り、「物的証拠」ーー漢宀子ーーはいつでも私たちの手の中にあるのだから。
0 をー 枕詞が解けた 使用された枕詞の種類およびその割合 長歌 ( 首 ) 総歌数枕詞の種類 短歌 、 6 11 -0- 、 1 つ「 / 101 だ。人麻呂が、それだけの才能と技巧を兼ね備えていた ダントツの歌人であったことをもの語っている。 人麻呂の歌を読み解く上で、特にその枕詞の中に見落 すことのできない重要な言語解釈上の多くの問題をみつ けることができるだろう。なぜなら、枕詞は必ず歌の中 にあって、その意味を反映しているのだから 今でこそ文字は溢れ、私たち現代人はあたかも文字は 人間世界にはじめからあった存在、空気のようなものと して捉えがちである。あらためて文字のもっ性格につい て深く考えたりすることもない。 中国における最古の字書『説文解字』の末尾には、文 字に対する考え方が次のように述べられている。 し けたもんじ もとおうせい ぜんじん 蓋し文字なる者は経芸の本、王政の始、前人の後に た ゆえんこうじんいにしえし 垂るる所以、後人の古を識る所以なり。 思うに文字とは学問の根本であって、王者による統 治の基礎である。また、前代の人々が後世に範を垂 れる道具であって、後世の人が前世を学ぶ道具であ る。 この中には「文字」に対する古代の人々の態度がくっ きりと示されているよ、つに思、つ。 0
うなことを知るに及んで驚いたことも再三だった。これらは「いまだ心安らぎません」「罪をおそれ ます」という、もともとは中国語だったのだ。このように漢字にすると恐ろしく難しそうなことばを、 日常のロ語として、こどもでも使っているのである。 その頃、私たちもようやくハングル文字が読めるようになっていた。初めて韓日の辞書を引いた時 の驚きは今でも忘れない。 もともと韓国語だとばかり思って日常的に使っていることばのほとんどか、 漢字すなわち中国語の韓国語訛りだったのである。言いかえれば韓国語の語彙の大半が中国語からの 輸入によるものなのだ。私たちは文字の持っ圧倒的な威力に目を見張った。 朝鮮は中国とは地続きだから、中国漢字文化圏との接触は、海を越えた日本のそれよりはるかに濃 密で、時代もはるか遠く遡ることができるだろう。韓国の独自の文字としてハングルが創られたのは 一四四六年、八世紀ごろの日本の平仮名・片仮名の発明より遅れること数百年である。日本のそれに 比べてはるか長期にわたって、韓国は漢字文化 ( 中国語 ) の影響下にあったのである。文字を持つ前 の言語はきわめて流動的だったろうし、文字に残された以前の古代朝鮮語について、私たちは知るよ すがもない。 李朝第四代、世宗によるハングル文字 ( 当時は訓民正音 ) の創制は、漢字文化一辺倒の支配からの 離脱・独立を意味していたのである。漢字にかわるハングル表記の浸透は、大量の語彙がもともと漢 字、すなわち中国語であったことを忘れさせる。特にハングル世代と呼ばれる若者たちにとって、韓 葉国語はもとから韓国語なのである。 古文字の渡来・言語の統一 アガサが古代朝鮮語との関連をふまえながら、万葉集を読み解く作業に手をつけ始めているという。 私たちにはそのことの意味するところすら解らなかった。
ちりばめられ、この他にも「蓮」は、同音の「隣 ( 恋人 )_ の意に 、「魚 , は「男」の意でつかわれる ことなど、往古、歌を詠む人であれば誰でもが知っていた。こういった技法は、楽府に限らず詩歌全 般に見られたものだったのである。 「魚語女ー ( 列子・黄帝 ) さて、これはどうよむべきか。これを現代人がまともにとってしまえば「魚語をしゃべる女」もし われなんじっ くは、「魚が女に語る」とでもなるだろうか。しかし、これも中国語でよめば「魚は女に語げん」と われ なんじ いうことである。つまり、魚という表記には類音で「我」を、女には「汝」の意味を掛けた用法であ り、中国では広く使われたものなのである。これも漢字が、表意文字だからこそできる遊びと言って 0 いいたろ、つ 重要なのは、 いかに漢字が表意文字であるとはいっても、字形はそのことばの語義そのものを示す ものではないという点である。文字以前にあったのは語音だけなのだ。語義とはその字音より起こる と清末の劉師培も説いているように、字音のなかにこそ私たちは語義を見つけることができるのであ る。「魚」の一字を用いても、その字音が同じであれば、人々はひとつの歌のなかで「魚」という表 記の背後に「我」もしくは「吾」という意を見つけることができたのである。 まさに「表音」「表意」文字としての性質をあわせ持っ漢字ならではのテクニックなのだ。このこ と自体がすでに暗号とでも呼ぶにふさわしいものとしてあったのだろう。 詩歌のもっ二重性というものも、漢字という独特の文字を持っことで古代中国では詩の当然の技法 としてすでに確立されていた。それが、古代朝鮮や日本でも詩歌一般の技法としてうけつがれたので あろ、つ。 万葉集もむろんその例外ではない。詩歌の中にかすかに見えかくれする旋律、それは、隠れている 4 ー
テムンファ 「大門火ーーー朝鮮語では″を斗 ~ か」 「門火って、送り火のこと ? 僕の田舎は九州だけど、そういうの今でもあるんだ。村で死んだ人が いると、門の前で火を焚いて送ってあげるんだ」 「へーえ。今でもそんな風習が残っているのか : 何人かの仲間たちは、いつの間にか輪から抜けて調べものにとりかかっている。 葬送のさい、死者を見送るしるしとして門前で焚く火のことを「門火」という。お盆には送り火を するところがあるが、これも死者の魂を彼岸に送るためにともすものである。陰暦七月十五日の盂蘭 と・つろ・つ 盆に見られる燈籠流しなどがその顕著な名残りだろう。 私たちの連想は、かって京都で見たあの「大文字焼」へと及んでゆく。京都市左京区にある如意ケ 岳の西峰で、毎年盆の最終日、八月十六日になると山にそれぞれの文字を表して焚くかがり火のこと である。これも送り火の代表的なもので、大文字山に燃え現れる " 大 ~ の一字はっとに有名である。 とりい この他にも、西賀茂山の " 舟型 ~ や水尾山の " 鳥居型 ~ などがある。日を象るのも、 門がある境界・ 分かれ目を意味するものであったからだろう。寺院や神社の門が、参道の入口にあれほど大きくつく られているのも、鳥居を境にそのなかが神域であることを告げ知らせるためだった。「大文字」とは、 「留火 ( 之 ) 明大門」ーーその現世との境に人麻呂は己れの死を予感していた。そして、門に閉ざされ 書 ともしび ようとしている " 留火…に、消え入る己が命の光と、それを見送るしるしとしての大門火のイメージ 麻を掛けていた。人麻呂は、門火に送られこの世を去ろうとしている自分の姿を、この雄大な風景その ものに織り込んだのである。 「大門字」だったのである。 229
重くたれこめた天空を突きあげる勢いで、なおもその炎は燃えつづけている。 茂みの岩に腰をおろすと、ようやく私たちは夢から覚めたように、冷たくなった手足をゆっくりと 伸ばしていた。どれだけの間こうしていただろうか。朝早くから私たちにつきあってくれた宿の主人 も、長年地元にいても、この日の光景はそうはお目にかかれる代物ではないとすっかり興奮している。 かぎろひ 人麻呂は、この朝焼けのようすを「炎、の一文字に託していたのかもしれない。そんな確信にも 似た思いが、私たちのなかで頭をもたげてきていた。私たちは、はじめて目にした「炎」のイメージ をしつかりと胸に刻みつけると、明るくなった木立の道を宿へと急いだ。 生死の境界ーー東野 「あの曙光が " 東野の炎 ~ だったかもしれない」 さっきからものも言わずに手をうごかしていた仲間の箸がコトリととまる。だが、そのことにはさ して誰も驚いたふうはなかった。 「私もそう思っていたところなの。あんたたちもでしょ ? アガサは即座にこたえた。 「でも、あれが " 炎 ~ だったとしたら、あれと草壁皇子の亡霊とはどう結びつくんだろ」 「そうね、私もそれを考えていたところなのよ」 くるくると箸の先で納豆をかきまわす。 「ーーそれもただのオバケじゃない。お岩さんとはちがうのよ、草壁皇子だった」 「それってヒント ? アガサは意地悪そうにくすりと笑った。 「さあ、あんたたちはどう思う ? 」
裏の意味を潜めやすかったのかもしれない。 それにしても、いったいこの東ー - ー終末とは、何のモチーフだったのだろうか。これだけではまだ 決め手にならない。解けていないも同然である。 「東野炎立所見而」 東と炎とは、どのような結びつきがあるというのだろう。私たちはここまできて、また行き詰まっ てしまっていた。 「この歌をとく鍵は、炎ね」 と、自信あり気に言っていたアガサの顔が浮かぶ。 朝焼けの風景の中に やはり「炎」にはなにかある。思い出してみれば、万葉のなかで炎を " カギロヒ ~ と訓んでい るのもここだけなのだ。しかも、それは " 曙の光だと〔う。人麻呂が、曙の意味にどうして「炎」 の字を用いたかというのがまず第一の疑問である 私たちは、ずいぶん長い間、この炎に手をやいた。 炎の朝鮮語音は「」。やはり、激しく燃えあがる炎のことである。では、その炎の美しさはどこ にあるのかということを、素直に考えてみたらどうなるだろう。それは燃えあがる一瞬だ。勢い激し く燃えあがり、やがては消えていく炎の美しさを私たち誰でもが知っている。こう考えたとき、頭の 中にひらめくものがあった。そうなのだ、もともと炎のイメージには " 激しさ ~ と " はかなさ ~ とか 同居している。つまるところ、それが「炎」の一文字ではないか。 表向きには、盛んに燃える炎のことではあるが、ここにもまた、驚くような意味がかけてあった。 ョムれんしゅう かたびら 【瞼襲。死体の体を清め、帷子をきせるーー・これだったのだ。そうであれば、人麻呂は激しく燃 ョム
きっとこれが中国、北京の公園でも、人麻呂の白文はすべて漢字だから、皆読めそうな気がして人 短ができるに違いない。漢字を共有しているユニバーサルな意味の世界が、中国、朝鮮半島、日本の 底流にはあるのである。 中国でも、漢字の読み方は、土地柄による読み方にまかされてきた。ひと口に中国語といっても、 多様な方言圏に分かれ、文字に頼らないかぎり音だけでは通じないことの方が多いのである。 多言語の世界観 万葉集のほとんどが後世のやまとことばでかなをふることができたのも、それが表意文字である漢 字で書かれていたからにほかならない。とにもかくにも、万葉集の数千首をやまとことばで訓み解い たという手腕は、並大抵の力量ではない。読んだというよりは、文字どおり訓み解いたのである。中 には牽強付会とすら思われるものも少なくない。漢字が映し出す意味世界をカずくで、三十一文字の 短歌形式におきかえたとでも言った方がふさわしい。 これがもしローマ字のような表音文字で表記される言語だったら、ことばの音が変れば、たちまち 外国語、あるいは死語に近いものになってしまうだろう。 そう一言えば、これも当り前のこととして気にもしていなかった中国語の李白や杜甫の詩も、日本で 訓点がふられ、さらにかなまじりの読み下し文になって親しまれている。もともとは中国語だという ことすら忘れそうになる。万葉集の初期の歌に関しても似たようなことがいえるのではないか。何世 紀も後の日本語による訓み方を、あたかも初めからそう詠まれたかのように思い込み、とんでもない 陥し穴にはまり込んでしまっているのではないだろうか。 とにかく『万葉集』は『古事記』『日本書紀』とともに、現在に至るまで生きつづけている。『万葉 集』という名の由来については諸説あるようだが、私たちにとってはそれこそ「万の言の葉、で歌わ よろす
こもりえ 浪と隠江 三津埼浪矣恐隱江乃舟公宣奴嶋奈 ( 巻三ー一一四九 ) 羈旅の歌の最初におかれた歌である。「三津」は地名で、一説では、難波 ( 大阪市 ) の湊を指すとい われている。 みさき そこの崎の波が恐ろしいので入江の舟で君は祈っている、美奴の島に・ーー - ーというのがこの歌の解釈 の一例である。 ところで「君ーとは一体誰のことだったのだろう。 特にこのことをふくめた後半「舟公宣奴嶋奈」の部分には定訓がなく、さまざまに解かれている。 これでは、訓をたより ここで君が祈っていたという美奴の島も、所在不明の謎の島というほかない。 にしても何もわからないではないか そこで地名に注目してみると、人麻呂はこの歌で謎の島「奴」を末尾に、そして「三津埼」を冒頭 に二つの地名を織りこんでいる。 わたし つまり渡を意 三津は朝鮮語でとくと「囹 ( 三 ) こ、己 ( 津 ) ーとなり「舟をつなぐのに格好の場」 わたし 味していることがわかる。三津崎が、古代から渡として最適な場であったことがその表記からうかが えるわけだ。この調子でさらに歩を進め、漢字の語源をみてみることにする。 三は、数字の 3 を表した指示文字であるが、もとはいろいろなものが集まる意味であって ' 必ずし も 3 という数ではない。古く『説文解字』では、その意味をもって三を彡印に象ったとしている。っ 188