十か月に一四二枚の豪華な浮世絵を発表して消 えた謎の画家写楽は誰か。大胆な仮説と推理小 毎原孟 写楽仮名の悲劇本 ー説のような面白さで解明した梅原日本学の新展 開。ロ絵カラー本文写真多数。定価一八五〇円 鬱蒼たる杉木立の中に燦然と輝く黄金の御堂。 八百年の昔、みちのくの地に京に次ぐ一大文化 奥州平泉黄金の世紀荒木申介也 ′ィー丿ィー都市を築き上げた藤原三代の栄華と夢をグラフ ィックに再現 ! 《とんばの本》定価一一三〇円 狂気はネガテイプな存在として社会から逸脱し てきた。膨大細密な例証をもとに狂気の発掘を 狂気の歴史・フーコー 田村俶訳試み、西洋文化の本質として復権を要求するフ 古典主義時代における ーコー思想の根幹をなす名著。定価五九七〇円 梅、アズキ、ミカン 、バラなど身近な植物から に実際に色をつくりながら、それぞれの色にまっ 萬葉草木染め村上道太良 わる文化、歴史を古今東西のエピソードを豊富 に混じえて解説。《新潮選書》定価九八〇円 井戸端に株情報が飛び交う今日この頃、あなた 朝日新聞ウ ' ィークの金銭感覚は大丈夫 ? 目先のウマイ話に惑わ 全日本リッチ感覚事典 される前にこの一冊。 ノチとケチとプアーの エンド経済編集部 諸相をの視野から総点検 ! 定価一〇三〇円 どうして大きくならないの。なぜ返事をしない のーーーマリオネットの手足が宙を舞う。人形遣 いに転進した元女優が陥った狂おしい呪縛。狂 幸福な朝食乃南アサ 気に彩られた心理サスペンス。定価一〇三 0 円 かめい
に精通した人物であったことは言うまでもない。支配のもととなる法律、制度、ひいては思想などの すべてが、大陸からもたらされ、漢字によって定められるのである。 歌聖、柿本人麻呂。歌聖の称号を持つのは万葉歌人中、人麻呂ただひとりである。「歌聖」とは 「ことばの魔術師、天才」というほどの意味であろう。柿本人麻呂は宮廷歌人といわれている。しか しその当時の宮廷歌人とは、たんなる優雅な歌の専門職などであったのだろうか。彼の生きた時代背 景を考えるのであれば、「さまざまな言語に通暁し、文字に精通した人物」である人麻呂は、為政者 にとって最も重要な存在であったはずである。しかし、その名は正史『日本書紀』のいすこにもない。 半島も新羅の統一により落ちついてくる。もう移住してくる人も少なくなった。日本も安定期を迎 え、それまではひたすら吸収することににしかった文字や文化を、自国流に消化する時期に来ていた。 中央集権が不動のものとなり、日本が独立した国としての自信を持てるようになると、もと来た半島 のことなどは意識的に忘れようとする。近親ゆえにかえって激しく離れようとする。こちらが「わが 邦」になることであちら側が外国になったのである。 そして自分たちの出自も、ことばも、何もかも、もとからこの日本で生まれたのだと主張するよう になる。それが『古事記』『日本書紀』の編纂の目的だった。それ以前にもさまざまな文字の表現で、 葉多くの文献が編まれていたに違いない。だから、新しく覇権を握った支配体制がまっ先に行ったのは、 他の系統の出自をわずかでも暗示する文献をきれいに抹殺することだったろう。『古事記』『日本書 紀』という支配者の文献が、現在最古ということ自体、この間いかに多くの証拠湮滅、焚書があった かかを思わせる。たとえば十四世紀、北畠親房による『神皇正統記』には、 「昔、日本は三韓と同種なりと云ふことのありし、かの書をば桓武の御代に焼き捨てられしなり」
「今の日本語は、私には昔の中国語の博物館のようです」 王氏のこのことばにはドキリとした。日本語を聞いていると、 " あっ、これは中国語だ ~ " これはー ニヤオ 昔の中国語だ ~ と思うことがしばしばあるというのである。北京の下町の方では、鳥を " チャオ 5 だそうです″という意の 自己を、 " ジコ〃など日本語の音読みに近い音で読む。四川の方では、 " 説的是 5 , を " そうです ~ と関西弁みたいなアクセントで言い、 " そうだ ~ という意の " 是的〃は、 まさしく " そうだ ~ と一一一口うのである。ウイグル語では、 " 学生ら ~ などと複数のことを言いたい時、 接尾辞に 5 ら ~ ( 実際はラル ) をつけると一一一一口、つ。 日本のお盆で聴いた歌は、ウイグルの民謡にとてもよく似ている。 " はい , を広東語で " ハイ気ま ネ た《ネー ~ ( 朝鮮ではと言う ) と言う所もある。王氏の耳には、中国語がそのまま混じっているこ とばとして日本語が聞こえるのである。私たちが、韓国語の音の中に、そのまま日本語の音が聞こえ るあの体験と同じものである。これらも、すべて漢字を背景にした普遍的な文化圏の存在を示してい る。 西から東へ、大陸から列島へと大量になだれこんできたことばが、日本の中でそのまま生き続けて いるーー王氏の話は、私たちの眼を大きく開かせてくれた。 一フィチー 王氏が出してくれた茘枝の凍った白い果肉を口にすると、異国の芳香がひろがった。王氏との出会 レ いは、私たちにとってはかり知れぬ意義のあるものであった。万葉集の中の歌が中国語で読めたこと。 ズ さらには中国語の詩形で歌えたこと、日本語の中に見られる中国語の痕跡の数々など、可能性として 考えていたことが、大まかに現実のものとして証明されたと言っていいだろう。 の 私たちの万葉集解読の舵の方向は決して間違っていないと、また確かな手応えを感じた一日だった。 死 カントン 169
人麻呂の故郷は、その火が象徴する南部のからくにではなかっただろうか。人麻呂の故郷、それは また万葉集の一つの故郷でもある。 「万葉集の故郷が広がったね。遠くはるかに広がる故郷か。いいね」 祭酒は、つぶやくように言った。 ふと、私は思いだしていた。 近江路には渡来百済人の忘れられた墓があり、新羅の慕夏堂 ( 友鹿洞 ) には、降倭武士の墓がある とい、つことを一。 : この村がかっての日本武士の村であるというので、このイルポン・サラムたちはやってき たのだ、という意味のことをいった。 それに対し、老翁ははじめて口をひらいた。低い声であった。 「それはまちがっている」 と、老翁はゆったりとした朝鮮語でいうのである。それはというのは、そういう関心の持ち方 という意味であった。 むこう 「こっちからも日本へ行っているだろう。日本からもこっちへ来ている。べつに興味をもつべき ではない」 と、にべもなくいったのである。 ( 街道をゆく 2 韓のくに紀行司馬遼太郎 ) 春と呼ぶにはまだ少し早い季節、トラカレの若い研究生たちはそれぞれの旅に出かけていった。ア メリカのポストンへ、メキシコのチワワへ、フランスのアルザスへ。そこもまた、彼等にとって広が る故郷になるだろう。 256
千何百年信じられてきた法隆寺像は、この本に よって崩壊する。法隆寺は怨霊鎮魂の寺。大胆 隠された十字架毎原猛 な仮説で古代史像を甦らせ、日本の原点を空前 法隆寺論 の迫力で描く日本文化論。 定価一八五〇円 奈良に生まれ育って五十余年、写真家として大 和路を隅々まで知りつくした著者が案内する、 大和路散歩ベスト 8 美しい自然と豊かな歴史に恵まれた魅力的な散 歩道。地図付。《とんほの本》定価一一三〇円 三つの国境が接する世界一おもしろい駅、往き っ戻りつして触れる二つの国の愉快な表情、そ つの国境増井和子 して「国境人」なる人たちとの交流。国境には さまざまのロマンがある。定価一五五〇円 神々が織りなす終りのない文明のドラマーーそ 日ノオ才白ハを考え、根源を訪ねる、世界文明を六つに分類 した壮大な新文明への旅。定価一三四〇円 清朝最後の皇帝溥儀の弟として日本陸軍士官学 校に留学、嵯峨浩と国際結婚、シベリヤ抑留、 文化大革命と日中昭和史の激動そのままに生き 皇弟溥傑の昭和史舩木繁 た愛新覚羅溥傑の半生を描く。定価一三四〇円 世界五十五ヶ国の留学生に日本語を教えて十一 留学生と見た日本五ロ佐々木瑞枝年。彼ら。思〔がけな〔質問」しばし茫然。ど 体験をエピソードで語る。定価一二四〇円
代、南宋の民間ではやった歌謡の形態で、民謡に根ざしたものが多い。これはもと、前漢の武帝時代 から後漢末年までおかれた役所の名をとったものであるが、ここには各地のロ誦による詩歌や民謡が 保存されたという。万葉集にも古い民謡に根ざしたものは多く、また現在日本の呉音として定着して いる漢字音は、おもにこの六朝末期の音系 ( 南朝の劉音 ) を反映していると言われている。六朝時代 に使われていた音は、その時代使われていた漢文体、漢字そのものとともに日本に流れこんだのだ。 『宋書』 ( 四八八年 ) の倭国伝には、倭の五王が南朝宋と接触をかさねた記事が数多く残されている。 また、そのころ倭は百済との交流が最もさかんであり、その百済も南朝宋と接触をかさねていた。っ まり、当時、六朝漢語はおもに百済をへて倭へというかたちで流れこみ、そのことばを使って三国が 交流していたと考えられるのだ。地理的にも日本は、古代中国語、朝鮮語のふきだまりになっていっ たのだろう。ましてそのころ、我国は独自の文字すらなく、自国語表記は「漢字」に頼るしかなかっ たのである。 この「楽府詩」の形態も、日本最古の歌集『万葉集』に影をおとしたものがなかったとは言い切れ ないものかある。 ししたいことを暗示する " 双関語 ( かけことばプか多くみられ 「同音の別字を用いて発音をあわせ、 る」ことは、楽府の特徴のひとつだ。たとえば、 糸を理めんとして残機に入る何ぞ悟らん匹を成さざるを ( 小 「理絲入殘機何悟不成匹」 夜歌 ) という歌がある。糸を織ろうとしてこわれた機にかけていたようなもの、一反にもならぬことがわ をかったというのである。 五ロ しかし、このなかには漢字の音をあわせ、糸を織って「一反 ( 匹 ) 」にもならぬーーっまり「匹偶 ( 夫婦 )_ にはなれぬのだという作者の、い情をひそめている。このようなかけことばはいたるところに おさ はた
当時の為政者にとって、さて精力をかたむけて集めてはみたものの、でき上ったものを注意深く眺 めてみると、はなはだ不都合なしろものだったということではなかったか。正史を編纂し、自己の正 統性を宣一言したばかりの時である。正史は、為政者の意図をふんだんに盛りこんで編んでこそ正史た り得るのである。万葉の歌は、いや歌であるからこそ、その時代々々のリアリティを色濃く映し出し ていたにちがいない。ありのままの姿で万葉を読み解くことのできる人々にとっては、日本と日本語 の成立期の過渡的風景が丸見えだったのかもしれない。 そして、禁書に近い扱いで百数十年、厳重にお蔵入りしていたのである。日の目を見たときには、 とくに初期の歌ほどそれを読み解くことは困難、むしろ不可能になっていたというわけである。皮肉 なことに、これが幸いした。 「万葉集はすべてやまとことばで書かれている」 かくて『万葉集』は日本最古の古典として、現在でも誰もが手にすることができるのである。この ように考えてくると万葉集は、私たちにとってはいわば「開かれた古墳」なのである。 本当に「訓める」のか 莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣 吾瀬子之射立爲兼五可新何本 この漢字の羅列は、万葉集巻一の九番、額田王の歌である。この歌は、莫から気までの初めの二句 の読み方及び解釈が不明とされている。不明というのは何も解らないということではなく、解釈が一 つにまとまらないということだろう。昔から諸家が訓を試みてきた。その数三十余種。しかも内容は
と祭酒が言った。当然のことであろう。 四、五世紀ごろまで、文字通り大陸と日本は、一衣帯水であった。当時の日本は、半島における高 句麗、新羅、百済の争乱を鏡のように映し出していた。日本に渡来したさまざまな部族の親類縁者が、 隣りの半島で勝ったり負けたりしていたのである。その頃、大陸の政争は、生活もいまだ安定せず、 ことばもよく通じない異郷にいる渡来人たちを一喜一憂させたであろう。い つの日か帰らん、わが故 郷へ : しかし、やがて定住を決意する者たちも数多くなってくる。土着の豪族たちにとって渡来人たちは、 眩いような先進文化人たちだった。その着ている装束はクリスチャン・ディオールのデザインなのだ。 作陶、銅、鉄、土木、建築、医療などの最先端技術が次々ともたらされる。それは巨大な情報産業、 文字すなわち漢字とともにやってきたのだった。 「情報を制するものは、世界を制する」 何処かで聞いたようなことばである。 「漢字に習熟せよ。外国語をマスターせよ」 確実に、文字、漢字による言語統一へと状況は進展してゆく。渡来人たちもこの新しい言語世界に 定着しはじめる。大陸と訣別する日も近い。やがて人々は新世界での覇権を意識するようになる。そ の到達点にあるのが、天武・元明朝に太安麻呂により筆録されたといわれる『古事記』であり、藤原 不比等らの手になる正史『日本書紀』の編纂だった。 「もともと、この島国の正統は私たちなのだ」 そう言っているのである。 このような時代において、その為政者たちの頼みの綱は、さまざまな言語に通暁し、文字 ( 漢字 )
とだったのだろう。また一方で、このことは亡命百済人などが、日本の宮廷に数多く召しかかえられ たことを抜きにしては考えられないことである。ここまでくれば、人麻呂もそのひとりだったと断言 してしまっても ) しいたろう しかし、それは朝鮮の人々に限ったことではない。大和朝廷は、律令制を中国から学び、中央集権 をうちたてるにあたって、実に数多くの遣隋使、遣唐使を中国へとおくっている。藤堂氏の説による と、六三〇年から八九四年に遣唐使が中止されるまで延べ千人を越える人々が、唐土の文物を吸収し て戻ってきたという。さらにこの遣唐使の多くは渡来人であったとする説もある。 からさえずり 飛鳥文化が開花する過程で、すでに「韓語」を駆使しうる知識層が要求され、それにこたえ、知 識層を供給したのは、主として大和・摂津・河内の渡来系氏族であったという。 「六〇八年 ( 推古十六 ) に、ト野妹子は隋使の裴世清の送使として、隋に赴いたが、このとき学生 いまきのあやひとおおくに やまとのあやのあたいふくいんならのおさえみようたかむこのあやひとくろまろ として倭漢直福因・奈羅訳語恵明・高向漢人玄理・新漢人大国が、また学問僧として、 みなぶちのあやひとしようあんしがのあやひとえおんいまきのあやひとこうさい いまきのあやひとにちもんみん 新漢人日文 ( 旻 ) ・南淵漢人請安・志賀漢人恵隠・新漢人広斉の計八名が隋に派遣された。日本 から初めて入隋 ( 唐 ) した学生・学問僧の、すべてが渡来人氏族の出身であった事実にも、この一端 が示されていると思う」 ( 『古代朝鮮仏教と日本仏教』田村圓澄著、吉川弘文館 ) まつりごと これらの人々が、中国、朝鮮の文物を日本に伝え、それぞれの集落、小国家を築き、政事の中心に いたのだった。 みやこ その代表が奈良であろう。古代、都として栄えた「奈良」の京も、朝鮮語「蚪 ( 国 )_ のことだ 人麻呂は、 った。敏馬の地も、規模は小さいながらもそのひとつだったにちがいない。 " 敏馬 ~ それが百済系の人々の地であることを伝えたいのだろうか。 刈られた母たち 200
書庫の中でたまたま手にした本が面白かった。漢字だらけの中に " てにをは ~ に当る部分だけが表 音文字のハングルになっている。最小限のハングル混り文である。語順も朝鮮語になっており、もと 葉もと漢語の箇所はそのまま漢字にしてあるから、日本人の私たちにとってもそのまま読めてしまいそ うである。日本の漢字かな混り文の成立に比べはるかに時代は下るが、その表記方法が、漢字のみの 古 時代からハングル一辺倒へと移るまでの、過渡的な姿を見せていて興味が尽きないのである。 れ 開 きる唯一の貴重な資料なのである。 そこでは語の並びがすっかり朝鮮語になっている。それはほとんど日本語の語順と一致する。助詞 や語尾変化などを漢字の音を借りて付し、また、固有名詞や、もともとの朝鮮語も、同じように漢字 の音を借りて表記されている ( このような漢字の使用法を吏読という ) 。 ここまでいえば明らかなように、これは万葉集における漢字使用法や万葉仮名の原型ではないかと ヒャンガ 思わせるのに十分なのだ。万一、万葉集の中に古代朝鮮の郷歌が一首紛れこんでいたらどうだろう。 漢字は表意文字であるし、その型式の相似から、なんとかやまとことばで訓み解いてしまっていたか もしれない このように、漢字は日本に到来した時点で、ある程度消化しやすくなっていた。材料を中国語 ( 漢 字 ) に求め、その調理法を古代朝鮮から学び、次第に日本風の味つけにしていったものが、万葉集に みられる漢字の使用法ではなかったか。これがたんに推測のみに止まらないことを証しだてるのが、 『新羅郷歌』二十五首なのである。 2