法によって語順は変わることがあっても、その意味は変わらない。物理的にその地を過ぎていく行為 の中に、昔の日々を回想している人麻呂の姿があったのではないだろうか。 一体、この " 可古の島。や " 稲日野 ~ という地名はどこのことだったのだろう。 稲日野は古く、播州平野南東部、兵庫県加古川市、加古郡、明石市にかけての一帯のことであった。 これは「印南野」とも表記され『風土記』にまつわる、景行天皇の求婚伝説に登場する伝承の地でも ある。可古の島はというと、兵庫県加古川の河口に浮かぶ三角州の島であるという。これらは、いず れも定かではないことが、『万葉集事典』の地名解釈や、『万葉の歌人と風土 ( 兵庫 ) 』 ( 神野富一著・ 保育社 ) を参照してもわかる。 稲日野とは、加古川の河口部一帯をさす地名だったのだ。この加古川は印南川とも称され「可古の 島」も「稲日野」の一部であったことがわかっている。だが、このことは私たちには思いがけないこ とであった。 人麻呂は、今までの歌では一首のなかに、 < 点から点へ移動する距離感が詠みこまれていた。そ れは、物理的な " 動き ~ であったとともに、彼自身の境遇や立場の変化を示すものでもあった。その " 動き ~ こそが歌の深淵では、大きな " うねり ~ となっていたが、この歌ではその距離感が、あとか たもなく消されてしまっている。 一見離れた地であるかのごとく詠んではいるが、実は、稲日野と、そこを流れている川とはまった く同一の場所だったのだ。 稲日野は、古代、大和と西海道を結ぶ東西交通の中継地であった。語源を解くと、稲は臼の中でこ ねた粘りのでる穀物、日は、身近にねっとりとなごむ暖かさ、野は、伸びるという意であるから、 「稲日野」とは肥沃な土地がどこまでも広がっている状態をいっていたのだろう。これは、別表記で 224
人麻呂の遺書 みてくれるだろうか 死に逝くこのわたしを さらに、私たちはこの歌を、金氏に見ていただく機会を得、朝鮮語で以下のように読み解くことが できた。 コチンペモクトウンガンゲエ 号三。な パンオルウルリダ ペクスサネラゴボラム 叫全斗ヱ旦せ ナグネガナンナラル ュ外」こ己き 人麻呂の死出の旅路は続く。旅ゆくほどに死の影は、益々色濃く私の目の前に見えてくる。 不死の世界を象ったという硯。その硯の海には、人麻呂の悲しみだけが満ちている。しかし、その 筆にふくませた命の水によって「ことば」に不死の命を与えた人麻呂。今や歌のなかにしか、人麻呂 の生はなかったのだろうか。 荒々しい藤江の浦では、葬祭へと向かう自らの姿を訴えていた。やっとの思いで辿り着いたのは、 稲日野であった。ここでも一首、人麻呂は詠んでいる。 過去の島・ーー稲日野 稻日野毛去過勝奈思有者心戀敷可古能嶋所見 ( 一云、湖見 ) ( 巻三ー一一五三 ) わたしにとって行き過ぎがたい地ーー稲日野を思っていると、恋しい可古の島が見えてくるーーと、 221
人麻呂の遺書 ある「印南野」からも同じ意味を見出すことができる。 稲日野に続く「去過」が、過去という意を踏まえていたと考えれば、暖かい豊かな土地に、人麻呂 にとって故郷を偲ばせる何かがあったのだろう。さらにこの伸びやかな地にことよせて、人麻呂は自 分の半生を感じとっていたのではなかったか。 ここまでくると四国は近い。肌にじっとりとなじむ暖かい風が、ほんのひととき、人麻呂の心を和 ませたに違いない。いずれは、去っていかねばならない。だからこそ、ここを行き過ぎがたいと云っ ているのだ。勝とは " 耐える ~ 意である。去ることができないという振り切れない思いの丈が、この 一字から伝わってくるようだ。 後ろ髪をひかれながら、人麻呂はどこへ去っていくというのだろう。前の " 荒材 ~ の歌 ( 巻三ー二 五 (l) での " 旅去 ~ が、単純に退いていくことではなかったように " 去過 ~ という表現もまた、「死 にゆく」ことを隠喩したものに違いない いきすぎかてに このように考えてくると、「去過勝奈」は人麻呂の相反するふたつの思いを託している。「過去 , へ の追慕、そして「死」への恐れである。この四文字は、まさしく満ちたりていた過去から、追いつめ られた現実へとうつりゆく心情を見事に表現している。 「稲日野」とは、人麻呂にとってその中継地だったのだ。地理的にもここは畿内を抜け、畿外へと踏 み入っていく境目の地であった。ここを抜ければ戻ることもない。人麻呂にとって諦めきれぬ現世と の別離、そこには、海やんでも海やみきれないものがあったに違いない もうすぐ死んでゆく自分が唯一心を残した地、それが「稲日野」であった。故郷にも似た豊かで暖 かい地は、人麻呂の心に過ぎ去った日々のことを呼びおこす。その土地は、自分の過去と重なってく 225
るだけに、そこを去らねばならぬ人麻呂の思いは募る一方であった。この地と訣別することは、同時 に自らの過去への離別を告げるものであった。そのさまざまに乱れる思いを、人麻呂は「恋」の一字 に託していた。 末尾に見えてくる「可古の嶋」。これは " 恋しく思っている過去の島 ~ でもある。可古と過去との 音をあわせたかけことばになっている。 人麻呂は、その「古の島、に自分の死を見ていた。可古の表記は、屈曲し頭蓋骨のようにひから びて固いことを意味する。それは、砂土が積もり固くなった川の中洲の様子ともダブってくる。人麻 ーさご 呂の千々に乱れる思いは、砂のように流され、うねり、反転し、やがてはゆき場を失い鬱積していく。 塞きとめられ、かたく凝り固まっていく己れの思いを、人麻呂はこの可古の島にみたてたのだろうか。 この地に心を残したまま、死にむかう人麻呂。彼に残された時間は、それほど多くはなかった筈であ る。目の前に見えてきた島に、自分の運命を予感したのであろう。 稲日野の暖かく肥沃な土地は わたしに故郷を、そして 豊かに栄えていた懐しい日々のことを 思い出させる わたしがこの地を去っていくように あの古の日々を失うことは 耐えがたくつらい 別れてゆくわたしの前には 226
またしても、相変わらずの叙景歌と解されている。先の " 敏馬。の歌を連想させるような歌である。 初句と結句に「稲日野」と「可古能嶋」というふたつの地名を織り込んでいるからだろうか。いずれ にせよ、これが曲者であることには変わりない。 今まで調べてきたどのことばも、一枚剥けばその裏にもうひとつの意味がある、という程度の単純 なものではなかった。ひとつの漢字を箱にたとえれば、その中には音の許す範疇で、まさにいくつも の意味が詰めこまれていた。表記に用いられた文字は、もつ意味のすべてを一度に放射し、他とひび き合うものだった。漢字そのものが、手品師の箱さながらの絶妙なトリックをもつものだったのであ る。 これこそが人麻呂にとっての " 暗号。だった。漢字のもっ性格自体が、おのずからそうなり得たと いうことでもあるし、それを自在に操る人麻呂にしてはじめて漢字が暗号に成り得たともいえよう。 オスカー・ワイルドはいうーーーこの世の本当のミステリーは目に見える事柄であって、目に見えな いことではないのだと。 こころこおしき まず、私たちの目を素直にひいたのは「心恋敷」ということばだった。人麻呂は、この歌に至って はじめて自分の感情を表に詠んでいるように見える。 " 恋しい ~ とうたった対象、その " 可古の島 ~ とは和カか、この歌を解く重要なポイントになるに違いない。まず最初に問題となるのは、一見、何 こひ でもない「恋」である。私たちはここからとり掛ることにした。 数人も入れば満杯になりそうな図書室に、十人ちかい仲間が陣取っている。ここにある白い椅子に よもぎ は、仲間のひとりの艾色のスカートがよくはえる。初秋に似つかわしい淡い香が、漂ってくるよう である。 222
固くひからびた″死の島 ~ が見えてくる 稲日野の柔らかなぬくもりは、可古の島で固く枯れていく。 られようとしているのである。 冥界の大門 この歌を残し船はさらに西方へとすすんでゆく。まだうっすらと見えている懐しい景色も、やがて はその視界から消えてしまう。そんな彼の眼前には渦巻く明石海峡が見えてきた。ここで人麻呂は、 あらためて離別の情にうたれたのだろう。美しい次の一首を詠んでいる。 留火之明大門奈入日哉榜將別家當不見 ( 巻三ー一一五四 ) あかし ともしびの 「留火之」は、明るいという意味で「明石」にかかる枕詞になっている。風光明媚な瀬戸内の風景に " 明大門 , とは、なんとものものしい表現だろう。 まつほ 明石海峡は、淡路島の松帆崎と神戸市垂水区舞子の間を結ぶ、約四キロの海峡である。瀬戸内には 三百以上もの島々が点在するためか、潮の流れが複雑に絡みあい、所によってはすさまじい速さでぶ つかりあう。この流速は、最高七ノットに達する所もあるといわれる。明石海峡の潮流の生む渦を見 ていると、思わず引きこまれてしまいそうな恐ろしさを感ずる。 書 の このような明石の潮流は、おだやかな瀬戸内のなかでも「大門」と称するにふさわしい場所だった。 麻すなわち、異質な世界へと入りこむ海の境界だったのである。お寺の大門が象徴しているように、あ の世とこの世の境を区切るものが門であり、一歩中へ入ればそこはもう御仏の国である。その大門を 過去への思慕は、現在こうして断ち切 227
人麻呂の遺書 その一言がきっかけで、さっそく捜査開始となった。いったい人麻呂が、どのくらいの頻度で地名 を歌に登場させていたのかを、万葉のすべての歌について調べてみようというのである。 こういうことでは、トラカレの人海戦術にまさるものはないだろう。とにかく、アガサの「捜査 網」が動きだしていた。学生総動員での " 地名探し ~ である。 結果は予想したとおり人麻呂がダントツだった。大伴家持、山部赤人、山上憶良らと比べても、人 麻呂の地名の多さは際立つばかりなのである。 含有率を求めてみる。人麻呂の歌に含まれる句数は、あわせて三一五句、そのなかで、地名は五七 回もでてきている。含有率を求めてみると一八・一ヾ ーセントである。対して、その他の歌人を総計 してみても、三三四五句中、三〇九個が地名、含有率は九・二。ハーセントにしかならず、これではま るで勝負にならない。 みつ みめめ いなびの あかしおおとけい のじまふじえ 地名に関しては、羈旅の歌でも、三津、奴嶋、敏馬、野嶋、藤江、稲日野、可古、明大門、飼飯と いう具合に、実に十もの地名を登場させている。なぜこんなに多くの土地を記す必要があったのだろ 三津埼の歌で、地名が人麻呂の「筆先」を暗喩していたように、次からの歌でも地名に何か重大な 意味を潜ませているのだろうか。三津埼の歌を解いてからというもの、次の七首にはなんとなく手が のびないでいる。人麻呂の悲痛な声が、私たちを重苦しい気持ちにさせるからだろうか。 アガサは、そんな私たちの気持ちにはおかまいなしに二つめの大福餅に手をのばしている。本家本 元のアガサより少なくとも迫力の点では数段まさっているようだ。 「八首のなかでも、この歌ほど単純な歌はないでしよ。そこがひっかからない ? 私たちはアガサの方へ向き直った。 みめめ 「訳文では " 美しい藻を刈る敏馬を離れて、夏草しげる野島の埼に舟は近づいた ~ ということになっ 19 う
三津の崎波を恐み隠り江の舟公宣奴嶋奈 ( 巻三ー二四九 ) 珠藻苅敏馬乎過夏草之野嶋之埼奈舟近著奴 みぬめ のしま 珠藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野嶋の崎に舟近づきぬ ( 巻三ー二五〇 ) 粟路之野嶋之前乃濱風八妹之結級吹返 あはぢ 淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹きかへす ( 巻三ー二五一 ) 荒栲藤江之浦奈鈴寸釣泉郎跡香將見旅去吾乎 あま すずき 荒材の藤江の浦に鱸釣る白水郎とか見らむ旅行くわれを ( 巻三ー二五一 l) 稻日野毛去過勝奈思有者心戀敷可古能嶋所見 ( 一云、湖見 ) いなびの 稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき可古の島見ゅ ( 一に云ふ、湖見ゅ ) ( 巻三ー二五 留火之明大門奈入日哉榜將別家當不見 ともしびあかしおほと 留火の明石大門に入る日にか漕ぎ別れなむ家のあたり見ず ( 巻三ー二五四 ) 天離夷之長道從戀來者自明門倭嶋所見 ( 一本云、家門當見由 ) あまざかひな ながぢ やど 天離る夷の長道ゅ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゅ二本に云ふ、家門のあたり見ゅ ) ( 巻三ー一一五五 ) あらたへ たまも みつ と 186
人一倍夢中になっていたのは、私たちのリーダーである中野矢尾先生だった。ある日、先生が、 「柿本人麻呂の歌が、韓国語との関連で解けたわよ」 と、さっそうと言い放った。みんなの目の前で、それが実際に解き明かされていった時、その説得 力と明央さに、ため息にも似た歓声が部屋を満たしていった。その手口のあざやかなこと。誰をもひ 集 葉きつけ、誰をもあきさせない。わすかな手がかりを糸口に、見事に読み解かれると、誰にでも納得が 恥いく。私たちは、中野先生にさっそく「アガサ」の異名を進呈した。もちろん推理小説の女王、アガ サ・クリスティ 1 にちなんでのことである。 れ また、アガサは先にふれた雄略天皇の一番の歌にも新しい解釈があることを見つけていた。表面上 の、恋の歌にも似たニュアンスは、朝鮮語で解釈することで一変し、見事なリアリティを帯びてきた。 よほど不田 5 議に田 5 えてくる。つまり驚くべきことに、ヨーロッパの古典研究ではごく当り前に行われ ている多一言語的解釈が、日本ではいまだ手つかずの状態なのである。日本上代の古典にこの方法を用 いることの是非はともかく、従来の研究が、やまとことば成立期の一言語の流動性を顧みなかったのは、 私たちにはまったく腑に落ちないことである。 手はじめに私たちは、さっそく万葉集の原文の中に朝鮮語や中国語のしつほを探し出そうというこ とになった。意味未詳といわれている部分とか、もともと意味がないとされている枕詞などがその取 つかかりである。漢字だけの原文に、漢字の語源、朝鮮語の音や訓などあちらこちらから光を当てて みる作業は、そう簡単なことではない。しかし、これまで述べてきたような考え方の筋道が正しけれ ば、必ずやその歌本来の風景が見えてくるはずである。 「物的証拠」を見つける
「問題が正しく立てられているか」トラカレの合一言葉である。 これまでの万葉古歌の訓み、解釈は傍証によるものが多い。傍証も真相に迫る有力な手段であろう。 しかし、私たちの目標は真相を実証することにある。それによって初めて古典の研究も科学と呼ぶに ふさわしいものになるだろう。 私たちは実証するための手だてを遺された万葉集の文字そのものに求めた。当然のこととして、同 じ文字 ( 漢字 ) を共有した古代中国語、朝鮮語の世界が私たちの視野に入ってきた。解釈の自由度が 一挙に拡がった。その中で誰でもが納得する解、訓みを探求するのである。 最近の藤ノ木古墳の発掘はもとより、発見されるさまざまな考古学の資料は、大陸と一衣帯水であ ほうふつ った当時の古代日本を髣髴させる。 「万葉集』と同じく漢字のみで記された『古事記』・『日本書紀』の、特に神代の神名、説話にも新し い脚光があてられてきている。それらはすべて若い私たちの好奇心を捉えて放さない。一歩一歩確か な足どりで進みたい。 本書はこの研究の中心であるアガサこと中野矢尾先生を囲む、研究、討論に参加したトラカレ生全 員の共同作業の成果であることもつけ加えよう。 特に、さまざまなアドバイスをいただいた金思燁先生、作家赤瀬川隼氏他、多くの方々の御協力に 感謝の意を表して筆を措くことにする。 藤村由加 一九八九年一月 00