寺から移された可能性は、かなり高いと言えます。若草伽藍が焼失した際に失われたはずの重量が 四二二キロもある釈迦三尊像が安置されていることについて、研究史上疑問符が投げかけられてき ましたが、このように想定すれば、釈迦三尊像が金堂に安置されていることが合理的に説明される ことになります。 ここに、法隆寺再建の謎は解き明かされたことになります。和銅年間に再建された法隆寺が飛鳥 時代のおもかげを留める理由は、西院伽藍の建造物の資材やゆかりの仏像・仏具などが飛鳥時代の ものであったからなのでしよう。 東院に祭られる厩戸皇子と長屋王 一方、東院伽藍は、七二九 ( 天平元 ) 年に発生しました「長屋王の変」ののち、七三五 ( 天平七 ) 年となって、疫病の流行による房前・麻呂・武智麻呂・宇合の四兄弟を失った光明子を中心とした謎 藤原氏一門が、これを長屋王の祟りと考えて建立したと考えられます。東院伽藍の完成は七三九再 ( 天平十一 ) 年のことですが、長屋王の冤罪が明らかとなった七三八 ( 天平十 ) 年の一年後であるこ 法 とは、偶然ではないように思われます。『書紀』の「聖徳太子 ( 奈 ) 」は長屋王を想定していません 章 が、東院伽藍に祭られる「聖徳太子 ( 奈 ) 」には、鎮魂の対象として長屋王が想定されていると推六 察されます。長屋王は、明日香との地縁的つながりや蘇我氏との血縁的つながりの強い人物である と想定されますので、長屋王を、蘇我氏と系譜的につながる「聖徳太子 ( 飛 ) ーに擬するという発
西院 薬師坊庫裏 上御堂 大講堂 ロ地蔵堂 西院伽藍 経蔵鐘楼 五重塔金堂 宝珠院 新堂 大湯屋 西円堂〇 堂ロ殿 ~ 封 回廊 中門 霊◎ 大宝蔵殿 ロ中院 普門院 ロ西 、若草伽藍跡 \ 術大円 普門院 金堂跡 礫敷 ・瓦片散布 東溝 築地 \ 塔跡 - 築地破壊箇所 若草伽藍跡発掘図 築地 229 第六章法隆寺再建の謎
れていると言えます。このような推古紀や舒明紀への加筆は、「長屋王の変」が「乙巳の変」と同 様の意味をもっということを示すことにあったとする推論は成り立っ余地があります。『書紀』は、 奈良時代の聖武天皇と長屋王との対抗関係を、推古紀や舒明紀の記述内容に投影させていると考え られるのです。 4 ーー東院伽藍の造営ー光明子と法隆寺東院 「法隆寺東院縁起」 前節までの考察をとおして、『書紀』の聖徳太子をめぐっては、奈良時代の政治的状況の反映と して聖武天皇の事績を飛鳥時代に投影させるため、「聖徳太子 ( 奈 ) 」が考案され、『書紀』の推古謎 建 紀や舒明紀の編年や記述内容に多少の加筆や改編がほどこされている可能性を明らかにしてまいり 再 寺 ました。 隆 法 それでは、「聖徳太子 ( 奈 ) 」には、『書紀』や『薬師如来像光背銘文』に対する考証結果に示さ 章 れるように、本当に聖武天皇のみが投影されているのでしようか。ここで法隆寺東院伽藍の建立の六 経緯を見てみましよう。法隆寺の東院伽藍は、西院伽藍とは異なり奈良時代の創建であることがは つきりしています。
草伽藍とは、いわば時間を軸として縦の関係にあると言えるかもしれません。 法隆寺再建・非再建論争 さて、法隆寺西院伽藍をめぐっては、研究史上におきまして、再建・非再建論争が存在していま す。 『書紀』巻二十七天智紀の天智九年四月条には、「九年春正月乙亥朔辛巳。 : : : 夏四月癸卯朔壬申。 夜半之後。火ニ法隆寺一屋無」余。大雨雷震。」と見え、六七〇 ( 天智九 ) 年四月三十日 ( 旧暦 ) の 夜半に法隆寺に落雷があり、法隆寺の伽藍は一屋も残さずに焼失したと記されており、法隆寺は六 七〇年には焼失したことになっています。 したがって、天智九年四月条の記述に信憑性を認めれば、西院伽藍は創建当時の斑鳩寺の伽藍で はなく、六七〇年四月における火災の後にほどなくして再建されたと考えざるをえません。プロロ謎 ーグにおいても若干述べましたが、このため、法隆寺の再建問題は、明治二十年代以来、史学、考再 古学、建築史学、建築美術史などの諸学問領域において、「法隆寺再建・非再建論争ーとして長く隆 法 争われることとなったのです。 章 再建論は、おもに文献資料に立脚して、一八九〇年頃より唱えられるものとなっております。六 『書紀』の天智九年条に法隆寺炎上の記述のあること、また、『書紀』や『続日本紀』において記載 の見られない再建年代が『伊呂波字類抄』一〇巻においては「法隆寺和銅年造立」とされているこ
為政者としての「皇太子」の出現 このような「天皇 ( 神祇祭祀 ) 0 皇太子 ( 政治 ) 」体制が『書紀』において強調されていることは、 『薬師如来像光背銘文』の「東宮聖王」と、敏達五年条に所見される「東宮聖徳」という用語とが、 極めて近似していることによっても示唆されます。敏達五年は、列では西暦五七六年ですが、 < 列では持統十年の西暦六九六年になります。六九六年は、高市皇子が薨じたことを受けて軽皇子 ( のちの文武天皇 ) が立太子された年となります。すなわち、持統朝において皇太子が出現した年と なります。 先述しましたように、これまでの研究史上においては、『書紀』が、理想的君主像として、なぜ 天皇ではなく皇太子を強調したのであるのかという点をめぐって、論理的説明に欠けるところがあ りましたが、列と列をアプロ 1 チとして検証を加えれば、そこには、為政者としての「皇太 子、の問題が介在していることが認識されてくることになります。 また、このような考察結果は、飛鳥時代における斑鳩宮の存在自体を否定しているわけではあり ません。考古学的には、法隆寺境内から若草伽藍と呼称される法隆寺西院伽藍に先行する伽藍跡が 発見されておりますし、東院伽藍からは斑鳩宮址が発掘されています。おそらくは、「聖徳太子 ( 飛 ) Ⅱ厩戸皇子」によって造営されていた宮や寺が斑鳩にあったのでしよう。したがって、ここ におきましても、「憲法十七条ーと同様に、『書紀』の編纂者によって、推古九年という紀年に「皇 太子が斑鳩の宮を興した」という記述が置かれたことの意義が問題となっていると言えます。 202
藤枝晃 178 , 179 , 182 藤原宇合 246 , 247 , 253 藤原鎌足 237 , 238 , 251 藤原房前 224 , 244 , 246 , 247 , 253 藤原不比等 183 , 238 , 241 , 246 , 249 藤原麻呂 246 , 247 , 253 藤原武智麻呂 180 , 186 , 246 , 247 , 249 , 「仏経井資財条』 ( 「東院資財帳』 ) 182 , 216 , 245 武寧王 32 , 33 「文』 20 分注崩年干支 19 , 20 , 26 蔀 39 ー 49 , 52 ー 54 , 60 , 196 , 208 「法興」 ( 年号 ) 86 , 89 , 91 ー 95 , 97 , 100 , 106 , 109 , 110 , 116 , 118 ー 121 , 126 , 127 , 171 , 172 , 190 法興寺 95 , 117 , 118 , 121 , 251 , 252 「法隆寺伽藍縁起井流記資財帳』 ( 「法 隆寺資財帳」 ) 7 , 71 , 182 , 189 , 法隆寺五重塔 8 , 222 , 227 , 231 , 232 , 法隆寺西院伽藍 ( 西院伽藍 ) 62 , 83 , 121 , 202 , 222 , 224 , 225 , 230 ー 232 , 242 , 243 , 249 ー 255 , 257 法隆寺再建・非再建論争 7 ー 9 , 60 , 253 204 , 222 , 244 251 , 252 星野恒 21 203 , 244 , 245 「法起寺塔露盤銘」 102 「法華経』 142 , 157 , 158 , 178 , 181 , 182 , 254 , 257 202 , 217 , 222 , 224 , 243 ー 250 , 253 , 225 , 230 , 232 法隆寺東院伽藍 ( 東院伽藍 ) 「法隆寺東院縁起』 224 , 244 , 245 180 , ◎ま 品彰英 24 御名部皇女 238 , 239 三善清行 40 ー 43 本居宣長 19 , 21 , 23 , 24 , 26 「文選』 133 文武天皇 ( 軽皇子 ) 57 , 69 ー 71 , 74 一 76 , 78 ー 82 , 88 , 186 , 199 , 202 , 234 , 235 , 242 , 246 ◎や 薬師如来像 62 , 64 , 65 , 71 , 74 , 77 , 81 , 82 , 121 , 224 , 226 , 242 , 243 , 249 , 250 「薬師如来像光背銘文』 60 , 62 ー 64 , 66 , 68 , 70 , 71 , 74 ー 77 , 79 ー 83 , 86 , 88 , 89 , 91 , 121 , 122 , 135 , 149 , 153 , 165 , 174 , 177 , 186 , 187 , 189 , 190 , 196 , 198 , 201 ー 203 , 207 , 211 , 218 , 220 , 235 , 242 , 243 , 246 , 249 , 250 山背大兄王 ( 山背大兄皇子 ) 90 , 168 , 173 , 224 , 232 , 236 , 237 , 240 ー 242 , 244 , 248 山田史御方 193 日本武尊 115 , 138 , 141 , 144 ー 146 倭姫命 114 , 115 倭姫命 ( 天智天皇皇后 ) 115 , 163 「倭姫命世記」 115 「山ノ上碑」 67 唯一神道 13 踰年称元法 55 , 56 , 58 , 59 , 102 『弓座記録」 145 , 146 用明天皇 59 , 64 , 70 , 71 , 74 , 80 , 82 , 101 , 102 , 108 , 111 ー 113 , 117 , 119 , 155 ー 163 , 169 , 171 , 213 , 234 , 235 , 242 吉田東伍 21 ◎ら 「梁書』 19 , 20 , 133 270
八月にかけて、相次いで天然痘によって没しています。このことが光明皇后の一連の仏教政策と関 連したとする見解は、多くの研究者によってすでに指摘されているところです。すなわち、怨霊思 想が強く信じられていた時代において、房前・麻呂・武智麻呂・宇合の四兄弟は祟りによって災厄 を被ったと考えられたのです。具体的に誰の祟りであるのかと言えば、七二九年の天平元年二月に 発生した「長屋王の変」において自死された長屋王です。この事件への藤原氏の関与が疑われるも のとなっており、藤原氏が、長屋王の怨霊封じの意味を込めて仏教政策を進めたとする推論は成り 立ちます。上宮王院 ( 東院伽藍 ) の建立には天平時代の政治的状況がかかわっている可能性が指摘 されるでしよう。 そこで、第一の推論と第二の推論のいずれが正解であるのか、さらに検証を進めてみましよう。 ーー西院伽藍の聖徳太子と東院伽藍の聖徳太子 長屋王の冤罪事件 ここで着目せねばならないのは、『続日本紀』の天平十年七月条に所見される長屋王の冤罪が明 ~ らかとなった事件です。 247 第ハ章法隆寺再建の謎
行なうべき係争の裁定が妙教寺で行なわれていることを論拠として、現存法隆寺西院が二寺併立で あったか否かは別として、六七〇年以降の再建であることには間違いはないと主張しています。 五重塔心柱の伐採年 こうしたなか、プロローグにおいて述べましたように、二〇〇一 ( 平成十一一 l) 年に、奈良国立文 化財研究所によって、法隆寺西院伽藍の五重塔の心柱の木の伐採年が年輪年代測定法を用いて計測 されました。この結果、心柱の伐採時期が西暦五九四年であることが判明したのです。また、この ことから、若草伽藍跡は、考古学的には斑鳩寺 ( 法隆学問寺 ) の建立が七世紀初頭である可能性を 示しながらも、一方において、現存法隆寺の伽藍の建築用材の伐採年代が六世紀末に相当するとい う、時系列的矛盾を抱える結果をももたらすことになりました。 このような結果を受けて、前出岡本氏は年輪年代法による測定結果のほうを疑い、法隆寺の焼失 いるか は、蘇我入鹿が巨勢徳太らを遣わして斑鳩宮で山背大兄王を滅ばした上宮王家滅亡事件の発生した 六四三 ( 皇極一 l) 年であるとする立場を示しています。一方、梅原猛氏は法興寺移築説、古田武彦 氏は九州の観世音寺移築説を唱えており、再建時移築説もあります。法隆寺再建論争は、現在に至 っても諸説が試みられている段階のままに推移しています。 以上、法隆寺再建・非再建論争についておおよその経緯を述べてきましたが、現時点において確 かに言えますことは、現存法隆寺西院伽藍は、奈良時代の和銅年間に再建されたものの、建築用材 232
火災の時期と経緯 しかしながら、再建の事実は実証されたものの、火災の時期と経緯とが今度は問題として議論と なりました。福山敏男氏は『奈良朝寺院の研究』 ( 一九七八年 ) において、法隆寺の焼失を天智九年 の六七〇年に固定してしまうのは、飛鳥・白鳳の美術様式の流れから見て再考を要する点があるこ とを指摘し、また、一九八〇年代に入ると、岡本東三氏が、出土瓦の編年研究により再建法隆寺を 天智朝以後の天武・持統朝に下げることは不当であると説き、法隆寺が再建された時期に関して、 「二寺併立説 ( 若草伽藍と現存法隆寺西院伽藍が並存していたとする説 ) 」が唱えられることになります。 そして、「二寺併立説」は、建築史家の鈴木嘉吉氏によって「新・二寺併立説」として擁護される ところとなっています。鈴木氏は、法隆寺西院伽藍とほば同時期に建立されたと考えられる法起寺 の三重塔と法隆寺の五重塔の建築様式の比較から「新・二寺併立説」を一九八七年に発表していま す。法起寺三重塔は、天武十三年の六八四年に堂塔を構え、慶雲三年の七〇八年に露盤をのせたと謎 されることから七〇八年に完成したと考えられるのですが、法隆寺西院伽藍の五重塔は、法起寺三再 こまじまったと主隆 重塔よりも明らかに建築様式として古いことから、五重塔の建設は六八四年以前。。 法 張するところとなったのです。 章 さらに、一九九九 ( 平成十一 ) 年には、東野治之氏が『補闕記』の史料分析をとおして、六七〇六 ( 天智九 ) 年の焼失は揺るがし難い事実であるとする新見解を提示しました。すなわち、『補闕記』 には、法隆寺焼亡後の記載に続き法隆寺の家人や奴婢の係争が記されており、本来法隆寺において
「日本書紀」が伝える法隆寺炎上 『日本書紀』巻二十七天智紀は、「夏四月癸卯朔壬申。夜半之後。実 = 法隆寺→一屋無」余。大雨雷 震 , と記し、六七〇 ( 天智九 ) 年四月三十日 ( 旧暦 ) 夜半、法隆寺に落雷があり、法隆寺の伽藍は 一屋も残さずに焼失したと伝えています。 七四七 ( 天平十九 ) 年の奥書のある『法隆寺伽藍縁起井流記資財帳』によると、法隆寺は六〇七 うまやど いかるが ( 推古十五 ) 年に厩戸皇子 ( 聖徳太子 ) によって創建されたと伝わります。したがって、奈良斑鳩の 現存法隆寺の伽藍は創建当時のものではなく、六七〇年の火災ののち、奈良時代となって再建され たと考えられています。 現存法隆寺が再建されたものである可能性をめぐっては、明治二十年代より、史学、考古学、建 築史学、建築美術史などの諸学問領域において、「法隆寺再建・非再建論争」としてその真偽が長グ く争われるものとなってきました。すなわち、文献史学の立場から、火災があったとする『日本書ロ 紀』の記述を尊重し法隆寺は再建されたとする再建論があり、一方、寺院研究の様式学の立場から、 くもカたときよう 現存法隆寺の建築様式に出土瓦の編年、雲型斗拱の技法、エンタシスの柱、高麗尺の使用、基檀の フロローグ こまじゃく