伽藍 - みる会図書館


検索対象: 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代
42件見つかりました。

1. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

くだらかんのんぞう * 2 たまむしのずし した本尊の釈迦三尊像、薬師如来像のほかに、百済観音像、玉虫厨子などよく知られた聖徳太子ゅ かりとされる仏像・宝物が安置されていました。 一方、法隆寺の東院伽藍とは、聖徳太子と山背大兄王が居していた斑鳩宮の址、考古学的には * 3 「東院下層遺構ーと呼称されている範囲に、天平時代となってから建立された上宮王院のことです。 ぎようしん 『法隆寺東院縁起』によりますと、法隆寺僧の行信が斑鳩宮址が荒廃している様子を嘆き悲しみ、 ふじわらのふささき 皇太子阿倍内親王 ( のちの孝謙天皇 ) に上奏したところ、皇太子阿倍内親王が藤原房前 ( 六 三七年 ) に命じて建立させたと伝わります ( 『法隆寺東院縁起』の記述内容の真偽につきましては、の ぜかんのんぞう * 4 ゅめどの ちに述べます ) 。救世観音像を秘仏として安置してきた「夢殿」と通称される八角円堂の正堂を中心 に、四方を廻廊がめぐっています。 したがって、法隆寺とは、斑鳩寺改まり法隆寺 ( 西院伽藍 ) と、天平時代となって、聖徳太子と 子の山背大兄王ゆかりの斑鳩宮の址に建立された上宮王院 ( 東院伽藍 ) という二つの寺院によって 構成されていることになります。それぞれ、時期と目的を異にして建立された二つの寺院の総称で あると理解されるでしよう。また、現存法隆寺は、時間的・空間的に隔たった二つのパーツによっ て成り立っていると言うことができます。 ここに、まず、現存法隆寺が西院伽藍と東院伽藍から構成されていることを確認しましたが、法 隆寺の問題は、西院伽藍と東院伽藍の問題に留まらず、現西院伽藍に先行する若草伽藍というもう 一つの伽藍の問題を含んでいます。西院伽藍と東院伽藍が横の関係であるのならば、西院伽藍と若 224

2. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

において、法隆寺の実相院・普門院・観音院裏手の敷地の藪林に所在する「若草之伽藍」として記 * 8 載のある塔心礎に関する記録においてうかがわれるものとなっていました。しかしながらその後、 心礎の所在は転々として不確かとなっており、若草伽藍の実在を示すような遺構は法隆寺において は皆無となっていたのです。一九三八年となって、心礎の所有者が見つかり、所有者より心礎が法 隆寺へ返還されることとなったことを受けて、返還に際して心礎の旧位置を探るための調査が行な わかくさがらん われました。こうして、石田茂作氏らによって、「若草伽藍」と呼称される現存の伽藍 ( 西院 ) に 先行する伽藍跡、および焼失を示す焼土や灰が発見されるにおよびました。 また、一九六八年、一九六九 ( 昭和四十四 ) 年の両年度において、法隆寺大垣の解体修理に際し て、再度、若草伽藍跡発掘調査が実施され、若草伽藍が四天王寺式の伽藍配置の寺院跡であること が確認されました。さらに、一九七八 ( 昭和五十一一 l) 年よりはじまった法隆寺の防災工事に先立っ 事前発掘調査において、若草伽藍造営時のものと推察される七世紀初めの土器片などが発見され、 みろくいん 現存西院伽藍に先行する若草伽藍は七世紀初めに造営されたことが判明します。一方、弥勒院門前 の土中から地鎮具として和銅開珎が発見され、現存法隆寺は、若草伽藍焼失後に和銅年間となって 再建されたことが確認されることになりました。法隆寺再建・非再建論争は、再建論においておお よそ解決されたかのごとき様相を呈するに至ったのです。 じっそう 230

3. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

想が生じたのだと考えられます。したがって、東院伽藍には、「聖徳太子 ( 飛 ) Ⅱ厩戸皇子」と長屋王が祭られていると結論づけることができるでしよう。 このように想定すれば、第五章において論じました橘夫人の『天寿国繍帳』は、 子 聖武天皇のためではなく、「聖徳太子 ( 飛 ) Ⅱ厩戸皇子ーに投影される長屋王の 徳 の太武屋鎮魂のために作られた、と理解することができるのではないでしようか。 藍徳聖 院 東 本章においては、法隆寺再建の謎を検証してまいりましたが、法隆寺西院伽藍 と 子 と東院伽藍というように、あえて二つの伽藍が建立されたことには意味があるよ 徳 聖 うです。西院伽藍と東院伽藍とが建立された理由を、両伽藍とも飛鳥時代の「聖 の 藍 徳太子 ( 飛 ) Ⅱ厩戸皇子」を祭ってはいるものの、一二〇年後の奈良時代におい 飛 子子 院 子皇皇て対抗関係にあった聖武天皇と長屋王の姿をも、それぞれ別の意味そして経緯に 寺太戸戸 隆徳厩厩おいて「聖徳太子 ( 飛 ) Ⅱ厩戸皇子、に重ねて、祭っていることに求めることが できるでしよう。 Ⅵ藍 表伽 寺 隆 法 西院伽藍 東院伽藍 254

4. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

ーー法隆寺の西院伽藍と東院伽藍ー法隆寺再建・非再建論争 西院伽藍と東院伽藍 第六章では、法隆寺再建・非再建問題をアプローチとして、「聖徳太子 ( 奈 ) , をめぐって残され た課題に対する答えを探してゆくことにしましよう。 そこで、まず、前提条件として、法隆寺のあらましについて概観しておきたいと思います。現存 法隆寺は、西院伽藍と東院伽藍によって構成されています。 法隆寺の西院伽藍とは、聖徳太子が「推古九年 , の六〇一年に斑鳩の地に斑鳩宮を造営した際に、 隣接して建てた斑鳩寺のこととされています。すなわち、寺名の斑鳩寺、改まり法隆寺となったと 考えられています。『法隆寺資財帳』によりますと、法隆寺 ( 法隆学問寺 ) は、六〇七 ( 推古十五 ) 年に厩戸皇子によって創建されたと伝わります。天智八年条には「于」時災 = 斑鳩寺「」と見え、斑 鳩寺と表記されており、翌年の天智九年条には法隆寺となっていることから、六六九 ( 天智八 ) 年、 もしくは六七〇年頃に法隆寺と改名され、以後、今日に至っていると考えられています。法隆寺西 院伽藍は、斑鳩寺 ( 法隆学問寺 ) の後身として位置づけられている伽藍であると言えるでしよう。 塔 ( 五重塔 ) と金堂が左右東西に並ぶ法隆寺式伽藍配置を有し、金堂には、第三章において扱いま 222

5. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

結果ともなるのです。これもまた真実ですので、日本書紀成立論などと関連したこのような虚構論 も、聖徳太子研究として一つの研究領域を形成していると言ってよいかもしれません。すなわち、 『書紀』の聖徳太子を研究することによって、『書紀』の編纂方針、奈良時代の政治・宗教思想や政 治的状況などの時代背景、書紀編年に影響を与えている讖緯暦運説、そして書紀編年の構造問題な ど、『書紀』をめぐるさまざまな課題の解決の糸口もまた、見えてくることになるからです。 さらに、聖徳太子と法隆寺をめぐる謎は、長屋王の存在によって、さらなる局面が形作られるこ とになったと言うことができます。法隆寺は西院伽藍と東院伽藍という二つの伽藍からなっていま す。なぜ、天平時代となって斑鳩宮址に東院伽藍という趣を異にする伽藍が建立されたのかという 謎は、長屋王の変と東院伽藍建立の経緯との関連を考察することによって解かれてくることになり ます。 法隆寺には、西院伽藍と東院伽藍をとおして、仏のご加護、救世、疫病退散、延命長寿、鎮魂な ど、法隆寺の西院伽藍再建と東院伽藍の建立にかかわった人々のさまざまな願いが込められている と一一一一口一つことができます。 一二〇年を隔てて交差する飛鳥時代と奈良時代。このような複雑な状況が、歴史上、信仰の対象一 となりながらも聖徳太子を謎と混迷の象徴たる存在へと押し上げる結果となったのではないでしょ っカ しんい 257 エピログ

6. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

化粧石の形式などにおいて飛鳥時代に遡れる要素を見出し、焼失の事実を疑う非再建論が唱えられ たのです。こうして、再建説と非再建説とが、鋭く対立することとなりました。 わかくさがらん 一九三九 ( 昭和十四 ) 年に、法隆寺において、「若草伽藍」と呼称される現存の伽藍 ( 西院 ) に先 、六九 ( 昭和四十三、四十四 ) 年の両年度にわた 行する伽藍跡が発見されました。また、一九六 してんのうじ る若草伽藍跡発掘調査によって、若草伽藍は、四天王寺式の伽藍配置であることが明らかとされま した。そして、一九七八 ( 昭和五十一一 I) 年よりはじまった法隆寺の防災工事に先立つ事前発掘調査 において、若草伽藍造営時のものと推測される七世紀初めの土器片が発見されるにおよび、現存法 みろくいん 隆寺に先行する七世紀代初頭の寺院の存在が確かめられました。さらに、弥勒院門前の土中から地 わどうかいほう 鎮具として和銅開珎が発見され、現存法隆寺は、若草伽藍焼失後に和銅年間 ( 七〇八—七一五年 ) となって再建されたことが確実視されるに至ります。法隆寺再建・非再建論争は、再建論において おおよそ解決されたかのように見えました。 しんばしら ところが近年、奈良国立文化財研究所において、年輪年代測定法によって、法隆寺五重塔の心柱 の伐採年が計測され、伐採時期が西暦五九四年であることが判明し、新たな波紋を呼んでいます。 若草伽藍跡の発掘調査にもとづく考古学的見地からは、現存法隆寺に先行する若草伽藍の建立の時 期は七世紀初頭よりも年代的に下ることが示されながらも、現存法隆寺の伽藍の建築用材の伐採年 代は六世紀末に相当するという時系列的に不可思議な問題を抱える結果となったのです。法隆寺五 重塔の心柱の伐採年は、『日本書紀』において焼失したと伝わる六七〇年どころか、先行寺院 ( 若

7. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

法隆寺西院伽藍、東院伽藍 0 位置関係図 宗源寺 ロロ 福園院本堂 : 。 東大門 福 羅漢堂 太子般 鐘楼伝法堂 四脚門 南門 北室院本堂 舎利殿・絵般 回廊 夢段 礼堂 東院伽藍 若草伽藍の心礎 228

8. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

~ の」か当」 索引 4 東院伽藍の造営 , ーー光明子と法隆寺東院 5 西院伽藍の聖徳太子と東院伽藍の聖徳太子 ェビローグ 274 267 2 5 5 243 247

9. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

戸皇子と奈良時代の聖武天皇の両名、そして、東院伽藍が飛鳥時代の厩戸皇子と奈良時代の長屋王 の両名を祭っていることになるのではないでしようか。 法隆寺西院伽藍の金堂には、釈迦三尊像と薬師如来像が安置されています。釈迦三尊像は『釈迦 三尊像光背銘文』によって、飛鳥時代の「聖徳太子 ( 飛 ) Ⅱ厩戸皇子Ⅱ多利思比孤 ( 太子日子 ) ーを 祭っていることがわかります。また、薬師如来像は『薬師如来像光背銘文』によって、聖武天皇を 「聖徳太子 ( 奈 ) 」として祭っていることになります。すなわち、銘文が刻まれた釈迦三尊像と薬師 如来像の両仏像が金堂に安置されていることに象徴されますように、飛鳥時代の厩戸皇子と奈良時 代の聖武天皇が西院伽藍には祭られていることとなるのです。 そして、法隆寺西院伽藍は、聖武天皇・藤原氏のラインによって、仏のご加護や延命長寿などを 願って再建されたと考えられます。西院伽藍の再建の時期としましては、七世紀末から八世紀初頭 にかけて造営が進められ和銅年間に完成したのではないかと考えられます。また、法隆寺西院伽藍 の落成について『続日本紀』において記載がない理由として、法隆寺が完成されたと考えられる和 銅年間が、蘇我氏系の元明天皇と長屋王の全盛時代であったからであるという理由は成り立つので はないでしようか。また、先述しましたように、『続日本紀』の編纂方針が、長屋王に同情的であ ったことにも関連があるのかもしれません。 法隆寺西院伽藍の再建事業は、聖武天皇 ( 当時は首皇子 ) ・藤原氏のラインによって、いわば、ほ そばそと進められていたのでしよう。 2 ラ 0

10. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

長屋王をも投影する「聖徳太子 ( 奈 ) 」 しかしながら、仮に、「聖徳太子 ( 奈 ) ーが聖武天皇を意味するのであるのならば、長屋王の鎮魂 のために、なぜに東院伽藍に当時在世中であった聖武天皇が祭られねばならないのでしようか。聖 武天皇は、藤原不比等、光明皇后 ( 光明子 ) 、ならびに藤原武智麻呂など藤原氏によって支えられ ているわけですので、長屋王の鎮魂のために聖武天皇を祭るということは不可思議であると言えま す。長屋王の鎮魂のためであるのならば、むしろ長屋王自身を祭ったほうがよいということになり ます。「聖徳太子 ( 奈 ) 」には、長屋王の姿も投影されていると考えたほうが、蓋然性が高いという ことになるでしょ一つ。 それでは、このような、聖武天皇と長屋王という対立する両者が「聖徳太子 ( 奈 ) 」に擬されて しまうという複雑怪奇な状況は、どのように説明されうるでしようか。すなわち、法隆寺西院伽藍謎 の金堂に安置される薬師如来像の『薬師如来像光背銘文』からは、「聖徳太子 ( 奈 ) 」は蘇我氏系勢皿 力を代表する長屋王によって圧迫を受けていた聖武天皇・藤原氏のラインにおいて作られたと理解隆 法 されうるのですが、東院伽藍をめぐる考証からは、長屋王もまた「聖徳太子 ( 奈 ) 」のモデルとし 章 て想定されてくるのです。「聖徳太子 ( 奈 ) 」は複雑です。 第 ここに本章の結論として、法隆寺においては、西院伽藍と東院伽藍とが異なる人物を聖徳太子と 9 して祭っている可能性を提起するものとしたいと思います。具体的には、西院伽藍が飛鳥時代の厩