光明皇后 - みる会図書館


検索対象: 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代
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1. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

光明皇后が法隆寺に数々の品を施人していることから『法隆寺東院縁起』の記述に信憑性を認める べきである、とする見解を提起しています。 ここで両説の是々非々を断じることはできませんが、「天平宝字五年」と奥書された「東院資財 帳』において、上宮王院への施入品の施入年月日の最も年代の遡るものは、光明皇后が太子の遺品 とされる『法華経』一巻などの一連の品々を奉納した天平九年の二月二十日であることから、いず れにせよ、七三五 ( 天平七 ) 年頃から、斑鳩宮址に上宮王院 ( 東院 ) を造営する計画が志向された と考えられます。 また、前出の近藤氏は、東院伽藍の夢殿に安置される救世観音像は、天平七年から九年にかけて 猛威を振るった天然痘退散の祈願を込めて光明皇后によって安置されたとする説を唱えられ、「要 するに上宮王院造営も法華経講会も光明皇后の強いバック・アップの下に推進されたといってよい であろう」とする見解を示していますが、おおよそ、光明皇后の支援によって東院伽藍が成立した謎 建 とする見解は、諸説においても異論はないようです。 再 寺 隆 法 建立をめぐるニつの推論 章 それでは、なにゆえに、光明皇后は、七三五 ( 天平七 ) 年から七三九 ( 天平十一 ) 年にかけて、 第 僧行信を支援し斑鳩宮址に上宮王院 ( 東院伽藍 ) を建立することを推し進めていったのでしようか。 これには二つの推論が可能です。

2. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

第一の推論は、『薬師如来像光背銘文』の「東宮聖王」が聖武天皇を意味することによって導か れます。『薬師如来像光背銘文』は、七〇六 ( 慶雲一一 l) 年から七〇七 ( 慶雲四 ) 年に発生していた文 武天皇の疾病と翌年の崩御という事件を一二〇年繰り上げて、飛鳥時代の用明元年と用明二年の両 年に投影させて作成されている可能性が極めて高いこと、そして、一時中断されていた薬師如来像 の造立は神亀四年の七二七年に、聖武天皇と光明皇后との間に生まれた幼皇太子が疾病を患ったた めに再開されたと考えられることは、第三章において述べました。 したがって、七三五 ( 天平七 ) 年から七三九 ( 天平十一 ) 年にかけて、光明皇后が法隆寺東院伽 藍を建立した理由として、ここにおいても病気の平癒が想定されており、近藤氏の説を踏まえれば、 当時流行っていた天然痘の退散を祈願して、上宮王院を建立したとする見解は成り立っ余地はあり ます。 一方、第二の推論は、疫病退散という現世利益的観点からだけではなく、その背景にまで目を向 けようとするものです。すなわち、七三五 ( 天平七 ) 年から七三九 ( 天平十一 ) 年にかけて猛威を 振るった天然痘によって、藤原不比等の四人の後継者達もまた病没したことの原因として政治的・ 心情的背景が想定されており、光明皇后は、政治的・心情的問題の解決のために、東院伽藍を建立 したとする考えです。 光明皇后は、藤原不比等の女です。藤原不比等の四人の子、房前・麻呂・武智麻呂・宇合は、そ れぞれ北家・京家・南家・式家を立て権勢を振るっていましたが、七三七 ( 天平九 ) 年の四月から むすめ 246

3. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

王邸跡〕左京二条二坊・三条二坊発掘調査報告、本文編』 ( 一九九六年 ) において、長屋王邸宅跡の 二条大路上の濠状遺構出土の木簡の年紀の大半が七三五年の天平七年ないし八年で、南の五一 〇〇地点においては、天平十一年まで年代が下がるものが含まれており、「皇后宮」と記す木簡の 存在から、天平元年の七二九年に長屋王が滅亡したのちに、光明皇后が旧長屋王宅を接収して皇后 宮として使用したのではないか、とする説が提起されていることに、看取されるかもしれません。 第七に、第三章において考察しましたように、七二七 ( 神亀四 ) 年頃に作製されたと推察される 『薬師如来像光背銘文』の「東宮聖王」が聖武天皇に比肩されることも支証となります。「長屋王の 変」が発生する三年前に、聖徳太子ゆかりの法隆寺西院には、用明天皇、文武天皇、そして聖武天 皇と光明皇后との間に出生した幼皇太子の三人のための銘文が刻まれた薬師如来像が安置されてお り、聖徳太子と山背大兄王との関連の深い法隆寺は、聖武天皇と光明皇后の厚い信仰を受けていた 可能性が指摘されるのです。 以上、一—七点までの聖武天皇・藤原氏ラインとの間に対抗関係が認められる長屋王をめぐる状 況を踏まえれば、推古紀において蘇我氏に投影される勢力を奈良時代の人物に求めるのならば、こ れは、系譜上においても、また権勢においても、蘇我氏に匹敵していたと考えられる長屋王である 可能性が極めて高いと判断されるでしよう。 そして、逆説的には、仮に、『書紀』において奈良時代の政治的状況が推古紀に投影されている のであるのならば、間違いなく、『書紀』の「聖徳太子 ( 奈 ) 、に首皇子 ( 聖武天皇 ) の姿が重ねら 242

4. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

『勝鬘経義疏』は、書誌学的考察において、内容的に敦煌出土の『勝鬘経』の注釈書に最も近 く、六世紀後半の中国北朝段階のものであり、輸入品と考えられます ( 藤枝晃氏 ) 。『法華経』 りつしほうしぎようしんさがし は、天平宝字五年の七六一年に成立した『仏経井資財条 ( 東院資財帳 ) 』に「律師法師行信覓 もとめておさめたてまつる 求奉納者ーと所見されることから、奈良時代の行信という僧侶によって奉納されていま す ( 小倉豊文氏 ) 。さらに、『維摩経』については、『維摩経』に引用される『百行』という書物 は、唐初の杜成倫によって編まれた『百行章』と考えられます。東晋の道恒四一七年 ) の『百行箴』のことではないか、とする指摘がありますが、『百行章』の成立年代から、『維摩 経』は六五八年を下る年代に記されたのではないか、と推察されます ( 福井康順氏 ) 。 五、『書紀』は聖徳太子の薨日を二月五日としていますが、一方の法隆寺系史料においては、二 月二十二日であることは、二において述べました。『法隆寺資財帳』によると、二月二十二日 は、天平八年に光明皇后と僧侶行信が、道慈ら僧尼三百人を請じての法華経講読の法会を行な しよ、つりようえ った日三月二十二日 ) となります。後年、この日は法隆寺では聖霊会として定着することか ら、法隆寺側の史料の聖徳太子の薨日は、光明皇后と行信が疫病蔓延という未曾有の危機に対 処するための法会が催された日を起源としていると考えられます。 おおよそ以上の五点から、大山氏は、飛鳥時代に厩戸王という皇子は実在していましたが、飛鳥 時代の「厩戸王」は虚であって『書紀』の聖徳太子ではなく、『書紀』の聖徳太子は『書紀』の編 182

5. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

八月にかけて、相次いで天然痘によって没しています。このことが光明皇后の一連の仏教政策と関 連したとする見解は、多くの研究者によってすでに指摘されているところです。すなわち、怨霊思 想が強く信じられていた時代において、房前・麻呂・武智麻呂・宇合の四兄弟は祟りによって災厄 を被ったと考えられたのです。具体的に誰の祟りであるのかと言えば、七二九年の天平元年二月に 発生した「長屋王の変」において自死された長屋王です。この事件への藤原氏の関与が疑われるも のとなっており、藤原氏が、長屋王の怨霊封じの意味を込めて仏教政策を進めたとする推論は成り 立ちます。上宮王院 ( 東院伽藍 ) の建立には天平時代の政治的状況がかかわっている可能性が指摘 されるでしよう。 そこで、第一の推論と第二の推論のいずれが正解であるのか、さらに検証を進めてみましよう。 ーー西院伽藍の聖徳太子と東院伽藍の聖徳太子 長屋王の冤罪事件 ここで着目せねばならないのは、『続日本紀』の天平十年七月条に所見される長屋王の冤罪が明 ~ らかとなった事件です。 247 第ハ章法隆寺再建の謎

6. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

ーー聖徳太子複数説 聖徳太子虚構論の根拠 さて、昨今の聖徳太子実在・非実在論争の契機となりました大山誠一氏の説の要点をまとめます と、厩戸王 ( 厩戸皇子のことを、大山氏は自著で「厩戸王」と表記しています ) という人物は推古朝に 実在していましたが、厩戸王は、飛鳥時代に実在した有力皇子の一人にすぎず、一方、「聖徳太子」 は、仏教・儒教・道教の三要素を融合させて作られた架空の存在であり、『書紀』が創作した人物 であるとする見解となります。また、法隆寺東院伽藍の造営を含めて ( 太子の居所であった斑鳩宮跡 に天平時代になってから東院伽藍が造営されます ) 、聖徳太子信仰は、天平時代における疫病の蔓延の むちまろ 終息、ならびに長屋王の鎮魂を目的として、藤原武智麻呂と光明皇后によって創始されたとする結 論を導かれています。 このような聖徳太子虚構論を主張される根拠を、大山氏が論文・著書において引用された先行研 究を含めてまとめれば、以下の諸点になります。 一、『日本書紀』と法隆寺系の史料の一一種類の史料を比較すると、『書紀』は法隆寺系の史料を一 180

7. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

てはいないように思われます。すなわち、仮に、『書紀』の編纂者が、聖徳太子を創作していたと しましても、なぜに、藤原武智麻呂、光明皇后そして僧都行信が、長屋王の祟り封じと鎮魂のため に聖徳太子を持ち出してこなければならなかったのか、の説明が論理的に曖昧なのです。すなわち、 なぜ、長屋王の鎮魂のために一二〇年も前に存在していた聖徳太子が必要であるのか ? という点 に問題点は帰結してくることとなるのです。 そして、まさにこの点が、本書と関連してくるところです。 聖徳太子をめぐる < 列と列 第三章においては、『薬師如来像光背銘文』の登場人物は、文武天皇や聖武天皇など奈良時代の 人物に擬せられている可能性があることを論じました。「東宮聖王 , が聖武天皇を指しているよう に、 < 列と列を媒介として、『書紀』の聖徳太子もまた架空ではなく、奈良時代の人物をもモデ ルとして作られているのかもしれません。 そこで、「聖徳太子」の没後一二〇年を経た天平時代に、意図的に聖徳太子に政治的思惑が託さ れたことには、『書紀』の編年における < 列と列の問題が介在していた可能性を、ここにおいて 指摘したいと思います。すなわち、奈良時代に再び聖徳太子の存在が取りざたされるまでに、飛鳥 時代からおおよそ一二〇年を経ており、一方、列と列との間の年代的ズレも一二〇年となって いるのです。 186

8. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

長屋王をも投影する「聖徳太子 ( 奈 ) 」 しかしながら、仮に、「聖徳太子 ( 奈 ) ーが聖武天皇を意味するのであるのならば、長屋王の鎮魂 のために、なぜに東院伽藍に当時在世中であった聖武天皇が祭られねばならないのでしようか。聖 武天皇は、藤原不比等、光明皇后 ( 光明子 ) 、ならびに藤原武智麻呂など藤原氏によって支えられ ているわけですので、長屋王の鎮魂のために聖武天皇を祭るということは不可思議であると言えま す。長屋王の鎮魂のためであるのならば、むしろ長屋王自身を祭ったほうがよいということになり ます。「聖徳太子 ( 奈 ) 」には、長屋王の姿も投影されていると考えたほうが、蓋然性が高いという ことになるでしょ一つ。 それでは、このような、聖武天皇と長屋王という対立する両者が「聖徳太子 ( 奈 ) 」に擬されて しまうという複雑怪奇な状況は、どのように説明されうるでしようか。すなわち、法隆寺西院伽藍謎 の金堂に安置される薬師如来像の『薬師如来像光背銘文』からは、「聖徳太子 ( 奈 ) 」は蘇我氏系勢皿 力を代表する長屋王によって圧迫を受けていた聖武天皇・藤原氏のラインにおいて作られたと理解隆 法 されうるのですが、東院伽藍をめぐる考証からは、長屋王もまた「聖徳太子 ( 奈 ) 」のモデルとし 章 て想定されてくるのです。「聖徳太子 ( 奈 ) 」は複雑です。 第 ここに本章の結論として、法隆寺においては、西院伽藍と東院伽藍とが異なる人物を聖徳太子と 9 して祭っている可能性を提起するものとしたいと思います。具体的には、西院伽藍が飛鳥時代の厩

9. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

あるという氏の分類には問題があるのではないかと考えられます。本書の第四章で、『書紀』の聖 徳太子には、厩戸皇子すなわち『隋書倭伝』に登場する「多利思比孤 ( 太子日子 ) ーの人物像が投 影されていると述べました。『書紀』は、「多利思比孤Ⅱ厩戸皇子」を事実、聖徳太子として扱って おりますので、「厩戸皇子Ⅱ聖徳太子」は虚ではないことになります。このため、私見としまして は、大山説は、純粋に非実在・虚構論に分類することはできないのではないかと考えます。 没後一ニ 0 年を経てなぜ再び聖徳太子なのか そして、大山氏は、奈良時代に「聖徳太子信仰ーの創始の契機となった事件を七二九 ( 天平元 ) 年に発生した長屋王の変とこれに続く疫病の蔓延と見ています。大山氏は、聖徳太子の作とされる論 『三経義疏』について、「聖徳太子が亡くなってから一二〇年以上もたって、それまで、存在すら知諛 られていなかったものが、突然、聖徳太子御製と称して登場してきたのである」と述べ、聖徳太子 在 実 の没後一二〇年を経て、再び、飛鳥時代の聖徳太子に注目が集まり「聖徳太子信仰」が形成される 子 太 ようになったことを、光明皇后と行信によって扇動された法隆寺側の作為ではないか、と捉えてい 徳 聖 ます。 章 大山氏は、奈良時代に聖徳太子が創作され、政治利用された理由として、①『書紀』の編纂にお五 ける理想的為政者像としての聖徳太子の創造、図長屋王の変後の疫病蔓延への対処という二つの側 面をあげていますが、この二つの側面の相関関係については、必ずしも、合理的な説明が与えられ

10. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

れますように、小野妹子による遣隋使と仏教興隆との関連を指摘できるかもしれませんが、学問僧 説 など八名が隋に遣わされるのは、翌年の六〇八年のことです。 造 文 銘 奈良時代に作られた「薬師如来像光背銘文」 背 そこで、ここにおきましても、「丁卯」の年となる「推古十年」の六〇七年ではなく、一二〇 尊 《 . 年年代を下げた「列上の十五年。の出来事を見てみてましよう。「 < 列上の推古十五年」は、 ( ↑璽武天皇の時代の神亀四七二七年となります ( 00 「 + に 0 Ⅱ「 ) 。そこで、『続日本紀』の神亀四 年条を見てみますと、神亀月条には、「閏九月丁卯。皇子誕生焉。」と所見されます。七二七 説 年は、聖武天皇と光明皇后との間に皇子が誕生した年となります。そして、同年十一月己亥年条に は「新誕 = 皇子「宜 = 立為 = 皇太子「布 = 告百官「咸令 = 知聞「 ( 新たに皇子が誕生した。宜しく立てて皇対 太子となす。百官に布告し、皆に知らしめす ) 」と所見されますので、この皇子は、出生後まもなく立 像 太子されたことになります。 来 しかしながら、生まれてまもなく立太子し、皇位を約束されたはずのこの幼皇太子 ( 『続日本紀』 いみな 薬 には皇子の諱が記されておりませんので、「幼皇太子」とのみ表記します。また、「基王」という諱であっ たとする説もあります ) は、翌年の七二八 ( 神亀五 ) 年九月に薨じてしまいます。幼皇太子の急逝の三 第 理由を『続日本紀』はなんら記載していませんが、あるいは、疾病であった可能性はあるのではな いでしようか。七一年に出生し、翌年の二 一ノに薨じられるという幼皇太子をめぐる状況は、 おののいもこ