表 V ー 2 705 706 707 708 709 710 711 712 713 714 715 716 717 718 719 720 721 722 723 724 725 726 727 728 729 730 731 732 733 734 735 736 737 738 739 740 741 742 743 744 745 746 747 748 749 197 西 元正、上天 A 列上の用明・崇峻・推古紀 乙巳 丁未 己酉 ス 壬子 癸丑 甲寅 乙卯 辰 丁巳 巳未 酉 壬 癸亥 甲子 乙丑 丁身 辰 己巳 己丑 子 ス 乙酉 癸 壬 巳 辰 己身 戊寅 丁丑 子 乙ス 甲戌 癸酉 壬 A91 14 用明元 用明 2 年 示峻元 示峻 2 示峻 3 示峻 4 示峻 5 フ匸 推古 2 年 推古 3 年 推 推 推 推 4 5 7 9 10 11 B ダ 天、宝元 天平感宝元年 天平 20 天平 19 天平 18 天、 17 天平 16 天平 15 天平 14 天平 13 天平 12 天平 11 天平 10 年 天平 9 天平 8 天、 7 天平 6 天、 5 天平 4 天平 3 天平 2 天平元 5 4 3 2 神元年 老 7 老 6 老 5 老 4 老 3 老 2 老元 2 霊亀元年 和銅 7 年 和銅 6 和ロ 5 銅 4 銅 3 銅 2 和口元 慶雲 4 年 天 一天 文武天皇 元日天 元明天皇 元正天 元正天皇 聖一天 聖武天 太上天 元正太上天皇 元明太上天 元明太上天皇 推古 12 年 推 13 14 推 15 推 16 推 17 推 18 舒明元年 推 36 推 35 推 34 33 32 31 30 推 29 28 推古 26 年 推 25 推 24 推 23 推 22 推 21 推 20 、子 首皇子 聖一天 阿倍内親王 第五章聖徳太子実在・非実在論
法隆寺の東院伽藍とは、先述しましたように、聖徳太子とその御子の山背大兄王の宮であった斑 鳩宮の址に建立された法隆寺の上宮王院のことです。東院伽藍は、『法隆寺東院縁起』によります と、法隆寺僧行信が斑鳩宮址が荒廃している様子を嘆き悲しみ、皇太子阿倍内親王 ( のちの孝謙天 皇 ) に上奏したところ、皇太子阿倍内親王が藤原房前に命じて建立されたと伝わります。そして 『法隆寺東院縁起』は、七三五 ( 天平七 ) 年十二月二十日に皇太子が衣服や生絹などを施納して行 あすかべ 信に法華経の講読を命じ、翌七三六 ( 天平八 ) 年二月二十二日に皇后宮職大進安宿倍真人等を率い 律師道慈を講師として、三〇〇人の僧尼を請せて初めて法華経の講会を催すところとなり、七三九 ( 天平十一 ) 年四月十日に完成されたと記しています。 このような内容を記す『法隆寺東院縁起』の真偽に関しては、喜田貞吉氏が「斑鳩宮と斑鳩寺と に関する雑考」 ( 一九三一年 ) において、第一に、藤原房前は七三七年の天平九年に没していること、 第二に、阿倍内親王の立太子は天平十年であり天平七年に法華経講読を命じたとする記述と矛盾す ること、を主な理由として偽書とする見解を示しています。しかしながら、一方、近藤有宜氏は 「法隆寺東院の救世観音像安置について」三〇〇二年 ) において、第一に、安宿倍真人をめぐって は、『皇后宮職牒』に「正六位上行大進勲十二等安宿首真人」とする署名が所見され、当時皇后宮 職に実在した官人であったこと、第二に、『続日本紀』天平元年十月条に「道慈法師為 = 律師一」、ま ・ : 」とあることから、律師道慈はこの時期確かに律師の職 た、天平九年四月条に「律師道慈言、 にあったこと、第三に、『法隆寺資財帳』によれば、講会の行なわれた天平八年二月二十二日当日 244
光明皇后が法隆寺に数々の品を施人していることから『法隆寺東院縁起』の記述に信憑性を認める べきである、とする見解を提起しています。 ここで両説の是々非々を断じることはできませんが、「天平宝字五年」と奥書された「東院資財 帳』において、上宮王院への施入品の施入年月日の最も年代の遡るものは、光明皇后が太子の遺品 とされる『法華経』一巻などの一連の品々を奉納した天平九年の二月二十日であることから、いず れにせよ、七三五 ( 天平七 ) 年頃から、斑鳩宮址に上宮王院 ( 東院 ) を造営する計画が志向された と考えられます。 また、前出の近藤氏は、東院伽藍の夢殿に安置される救世観音像は、天平七年から九年にかけて 猛威を振るった天然痘退散の祈願を込めて光明皇后によって安置されたとする説を唱えられ、「要 するに上宮王院造営も法華経講会も光明皇后の強いバック・アップの下に推進されたといってよい であろう」とする見解を示していますが、おおよそ、光明皇后の支援によって東院伽藍が成立した謎 建 とする見解は、諸説においても異論はないようです。 再 寺 隆 法 建立をめぐるニつの推論 章 それでは、なにゆえに、光明皇后は、七三五 ( 天平七 ) 年から七三九 ( 天平十一 ) 年にかけて、 第 僧行信を支援し斑鳩宮址に上宮王院 ( 東院伽藍 ) を建立することを推し進めていったのでしようか。 これには二つの推論が可能です。
第一の推論は、『薬師如来像光背銘文』の「東宮聖王」が聖武天皇を意味することによって導か れます。『薬師如来像光背銘文』は、七〇六 ( 慶雲一一 l) 年から七〇七 ( 慶雲四 ) 年に発生していた文 武天皇の疾病と翌年の崩御という事件を一二〇年繰り上げて、飛鳥時代の用明元年と用明二年の両 年に投影させて作成されている可能性が極めて高いこと、そして、一時中断されていた薬師如来像 の造立は神亀四年の七二七年に、聖武天皇と光明皇后との間に生まれた幼皇太子が疾病を患ったた めに再開されたと考えられることは、第三章において述べました。 したがって、七三五 ( 天平七 ) 年から七三九 ( 天平十一 ) 年にかけて、光明皇后が法隆寺東院伽 藍を建立した理由として、ここにおいても病気の平癒が想定されており、近藤氏の説を踏まえれば、 当時流行っていた天然痘の退散を祈願して、上宮王院を建立したとする見解は成り立っ余地はあり ます。 一方、第二の推論は、疫病退散という現世利益的観点からだけではなく、その背景にまで目を向 けようとするものです。すなわち、七三五 ( 天平七 ) 年から七三九 ( 天平十一 ) 年にかけて猛威を 振るった天然痘によって、藤原不比等の四人の後継者達もまた病没したことの原因として政治的・ 心情的背景が想定されており、光明皇后は、政治的・心情的問題の解決のために、東院伽藍を建立 したとする考えです。 光明皇后は、藤原不比等の女です。藤原不比等の四人の子、房前・麻呂・武智麻呂・宇合は、そ れぞれ北家・京家・南家・式家を立て権勢を振るっていましたが、七三七 ( 天平九 ) 年の四月から むすめ 246
寺から移された可能性は、かなり高いと言えます。若草伽藍が焼失した際に失われたはずの重量が 四二二キロもある釈迦三尊像が安置されていることについて、研究史上疑問符が投げかけられてき ましたが、このように想定すれば、釈迦三尊像が金堂に安置されていることが合理的に説明される ことになります。 ここに、法隆寺再建の謎は解き明かされたことになります。和銅年間に再建された法隆寺が飛鳥 時代のおもかげを留める理由は、西院伽藍の建造物の資材やゆかりの仏像・仏具などが飛鳥時代の ものであったからなのでしよう。 東院に祭られる厩戸皇子と長屋王 一方、東院伽藍は、七二九 ( 天平元 ) 年に発生しました「長屋王の変」ののち、七三五 ( 天平七 ) 年となって、疫病の流行による房前・麻呂・武智麻呂・宇合の四兄弟を失った光明子を中心とした謎 藤原氏一門が、これを長屋王の祟りと考えて建立したと考えられます。東院伽藍の完成は七三九再 ( 天平十一 ) 年のことですが、長屋王の冤罪が明らかとなった七三八 ( 天平十 ) 年の一年後であるこ 法 とは、偶然ではないように思われます。『書紀』の「聖徳太子 ( 奈 ) 」は長屋王を想定していません 章 が、東院伽藍に祭られる「聖徳太子 ( 奈 ) 」には、鎮魂の対象として長屋王が想定されていると推六 察されます。長屋王は、明日香との地縁的つながりや蘇我氏との血縁的つながりの強い人物である と想定されますので、長屋王を、蘇我氏と系譜的につながる「聖徳太子 ( 飛 ) ーに擬するという発
八月にかけて、相次いで天然痘によって没しています。このことが光明皇后の一連の仏教政策と関 連したとする見解は、多くの研究者によってすでに指摘されているところです。すなわち、怨霊思 想が強く信じられていた時代において、房前・麻呂・武智麻呂・宇合の四兄弟は祟りによって災厄 を被ったと考えられたのです。具体的に誰の祟りであるのかと言えば、七二九年の天平元年二月に 発生した「長屋王の変」において自死された長屋王です。この事件への藤原氏の関与が疑われるも のとなっており、藤原氏が、長屋王の怨霊封じの意味を込めて仏教政策を進めたとする推論は成り 立ちます。上宮王院 ( 東院伽藍 ) の建立には天平時代の政治的状況がかかわっている可能性が指摘 されるでしよう。 そこで、第一の推論と第二の推論のいずれが正解であるのか、さらに検証を進めてみましよう。 ーー西院伽藍の聖徳太子と東院伽藍の聖徳太子 長屋王の冤罪事件 ここで着目せねばならないのは、『続日本紀』の天平十年七月条に所見される長屋王の冤罪が明 ~ らかとなった事件です。 247 第ハ章法隆寺再建の謎
法興寺の刹柱の礎の中に置く ) すなわち、推古元年の頭は、法興寺関連の記述となっています。推古年間と「法興」年間との関 連は、「法興」という用語を媒介として意識されてくることになります。 とゆら 第四に、『元興寺縁起』という史料があります。これは内容的には元興寺の縁起ではなく豊浦寺 の縁起となっているため、史料的価値については疑問が指摘されています。また、作成年に「天平 十九年二月十一日」とあることから、遅くとも天平十九年の七四七年以降、さらにもっと年代が下 がり九世紀後半以降の成立と見る見解があります。そして、この縁起の推古天皇は、『書紀』の推 古天皇がまだ生まれていない仏教伝来の戊の年の五三八年に仏教を礼「たとあり、『書紀』の推 古天皇と時代的な不整合をきたしています。『書紀』は八世紀初頭に成立しておりますので、仮に 九世紀後半以降にこの縁起が作られたのならば、縁起の推古天皇と『書紀』の推古天皇の生没年と とよみけかし が一致していないことは不可思議なことです。あるいは、天平時代において、史実として豊御食炊 きや 屋姫 ( 推古天皇 ) という人は欽明時代の人であり、一方、『書紀』の推古天皇については、『書紀』 の編纂者によって別の人物がモデルとして設定されているという認識があったのかもしれません。 また、このような認識があったからこそ、『元興寺縁起』においては、豊御食炊屋姫を欽明天皇の 時代の人として記述しているとも考えられます。 第五に、推古元年条においても「磯長陵 . が出てくることです。「秋九月。改 = 葬橘豊日天皇於河 118
代と並行していることになります。 次に、太上天皇の在位状況を見てみますと、 << 列上の推古朝は、おおよそ元明太上天皇 ( 在位七 一五—七二一年 ) と元正太上天皇 ( 在位七二四—七四八年 ) が在位されていた時代となります。第四 十一代持統天皇から第四十二代文武天皇への皇位継承をもって、生前譲位という継承法により「天 皇」の号のほかに「太上天皇」という号が発生してきます。したがって、元明太上天皇の七一五 ( 霊亀元 ) 年から七二一 ( 養老五 ) 年まで、ならびに元正太上天皇の七二四 ( 神亀元 ) 年から七四八 ( 天平二十 ) 年までは、このような「太上天皇」と「天皇」の両者の在位、すなわち「太上天皇。 天皇」という特徴が顕著に表われています。言い換えますと、推古紀の特徴となる推古女帝に対す る万機摂政の聖徳太子という二者一対の在位は、表 > ー 2 に示しましたように、七一五年から七二論 一年までの「元明太上天皇 0 元正天皇」、ならびに、七二四年から七四八年までの「元正太上天皇 0 聖武天皇」という二者一対の在位と置き換えが可能な関係にある、と一一一一口うことができます。 在 おびと 次に、皇太子位について見てみましよう。文武天皇の御子である首皇子 ( のちの聖武天皇 ) が七子 一四 ( 和銅七 ) 年に立太子し、七二四 ( 神亀元 ) 年まで皇太子位にあります。また、聖武天皇の御徳 聖 子の阿倍内親王が七三八 ( 天平十 ) 年に立太子し、七四八 ( 天平二十 ) 年まで皇太子位にあります。 章 これらの期間においては、今度は、「天皇」と「皇太子」という二者一対の在位、すなわち、「天皇五 。皇太子ーの関係が見てとれます。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 番号 表 V ー 4 推古紀に所見される「皇太子」 内容 皇太子 ( 1 ) および大臣に詔して、三宝を興しめた。この時、 諸臣、連らは君親の恩のため、競って仏舎を造った。すな わち、これを寺という。 高句麗僧恵慈が帰化した。即、皇太子 ( 2 ) の師とされた。 皇太子 ( 3 ) は、初めて宮を斑鳩に興した。 来目皇子が筑紫にて薨じた。すぐに駅使をもって奏上した。 こに、天皇これを聞いて大いに驚かれた。即、皇太子 ( 4 ) と蘇我大臣を召した。 皇太子 ( 5 ) が諸大夫に言われるには、「わたくしは尊仏像 を所有していますが、この像を得たいと思う人は誰かおら ぬか」と。恭しく拝んでいると、秦河勝が進み出て日く。 「臣がこれを拝みましよう」と。仏像を受け、これに因ん で蜂岡寺を造った。 この月、皇太子 ( 6 ) は天皇に請うて、大楯および靭を作っ た。靭は由岐 ( ゆき ) と云う。また、旗幡に絵を描いた。 皇太子 ( 7 ) は、みずから初めて憲法十七条を作った。 天皇は、皇太子 ( 8 ) 、大臣、および諸王、諸臣に詔して、 ともに誓願を発した。もって、初めて金銅製の丈六の仏像 一躰ずつを作った。 皇太子 ( 9 ) は、諸王、諸臣に命じて、重ねの衣を着用させ た。 皇太子 ( 10 ) は、斑鳩宮に居した。 天皇は、皇太子 ( (I) に請い、勝鬘経を講義するよう命じら れた。三日間これを説いた。 是歳。皇太子 ( 12 ) はまた岡本宮で法華経を講義した。天皇 はこれを喜ばれた。 播磨国の水田百町を皇太子 ( 13 ) に施人した。これに因んで 斑鳩寺に納めた。 皇太子 ( 14 ) は、および大臣は百寮を率い、祭祀をもって神 祇を拝まれた。 皇太子 ( 15 ) は、片岡に遊行された。時に、飢者が道端に臥 せっていた。 皇太子 ( 16 ) は、これを見て、飲食を与えられた。 皇太子 ( 17 ) は、使人を遣わして飢者の様子を見させられた。 使者は帰ってくると言った。「飢者はすでに亡くなってお ります」と。 こに皇太子 ( 18 ) はこれを大いに悲しまれた。すぐにその 場所に埋葬され、墓を固く封印された。 数日後、皇太子 ( 19 ) は、近習の者を召して言われた。 皇太子 ( 20 ) は、また、使者を返してその衣を取らせ、いっ ものように御召になった。時に人々は大いにおどろいて言 った。「聖が聖を知るとは本当のことだ」と。 この年、皇太子 ( 21 ) は、嶋大臣とともに、「天皇記」「国 記」の臣連伴造国造百八十部拜公民等本を録すことを議さ れた。 A 列 : 715 ( 霊亀元 ) 年 推古三年五月条 A 列 : 714 ( 和銅 7 ) 年 推古二年二月条 条 推古十五年二月条 A 列 : 726 ( 神亀 3 ) 年 推古十四年七月条 A 列 : 726 ( 神亀 3 ) 年 推古十四年七月条 A 列 : 726 ( 神亀 3 ) 年 推古十四年七月条 A 列 : 725 ( 神亀 2 ) 年 推古十三年十月条 A 列 : 725 ( 神亀 2 ) 年 推古十三年閏七月条 A 列 : 725 ( 神亀 2 ) 年 推古十三年四月条 A 列 : 724 ( 神亀元 ) 年 推古十二年四月条 A 列 : 723 ( 養老 7 ) 年 推古十一年十一月条 A 列 : 723 ( 養老 7 ) 年 推古十一年十一月条 A 列 : 723 ( 養老 7 ) 年 推古十一年二月条 A 列 : 721 ( 養老 5 ) 年 推古九年二月条 A 列 : 740 ( 天平 12 ) 年 推古二十八年十二月条 A 列 : 733 ( 天平 5 ) 年 推古二十一年十二月条 A 列 : 733 ( 天平 5 ) 年 推古二十一年十二月条 A 列 : 733 ( 天平 5 ) 年 推古二十一年十二月条 A 列 : 733 ( 天平 5 ) 年 推古二十一年十二月条 A 列 : 733 ( 天平 5 ) 年 推古二十一年十二月条 A 列 : 733 ( 天平 5 ) 年 推古二十一年十二月条 A 列 : 727 ( 神亀 4 ) 年 2 丐第五章聖徳太子実在・非実在論
王邸跡〕左京二条二坊・三条二坊発掘調査報告、本文編』 ( 一九九六年 ) において、長屋王邸宅跡の 二条大路上の濠状遺構出土の木簡の年紀の大半が七三五年の天平七年ないし八年で、南の五一 〇〇地点においては、天平十一年まで年代が下がるものが含まれており、「皇后宮」と記す木簡の 存在から、天平元年の七二九年に長屋王が滅亡したのちに、光明皇后が旧長屋王宅を接収して皇后 宮として使用したのではないか、とする説が提起されていることに、看取されるかもしれません。 第七に、第三章において考察しましたように、七二七 ( 神亀四 ) 年頃に作製されたと推察される 『薬師如来像光背銘文』の「東宮聖王」が聖武天皇に比肩されることも支証となります。「長屋王の 変」が発生する三年前に、聖徳太子ゆかりの法隆寺西院には、用明天皇、文武天皇、そして聖武天 皇と光明皇后との間に出生した幼皇太子の三人のための銘文が刻まれた薬師如来像が安置されてお り、聖徳太子と山背大兄王との関連の深い法隆寺は、聖武天皇と光明皇后の厚い信仰を受けていた 可能性が指摘されるのです。 以上、一—七点までの聖武天皇・藤原氏ラインとの間に対抗関係が認められる長屋王をめぐる状 況を踏まえれば、推古紀において蘇我氏に投影される勢力を奈良時代の人物に求めるのならば、こ れは、系譜上においても、また権勢においても、蘇我氏に匹敵していたと考えられる長屋王である 可能性が極めて高いと判断されるでしよう。 そして、逆説的には、仮に、『書紀』において奈良時代の政治的状況が推古紀に投影されている のであるのならば、間違いなく、『書紀』の「聖徳太子 ( 奈 ) 、に首皇子 ( 聖武天皇 ) の姿が重ねら 242