草伽藍 ) が建立された時期よりも年代的にさらに遡ってしまうことになります。法隆寺再建・非再 建論争は、再び振り出しに戻ったかたちとなったと言えるでしよう。 現存法隆寺は、飛鳥時代に建立されたのでしようか。それとも、奈良時代に建立されたのでしょ うか。法隆寺再建・非再建論争を含めて、法隆寺は現存する世界最古の木造建築として高い評価を 受けながらも、考究せねばならない多くの課題を抱えています。 書紀紀年法からのアプローチ 本書では、『日本書紀』の編年が多列構造にあることを論証した拙著『日本書紀の真実ーー・紀年 論を解く』 ( 講談社選書メチェ、二〇〇三年 ) において提起しました『日本書紀』の編年とは干支二 うん 運の一二〇年ズレるもう一本の「年代列」 ( これを「 << 列、と呼んでいます ) の存在をアプローチと して、飛鳥時代と奈良時代とが、相関関係にあることを解いてまいります。 すなわち、『日本書紀』の編年とは一二〇年ズレるもう一本の「年代列 ( 列 ) 」上においては、 飛鳥時代を扱う推古紀 ( 西暦五九三—六二八年 ) は、一二〇年後の八世紀前半、奈良時代の和銅六 グ ( 七一一一 l) 年から天平二十 ( 七四八 ) 年にも重なってくる結果となっています。言い換えますと、 『日本書紀』推古紀に収められている記述のなかには、ある程度奈良時代に起こった出来事が反映ロ プ されている可能性が指摘されるのです。 『日本書紀』の編年の構造において飛鳥時代と奈良時代とが重なってくることと、現存法隆寺の かんしに
紀』の編年において列が設定されていることを説明する有力な理由となるでしよう。すなわち、 奈良時代の出来事を飛鳥時代と関連づけて伝承させることを目的として、『書紀』において列は 設定されたと考えられるのです。 また、『書紀』の推古天皇と聖徳太子との叔母と甥という系譜的関係は、飛鳥時代の斎宮酢香手 姫皇女Ⅱ穴穂部間人皇女と「聖徳太子 ( 飛 ) 」Ⅱ厩戸皇子との親子関係ではなく、奈良時代の元正 太上天皇と「聖徳太子 ( 奈 ) 」Ⅱ聖武天皇との伯母と甥の関係にもとづいて記述されていると推論 することができます。 さらに、「推古朝遺文、をめぐっては、『釈迦三尊像光背銘文』は飛鳥時代、『薬師如来像光背銘 文』と『天寿国繍帳』とは、いずれも奈良時代に作られたと考えられます。また、『薬師如来像光 背銘文』と『天寿国繍帳』は奈良時代に作られながらも、両銘文の間にはスタンスの相違があり、 このようなスタンスの相違には、なんらかの理由があるようです。 さて、いよいよ次章においては、プロローグでも紹介いたしました法隆寺再建問題を検証し、 『書紀』は、なぜ聖武天皇を「聖徳太子 ( 奈 ) 、に擬したのか、そして、「聖徳太子 ( 奈 ) 」は、果た して聖武天皇だけであるのか、残された謎を探究してゆくことにしましよう。 220
時代の末期における藤原鎌足の存在は、子の不比等の存在に重なります。藤原不比等は「聖徳太子 ( 奈 )- に擬されている聖武天皇の外祖父となります。すなわち、蘇我氏だけではなく、その対抗勢 力であった藤原氏の存在も飛鳥時代と奈良時代とは連動していると言えます。 奈良時代に蘇我氏に比肩されうる勢力はあったか このような藤原氏と聖徳太子との関連をめぐって、飛鳥時代においては、聖徳太子や藤原氏に対 抗する勢力として蘇我蝦夷・入鹿親子という人物の実在を想定しうるのですが、それでは、奈良時 代においてはど一つでしょ一つか。 ここにおいて、先述しましたように、元明天皇の母が宗我姫であることは着目されます。元明天 皇の母の宗我姫の父の蘇我山田石川磨呂は、六四九 ( 大化五 ) 年に、中大兄皇子によって謀叛の疑 ほうし あかこま いをかけられ興志・法師・赤狛の三男一女とともに自死した蘇我倉山田石川麻呂と同一人物である ことは、天智七年条に「次有 = 遠智娘弟「日 = 姪娘→生三御名部皇女与 = 阿倍皇女阿倍皇女及」有 = 天 めいのいらつめ 下一居 = 于藤原宮後移二都于乃楽「 ( 次に遠智娘には妹があり、姪娘という。御名部皇女と阿倍皇女を 生む。阿倍皇女は藤原宮にて天下にのぞみ、のちに奈良に遷都された ) 」と所見されることによって確 認されます。遠智姫は蘇我倉山田石川麻呂の女であり、阿倍 ( 閇 ) 皇女は元明天皇のことですので、 遠智姫の妹の姪娘は「宗我姫」と同一人物であるということとなります。したがって、持統天皇の 外祖父の蘇我倉山田石川麻呂は大化五年の六四九年には滅亡しており、奈良時代において権勢を振 みなべ 238
けられます。 さらに、『薬師如来像光背銘文』と『天寿国繍帳』との間には、同じく奈良時代に作製されなが らも、多少のスタンスの違いが認識されます。前者は、奈良時代において実際に発生した出来事を 飛鳥時代の人物に擬して作られているのですが、一方、後者は、『天寿国繍帳』が作製された天平 十四年において聖武天皇が在世中であることによって示されますように、実際に起こったことを記 しているわけではありません。後者の文章は、あたかも、推古朝に関係のあった人物によって飛鳥 時代を追想して作られているかのようです。これは、『天寿国繍帳』の「太子 , の薨年薨日が、奈 良時代に成立した『日本書紀』ではなく、飛鳥時代に作られたと想定される『釈迦三尊像光背銘 文』と一致していることによっても示唆されます。 言い換えますと、前者は、 << 列上の出来事のために列上の年代を利用し、後者は、列上の出 来事のために列上の年代を利用していることになります。このように << 列と列が、双方性をも っていることは着目されます。 << 列と列の双方性は、飛鳥時代と奈良時代を結ぶミッシングリン クを解く鍵となるかもしれません。 それでは、橘夫人は、 ) しったい誰を追想して、そしてなにを目的として『天寿国繍帳』を作った のでしようか。この設問につきましては次章で扱いますが、『天寿国繍帳』の背景にはまだ謎があ ると一一一一口えるでしよう。 2 18
日本書紀紀年法と聖徳太子をめぐる議論との間に奇妙な符合点があることに気付いたのは、書紀 紀年法の具体的構造を解明するための試行錯誤を繰り返していた時のことでした。この符合点とは、 書紀紀年法におきましても、また、聖徳太子問題におきましても、飛鳥時代と奈良時代の間の同じ ような年の開き、すなわち一二〇年という年数が問題視されているということです。 並列構造にある日本書紀紀年法におきましては、本書において扱いましたように、実年代との対 照関係において一二〇年ズレるもう一本の「年代列、が内在しております。便宜上 < 列と名付けま したこの「年代列」上におきましては、推古紀は奈良時代の和銅、天平年間に相当してきます。 一方、昨今、聖徳太子をめぐっては、「聖徳太子実在・非実在論争」が活発に展開されるように なっておりました。聖徳太子は飛鳥時代に実在したのか、もしくは、およそ一二〇年後の奈良時代 に『日本書紀』によって作られた机上の存在であるのか、といった点が「聖徳太子実在・非実在論き 争」におきまして、主要な論争点となっていたのです。 あ そこで、私は、日本書紀紀年法の問題と聖徳太子の問題という二つの問題は、一二〇年という数 字を媒介として関連があるのではないか、と考えるに至りました。
れていると言えます。このような推古紀や舒明紀への加筆は、「長屋王の変」が「乙巳の変」と同 様の意味をもっということを示すことにあったとする推論は成り立っ余地があります。『書紀』は、 奈良時代の聖武天皇と長屋王との対抗関係を、推古紀や舒明紀の記述内容に投影させていると考え られるのです。 4 ーー東院伽藍の造営ー光明子と法隆寺東院 「法隆寺東院縁起」 前節までの考察をとおして、『書紀』の聖徳太子をめぐっては、奈良時代の政治的状況の反映と して聖武天皇の事績を飛鳥時代に投影させるため、「聖徳太子 ( 奈 ) 」が考案され、『書紀』の推古謎 建 紀や舒明紀の編年や記述内容に多少の加筆や改編がほどこされている可能性を明らかにしてまいり 再 寺 ました。 隆 法 それでは、「聖徳太子 ( 奈 ) 」には、『書紀』や『薬師如来像光背銘文』に対する考証結果に示さ 章 れるように、本当に聖武天皇のみが投影されているのでしようか。ここで法隆寺東院伽藍の建立の六 経緯を見てみましよう。法隆寺の東院伽藍は、西院伽藍とは異なり奈良時代の創建であることがは つきりしています。
てはいないように思われます。すなわち、仮に、『書紀』の編纂者が、聖徳太子を創作していたと しましても、なぜに、藤原武智麻呂、光明皇后そして僧都行信が、長屋王の祟り封じと鎮魂のため に聖徳太子を持ち出してこなければならなかったのか、の説明が論理的に曖昧なのです。すなわち、 なぜ、長屋王の鎮魂のために一二〇年も前に存在していた聖徳太子が必要であるのか ? という点 に問題点は帰結してくることとなるのです。 そして、まさにこの点が、本書と関連してくるところです。 聖徳太子をめぐる < 列と列 第三章においては、『薬師如来像光背銘文』の登場人物は、文武天皇や聖武天皇など奈良時代の 人物に擬せられている可能性があることを論じました。「東宮聖王 , が聖武天皇を指しているよう に、 < 列と列を媒介として、『書紀』の聖徳太子もまた架空ではなく、奈良時代の人物をもモデ ルとして作られているのかもしれません。 そこで、「聖徳太子」の没後一二〇年を経た天平時代に、意図的に聖徳太子に政治的思惑が託さ れたことには、『書紀』の編年における < 列と列の問題が介在していた可能性を、ここにおいて 指摘したいと思います。すなわち、奈良時代に再び聖徳太子の存在が取りざたされるまでに、飛鳥 時代からおおよそ一二〇年を経ており、一方、列と列との間の年代的ズレも一二〇年となって いるのです。 186
えみし そもそも、蘇我氏をめぐっては、蘇我蝦夷と入鹿とが大極殿にて誅された皇極四年の六四五年の 「乙巳の変」によって宗家滅亡とともに滅せられた氏族とする印象を受けます。しかしながら、持 むすめおち 統天皇の母もまた、蘇我倉山田石川麻呂の女の遠智姫であり、蘇我氏との系譜的関連は、奈良時代 初頭に再び強いものとなっていたと言えます。天皇と蘇我氏との系譜的つながりは、おおよそ飛鳥 時代と奈良時代の初期に限定されています。すなわち、列上において推古紀となる時代は、飛鳥 時代と同様に、蘇我氏との系譜的関連が表出する時代であったと考えられうることになるのです。 換言しますと、六四五年の「乙巳の変」から六八九年の持統天皇の登場までの孝徳・斉明・天智・ ま′、ま、つ 天武の「鳳時代」と呼称される時代を挟んで、飛鳥時代と奈良時代とは、蘇我氏を媒介として連 動性を有していることになります。 また、二の『書紀』においては推古天皇の同母兄の橘豊日尊が用明天皇として即位したと記され てあり、一方、元正天皇の同母兄の軽皇子は文武天皇として即位している点ですが、推古天皇は、 酢香手姫皇女Ⅱ穴穂部間人皇女をモデルとしているため、実際には用明天皇は推古天皇の同母兄で再 はなかったと考えられますが、『書紀』において、このような系譜的位置づけがなされたことが隆 『薬師如来像光背銘文』において文武天皇が用明天皇に擬せられ、元正天皇が推古天皇に擬せられ ている理由であるとも考えられます。さらに、三の「豊」の文字の問題ですが、詳しくはわかりま六 せんが、なんらかの意味はあるのではないかと考えられます。
戸皇子と奈良時代の聖武天皇の両名、そして、東院伽藍が飛鳥時代の厩戸皇子と奈良時代の長屋王 の両名を祭っていることになるのではないでしようか。 法隆寺西院伽藍の金堂には、釈迦三尊像と薬師如来像が安置されています。釈迦三尊像は『釈迦 三尊像光背銘文』によって、飛鳥時代の「聖徳太子 ( 飛 ) Ⅱ厩戸皇子Ⅱ多利思比孤 ( 太子日子 ) ーを 祭っていることがわかります。また、薬師如来像は『薬師如来像光背銘文』によって、聖武天皇を 「聖徳太子 ( 奈 ) 」として祭っていることになります。すなわち、銘文が刻まれた釈迦三尊像と薬師 如来像の両仏像が金堂に安置されていることに象徴されますように、飛鳥時代の厩戸皇子と奈良時 代の聖武天皇が西院伽藍には祭られていることとなるのです。 そして、法隆寺西院伽藍は、聖武天皇・藤原氏のラインによって、仏のご加護や延命長寿などを 願って再建されたと考えられます。西院伽藍の再建の時期としましては、七世紀末から八世紀初頭 にかけて造営が進められ和銅年間に完成したのではないかと考えられます。また、法隆寺西院伽藍 の落成について『続日本紀』において記載がない理由として、法隆寺が完成されたと考えられる和 銅年間が、蘇我氏系の元明天皇と長屋王の全盛時代であったからであるという理由は成り立つので はないでしようか。また、先述しましたように、『続日本紀』の編纂方針が、長屋王に同情的であ ったことにも関連があるのかもしれません。 法隆寺西院伽藍の再建事業は、聖武天皇 ( 当時は首皇子 ) ・藤原氏のラインによって、いわば、ほ そばそと進められていたのでしよう。 2 ラ 0
列と列とが存在している事実を踏まえれば、成り立っ余地はあるかと思われます。 「太上天皇」 0 「天皇」と「天皇」。「皇太子」 第三に、三の男王の多利思比孤と女帝の推古天皇との矛盾の問題ですが、この問題については、 これまで飛鳥時代の作と考えられてきた法隆寺金堂の『薬師如来像光背銘文』が、奈良時代の作で あることをアプローチとして整理してみたいと思います。『薬師如来像光背銘文』に登場する「大 王天皇」や「東宮聖王」などの人物は、飛鳥時代の物に擬れながらも、大王天は奈良、 代の一、上天を意味し、「東宮聖王」は聖武天皇意味しています。このような推古天皇Ⅱ元 子 正太上天皇、聖徳太子Ⅱ聖武天皇という対称関係は、興味深い推論を可能とさせます。 太 すなわち『隋書倭伝』による倭王多利思比孤は「東宮聖王」の立場に相当し、一方、推古天皇、 もしくは推古天皇のモデルとなった人物は、「大王天皇 , の立場の人物に相当すると整理すること 孤 比 ができるからです。したがって、奈良時代の令制用語としての「太上天皇」と「天皇」の関係は、 『書紀』の推古紀においては、漢字表記の号として、「天皇」と「皇太子」の関係に置き換えが可能 多 であると言えるかもしれません。このような一対の関係を整理しますと、以下のような等式が成り 章 四 立ちます。 第 大王天皇。東宮聖王〔『薬師如来像光背銘文』〕