内磯長陵「 ( 秋九月。橘豊日天皇を磯長陵に改葬する ) 」と見え、敏達天皇と同様に殯から六年の後に、 用明天皇もまた磯長陵に改葬されています。そして、『古事記』におきましても、用明天皇の段に しなが おいて「御陵在 = 石寸掖上一、後遷 = 科長中陵一也。」と所見され、用明天皇は磯長陵 ( 科長中陵 ) に 改葬されたと記されてあります。『古事記』の用明天皇の段に所見される磯長陵への改葬の年は、 『書紀』においては「推古元年」に位置づけられていますので、『古事記』は、用明天皇の磯長陵へ像 の改葬の年代を「推古元年ーの五九三年と捉えていたと考えられます。 さらに『古事記』の推古天皇の段の末文においても、「御陵在 = 大野崗上一後遷 = 科長大陵一也。」 と所見され、推古天皇もまた磯長陵に改葬されています。用明天皇が「中陵」、推古天皇が「大陵」説 造 という相違はありますが、『古事記』は、用明天皇と推古天皇の両者を「磯長陵 ( 科長陵 ) 」に改葬偽 したと記していることになります。したがって、『古事記』は、推古天皇の改葬の年代を推古末年 の「推古三十六年」の六二八年と捉えていたと考えられます。 『書紀』において改葬されたと記される天皇は、先述したように敏達天皇と用明天皇の二帝であ味 り、推古天皇については改葬されたとする記述はありません。一方、『古事記』においては、『古事師 記』の扱う三三代の歴代天皇において、改葬されたと記されるのは、用明天皇と推古天皇の二帝の みです。前節において、『書紀』の記述を踏まえた「磯長陵ーに挟まれた期間が「法興」年間であ三 ると述べました。一方、『古事記』の記述を踏まえた「磯長陵」に挟まれた期間が推古年間であり、 法興年間と同様に「磯長陵」という陵名によって挟まれた期間であると言えます。推古天皇が酢香
行なったとする部分です。そして、傍線②の直前の文章が、傍線①の「詔曰。云々。 ( 詔して曰く。 みことのり うんぬん ) ーとする不可解な文章となっています。詔の内容につきましては、もととなった原史料 においては記してあったと想定される当該部分を、『書紀』の編纂の際には削除してあるために、 うかがい知ることはできません。しかしながら、仮に、『書紀』の編纂者が本当に当該部分を削除 したかったのならば、「詔日。云々。」という文言をも残さなかったのではないでしようか。むしろ、 「詔曰。云々。」という文言によって、用明天皇と酢香手姫皇女をめぐって記すことのできない事情 こそが、用明天皇の即位に大きく影響していたということを伝えようとしていたと考えられます。 すなわち、用明天皇の即位は、酢香手姫皇女が斎宮位に就くことが条件とされていたと推察される ことになるのでしよう。用明天皇の即位は、このような状況下において成り立っていたと一言うこと ができるかもしれません。 皇后に冊立された斎宮 それでは、用明天皇の即位には、なぜに酢香手姫皇女が斎宮位に就くことが条件とされたのでし ようか。これは、酢香手姫皇女Ⅱ穴穂部間人皇女という等式を踏まえますと、なぜに、斎宮を皇后 に冊立しなければならなかったのか、という設問に置き換えることもできます。 ここで着目しなければならない点は、用明即位前紀に記される「天皇信 = 仏法一尊 = 神道一。 ( 天皇 は仏法を信じ、神道を尊んだ ) 」という一文です。仏教伝来は欽明朝にありましたが、欽明天皇自ら 162
一致するものはありません。言い換えますと、固有名詞の使用を避けた文章となっていると言うこ とができます。ただし、宮名に関しましては、傍線④の「池辺大宮」は、『書紀』に云う用明天皇 いけべなみつき ( 在位五八六—五八七年 ) の「池辺双槻宮」、傍線⑧の「小治田大宮ーは、『書紀』に云う推古天皇の おはりだ 「小墾田宮」のことであると考えられます。したがって、二重傍線①の「丙午」の年の五八六年に 在位されていた天皇は、『書紀』の編年上は用明天皇であることから、傍線①の「天皇」を用明天 皇として解釈すれば、傍線②と傍線④の「大王天皇」は推古天皇、傍線③の「太子」と傍線⑤の 「東宮聖王」は、聖徳太子に比肩させることは可能とよります。 すなわち、『薬師如来像光背銘文』をめぐっては『書紀巻二十一用明紀の内容を踏まえますと、 五八六年に推古天皇と聖徳太子が用明天皇の病気の平癒を祈願して薬師如来像を作ろうとしたとこ ろ、用明天皇が崩御されてしまったために中断することとなり、六〇七 ( 推古十五 ) 年となって、 推古天皇と聖徳太子が当該仏像を完成させたという解釈がもたらされることになります。したがっ て、五八五年に即位されながらも、五八七年四月に病 ( 用明紀は「瘡」と記しておりますので、天然 痘と考えられます ) にて急逝されたと記す用明紀の用明天皇をめぐる状況と、『薬師如来像光背銘 文』との整合性は、罹病の時期については一年のズレはあるものの、保たれているかのごとき印象 を受けます ( 『書紀』における用明天皇の紀年は、用明元年の五八六年と用明二年の五八七年のみです ) 。 今日でも、『薬師如来像光背銘文』を飛鳥時代の作と見る研究者の多くは、この解釈によっていま す。
図ー 4 六世紀から七世紀にかけての天皇位をめぐる略系図 継体天皇① 手白香皇女 目子媛 安閑天皇②宣化天皇③ 石姫皇女 小姉命 欽明天皇④ 堅塩媛 皇 6 ーー用明天皇の即位 峻⑥女す 崇皇皇ま 姫り 天手あ 明香て 用酢し 飛鳥時代の皇位継承 愛 割 以上述べてきましたように、『新唐書』や『宋史』に所引さ ⑧ 皇 れる「王年代記」においては、多利思比孤が用明天皇の子であ 天 あ 古 推 ることが特に強調されて記述されていると言うことができます。 承み カ 継の 子 た物そこで、本節では用明天皇について考えてみましよう。 え人 数る らす 欽明天皇以降、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇と か連 皇関 天と 四代続いてすべて欽明天皇の皇子・皇女であり、敏達天皇以降、 体論 継本 皇位は兄弟相承において継がれています。研究史上においては、比 代 思 + 親子による継承が困難な政治的状況があったとする見解が通説 多 第人 とされていますが、当時、親子継承と兄弟相承のどちらが正統 はれ 章 字さ 数記的継承法と考えられてきたものであるのかは、依然として明ら四 ⑧図 9. かにされているわけではありません。 ①本 以下、『書紀』にもとづく継体天皇から推古天皇までの継承 敏達天皇⑤
「欽明之十一年直梁承聖元年次敏達次用明亦曰目多利思比孤直隋開皇末始与中国通 次崇峻崇峻死欽明之孫女雄古立 : : : 」 ( 欽明十一年、梁の承聖元〈五五一一〉年にあたる。次、敏達、 次、用明、また日く、目多利思比孤。隋の開皇末に、始めて中国と通交す。次崇峻崇峻死して欽明の 孫女雄古立 : : : ) 傍線④の「次、用明、また曰く、目多利思比孤。隋の開皇末に、始めて中国と通交す。 ( ただし、 『隋書倭伝』と『新唐書』との間には、前者が多利思比孤であるのに対し、後者は目多利思比孤であり、目 の文字を含んでいるという違いがあります ) ーの一文によって、多利思比孤は用明天皇と関連した人物 であることがわかります。すなわち、多利思比孤が使を遣わした六〇〇年は推古天皇の時代ですの子 徳 で、多利思比孤についての記述は、順序として「 : : : 雄古立 ( 『新唐書』は「推」の文字を「雄」と 聖 作っています ) 」の直後にくるべきであると考えられます。しかしながら、あえて「 : : 次用明」に 続けて多利思比孤についての記述を載せていることによって、多利思比孤が用明天皇に関連した人此 物であることが強調されていることがわかります。 多 また、『宋史』においては、「文章ーと仮に呼称する以下の一文が所見されます。 章 四 第 ( 文章 ) 按隋開皇二十年倭王姓阿毎名自多利思比孤遣使致書。 ( 案ずるに、隋の開皇二十年
表Ⅲー 1 A 列と B 列上における「丙午」の年 薬師如来像光背銘文 ( B 列 ) 586 年 ( 内午 ) 用明天皇罹病 ( 書紀 : 用明天皇即位 ) 587 年 用明天皇崩御 記しておりません。しかしながら、おそらくは、七〇六年より流行っていた 病御 罹崩 皇皇疫病が原因であったのではないかと考えられるでしよう。『薬師如来像光背 天天 列武武銘文』に記される疾病を患い、翌年に崩御されるという状況は、『書紀』の い文文 用明天皇よりも文武天皇をめぐる状況と合致していることになります。用明 本 日的 天皇は五八六年、そして文武天皇は七〇六毓し、、・・・・ ' 口一 0 年を隔てて、両天皇 続内 年年 は疫病を患い崩御されるというまったく同じ状況を辿っていることになりま す。 年 すなわち、『薬師如来像光背銘文』に記される『書紀』用明紀を踏まえた ← 出来事 (= 列 ) と、『続日本紀』に記される一二〇年後の出来事 (< 列 ) とを 対比させますと、表Ⅲー 1 のように、相関関係が成り立っていると言えます。 したがって、『薬師如来像光背銘文』は、七〇六 ( 慶雲一一 l) 年から七〇七 ( 慶雲四 ) 年にかけて発生していた出来事を一二〇年繰り上げて、飛鳥時代 の五八六 ( 用明元 ) 年と五八七 ( 用明一 l) 年の両年に投影させて作成されて る傍線①の「天皇」とは、飛鳥時代の用明天皇をモデルとしながらも、実際 には奈良時代の文武天皇を想定して刻まれていると考えられるのです。 → 0
一、仮に、斎宮酢香手姫皇女と穴穂部間人皇女が同一人物であ「た場合、酢香手姫皇女は獅明飫、 . 皇の皇女、穴穂部間人皇女は . 明茨の型女ですので、系譜的に一致していません。しかしな がら、『書紀』『記』『聖徳太子平氏伝雑勘文』下三に所引される『上宮記』の逸文などの聖徳 太子関連系譜の間において、いくつかの系譜的混乱や妃、皇子、皇女の名の出入りがあること は注目されます。その最たる例は、『古事記』欽明天皇の段に欽明天皇の妃に「宗賀之稲目宿 きたしひめ きたし 禰大臣之女、岐多斯比売 ( 稲目大臣の女の堅塩姫 ) 」の名が見え、一方、用明天皇の段にも用明 きたしひめ 天皇の妃の名に「稲目宿禰大臣之女、意富芸多志比売 ( 稲目大臣の女の堅塩姫 ) 」の名が見える ことです。『古事記』は用明天皇と欽明天皇とを混同していることになります。『書紀』『記』 編纂期に近い時代に関する記述において、このような齟齬が見られることは不可思議なことで すので、酢香手姫皇女穴穂部間皇が同・→ ' 人物でお・を一〕・・しを於引ため、『古事記』はあえ て用明天当し欽町天皇を混同しているのではないか、とも考えられます。 二、『書紀』の用明元年条の頭は、「立 = 穴穂部間人皇女一為 = 皇后→ ( 穴穂部間人皇女を立てて、皇后 となした ) 」という一文となっております。この一文は、用明即位前紀における酢香手姫皇女 が斎宮位に就いたことを記す文の直後に続いています。すなわち、用明天皇の即位に際して、 酢香手姫皇女が斎宮位に、穴穂部間人皇女が皇后位に就いたこととなり、両者が同一人物であ った可能性はあながち否定することはできません。 てんじゅこくまんだらしゅうちょう 三、『天寿国曼荼羅繍帳』には、「多至波奈等已比乃弥己等、娶庶妹名孔部間人公主為大后。坐漬 1 1 2
用明天皇有子日聖徳太子年三歳聞十人語同時解之七歳悟仏法于菩薩寺講聖鬘経天雨曼陀羅 華当此土隋開皇中遣使泛海至中国求法華経 ( 用明天皇には子があり聖徳太子と ) っこ。 しオ三歳にして一度に十人の言葉を聞き理解した。七歳に して菩薩寺にて仏法を悟り、聖鬘経天雨曼陀羅華を講じた。まさにこれ隋の開皇年間に海をわたり使 を遣わして、中国に法華経を求めしめた ) 文章は、用明天皇に聖徳太子という名の子があり、開皇年間中に使を遣わしたと記しています。 しかしながら、「多利思比孤」という名はでてまいりません。 子 太 徳 多利思比孤は用明天皇の皇子 聖 そして、先に記した文章 < を見てみますと ( 『宋史』では、文章↓文章 < の順となっています ) 、 文章 < の「案ずるに、隋の開皇二十年に倭王があり、姓は阿毎、名は自多利思比孤と云った。使を此 ちょうねん 遣わし書を致した」の文章は、「 : : 皆奝然の記すところをいう」という「王年代記」からの引用 多 文とそれ以外の文章との区切りを示す文言の直後にでてくる文章ですので、『宋史』の編纂者が別 章 の史料を参照して作った一文と考えられます。したがって、文章は、「王年代記」の文章を補四 足しているとも言えます。 そこで、「王年代記」の文章をさらに詳しく見てみますと、傍線⑤に「用明天皇には子があり
発想をめぐる三つの推論 なお、なぜに奈良時代において飛鳥時代の人物に擬して仏像に銘文を刻むという発想が生じたの か、という疑問が残るかと思いますが、この疑問に対しては三つの方向からの推論が可能です。 いたため、七二七 一、用明天皇と文武天皇の疾病と崩御の況い一 ) 一一一一一〕を隔・て・て・・一・・致・で、・ - ーー 年の幼皇太子の罹病に際して、中断されていた薬師如来像の作製を再開して、飛鳥時代の人物 に擬した銘文を刻んで病気平癒を祈願するという発想が生じた。 二〇 ( 養老四 ) に されていた『日本紀』 ( 『日本書紀』 ) の編年において、列と列 という一二〇年ズレる「年代列ーが内包されているという事実が、当時はよく知られており、 用明天皇と文武天皇をめぐる状況が偶然に近似していたため、奈良時代に起こった出来事を 列上の出来事に擬すという発想が生じた。 三、用明天皇と文武天皇の疾病と崩御をめぐる状況は偶然の一致ではなく、『書紀』は、そもそ も << 列と列を用いて、飛鳥時代の用明天皇に、文武天皇の人物像を重ねて編纂しており、 『薬師如来像光背銘文』は、このような『書紀』の編年の仕組みを踏まえて作製された。 本書では、これらの三つの推論のうち、いずれに妥当性と蓋然性を認めるべきか、確言すること
は斎宮酢香手姫皇女をめぐるなんらかの事績が記されていたのですが、これを削らざるをえない事 造 情が介在していることを示唆するため、であったと考えられます。①の想定、および⑦の想定のい偽 ずれでも、巻二十二の推古紀は、本来、斎宮酢香手姫皇女についての記事を扱っていたにもかかわ対 らず、これを削除せねばならない理由が存在し、の理由こ、酢香手姫皇女と推古天皇が同一人背 物でみ。り、推古天皇が酢香手姫皇女をモデルとしていることを示す内容であった可能性が指摘され像 第二に、海外史料との比較においても、『書紀』との系譜的混乱が認められます。『新唐書』は、 むすめ 推古天皇を欽明天皇の孫と記し、『宋史』に引く「王年代記」は、欽明天皇の女と記しています。説 造 『書紀』において推古天皇は欽明天皇の皇女ですが、一方、酢香手姫皇女は欽明天皇の子の用明天偽 皇の皇女ですので、、明天皇のとなります。このような系譜的混乱は、推古天皇Ⅱ酢香手姫皇女銘 という等式が成り立っ可能性を示しています。 推古年間と法興年間 第三に、推古元年条の頭の記事が着目されます。推古元年条は、以下の一文を頭としてはじまり ます。 元年春正月壬寅朔丙辰。以 = 仏舎利一置 = 于法興寺刹柱礎中「 ( 元年春正月壬寅朔丙辰。仏舎利を