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検索対象: 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代
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1. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

た『記紀』」 ( 一九九〇年 ) において、一三二〇年説と一二六〇年説をめぐって、「いずれを取るか近 年多くの論争があるが、一元が六十年 ( 干支の配当の一巡 ) 「七元に三変あり、三七相乗じ、二十一 元を一蔀となす。」と鄭玄も注しており、一蔀は一二六〇年となるので、推古朝の辛酉を基点とし た方が自然な見解であろう」と述べています。今日では、推古九年説が定説とされていると言える でしよう。 このように、書紀紀年法には、一蔀ならびに辛酉革命の観念が貫かれていますので、讖緯暦運説 は、書紀編年に大きな影響を与えていたことになります。また、 < 列と列間においてズレる年数 が一二〇年という年数に設定されていることは、田一二〇年が讖緯暦運説の「二元 ( 60 x 2 ) 」 , あたること、図鄭玄の注に「四六二六相乗」とあるように、 一二〇年は、一一六相乗という特に重要 な天数にあたること、を理由としていると考えられます。すなわち、本書のテーマと関連する列 と列間の一二〇年という数字は、讖緯暦運説の強い影響を受けた数字であると一一一一口うことができま立 す。 以上、書紀編年と讖緯暦運説との関わりについて論じてきましたが、本書においては、推古九年本 日 の六〇一年の辛酉の年を第二の蔀の首として、一一一六〇年を引いた紀元前六六〇年に神武元年が位 章 置づけられているという定説にしたがって、一爾後論述を進めてまいりたいと思います。 第

2. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

【第三章】『薬師如来像光背銘文』偽造説と『釈迦一一一尊像光 背銘文』偽造説

3. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

第一章『日本書紀』の編年間題ーー < 列と列 1 書紀紀年法をめぐる研究史ーー、書紀編年は矛盾している 2 『日本書紀』の編年は一一一〇年ズレている ろ『日本書紀』の編年は多列構造てある 第二章『日本書紀』成立年の謎 1 『日本書紀』の編年と讖緯暦運説 2 『日本書紀』の成立年と列 推古九年ーーーなぜ第ニの蔀の首は推古九年であるのか 4 『日本書紀』と『続日本紀』の称元法 第三章『薬師如来像光背銘文』偽造説と『釈迦一一一尊像光背銘文』偽造説 1 法隆寺金堂『薬師如来像光背銘文』偽造説 『薬師如来像光背銘文』の登場人物の比定 プロローグ

4. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

纂過程で成立し、その人物像には、儒教関係においては藤原不比等 ( 六五九—七二〇年 ) 、仏教関係 においては道慈、道教関係においては長屋王が関与していたのではないか、という聖徳太子虚構論 を展開しています。すなわち、『書紀』の聖徳太子は、架空の人物であり、当時、人間性の相違か ら対立していた藤原不比等と長屋王のそれぞれの意向を受けて、道慈を述作者として、儒・仏・道 の三要素を融合させて創造されたという説を立論するのです。 虚構論をめぐる賛否両論 大山説は、賛否両論の活発な議論を呼ぶことになりました。前出の諸氏に加えて、実在論の立場 からは仁藤敦史氏が、「奈良時代まで太子伝承の成立を遅らせるのは無理ーと批評し、一方、非実論 在論・虚構論の立場からは、遠山美都男氏は「聖徳太子と天智天皇」 ( 一九九九年 ) において、「要諛 するに、皇太子Ⅱ中大兄という実像があり、そこにスポットライトをあてたならば、それによって 在 実 出来た影が聖徳太子なのではないか」と述べ、聖徳太子は皇太子制という制度を写した創造上の存 子 在ではなかったか、という知見を加えられています。山尾幸久氏も「信仰的「聖徳太子」像批判の徳 聖 軌跡ーー大山誠一氏の近業に寄せて」三〇〇〇年 ) において、大山氏の説に賛意を表わしています。 章 直木孝次郎氏も「厩戸王の政治的地位についてーー大山誠一著『〈聖徳太子〉の誕生』読後感」に五 おいて大山説は首肯しえるのではないかとする見解を示しています。このように、大山説をめぐり 多くの研究者が参加して、賛否両論が続いています。

5. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

ます。 那珂博士の「干支二運繰り上げ説」は、『三国志』「魏書」が引用されている神功紀の各条に対し て史料としての有効性、妥当性を認めず、紀年延長のためのいわば方便と見做し、表—ー 3 の四世 紀代後半の百済国王関連記事のみに信頼を置いた説として理解されます。 宣長の考え方は、那珂博士の「干支二運繰り上げ説 , において、実証主義史学のもとで学説とし て整えられたと言えるでしよう。 しかしながら、干支二運繰り上ナ にも、限界がありました。『古事記』の分注崩年干支や倭 の五王の遣使年代と は、依然として説明不能な課題としてっており、紀年惆題は すべて解決されたわけではなかったからです。言い換えますと、干支二運繰り上げ説は、巻九 の紀年上の問題 ( 転班紅において所見される年代的矛盾のみを一 = 点はそのままに残されてしまっているのです。書紀編年には一二〇年を単位とした年代的ズレが存 在していることは詳らかとすることはできても、そのズレが書紀編年を一貫するどのような理論に もとづいて設定されているのかまでは、研究史上、明らかにすることはできなかったのです。

6. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

求めれば、まさに酉の年なっているのです ( 神武元年と蔀との関連は後述します ) 。 そして、江戸時代となって、神武元年の紀元前六六〇年が、ちょうど第一蔀の首となる辛酉の年 にあたるように編年することを目的として、『書紀』の紀年は適宜、人為的に配置されているとい う清行の見解を一歩進めた伴信友の説が登場してくることとなったのです。すなわち、信友は、 『書紀』は暦法が導入された七世紀初頭以降に編まれているため、第一章の表— ー 1 に一小されるよ うな歴代天皇の長すぎる在位年数や著しい長寿は、讖緯暦運説にもとづいて、神武元年が紀元前六 六〇年の辛酉の年に位置するように紀年を延長させた結果であるという考えを提唱することとなる のです。言い換えますと、三善清行は、神武即位元年が紀元前六六〇年の辛酉の年に位置している ことを、辛酉革命説が正しいことを証明する実例としてあげたのですが、一方、反対に信友は、 『書紀』編纂者にとっては「はじめに讖緯説ありき」であり、讖緯暦運説にもとづいて神武即位元 立 年の年代が立てられたのではないか、と推論したわけです。 成 また、多少注意を要する点は、三善清行も伴信友も、上述した讖緯暦運説における蔀の問題にも じようげん 言及しているのですが、両人とも、後漢の大学者鄭玄 ( 一二七 5 二〇〇年 ) の『易緯』の注の解釈本 * っ 0 日 として、一蔀を二一元の一二六〇年 ( 60 x 21 こ 260 ) ではなく、二二元の一三二〇年 ( 60 x 22 Ⅱこ邑と考えて計算していたことです。したがって、清行と信友は、推古九年の六〇一年の辛酉二 第 の年ではなく ( 六〇一年〔推古九〕ー一一一六〇年Ⅱ紀元前六六〇年〔神武元年〕 ) 、これに一元 ( 六〇年 ) を足した斉明七年の六六一年の辛酉の年を、神武元年辛酉年から斉明六年庚申年までの一三二〇年

7. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

表現形式、用語の使用方法においてまったく相違しており、同一の作者による作文ではありません。 また、地理的・空間的、もしくは年代的に異なる状況下において作製されたと考えざるをえない状進 況にあると言えます。『薬師如来像光背銘文』と『釈迦三尊像光背銘文』の両銘文とも、奈良時代 文 の作とする説もありますが、どちらも相互に参照しておりませんので、『釈迦三尊像光背銘文』が背 作製された年代と『薬師如来像光背銘文』の作製された年代との間には、ゝ 力なりの年差があるので像 尊 。ないか、と想定されるのです。 それでは、『釈迦三尊像光背銘文』は、いっ頃作製されたと考えられるでしようか。研究史上、研 偽造説におきましては、七世紀後半以降という時期が提示されています。 説 そこで、七世紀後半説のいくつかを見てみましよう。福山敏男氏は「法隆寺の金石文に関する二 三の問題」において、「法皇ーという表現は不審であり、また、「法興」という年号も存在していな文 いのではないかと考え、七世紀後半以降の文章であるという見解を示しています。田村圓澄氏は背 「新羅と厩戸王・新羅と聖徳太子」三〇〇〇年 ) において、『釈迦三尊像光背銘文』の刻字は、「聖 来 徳太子信仰。が隆盛になった後世のこととするのが穏当であり、刻字の年次の最上限は天武朝と見師 薬 るべき、とする見解を示しています。大山誠一氏は「法隆寺釈迦三尊像台座の墨書銘 , において、 「台座墨書銘」の「辛巳」の年は、天武十年の六八一年に相当するという理由から、作製時期を天三 第 武朝とする見解を示しています。 このように、偽造説においては、おおよそ七世紀後半以降の年代が示されています。

8. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

のか、といった問題もまた、はっきりしてくるからです。 「憲法十七条、の真作説から見てゆきますと、代表的研究として、井上光貞氏の『日本の歴史』 ( 一九七四年 ) 、笹山晴生氏の『日本古代史講義』 ( 一九七七年 ) 、坂本太郎氏の前出『人物叢書聖 徳太子』があげられます。いずれの研究においても、「憲法十七条」を太子の作と見做す見解が示 されています。「坂本バラダイム」については先述しましたが、日本史の概説書などの大多数が、 「憲法十七条」を「聖徳太子 ( 飛 ) ーの作として記述しているかと思います。 また、真作説に分類される説として「憲法十七条」には原文があり、これを『書紀』の編纂者が 書き改めたとする改作説も提起されています。吉村武彦氏は、『聖徳太子』 ( 二〇〇二年 ) において、 「憲法十七条」の基となった原文の存在を仮定し、「原文がなければ「偽作」となるが、「憲法十七 しいきれない と述べ、少なくとも後人の手が入っていると 条はすべて後世の作品」とは必ずしもゝ 唱えています。また、中西進氏は「現在の形に至る成長のプロセスがあるのではないか。「ウル十 七条の憲法」があって、最後の現十七条憲法までだんだん成長してきた」と述べ、「憲法十七条ー の基となった原文の存在を肯定しています。 一方、「憲法十七条」の偽作説については、前出の狩谷掖斎が、江戸時代にすでに「憲法十七条」 を偽物と推断していますが、津田左右吉氏は『日本古典の研究下』において、「憲法十七条ーは太 子の真作ではなく、推古期に書かれたとは思われないと論じています。また、小倉豊文氏は『増訂 聖徳太子と聖徳太子信仰』 ( 一九七二年 ) において、直木孝次郎氏は「聖徳太子伝」 ( 一九七九年 ) な 192

9. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

勘文』に及ぶ」 ( 一九七一年 ) において、信友が書紀編年上、第一の蔀を設定するための基点を六六 一 ( 斉明七 ) 年と考えたことに、国内外の情勢上の意義を見出そうとしています。また、佐藤均氏 は「紀年論」 ( 一九八七年 ) において、大学寮や陰陽寮から勘申された勘文類に一蔀の年数を一一一六 〇年と記したものが見えないことから、那珂説を通説とすることは早計であると唱えられています。 このように、武元年紀元前六六〇年の辛酉の年に位置づけられていることをめぐっては、研 求めるための第二の蔀の首とな辛酉のについては、推古九年であるのか、斉明七年であるのか、 , 第 \ 、意見の一致が見られておりませんでした。すなわちゞ一蔀一三二であり、第二の蔀の首とな る年代は斉明七年であるのか、もしくは一蔀ー二六〇年あり、第二の蔀の首となる年代は推古 年であるのかをめぐ 6 ・すの議論が残されたのです。 しかしながら、今日では緯書や讖緯暦運説自体の研究も進蔀は一一一六〇と考えられてい から一蔀の一二六〇年 を引いた紀元前六六〇年に神武元年が位置しているという説が、ほば通説として確立されています * 9 岡田芳朗氏は「神武天皇即位紀年の成立」 ( 一九九〇年 ) において「神武天皇即位年の決定につい ては、すでに江戸時代に伴信友や石原道明等の考察があり、明治に入ってから那珂通世がそれを集 大成して神武紀元は中国古代の讖緯説にもとづき、推古天皇九年 ( 六〇一 ) 辛酉から、一蔀千二百 六十年遡って求められたとする説が定説化している」と述べ、また、中村璋八氏も「漢文学から見

10. 聖徳太子と法隆寺の謎 : 交差する飛鳥時代と奈良時代

讖緯暦運説と辛酉革命説 本書のテーマとなる < 列・列の一本の「年代列ーの存在意義との関連において、ここで、『書 しんい 紀』の編年の仕糸みを特徴づし讖緯暦運 ; について簡単に説明しておきましよう。 ばんのぶとも 先述しましたように、江戸後期の国学者の伴信友は、一八四七 ( 弘化四 ) 年に「日本紀年暦考」 を著わして、書紀編年は讖緯思想の影響を受けて整えられている点を指摘しています。それでは、 讖緯思想とは、いったいどのような思想なのでしようか。 讖緯思想とは、中国前漢代に発生した神秘思想のことです。儒家思想においては、儒教経典の四 しょ′」きよう 書五経を経 ( たて糸 ) という意に解して、経に対しての相対語として緯 ( よこ糸 ) という観念が想 定されています。すなわち、四書五経 ( 経書 ) にはそれぞれ緯書があるように、緯は経の背後にあ る真意を説明するものとされています。譬えて言えば、たて糸とよこ糸によって一枚の布が織りあ がるように、また地球儀や地図を見れば緯度と経度があるように、経書と緯書は儒教思想を構成す る一対となるような思想であったと言えます。六朝時代には孔子が緯書を著わしたという説があっ たほどですので、緯書は儒家思想と深く関連していると言えるかもしれません。 ーー『日本書紀』の編年と讖緯暦運説